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チベット・ネパール

2005-05-13 11:33:42 | 旅行記 アジア

 2000年10月1日(日)
 
昨夜荷造りをし、計ってみるとザックが7キロ、カメラが3キロ。いつもカメラ以外は持たないので、これでもちょっと重い。ザックのように背負えるが、車と手がついているので、その分だけ重くなっている。着替えは毎度のことながら一組と寝間着。スウェターが一枚。洗面道具。重量の大部分はふたつの鉛のケースに入った50本のフィルムだ。夫が「僕の時(中国旅行)より軽いよ」という。珍しく早起きしてしまったので、メールをのぞいている。

 小田原から7時6分の「ひかり」で出発。この電車は岡山行きなので、遠くに行くときはよく利用する。小田原・名古屋・京都・新大阪。「はるか」に乗り換え、順調に関空につく。
 チェックインに行くと、飛行機が遅れているとの張り紙。「えっえー、どの位遅れるの?」と聞くが、「よくわからないから、12時半にまたここに来て下さい」との返事。「出鼻をくじかれちゃうなぁ。ロイヤルネパールだから仕方がないか」と言いながら、それでもチェックインをすませ、いつもなら機内持ち込みのザックも預け、手荷物はカメラバッグだけにして、搭乗時間を見ると、16時30分になっている。「こんなに遅れるの?」ときくと、「早まる可能性もあります」と1000円の昼食券をくれた。
 12時半、仲間の一人が聞きに行くと、今度は3時に来てくれと、500円のお茶券をくれた。窓口に行った仲間が、「ほか人の話では飛行機はまだカトマンドゥを発っていないみたい」「なにそれ」「遅れの理由をきちんと説明しないのはけしからん」と口々に文句を言っている。 夫に電話すると「どうしてまだいるの?」と驚いている。「早起きして損しちゃったよ。もっと寝ていたかったのに」とこぼす。
 
 仲間の一人が「西ネパールへ帰る看護婦さんが重量オーバーだから、荷物を持ってもらえないかと言っているけど」と言いに来た。「いいんじゃない。私たちの荷物は少ないから。でもチェックインしてしまったから、機内持ち込みだねぇ。もう少し早ければよかったのにね」
 そんなことを言っていると、ネパール人の看護婦さん二人と日本人スタッフが二人来た。「チェックインをすませてしまったので、機内持ち込みになりますが、いいですよ。6人いますから、持ち込んであげますよ」というと、「荷物を小さく作ってきます」と言って出ていった。西ネパールの寒村で医療活動をしているNGOのようだ。新聞で協力を呼びかけたら、たくさんの荷物が届いたが、
全部のせるには何万円もの超過金がとられるので、困っていたのだという。荷物運びは馴れているからおてのもの。ところがこの人たちは、飛行機をキャンセルしたのか、私たちの心配をよそに、とうとう現れなかった。機内で探したが姿は見えなかった。
 
 今回のメンバーは女性6人。60代が2人。今日63歳になったばかりの私が最年長。50代が二人、もう半月で50代になる40代が一人、と20代の大学生が一人という顔ぶれ。2年前和美さんに連れられて、いっしょにネパールに行ったことがある。そのときから、チベットに行きたいからmamasanアレンジして、と言われていて、ようやく実現したのである。

 ここにいてもしようがないからと、食事をすませ、関空の展望台に行く。こんなことでもなければ、見学に行くことなんて、私たちにはまずないことだから。バスで片道190円。晴れて日差しも暑い展望台からは対岸の様子がよく見える。
 
 まだ関空が建設中の時だったが、ここ、関空のある町(町名は忘れた)に下水道の視察に来たことがある。役場の部屋から建設中の管制塔がよく見えた。町長との質疑のとき、「住民の反対があったでしょう。どうなさったのですか」ときくと、「私もはじめは住民の先頭に立って反対しました。そこで、実際に大型機を飛ばしてもらい、住民に判断してもらったんです。そうしたら、この程度なら問題はないと、住民が納得したので、180度転換して、促進にまわったのです」
 「見返りになにかいいことがありました?」と聞くと、町長さん「いっぱいありましたよ。そのお金で全戸にケーブル・テレビをつけました。補助金は6年の限度はありますが,下水道が完備できます」「限られた時間で、町単独で下水道完備するのは大変でしょう」と言うと「お金は十分ありますから、府から下水道の専門職員を引き抜いて来たんですよ」と町長さんは鼻高々。「金が余っているこんな町に視察に来たってなんの役にも立ちはしない」と私はぶうぶう文句を言った。そして陰で、「一機の飛行機での判断なんて、甘いなぁ。今に苦情がでるぞ」と悪口を言ったが、さて、いまはどうなんだろう。 帰り大阪の水族館海遊館を見た。当時は目新しかったようだが、その後、あまりたくさんの水族館をみたので、こんがらがってしまってどれがどれだかわからない。かなり大きな甚平鮫がいたのがそこかなぁ。

