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かぽ物語

2005-05-14 23:56:45 | 動物記
「かぽ」とはハシブトガラスにつけた愛称である。

今年のはじめ頃、ハシブトガラスが椎の木の天辺近くに巣を作り始めた。椎の木は15m以上はある。おわん型の巣が見える。カラスが住みつくのはいやではないが、子育ての時は神経質になって、攻撃すると聞いている。だれかよその子でも襲われたら困る、どうしよう。そこで野鳥の会の人に相談した。カラスは頭がいいから、カラスに対して好意的であるかないか判断できる。だからそのまま巣作りさせたらどうか、という返事がきた。そこで巣作りは、放っておいた。

kapo
白蓮の枝に止まるかぽかぽ。
どっちがオス?メス?

ある日、洗濯をしていると、「かぽかぽ」という聞き慣れない声を聞いた。振り返るとカラスが柿の木に止まって、私に向かってなにか言っている。どうも野鳥の餌台においてある細かく切ったシフォンケーキがほしいらしいが、私がいるので取りに来れないようだ。そこでカラスの頭のいいことを利用して、先手を打って、懐柔作戦にでることにした。なんのことはない、カラスに餌をやって手なずけようというのである。巣のある木のそばに陶芸の窯がある。そこの屋根に「かぽ、かぽ」と声を出しながら、カラスが見ている前で、パンやケーキをのせてやった。カラスは私のすることをじっと見ている。かぽは2羽いるのだが、見分けがつかない。たぶん雄雌の番なのだろう。たいてい一羽ずつやってくる。だからどちらも「かぽ」ですませてしまう。パンやケーキをのせて、私が玄関先まで引き上げると、枝を移り、屋根の近くの木に止まる。辺りをうかがって、屋根の上にとまり、やっとケーキを持ち出した。カラスが用心深いのは知っている。はじめはケーキを大きく数個にちぎって、持っていけるようにした。ところがカラスはもてるだけ、重ねて持っていく。ほんとに頭がいい。細かく切っても、集められるだけ集めて持っていく。持って行き先を見ていると、どうやら椎の木の巣を使うのはあきらめたらしい。ねぐらは他にあるようだ。やれやれ、ほっと。

こんな風にして、毎日が過ぎた。ウサギのピーターとフロプシーもシフォンケーキが好きである。アヒルのがあちゃんも好きである。だから毎日のようにシフォンを焼く。それにカラスが加わった。消費量が俄然多くなった。おかげで焼く回数も多くなった。
朝、ケーキを持って「ピーター」と呼ぶと、その声を聞きつけてかぽはやってくる。ウサギの後は「かぽ、かぽ」と呼びながらかぽにケーキをやる。はじめは用心深かったのが、いまでは投げるそばから屋根に来て、食べている。

最近では毎朝、窓ちかくでかぁかぁ鳴いて私を起こす。そういえばずっと前、中西悟堂さんがカラスを飼っていて、毎朝起しに来た話を読んだことがあった。寝巻きのまま、「かぽかぽ」といいながら、ケーキやパンをなげてやる。パンも大きなままやると、枝に持っていって足でおさえ、ちぎって食べている。おもしろいので、クリームチーズを大きなかたまりのままやってみた。持っていけないので、嘴でつついて持っていく。でもすぐなくなってしまった。油揚も3つに切ってのせたが、全部かさねて持っていった。アジをおろしたアラものせてみた。大丈夫、持っていった。肉もご飯もたべる。なるほどカラスは雑食だ。それなのに、サクランボが熟してもとって食べない。熟れて下に落ちても拾わない。ミカンを持っていくのを以前見たことはあるのだが、果実は好きではないのかな。スズメのために屋根に米をまいてやったら、あのふとい嘴でカラスが米を一粒ずつ拾っている。なんとまぁ。

鳥の目が良いことは知っているが、カラスも実に目がいい。地面の上にあるアジの頭も見つける。小さいし、土と同化しているにもかかわらずだ。ごくごく小さなケーキのくずも見逃さない。それも木の上からである。

今は木々の緑が優しく美しい。カラスはたいてい白もくれんの枝に止まっている。黒は緑とはよく似合う。むしろ保護色ではないかと思うくらい、よく溶け込んでいる。大きな真ん丸い目、大きな嘴、細い足。「かぽ、おいで」というと、ついてくる。「かぽ」は自分のことであり、「おいで」は呼んでいることだと理解しているようである。屋根にモノを投げると、トタン屋根だから、音がする。その音も合図になっているようだ。ばたんと音立てて屋根に飛び降りる。

