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日常よく使われる英語表現を毎日紹介します。毎日日本時間の午前9時までに更新します。英文執筆・翻訳・構成・管理:上杉隼人

アントワーヌ・ヴィトキーヌ監督『ダ・ヴィンチは誰に微笑む』の映画評

2021-11-21 11:05:51 | The Last Leonardo

「図書新聞」No.3521 ・ 2021年11月27日号に、 アントワーヌ・ヴィトキーヌ監督『ダ・ヴィンチは誰に微笑む』の映画評が掲載されました。

 http://www.toshoshimbun.com/books_newspaper/index.php

 評者は中井陽子さん(英語教師/翻訳者)です。

「図書新聞」編集部、そして中井陽子さんの許可を得まして、GetUpEnglishに掲載させていただきます。

「図書新聞」の須藤巧編集長、中井陽子さま、すばらしい映画評を誠にありがとうございます。

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評者◆中井陽子

一三万円で購入された絵が五一〇億円に跳ね上がった。人々を狂わせるその絵の真価とは?――アントワーヌ・ヴィトキーヌ監督『ダ・ヴィンチは誰に微笑む』

No.3521 ・ 2021年11月27日

■二〇一七年十一月、ニューヨークのクリスティーズで五一〇億円という史上最高額で落札されたレオナルド・ダ・ヴィンチの絵画『サルバトール・ムンディ(救世主)』。「男性版モナリザ」と言われるこの作品がどのようにアート界に登場し、祀り上げられ、そして行方知れずになったのか。西洋絵画の知識がなくても、ドキュメンタリー映画『ダ・ヴィンチは誰に微笑む』を見始めた瞬間からその世界に否応なく引き込まれるだろう。まるでジェットコースターのような勢いで、桁違いの欲望が渦巻くとんでもない場所に連れていかれる。ベン・ルイスの傑作ノンフィクション『最後のダ・ヴィンチの真実 五一〇億円の「傑作」に群がった欲望』(上杉隼人訳、集英社インターナショナル)にも詳細が記されているが、これはミステリーのようでありながら本当にあった話だ。そして様々な謎は今も解かれていない。

 ニューヨークの美術商がニューオーリンズで見つけたこの絵は、絵画修復家による徹底した洗浄復元処置を受けたのち、ロンドン・ナショナル・ギャラリーのキュレーターに見せられた。ここから運命の歯車が回りだす。折しもナショナル・ギャラリーは二〇一一年十一月に予定された大規模な「ダ・ヴィンチ回顧展」を五年の歳月をかけて準備していた。現存すると言われるダ・ヴィンチの絵画作品一四点のうち八点が集う一世一代の回顧展。ここに世界初公開となる最後のレオナルド、『サルバトール・ムンディ』が加えられるかもしれない。キュレーターは浮足立った。ダ・ヴィンチ研究の専門家数名をロンドンに呼び寄せ、突如として現れたこの作品の鑑定を依頼すると、ある専門家は一目見てダ・ヴィンチだと興奮した。真作であるという決定的な証拠は揃わなかったが、ナショナル・ギャラリーは展示を決めた。

 私は当時ロンドンに住んでいた。ダ・ヴィンチ回顧展は大変な話題でチケットは現地でも入手困難だった。追加販売でなんとか手に入れ、その日の最終入場の回に滑り込んだ。閉館間近、人が少なくなった展示室で『白貂を抱く貴婦人』と向き合ったことを覚えている。もちろん、『サルバトール・ムンディ』にも。図録の最終番号九一番の同作品は、ポスターから想像していたものよりずっと小さく、最後の展示室で不気味とも言える謎の表情を浮かべていた。

 大成功だったロンドンの回顧展以降、この絵を待っていたのはまさに「事実は小説より奇なり」の世界だ。ジャーナリスト、新たな美術商、ロシアの富豪、やり手の仲介人。人々の思惑に乗せられた絵画はロンドン、ニューヨーク、パリ、シンガポールと旅をする。ロシアの富豪の欲望を満たし、美術商と仲介人の懐を豊かにし、落ち着いたように

見えたのはつかの間。富豪はまもなく絵を手放す。「最後のダ・ヴィンチ」を手に入れるために支払った額には仲介人による多額の上乗せが含まれていたことを、ジャーナリストの記事で知って気分を害したのだ。あるいはダ・ヴィンチが、名画を買い漁るものの秘密の倉庫に保管するだけの持ち主を嫌ったのかもしれない。こうして『サルバトール・ムンディ』は再び市場に姿を現した。今度はニューヨーク・クリスティーズの敏腕マーケッターがドラマティックな演出を施す。否応なしに盛り上がるオークション。価格は釣り上がり、とうとう五一〇億円という美術品の史上最高額で落札されるに至った。

 落札したのはサウジアラビアのムハンマド・ビン・サルマーン皇太子だと言われている。トルコでのジャーナリスト殺害疑惑により日本のテレビニュースでもおなじみの人物だ。野心家の皇太子はダ・ヴィンチの絵で自らの力を証明しようとした。お金さえあれば買えるという代物ではない。寡作の天才による完璧な絵画が自国の美術館にあれば羨望の的になるだろう。世界中から観光客を呼び寄せることもできる。

 そのころ、ルーブル美術館では空前絶後と言われる「ダ・ヴィンチ没後五〇〇年展」が控えていた。フランスはサウジアラビアへの最大の投資国のひとつであり、政治的な関係も深い。サウジは文化関連事業のアドバイザーをフランスから招いていた。話題の「男性版モナリザ」をルーブルでお披露目するのはお互いに好都合。「彼」が『モナリザ』と共に並ぶことを皆が期待していた。しかし土壇場になって、絵画が本当にダ・ヴィンチの手によるものなのか、専門家から真偽を疑う声が上がる。ルーブルには威信がある。偽物を展示するわけにはいかない。結局、『サルバトール・ムンディ』はその姿を公で披露することなく表舞台から姿を消した。

 一枚の絵に魅せられ、踊らされた多くのステークホルダーを、アントワーヌ・ヴィトキーヌ監督は世界各地で丁寧に取材している。カメラの前で語られるそれぞれの思い。それらを時系列に配することで、思惑が複雑に絡む事件を明快で臨場感ある見事なストーリーに仕立て上げた。真にダ・ヴィンチを愛する人、ダ・ヴィンチを欲望実現の道具にする人、美術市場を取り巻く闇の深さが想像を超えるスケールで明らかになり、最後まで目が離せないだろう。そして、ロンドン・ナショナル・ギャラリーとルーブルの回顧展に合わせたかのように現れ、多くの人とお金を動かして消えたダ・ヴィンチの魔力に戦慄を覚えるだろう。

 映画を観て『サルバドール・ムンディ』に興味を持ったら、ぜひ『最後のダ・ヴィンチの真実』も読んでほしい。英スチュアート朝までさかのぼる持ち主の変遷、絵画修復の世界、ダ・ヴィンチの技法など、映画では触れられていない背景情報が詳しく記されている。そして改めて自らに問うてみてほしい。『サルバトール・ムンディ』の価値とは何だろう。絵画が持つ魅力? レオナルド・ダ・ヴィンチの名前? 莫大な落札価格とは関係なく、絵画を見る人それぞれがその価値を決めていいはずだ。それは簡単なことではないかもしれない。だからこそ傑作は、多くの人の目に触れられるべきではないだろうか。私も願わくはもう一度、「最後のダ・ヴィンチ」に会いたいと思う。

(英語教師/翻訳者)

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