その日の宿が、なんとパチンコ屋の上のビジネス・ホテル。初めてパチンコ屋に入った。玉の買い方も、やり方もしらない。店員さんが玉を入れ、ここを目指して打つといいですよ、と教えてくれた。教えられた通りにやったのがよかったのか、ビギナーズ・ラックというものか、やたらと玉が出る。時折店員さんが来て、たまった玉を下のケースに入れてくれた。まもなく、手が疲れて飽きてしまった。隣の女性にたまった玉を全部あげて外に出た。パチンコをしたのは後にも先にも、これだけ。
 
 話がそれてしまったが、待たされたおかげで、予定にないオリンピックのマラソンを見たり、閉会式を見たりして、8時半、やっと飛行機に乗り込むことができた。もう真っ暗。楽しみにしていた下界の風景は定かではない。飛行機は瀬戸内を飛んでいく。光はきれいだ。

 上海に着いたが、降りる人以外は機内から出ることもなく眠っている。いつもは外に出されて、給油と掃除を待つのだが、今回はないし短い。
 再び目を覚ますと、下に灯りが点々と見えた。もう直きだ。
ロイヤルネパールは、モニターでいまどこを飛んでいるとか、現地時間は何時とかいうサービスはない。ローカル線みたいだ。だから実際いま現地時間で何時だかわからない。
 
 でも、ともかくカトマンドゥには着いた。ビザの申請用紙は関空でもらって書き込んであるので、入国カードを書き、並んでダブル・ビザ(55ドル)をもらう。初めてネパール入りする日本人たちに余計なお節介をして、ビザの書き方を教えている。

 ようやく全員がビザをもらい、荷物を受け取って外に出ると、迎えが待っていた。空港からホテルまで15分ほど。見覚えのある道だ。ホテルについて時計を見ると3時10分前。時差は2時間。HOTEL・MOUNTAIN。仲間の希望で、ダウンタウンに近い3星ホテルをとった。ともかくシャワーを浴びて寝ることにする。私はいつもの習慣でまずは洗濯。チベット行きに1日余裕をとっておいてよかった。

2日目。
 8時に電話で起こされた。寝ぼけた声で出ると、相手は旅行社のラナさん。「疲れているから」と言うと、「10時半にアマルさんと伺います」と言う。メールではやりとりしていたが、ネパール人の英語は慣れないと聞き取りにくい。「待ってます」と言って電話を切ったが、目が覚めてしまった。フロントが私がどの部屋だか分からなかったので、電話を各部屋にまわしたので、みんなこの電話で起こされてしまったようだ。朝食に行くと、レストランは別棟にある。
朝食は料金に含まれているので、どれをとってもOK。ただしラッシー(ヨーグルト飲料)は別料金で30ルピー(60円)。みんながかたことのネパール語をやたらと使うので、ボーイたちが喜んでいる。

 ラナさんから、明日のラサ行きの航空券とビザとバウチャーを受け取り、打ち合わせをすます。
おみやげに持っていったカステラを渡す。そこへアマルさんが義弟のジャヤさんとその息子を連れて来た。今日の予定はこれからスダさんの家に行って昼食をし、スダさんのやっている学校を見学するという。
 スダさんの学校はぜひ見に行きたいと来る前にメールすると、お祭り(ダサインというネパール最大のお祭り)なので学校は休みだと、ラナさんから聞いてあきらめていたのだ。もしかしたら、
私たちのために特別に生徒を集めてくれたのだろうか。