人間にはかわいいそぶりを見せているが、猫には違う一面を見せる。我が家には3匹の仔猫とかあちゃんがいる。かあちゃんのプラコッテはネコ物語②にあるように、拾われ猫である。だから物怖じしないのか、それとも仔猫がいるからか、また単にあそびたいだけなのか、そこらへんはネコに聞いて見なければわからないが、ともかく屋根の上で餌を集めているカラスが気になって仕方がない。カラスが地面に下りたり、アヒルのがあちゃんの水浴び場に水を飲みに来たときなど、ちょっかいをだす。カラスはネコに向かって「かあ、かあ」と威嚇するように声を出している。そのうち、カラスにやられるぞ、と思いながら見ている。

 あるとき、プラコッテが木登りをしていた。このネコは木登りはくだりが弱い。しかし仔猫が登ってしまったので、やむなくついていって下りようとしたときだ。カラスが飛んできて、プラコッテの近くの枝に止まった。プラコッテはそのカラスに果敢にも飛び掛っていったのである。カラスはひょいとかわして他の枝に飛び移った。すると、もう一羽のカラスが反対側にやってきて止まった。猫をはさんで左右に陣取った。そしてネコの背後から、さも脅かすように背中すれすれに飛んで、私にはけ飛ばしたように見えた。あっ、やられたと瞬間思った。私が飛び出したので、カラスは飛んで行ってしまった。

それからである。赤トラネコの大きなバーリがのしのしと歩いて、餌の屋根の下を通り過ぎようとしたとき、背後からすれすれに黒い影が飛んだ。すばやく防御の体制をとるバーリ。しかしそれ以上は何事もなく、バーリはまた平然と歩いていった。同様、大ネコの黒白のジョイスも通り過ぎようとしたとき、背後からすれすれに飛ばれた。さすが大ネコたちは体制をつくるのはす早い。いまのところは、これ以外には何事もないが。他のネコも犬もカラスに関心は示さないが、性懲りもなく、プラコッテはカラスにちょっかいを出している。カラスは色も大きさも違っても、ネコはプラコッテの仲間だと認識しているようだ。大ネコには迷惑な話である。大猫たちが食べ残したアジをカラスは貰っていることを知らない。知っていたら、一飯の飯の恩義を感じなければならないのだが。



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ブータン・ネパール

2005-05-14 13:31:47 | 旅行記 アジア

onbu
おんぶ・なつかしい姿

2002年10月16日(水)

6時38分で小田原へ。7時8分のひかりで大阪へ。はるかに乗り継いで、関空へ。

今回のメンバーは。1998年、2000年と同行したお馴染みのN さん、Hさん、Mさんご夫妻、そして新たに加わったAさんと私の6人。Mさんの連れ合いのミスターはブータン旅行の後はヒマラヤ・トレッキングに一人で向かう。ミスターはトレッキングは3回目だ。

私物はいつものようにカメラバッグと背負うことも引くことも出来るザック。中身はスウェーター、着替えが下着とブラウスとソックス。薄い寝間着上下。洗面用具。薬と裁縫道具の入った小さなバッグ。スリッパ(今回は使うことがなかった)。ノートパソコン。クリアケースに入れた筆記用具とメモ帳、折り紙、スティックのり、計算機と電子辞書。文庫本が2冊。ティッシュとミニ・タオルが4枚。ザックの半分は鉛のケースに入れたポジフィルム50本。コートもいつものゴルフジャケット。ポケットには帽子、マスク、ミニ・タオルが入っている。

先ずは前もって送っておいた荷物の受け取り。そして機内持ち込み以外の荷物を預ける。風の旅行社からは今年の8月30日からネパールはダブルビザはなくなり、シングルとマルチだけになり、シングルビザ2回とることになりますと聞いていたが、ロイヤルネパールの受付の女性に確認すると、ダブルビザがあるというので、そのつもりでビサ票を一枚しかもらわずに行く。しかしこれはまちがいだった。旅行社の方が情報が正しく、ダブルビザはなくなっていた。初めてザックを機内持ち込みにせず預け、下へお土産のカステラを買いに行く。