 ここで少し、アマルさんやスダさんの説明をしよう。
和美さん(註・青年海外協力隊員としてスリランカに赴任。現在JOCSのボランティア・カメラウーマン)たちがインド・ネパールを訪問して、「ナマステの会」をつくり活動し始め、その様子が新聞で紹介されると、「サマルさんというネパール人が自宅に留学しています。ネパール語を教わりませんか」というような手紙が和美さん宛てに届いた。たまたま差出人は私の知っている人だった。そんなことから和美さん達とサマルさんとのつきあいが始まり、そこへお姉さんのマンデラさんが日本人と結婚して来日、彼女の出産の手伝いをしたりして、和美さんたちはすっかりこの家族とは身内のようなつき合いになってしまった。上からマンデラさん、アマルさん、スダさん、サマルさんの4人兄弟姉妹なのである。
 
 おかげで、チベット旅行の手配もサマルさんに頼んで、アマルさんの関係する旅行社を紹介して貰ったし、木村先生(註・ネパールで10年間医療活動をしていた医師)のネパールでの医療報告会で私もマンデラさんに会っている。
 この人たちはネワール。法律では禁止されているが、カースト(48ぐらいある)は残存しているようだ。ネワールはミドルカーストだというが、ハイに近いミドルだろう。カーストについては和美さんに任せよう。
 
 今回、和美さんは来ないから、まさか2年前のような歓待を受けるとは予想もしていなかった。一応、2年前お世話になったから、お土産とスダさんの学校の生徒に、ドラムを買うカンパは用意して来たが。

 スダさんの家は市街からちょっと遠い。でも、きれいな家だ。2年前よりスダさんもジャヤさんも日本語が上手になっている。ダルバードをご馳走してくれた。ダルバードとは、言ってみれば日本の懐石料理みたいなものだ。いくつもの料理を次から次へと小さな器に入れて持ってきてくれる。
ダル(豆)スープ、チキン、マトン、ククンバ(きゅうり)の胡麻和え、青菜、ロプシーなどなど。
デザートは甘いヨーグルト。そして最後はネパリ・ティ、マサラ・ティのことだ。
スダさんの料理は美味しい。ひとしきりワイワイやって、学校へ行く。
 三階建ての学校だ。入り口に赤、黄、緑、青の旗が立っている。沖縄からのプレゼントだそうだ。ついでだから、沖縄のフクギ(黄)の話をしてやった。

 この学校St.Edmond‘s Schoolは初め、スダさんたちの住居として建て始めたのだそうだ。その建築材料を運び込むと、近所の子ども達がやって来て、板や煉瓦を持っていってしまうので困って、子ども達に読み書きを教え始めたところ、子ども達も親たちもとてもよろこんだので、自分の住居を学校にして初めは塾のような形で、そして認可も取り、本格的に教育に取り組んだのだそうだ。
 先生は9人。生徒数は62人。3歳から14歳までがいる。小さな子は保育園代わりで、大きな子どもたちが面倒を見ていた。学費の払えない子が12人いるので、先生方が紅茶や香辛料を袋に詰めて、その売り上げで面倒を見ている。制服もあるが、そういう子達の制服はスダさんが手作りしている。
pupil

 校舎の前で、子ども達が花を手に私たちを待っていてくれた。
「ナマステ」(こんにちは)と花をもらい、「ダンネバード」(ありがとう)
各教室をのぞいた。数学の教室、英語の教室、ネパール語の教室。どの教室の子も英語の質問に英語で答えてくれる。歌を歌って歓迎してくれる教室もあった。どこも、とてもお行儀がいいし、向学心旺盛。学級崩壊なんてまるっきりなさそう。
 私はカメラマンに変身して子ども達の写真を撮りまくる。送ってあげるからね、と言いながら。

 帰り、窓から子ども達が私たちの姿を認め、手をふりはじめた。どの部屋からも、小さな手が、
笑顔が私たちを送っている。「ナマステ」と私たちも手を振り返す。心温まる風景だった。
 ジャヤさんと歩きながら、「スダさんは偉いですね」言うと、「自分もそう思う。仕事が終わってから学校に寄ると、彼女はまだ仕事をしている。頑張りやです」とジャヤさんが答えた。
ヒンズー教の社会で、自分の妻の社会的な仕事を評価するのは大変なものだろう。ジャヤさんの理解があってこそだ。良い夫婦だ。
 
 みなと別れて、私ひとり、バドガオンという古都(前に行ったことはある)に行く予定だったが、アマルさんが交渉すると、タクシーがふっかけているので、やめてみんなと一緒に、タメル(外国人がよく行く商店街)に行く。仲間がパシュミナ(カシミヤ)が欲しいというので、アマルさんの友達の店に連れていって貰う。
 一応裏つきのコートは着てきたが、チベットが寒いといけないと、私も幅広の軽いカシミヤのショールを買った。9000円だった。これを日本で買ったら、2万円以上はする。皆がほしがるわけだ。アマルさんもオバサン達の買い物のつき合いをさせられて、さぞや疲れたことだろう。それにしても女性たちは買い物が好きだ。

 私と同室のTさんはのんびりしたが、後の4人はまた町に出かけた。二人で食事に行き、私はジンフィズを2杯飲んで、寝てしまった。
 夜更けて、鳥の声に目を覚ました。なんと窓から道ひとつ隔てた塀にそって大きな木が何本も植えられていて、そこがサギたちのねぐらだったのだ。
 
 明日は6時15分に迎えが来る。

3日目。
 
目覚ましを持ってきた人が5時半に起こしてくれることになっていたが、起こされるまでもなく、みんな起きて支度をしてしまった。カトマンドゥは暑いが、ラサを頭に入れて、ブラウスの下に半袖のシャツを着込み、スウェターを着た。6時にはロビーで迎えを待っている。

 空港に着くと、荷物チェックに長い列。窓口にはまだ人気がない。前に列んでいる人に「ラサはここか?」ときくと「そうだ」という。ここが列だと後ろをさす。そこでその後に並んで待っていたのだが、時間が進むと乗客がわんさとやってきた。そしてあろうことか、列など無視して並び始めた。ツアコンは束になったパスポートを握って前列に立っている。殆どが白人。「Stand in line」と叫んでも知らん顔。ならば歯には歯をだ。列をぬけてカウンターの前に陣取る。ところが私はチビだから、背の高い連中にもみけされそう。「Mちゃん、強引にやって」「Nさん、サポートして」と選手交代。Mちゃんは要領よく、団体の前に6人分のパスポートを滑り込ませた。

 チベット旅行は団体(5人以上)でないとビザが出ない。前もってビザを申請して、グループ毎のビザを取る。名前とパスポートナンバーと生年月日まで書き込まれた一覧表を見ながら、係員はそれをパスポートと航空券とを確認してから搭乗券をくれるので時間がかかる。Nさんの役割は、表の名前とパスポートを合わせてやること。これをやってやるとかなり速度が上がる。ただ空港使用券を買い忘れて、もう一度バンクに走る。空港使用料は17ドル。
 もみくしゃになりながらも、搭乗券、荷物預けはすんだ。私の荷物は全部機内持ち込みだ。

 出国表を書き、イミグレイションで出国のシールを貼ってサインして貰う。それから待合室に入り、更にもう一度手荷物検査を受ける。入り口が男性と女性に別れていて、女性には女性の係員がボディチェックをする。チェックがすむと搭乗券の裏に係りがサインをして出口で他の係員がスタンプを押す。そしてやっと搭乗口のある待合室に入ることになる。

 待合室のドアが開いた。搭乗券の半券を切って貰い、飛行機まで歩いていく。
タラップを上がろうとすると、係員がラッゲージはないのかときく。手荷物だけだと答え、そのままタラップをのぼり、席に着く。荷物を預けた仲間はなかなか来ない。
「どうしたの?」と入ってきた一人にきくと、下で預けた荷物を各自確認してから、飛行機に積み込んでいるのだという。来ない二人は荷物がまだ来ていないから、待っているのだという。
「ほらね、荷物は手荷物に限るでしょう。もっと、コンパクトにしなさい」「ハーイ」

 カトマンドゥからラサまで1時間。9時50分発だが時差があるから向こうには11時50分になる。
 翼はヒマラヤのたおやかな白き峰々を横に見ながら飛ぶ。歓声があがる。チョモランマ(エヴェレスト)だ。となりにローツエ。いずれも8千m級の山だ。私の席は窓側だが、残念ながらチョモランマ側ではないので、姿は見えるが写真を撮ることは出来ない。反対側にすわっているMちゃんにカメラを渡し、シャッターを切って貰う。