飛行機は定刻に出発。瀬戸内海を飛び、海へ出る。

遠くに島影が見える。どうも中国のどこからしい。空路がわからないので、どう飛んでいるのか見当がつかない。これで3回目だと言うのに。

上海で下ろされる。カメラバッグを置いてきたのがちょっと心配。1時間ほどここでぶらぶらしなければならない。

再び機内に。雲が出て下界は見えない。頭が痛い。薬を預けてしまったので、我慢している。

カトマンドゥ到着。40分ほど遅れたが、40分では遅れたうちには入らないと言いながら、ビザのところに並ぶ。ビザ票は関空でもらって書き込んであるので、入国票を書いて30ドル払って、写真をホチキスでとめてもらい、ビザを貼ってもらう。

外に出ると、スザータのマスターの秦さんが待っていてくれた。
目印に赤いうちわを振りますなんてメールして置いたが、うちわを持ったNさんがあとから来たので、その必要もなく、すぐわかった。

飛行場からはパタンのスザータのほうが近い。スザータへの道がきれいになっている。そういえば、空港内もきれいになって、しかも明るくなっていた。

スザータは秦さんが経営するペンションである。アットホームで安心と和美さんから紹介されて、お願いしたのだが、とてもきれいなペンションだ。今回はこのスザータが私たちの基本宿、我が家となる。

ともかく挨拶をし、各自部屋に落ち着く。私とHさんは3階のシングルルーム。NさんとAさんは2階のツウィンルーム。M夫妻は4階のツウィンルーム。まずは荷物を部屋の置いて、下にいく。ここに預かってもらうもの、明日ブータンへ持って行くものを分ける。ここのシーちゃんへのお土産も渡す。シーちゃんは4歳になるこの家の息子。本当はシッタルタというのだが、略してシーちゃんと呼んでいる。なつっこくて、可愛い子だ。奥さんはチョリさんといって日本語の上手なネパール人だ。他にネコのマイケルと犬のタイソン。

明日は12時にはここを出る。車の手配などを頼む。

10月17日(木)

ぐっすり眠ったのだが、早く寝たので夜中何度も目を覚ました。カーテンをちょっと引いて外を見ると、オリオンが美しく光っていた。こっちが西だ。次に目をさますと、カノープスが高く上っている。
薄明が次第に赤く変わっていく。日の出だ。東側は見えないから赤く染まる空しか見えない。小鳥の声がにぎやか。カラスやはとの声も聞こえる。

7時過ぎNさんたちがHさんの部屋に来て、にぎやかにおしゃべりするのを聞いた。そして階段を上っていくので、私も寝間着のまま、のそのそ起きだしていく。階段の窓から朝日を斜めに受けたヒマラヤが見える。ブラボー。ラッキー!屋上へ上り、さっそく写真を撮っている。すぐそばを黒白のセキレイに似たケリー(migpie robin)が飛ぶ。

8時朝食。野菜いっぱいのトマト味のリゾットが美味しかった。

9時半、この前は雨だったので、パタンのダーバ-スクエアの見学に歩いて行く。スザータからダーバースクエアまで歩いて15分ぐらい。スクエアへの入場料は一人200ルピー 。ダサインのお祭りなので、にぎやか。人々は着飾って歩いている。物売りは相変わらず多いが、物乞いする子どもたちの数がぐっと減った。

全体として、町もきれいになっている。掃除をしている人の姿も見た。最後にゴールデンテンプルによって戻ってくる。ゴールデン・テンプルの拝観料は250ルピー。

12時スザータ出発。空港使用料880ルピーを支払ってから荷物チェックを受け、預ける荷物に紐をかけてもらう。そしてチェックインをすまし、荷物を預け、二階の発着場へ向かう。14:40分カトマンドゥ発。席は自由。ヒマラヤは進行方向左手になる。そこで、左手に席は取ったのだが、だんだんと雲が出て、下界はまったく見えず。

パロ空港に着く。ドアが開き、階段を下り、空港事務所まで歩く。空港ビルは伝統的な建物をした趣のある建物だ。入国ビザを書き、ビザ申請書を見せ、ビザ代20ドルを支払い、入国持込のカメラ2台とPCを申告する。申告書の黄色い紙は帰りに必要なのでとっておく。イミグレイションを 通り、外に出ると、風の旅行社のガイドと運転手が待っていた。
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二人のガイド

ガイドはチョンソ君、ドライバーはニマさん。二人とも若い。チョンソ君は26歳、ニマ君(ニマはゾンカ語で太陽だそうだ)22歳。するとチョンソ君がNさんの息子に似ていると言うので、彼女の息子の名で陽佑(ようすけ)と呼ぶことにする。

構内から出て先ず感じたのは、空気が美味しいこと!とはいえ単に物質的な空気が澄んでいるというのではなく、なにかゆったりとした温かみを感じたのだ。私の直感、first impressionというべきだろうか。

ティンプーまでの道はパロ川に沿って曲がりくねった道を行く。1時間半はかかる。Yさんから急遽国王の電話回線がおかしくなり、その仕事が入り、迎えにいけなくなったと言う手紙が届いていた。

薄暗くなる山道をティンプー目指して車はくねくねくねった道を川沿いに走る。この川はパロ川。川をゾンカ語ではチューというのだそうだ。だからパロ川はパロ・チュー。焼酎だ、アルチューだと騒いでいる。

左手に僧院が見える。17世紀に、あの僧院を立てた人がパロ・チューに鎖の橋を何本もかけた。その橋は今はひとつだけしか残っていないが、その人が建てた僧院や尼寺は残っている。

6時半ごろホテル・ウォンチュクに着く。4階建ての建物。

ロビーでお茶を飲む。ロビーはけっこう寒い。だから熱いお茶はうれしい。ゴ姿のガイドの二人は寒い寒いとぼやいている。ひざ小僧までのハイソックスをはいているが、スカートみたいに下があいているので寒いらしい。
「ブータンの90%の若者はゴを着たくないと思っている」と彼らは言う。
「じゃぁ、どんな格好がしたいの?」と聞くと、
「ジーンズで革ジャンを着て、バイクをとばしたい」のだという。若者はどこも同じだ。でも彼らにはゴがよく似合う。チョンソ君はゴを着ないで罰金を3回も払ったと言う。違反金は一回300ヌルタムだとか。300ヌルタムというのは空港使用料と同じ額だ。1ヌルタム=2.6円

お茶を飲んでいるとYさんから電話が入った。そこでYさんの荷物を部屋に上げるのは重いので、出来れば今取りに来て欲しいと頼む。彼は近くのホテルに滞在しているというので来るのを待つ。10分ぐらいでYさん到着。YさんはNTTの職員で、JICAからの要請でブータンテレコムの仕事を指導するために派遣されている技術者である。

人との縁は不思議なもので、たまたまわが町でADSLにしようとNTTに交渉し、署名集めをした。その手前、いち早く私もADSLにした。その担当がSさんで、そのSさんがメンバーのNさんと同級生、ADSL接続でNさん宅にきたので、ブータン行きを話すと同僚がブータンに行っているとアドレスをくれたのが、Yさんと私のメル友の始まり。ブータンに知り合いがいるなんんて心強い限り。「どうせ行くのだから、必要なものはお届けしますよ」ということで味噌、しょうゆなどの日本の食品を届ける役を買って出たのだった。荷物運びは慣れている。今回もネパールに届ける荷物も持ってきている。Yさんへの荷物を渡し、明日の約束をして、荷物が重いのでニマが車で送って行く。楽しそうな人だ。

部屋に荷物を置きに行く。4階だが、エレベーターはない。トレッキングだと言いながらあがる。部屋は広く、ゆったりしている。窓の正面からは山が見え、途中にホテルらしき大きな建物。すぐ下の道向こうにはサッカー場。サッカー場付属の小さな建物も伝統的なスタイル。ほとんどの建物が意識的に伝統的なつくり。おほ、まちづくりは日本より進んでいる。

夕食はブターン料理。白いご飯。野菜の炒め物。ソバをリングに固く焼き、具がかけてあるもの。エマ・ダツィ、チーズと唐辛子の炒め物、などなどが並ぶ。唐辛子は辛いが、味は美味しい。ハーハー言いながらも、これは癖になりそうだと食べる。これでもレストランの料理は外国人向けに唐辛子は控えめなのだそうだ。これならこれから先の旅は食事に期待が持てそうだ。

チョンソ君にゴがどういう具合になっているのか、着方をみせてもらった。恥ずかしがるのを強引に、オバサン・パワーで。ゴは和服のようにストレートではなく、両サイドにたっぷりのマチが入っている。前でエリを合わせ、帯をし、後ろにきれいにひだをとる。このひだの取り方が難しいのだとチョンソ君がいう。だからいつもニマに手伝ってもらっているのだそうだ。甚兵衛さんのように横についている紐を結ぶ。最後にカフスみたいに袖を折り返す。これは男性は白と決まっている。その白の長さは身分でまた違うのだそうだ。