 クンガ空港が近づくにつれて、乾いた山々の間に青々とした湖がいくつも見えてきた。とてもきれいだ。空港の近くに町はない。

 飛行機をおり、空港事務所まで歩く。辺りの山々は草木もない荒涼としたむき出しの禿げ山。空は青く、日差しは暑い。「なにこれ」「太陽に近いんだから熱いんだよ」入国票を書き、ビザ表(往復2枚)を渡し、グループ毎にチェックをし、帰りのビザ表を受け取り、外に出る。パスポートに入国の印は押さない。
 外に出ると、迎えが待っていた。名前をきくと発音はちょっと難しいがソンゾと聞こえるので
ソンゾさんと呼ぶことにした。ソンゾさんがひとりづつの首に白い薄いウェルカム・スカーフをかけてくれた。このスカーフ(名前が思い出せない)は寺院や仏様に巻き付けられている。
 車の中でさっそくソンゾさんをつかまえてチベット語のレッスンを受ける。クンガ空港からラサまで1時間半。車はヤルツァンポ川の支流をあがっていく。

 ヤルツァンポ川は遠くカイラス(信仰の山)の山から流れ出し、ヒマラヤ山脈の東を下って、インドでプラファトラ川となり、ガンジスに合流してバングラデシュに下る大河だ。
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ヤルツァンポ川

 チベット独特の民家があり、屋根にさされた竹が風で舞っている。遠くにヤクや羊の姿も見える。そのうちにみんなうつらうつらしてしまった。これがくせ者だったとは、だれも気がつかなかった。
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 ラサに入ると、広くて舗装され、両側に歩道がある道がまっすぐに続いている。
「滑走路になるんだよ」「嘘でしょう?」「いや、ここがどうかは知らないけど、旧ソ連ではいざというときに滑走路に使えるように、まっすぐな道をつくったんだよ」

 ラサ飯店はホリディ・インとの合弁で出来たホテルだときいていたが、真四角な趣もまるでない建物。入り口は色とりどりの造花と中国的なあの赤い垂れ幕がはでやかに出迎える。面白いから写真に撮る。クンガ空港を出たのが12時半、2時の到着だ。

 さすが5星。ホテル内はきれいだし、部屋もひろい。ほほう、カトマンドゥとは格段の差だね、とよろこんでいる。窓からは広い敷地を囲むように植えられたリンデン(菩提樹)が黄色く色づいてとてもきれいだ。
 昼食を取らなかったので、早めの夕食にしようとロビーに下りてくると、Hさんが頭が痛いといいだした。この人はオランダ・ベルギー旅行から帰って間もない。疲れが残っているのだろうか。

 ロビーにいた日本人団体がガイドから酸素枕を受け取り、使い方を教わっている。
「それどこにあるんですか」ときくと、日本語が達者な中国人ガイドが「これはお客様のために私どもが用意している酸素枕です。このホテルにもあるはずですよ。具合がわるいのですか?」
「いえ、私は何でもないのですが、あの人が頭がいたいと言うんですよ。」
「空港に着いたときに、薬を飲んだ方がよかったですねぇ。気がつかないうちに眠くなったでしょう。酸素の影響ですよ。私どもは空港でこの薬をみなさんに差し上げているんです」といって、天・・という中国製の薬を見せた。「これどこで売っているんですか?」「このホテルの売店にもあります」「いつ飲んでもいいんですか?」「はい大丈夫です。酸素がすくないことが原因ですから、なるたけ水やお茶をお飲み下さい。水やお茶には酸素が含まれていますから、自然に酸素補給になるのです。そしてアルコールは飲まないで、肉も止めて野菜をお取り下さい」と。

 売店で天・・を買ってきた。1箱30元。能書きを見ると高山病も書いてある。開けると、小さなビンに入った液体とストローがついている。「まずい」「いやだ」と言いながら、飲んでみる。ついでに酸素ボンベ(20元)も買った。すごく軽い。

 夕食時も何でもなかったのだが、一眠りして頭が痛くて目がさめた。鼻もぐじゅぐじゅする。喉も痛い。風邪の症状だ。治りきっていないまま出発したから、ここで出たのだろうと思っていたが、これが高山病の始まりだったのだ。

4日目。 

 薬を飲むにしても、空腹時に飲むと胃をやられる。朝まで待って、朝食の時、風邪がぶり返したと話すと、全員が頭が痛かったという。一番若いMちゃんもそうだったという。そこで、持ってきたナロンエース(頭痛薬)をみんなして飲む。頭の痛いのはすぐとれた。
日頃はまったくと言っていいほど薬を飲まない私が、この日から薬漬けとなる。

 ラサホテルの建物の回りを歩くと、コスモスが今を盛りと咲いている。バラも咲いている。

 9時15分、ソンゾさんが「ショボデレ(おはよう)」と言いながら迎えに来た。
今日は午前中デブン寺を見学、昼にホテルに帰って、午後はノルブリンカ見学の予定。
日差しは暑いが物陰は涼しいので、スウェターを着、サングラスをかけ、コートを座席に投げ込んで出かける。

 短いレンズのついたカメラを右肩に、左肩にはフィルム10本とロングレンズのついたカメラとウェット・ティッシュとミネラルウォターを入れた小さなバッグ。このミネラル・ウォターの小さなビンは入れ替えが出来るように関空から買ってきたのものだ。水を飲む習慣がないのだが、どの本も、高山病に備えて水を飲むことを推奨している。

 デプン寺はラサ市街からちょっと離れた山の谷間にある。市街を出ると、舗装がなくなり、乾期に入った道は車が走るたびに埃を舞いあげる。
道路わきの野原にはヤクがのんびりと草をはんでいる。「あのヤクの写真が撮りたい」とNさんが叫ぶ。
「帰りに止めて貰うから、覚えておいて」
 しばらくすると、今度は生肉がつるしてあるのに目が行った。
「ドライ・ミートをつくっているんだよ」

 チベットはもっと乾燥したところだと思っていたら、乾期だというのに、かなりの湿地だ。湿地だからか柳が目立つ。やたらと木の名前を聞いて、その時は覚えたが、もうみんな忘れてしまった。
ともかく、街路樹が黄色く色づいて、土埃の道と調和している。いい雰囲気だ。

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デプン寺

デプン寺、寺というより僧院、600人ほどの修行僧がいる。舗装された入り口には土産物屋がならび、坂道には両側に物乞いが並ぶ。ソンゾさんが英語でデプン寺の説明をする。だれがいつ何のためにと故事来歴をしてくれるのだが、左から右へと抜けてしまう。
「あとでガイドブック読んでおいてね」。名刹は各部屋に中国語(漢字)、チベット語、英語の説明が付いているから、のんびり読めばガイドはいらない。

 なにやらにぎやかな歌が聞こえた。その声をたよりに行くと、屋根の上で女の子達が棒を持って屋根を叩いている。「何しているんだろう」物見高いNさんが屋根に上ってみる。続いてEさんも、Mちゃんも上る。あの棒で屋根を平らに葺いているんだという。
下りてくると、売店でまたひっかかった。やたらとお守りを買っている。どうでもいいけど、つられて私もウシの絵のお守りを買った。10元。この僧院は被写体がいっぱいある。
 fire
灯明

 薄暗い部屋には灯明がいっぱいともされている。ろうそくではない。きくと、ヤクのバターだという。ヤクのバターは甘い香りがする。お参りする人たちがポリ袋に入ったヤクのバターを杓子ですくって灯明の中に入れていく。皿のバターはあふれんばかり。それを係りが取り除いて燃えやすくしている。ここデプン寺も何代かのダライ・ラマの居寺であったので、その座像が仏像といっしょに並んでいる。金ぴかで色鮮やかな仏像たちだ。壁画も実に細かく、物語が描かれているのだが、これは夫がいないと私にはわからない。

 ソンゾさんはかって修道僧だった。そして大学で英語学を専攻してガイドになったのだそうだ。
「私はダライ・ラマ14世の本を何冊も持っているよ」というと「あなたが」という。そうなんだ。夫でなく、私自身が買った本なのだが、どれもよみかけの中途半端。
「でも難しいから、途中でなげだしちゃった」というと笑っていたが、うれしそうだった。
チベットは中国にはなったが、どっこい、ラダイ・ラマは彼らの心に生きているようだ。
bones

 僧坊を撮して、本堂の方に向かった途端、躓いてころんでしまった。とっさにカメラをかばったので、右手を切ってしまった。血が流れる。
「カメラは大丈夫?」「mamasan、さっきお守りを買ったからその程度ですんだのよ」と皆がからかう。バンドエイドを貼って貰い、顔をしかめながら「そうだね」とうなずく。

 本堂の前の広場では修道僧達がヤクを連れて来て、観光客をそれに乗せて稼いでいる。ミーハーオバサン達はよろこんでのっている。しょうがない、写真を撮らされた。
私も1枚いくらで売りつけようか。
 slope