エリから下襟を出して出来上がり。一様に黒や紺のハイソックスをはいている。ゴの模様はみなそれぞれ。茶やベージュの縞や格子が多いが、中には目立つ縦じまや無地もある。

部屋に戻って洗濯をする。オイルヒーターがあったので、洗濯物はすぐ乾く。ヒーターは一晩中つけっぱなしでいる。

10月18日(金)

6時起床。外は雨。
窓からのぞいていると、ホテルの道向こうはサッカー場だ。雨の中をフードつきの上着を着た人たちがサッカーの練習を始めた。ひとしきり、練習して引上げて行った。雨だから練習なしでは、雨期には困るだろうから、雨でも練習するのかな、と野次馬は思う。(註:サッカーは冬のスポーツ。雨でも雪でも天候に関係なくするのだそうだ。)

ゴやキラを着た人たちがかさをさしながら、歩いている。上から歩いてくる子どもたちを狙ってシャッターを切っている。たぶんこの暗さではだめだろうな。

ここでブータンについて少し。
ブータンの正式名はDRUK YUL、雷龍の国。
国旗には龍が描かれている。
政治体制は君主制。
面積は46,000㎡(九州の約1.3倍)、うち森林72.5%、
耕地7.7%、放牧地3.9%、
生産物はトウモロコシがトップ。
米、雑穀(アワ、ヒエ)、ソバ、小麦、大麦、ジャガイモの順。

人口は60万人とも70万人とも。
首都はティンプー。

公用語はゾンカ語。しかし英語教育がされているので英語は通じる。
cypress
国の木CYPRESS

DRUK AIRの冊子で得た知識だと、
国の木はCYPRESS(でも西洋の糸杉とはちょっと違う)
国の鳥はRAVEN(RAVENにはお目にかからなかった。
RAVENを私がカラスだというと、チョンソ君がカラスではないと言う。日本ではワタリガラス、大ガラスだ。A・アラン・ポーの詩にRAVENというのがあると説明する)、
国の花はブルーポピー。(7月には山へ行くと見られると言う。日本の花博で見たことがある)

BHUTANは日本語ではブータンと表記するが、現地ではブターンとタにアクセントをつけて発音する。英語でもTAにアクセントがある。そこで私たちも現地に倣ってブターンと発音することにした。ただし書くときはブータンとする。

7時半、朝食。
9時の集合まで雨も上がったので、ひとりで街中を歩いて写真を撮る。ティンプーの商店街を写真に撮って歩く。
野犬なのか、飼い犬なのかわからないが、犬がいっぱいいる。ほんとうに犬が多い。いたるところ犬が寝そべっている。ティンプーだけでも5000匹はいるそうだ。夜はにぎやかにほえていた。この犬たち、この国は仏教国なので、殺さず、捕まえて他の地に移住させていると聞いた。去勢もしているそうだ。でも、子犬は生まれている。
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時計台のある広場に出た。舞台をつくっている。そこで何をするのか聞いてみた。夜、ダンスがあるのだという。入場は無料。横でなにやら売っている。トトカルチョだ。これは寺院のドネイションのためだと言う。
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時計台

「乙女の祈り」のメロディが聞える。時間を知らせるチャイムだろうか。時計を見ると、まだ9時前だ。また聞える。人々がダンボール箱や、袋にはいい多ゴミを持って出て来る。ゴミ収集車のチャイムだったのだ。なんで乙女の祈りなの?

9時出発。
おっ、ガイドの二人のゴは昨日とは違う。ちょっとモデルになって、と二人を写真に撮る。先ずはメモリアル・チョルテン見学。仏塔のような白い大きな建物。寺院では靴を脱ぐ。足が冷たい。仏教といってもブータンの仏教はチベット仏教の流れをくむ密教。日本の仏教とは趣を異にする。仏教史をまとめたとき、密教には興味がなかったのですっとばしてしまったが、もう一度密教のところを読み返しておいたほうがよさそうだ。
ブータン仏教にはカギュ派とニンマ派があり、今の国王はカギュ派で一応国教はカギュ派仏教だと説明された。どっちにしろ私にはよくわからない。
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お参りをする人々