 台所に入ると、バター茶をつくっていた。ここは木を燃やしている。外には燃し木が山のように積まれている。修道僧がバター茶をポットに入れ、配っている。

 ある僧坊の庭先で太陽光調理器を見た。太陽光線を焦点に集めて、煮炊きする調理器だ。アフリカなどではNGOが使っている。日本でも、エネルギー節減に日中はこれで調理している人たちもいる。うーん、日差しは十分あるのだし、ここでこれを使うのはいいことだ。
光を集めた上には大きな薬缶が湯気をたてていた。

 あれ、ふたりいない。待っていると、トイレに行ってきたのだという。「トイレあるの?」と聞くと、「奥にある」という。そこで3人連れだって、トイレに行く。さっき見た台所をまわって、橋でつながった別棟というんだろうか、そこにトイレがある。高いから景色がいい。絶景かな、これはいい、としゃれこんだのはいいが、落とし紙が舞って落ちて行くには驚いた。物を落としたら大変だ。次の人に「荷物みんな持っていてあげる。帽子も預かってあげる」カメラを預けてきてしまったが、このトイレは撮しておくべきだった。
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 デプン寺をちょっと下りると、絨毯工場がある。作業風景をのぞいたが、糸をかける手先のすばやいこと。ここからはデプン寺の全貌がよく見える。ここの庭にも、薬缶をのせたたくさんの太陽光調理器が並んでいる。そのひとつには鍋ものっている。これはいい、と言いながら、写真に撮る。子ども達が出てきたので「デヒデレ(こんにちは)」と言ったが、「ニーハオ」と中国語が返ってきた。

 帰りヤクの写真を撮ろうと思ったら、ヤクは野原のはるか向こうに移動してしまっていて、とても近づけない。「チャンスの神様は前髪しかないんだ」とくやしがる。
 昼食にホテルに帰った。
エレベーターで日本人団体客といっしょになった。彼らは成都から来たのだという。
「頭、痛くなりませんでした?」ときくと
「痛いなんてもんじゃありませんでしたよ」という返事。
「もう大丈夫なんですか」
「やっとラクになりました。身体が馴れたんでしょうね」
「どのくらいかかりました?」
「三日目です」
「それでは、私たちは昨日ついたばかりですから、あと二日ぐらいかかりますね」

 昼食の時、この話をすると、もう少しの辛抱だとみんな納得。ともかく薬は飲み続ける。
息も切れるので、ゆっくりゆっくり行動することにする。でも、習慣とはおそろしいものでつい走ってしまう。そしてフーフーと深呼吸するはめになる。

 空は青いし、空気もさわやか。どこにも酸素が薄いような感じはしないのだが、目には見えないが
確実に空気の薄さが私たちに影響を与えている。

 ホテルをちょっと出てみると、街路樹のある広い歩道に露店が並び、いろいろなものを売っている。「安いよ」「ちょっと見てください」といった日本語が売り手の口からきかれる。

 3時、ソンゾさんが迎えに来た。ノルブリンカはホテルの続きだ。と言っても1㎞くらい離れている。車に乗り、入り口で下りる。ノルブリンカの前がチベット博物館。ちょっと目にはお城のような立派な建物だ。ノルブリンカは離宮として建てられ、インドに亡命しているダライ・ラマ14世が居住していたものだ。広い敷地はノルブリンカ公園になっている。
 14世が会見していた部屋、寝室、居間等々眺めながら、「ダライ・ラマがはやく帰って来れますように」と声を出して手を合わせる。政治的配慮か、英語が通じないのか、居合わせた人々はだれも無言。
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ノルブリンカ宮殿

 公園内でチベット・ダンスをしている人々を見る。歩いているだけでも息切れするのに、この人達は楽器を演奏しながら、かなり激しく踊っている。軽妙なリズムなので、つい引き込まれそうだ。
daidogei
大道芸
 
 公園の入り口には土産物屋が並ぶ。オバサン達またひっかかった。数珠のような腕輪をいくつも買ってはめている。
「一日に2ヶ所はキツイなぁ」と私は売店で葉書を買って部屋に戻る。夕食後、はがきを書き始めたのだが、あとの人たちは外に出て行った。たいしたものだ。

 薬を飲んでいるにもかかわらず、一眠りすると頭が痛くて目が覚めてしまう。Tさんも頭が痛いと薬を飲みだした。私は胃を心配してお茶は飲んだが、今回も朝まで薬を飲むのを我慢。