モティタンの丘に登り、ビューポイントからティンプーの町を臨む。盆地にはまだ十分土地があり、首都といっても地方都市よりはゆったりとしてのどかである。緑の季節ではないが、自然環境は恵まれている。あれはポプラだろうか、黄葉が目立つ。
tasichozon
タシチョ・ゾン

あちこちに建設中の建物が見える。チョンソ君の説明によると、現在ティンプーは住宅建設に追われているとか。
「現在のティンプーの人口は?」
「6万ぐらいです」
「ガイドブックには4万5千ってあったから急増しているんだね。人口が都市に集中するのは問題が起こるんだけど、仕事はあるの?」
「あります」
「どんな仕事があるの?」
「インドからの品物を扱う仕事です」
「中間交易ね。しかし農業国が地方から人口流出で人手がたりなくなりはしないかしらね。人手が足りなくなると生産高が減るし、それをカバーするために機械化することになる。そうなると機械化が進み、農家は借金経営を余儀なくされるんだよ。それが出来ないと輸入に頼ることになる。国の方針はどうなんだろうね」
「よくわかりません」
「若者にはわかんないだろうね。次にくるときには、この町もずいぶんと変わっているだろうな。私たちはいいときにきたのかもよ」

ターキンだけが飼われている動物園をのぞく。顔はヤギ、角は・・と言ったヒマラヤにだけ生息する珍獣だと、ちょうどNHKで放映されたとかで、みんなは興味を持っていた。偶蹄目ウシ科だから、よくよく見なければ、さほどおもしろい動物ではないが、水牛ぐらいの大きさ。草を出すと寄って来て食べる。ターキンは絶滅に瀕しているが、日本の動物園にもゴールデンターキンは飼育されている。

GOVERNMENTがやっているハンディクラフトの店へ行った。お目当ては織物。ガイドブックで見る限り、ブータンには色鮮やかな織物がある。色鮮やかだが、染めには今なお天然染料が使われていると説明があった。しかも絹織物が目を引く。そこで絹織物を買いたいと思っていたのだが、織だけのものは少ない。細かい模様のものは、絹地に細かい刺繍が施してある。刺繍のキラはきれいだが、和服同様実に高価だ。お土産にはちょっと手が出ない。そこでテーブルクロス程度の刺繍品を買った。新聞紙に包んでくれた。次に来るとこれがポリ袋にかわっているんだろうか。ここはカードが使えた。

ついで郵便局で切手と絵葉書を買う。ブータンは切手で有名とかで、いろんな種類のきれいな切手が発行されている。この印刷はどこでするのだろうか。デザイナーがいるのだろうか。小国が切手発行で外貨を稼いでいる例は知っているが、この国の切手も外貨獲得に役立っているのだろうか。とにかくきれいな切手、しかも種類が多い。日本までの航空便の料金は20ヌルタム。切手の購入にはドルも使える。雪豹や野鳥、ランやブルーポピーのデザインの切手をシートでドルで買った。絵葉書はいいのはなかったが、日本へ切手を貼って送りたかったので、数枚買った。

図書館へ行く。二階三階はお経の収集。もちろん何のことだかもわからないが膨大な資料である。

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食事の支度
ドゥプトプ尼僧院へ行った。中はお祈り中だとかで、周りだけ回ってみた。ここからもティンプーの町が良く見える。パロからの途中で見た、17世紀にくさり橋をかけた人がつくった僧院だと言う。人の手に乗るくらいの三角形のお団子のようなものがある。ブータンでは死者の灰を固めて、僧院へ備えるのだと言う。だから、墓はないそうだ。チベットでは鳥葬だが、ここでは同じチベット仏教でも火葬にするようだ。尼僧が食事の支度をしていた。烏瓜みたいな形の野菜を、器用に種をはずして縦に切っていた。オラ・チョット、カラスの嘴と言う名前だそうだが、烏瓜とは違うみたいだ。

街中のレストランへ食事に行く。昼食は美味しかった。ビュッフェスタイルで好きなものを取る。なんでもすこしずつとって見る。やわらかい焼きそばが美味しい。さっきのオラ・チョットも入っている。癖のない、さっぱりした野菜だ。「ナムサミ シンベ」(とっても美味しい)」を連発している。

午後、Yさんを迎えに行って、いっしょに民族博物館、古い民家が保存されているのを見る。3階にはドネイションの箱がある。今回はMさんにチップなどの支払い係を頼んだので、彼女が代表して入れた。民家の維持管理も大変だろう。ほそい木の階段を上ると、最上階は吹き抜けの納屋になっていて、藁や唐辛子 などが干してある。

となりの美術学校へ行く。石彫、仏画、刺繍、うるし塗りなどの伝統工芸が教えられている。段階があり、やさしいものから習っている。ここを卒業して、伝統工芸の店につとめるのだという。外では建築技術の実習。建材の木のくみ方、壁の竹組み、壁塗り。
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ゴを来た生徒

そこでも工芸品の土産を見、続いて、製紙工場へ行く。製紙の原料はこうぞを使っているのだそうだ。和紙に似た素朴な味わいがある。よく見ると、石州和紙との交流があるようだ。なるほど、納得。

3時半から民族舞踊を見る。芝生の片隅に椅子が並べられ、観客はここから見る。私たちとヨーロッパ人が数人。観客は12,3人といったところ。この舞踊団はプロの王立舞踊団なのだが、そんなにプロらしいとは思えない踊り方だ。うん、男性たちの仮面の踊りは迫力はあったけど。伝統楽器の方が面白い。この楽器の写真を撮ろうと思っていたら、終わる前にさっさと片付けて帰ってしまった。愛想のないことだ。最後は客も参加して踊るのだが、もちろんすぐさま日本人一行は加わって一緒に踊り始めた。Yさんも踊りに参加している。ヨーロッパ人は出てこない。寒かったのだが、おかげですっかり体が温まった。
dance

Yさんの勤務しているテレコムを訪問。仕事の内容を見学。日本人一行は日本でも電話局などのぞいた事がないと言う。そうかもしれない。案外生活に近いところで、知らないことはたくさんある。

総裁まで挨拶してくれた。数日前東京から帰ってきたばかりだと言う。東京はvery busyだそうだ。Yさんの人柄だろうが、スタッフに好意をもたれていることが初めて会った私にも十分わかる。

夜、Yさんの泊まっているホテルで夕食。アラ(地酒)をご馳走になった。アラは蒸留酒だと聞いていたが、どぶろくのような味、ほんのり甘さを感じる。飲みやすい。Yさんとミスターと私と3人で、ほとんど1本飲んでしまった。

アルコールが入ったので、たのしく、おしゃべりをして、4階のYさんの部屋を見せてもらった。二部屋続きの素敵な部屋。ドアを入ると自炊用の机。奥がリビング。隣が洗面所と寝室。でもひとりじゃさびしいだろうな。おしゃべりが途切れることはないのだが、二人の若者が待っているので、彼らを気遣って、10時にはおみこしを上げる。ほんとはYさんのためにはもうすこしおしゃべりをしていたかったな

10月19日(土)

9時出発。
バザールを見た。トマト、キュウリ、にんじん、じゃがいも、グリンピース、おなじみの野菜が並んでいる。ナスはナスの色はしているが、実に細長い。それにゴーヤ(苦瓜)、隼人瓜(巾着瓜)もある。珍しい野菜は、これは何だと聞く。ここの呼び名だから、結局はわからない。果物もオレンジ、りんご、柿もある。

干し魚を山積みして売っている。インドから来るのだという。
ヨーグルト、葉に包んだバター、チーズ、飲み物の乳清。チーズもいろんな種類がある。柔らかなもの、乾燥したもの、スモークしたもの。名前を聞くと○○ダツィとみんな違う。農業国といってもかつての日本と違うのはこの乳製品の摂取だろうか。しかもチーズを使った料理がふしぎと日本人の口に合うのである。

ドマを売っている。ドマとはビンロウジュの実。この皮をむいて石灰といっしょに口に入れ噛む。南の国々のタバコのようなもんだ。歯が真っ赤に染まる。この噛んだ赤い汁を道路に吐き出す。刺激的な味わいがあり、習慣性があるみたいだ。健康にも悪いと聞いているが、どこでも売っている。

生活用品は何でもある。バザールは土曜日に開かれるのだそうだ。ああだこうだと売り手に聞いたので悪くなって花山椒を買った。花山椒もいろんな種類がある。ポリ袋に入れて、コートのポケットへ入れておいたのだが、車中が山椒の香りにつつまれた。