5日目

 9時半出発。今日はガンデン寺までのロングウエイだ。ガンデン寺はラサから70㎞離れた山の上にある。ラサ大橋を渡ってキチュ川(ラサ川、川幅も広く、水量もある)を遡る。道は舗装されている。川のまわりに平地を残して、両側にゆったりと山々がそびえる。川沿いのこの風景は実にいい。のぞき込むと川底が手に取るように見える。
 ところどころに集落があり、まわりを塀でかこんだ煉瓦造りの平屋、倉庫などが見える。畑では馬やヤクが働いている。耕しているのは来年への麦のうえつけだろうか。羊、ロバ、ウシ、山羊、にわとり、豚の姿も見える。こういう風景は私は大好きだ。

 運転手さんが口笛を吹く。おや、「トロイカ」だ。いっしょになって歌っている。歌を歌っている分には息切れがしないのは不思議だ。

 山道にさしかかった。一車線ほどの細い山道をじぐざぐに車は一気に登っていく。140mの高さを登るのだという。下をのぞくとちょっとこわいくらいだ。山の上のガンデン寺が斜めに見える。 途中、ガンデン寺の全景を取るために車を止めて貰う。向こうから来るのは子牛かなと思ったら、大きな犬。
 
 山の斜面が黄色くなっている。花かなと思ってよくよく見ると、花ではなく、水芭蕉のような大きな葉がタバコのように色づいていたのだ。それが斜面を覆っているので山全体が黄色く見えたのだ。ランかな、水芭蕉かな、と言っていたのだが、枯れた花を見ると違うようだ。
 
 ガンデン寺の入り口には寺の由来を書いた英語の案内が出ている。それによるとツォンカパによって、1409年に建立されたと書いてある。この寺は1950年代の中国人民解放軍の侵入や60年代の文革で、徹底的に破壊され、廃墟となり、ここで修行していた僧達はインドへ亡命してしまった。

 1990年から修復が始まったというが、まだまだ毀れたままの建物も多い。あの文革の狂気の嵐を思い出しながら、かくありなんと思った。しかし、この山上に、壮大な僧院をよくも建てたものだ。信仰の力とはすごいものだと感心する。観光客だけでなく、こんな辺鄙な所なのにお参りに訪れる人たちも多い。だからこそ、寺の復興が出来るのだろう。
 
 門を入ると、女性達がなにやら売りに来た。乾燥した苔のような、草のような、なんだか分からない。「何」ときいても答えが分からない。臭いを嗅いでみると香りはいい。売り手は無理にはすすめない。勝手にローズマリーだとか言っているが、こんな高地でローズマリーが出来るとは思わない。寺の中を歩いて、それが何であるかようやくわかった。抹香だったのだ。

 ふっと空を見るとイーグルがいる。それも何羽も飛んでいる。そうだ、ここは鳥葬の国だったのだ。望遠を構えてシャッターを切り続ける。ときおりカラスが邪魔に入る。近くにはスズメもいるがイーグルの姿に驚くことはない。エサがちがうのかな。

 一気に登った坂道を今度は一気に下りる。途中、真っ青な空の色のような小さな花を見た。
リンドウの仲間のようだ。車を止めて貰おうかと思ったが、後から他の車も来る。下にもあるだろうと思っていたら、高度が必要らしく下では見られなかった。ホテルに帰って、チベットの花の本を立ち読みすると、果たしてリンドウの仲間であることがわかった。あの黄色い葉はと探したが見つからなかった。
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 途中の村で、お弁当が配られた。鶏ももの照り焼き、ソーセージ、ゆで卵、フライドポテト、ピーナッツ、ザーサイの炒め物、りんご、バナナ、パン、カステラ、などなどいろんなものが入っている。それにミネラルウォーター。オバサン達は殆ど食べられない。そこで食べかけのパンやカステラを持って、近くの民家で遊んでいる鶏に「コーコーコー」と呼びかける。私の呼びかけに鶏たちはちゃんと寄って来てパンを貰う。「ほら、コーコーコーは世界共通語だよ」と言って笑う。
 そばの水場では洗濯をしている若い女性がいる。よく見ると12~13の女の子だ。

 いそいで引き返し、カメラと手をつけていない物を二つの箱に詰め

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