パロへ一昨日通った道を戻る、と言ってもティンプーに着いたのは夕方だったから、よく覚えていない。
ティンプー川沿いにプールのような、ため池のようなものがある。
「あれは農業用水?」と聞くと
「下水処理場です」という。
「沈殿式みたいだね」と言いながら見ている。
ほんとは近くに行ってみたかったが、それはならず。
それにしても下水にまで配慮しているところはいい。
王政という言葉は私にはなじまないが、国王はたしかイギリスに留学したようだし、ここでは王政が機能しているのかもしれない。

テインプー川(チュー)とパロ・チューの合流点に3つの形式の違う仏塔がある。二つの川は合流してワン川となる。パロへとは違う方向から、トラックがつながってやってくる。あれはインドからのトラックだと言う。ここは国境もかねているとか。

途中。直売所で柿やチーズを買う。ヤクのチーズを高野豆腐のようにきり、藁でつるして乾燥させたもの。ちょっと目には白いローセキのように見える。しかし、これを食べるには歯のいい人でも2,3時間かかると聞いたので敬遠する。

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パロのビューポイント。下に空港が見える。空港は川沿いに直線コースが作られている。その向こうにパロ・ゾン。

見渡す限りの田んぼでは今、収穫の真っ最中だ。刈り取った稲はそのまま田んぼに寝かせ、乾燥させている。稲は一定の方向に並んでいるのだが、田んぼによってむきが違う。そこに日光が当たり、美しい模様をかもしだす。旅人にはきれいな風景だ。
autumn

乾燥度を見て、手でにぎれるほどに束ね、平たい石に打ち付けて脱穀している。他の農家では石に溝をつけてしごいていた。これは大変だ。これなら昔の日本の技術がつかえるのではないかと思った。その昔、稲を脱穀するのに、のこぎりのような金属の型に引っ掛けていた。その後は木材で円筒形をつくり、横にして、太い針金みたいなものを打ち込んだものを
足踏みで回転させ、脱穀していた。これなら電気も燃料も要らないから、どこでも使えるだろう。

昔の日本の技術を伝える人はいないのだろうか。民族博物館になど行くとよく見られるんだが、もみすりだっていいのがあったはず。現在の 農業指導員はこんな昔のものをしらないのかなとも思った。Yさんに話してみよう。彼ならJICAに伝えてくれるかもしれない。

パロの農業を指導したのは西岡さんという人で、28年間ブータンにとどまり1992年現地でなくなり、国王からダショー(貴族)の称号を与えられた人だときいた。稲藁は日本のように重ねてある。家畜の用に足すのだろう。「インドが近いから化学肥料を買っているの?」とチョンソ君に聞くと、「ブータンは有機肥料を使っています。田舎へ行くと人糞でブタを飼っています。だから私は田舎のブタは食べません」という。「いいじゃないの。リサイクルだよ。人間が健康ならブタも健康に育つ。その逆も言えるね。有機物で育てているから、ブータンの食べものは美味しんだよ」インドでは化学肥料を使いすぎ、地力が衰えてしまい困っていると教える。パロの農業は一昔前のようであり、しかし病んだ地球を考えると、ある意味では先進的でさえある。ゴやキラを着ることを義務づけているのも、国内産業の保護のためかもしれない。しかしジーンズ党の私にはちょっと抵抗があるけども。

baby

パロ市街で昼食。散歩。日差しは暑い。ここでインターネットカフェを見つけたが、チョンソ君によると立ち上がりが遅いから使わないほうがいいという。

パロ博物館に行く、が停電のため入館できず。パロゾンを見学。ゾンは僧院だから外から見ることは出来るが中には入れない。キバシカラスを見る。ここもやっぱり大陸の一部だ。パロゾンから歩いて下り、木造の橋を渡る。この景色がいい。
parozon

明日ウマで歩くタクツアンへの道を見る。戻って一番古いゾンを見学。大きな国の木のCYPRESSがある。

通りすがりから見るどの家も屋根の半分ぐらいに唐辛子が広げられて干してある。その色鮮やかな赤は美しい。乾燥にしたがって、鮮やかさが落ち着いてきているようだが、それとも品種がちがうのかな。
chili
とうがらし

街道からすこし降りたところにあるホームステイ先の農家に行く。大きな3階建ての家だ。すぐ裏にはりんごの畑。家の横にはびっしり成ったナシの木もある。門を入ると、家まわりに水のいっぱい入った桶などがあり、階段を上ると、ベランダにつく。外にもトイレはあるが、ドアを入ると、トイレや仕事部屋、納屋などがあり、更にもう一段上ると、居間や家族の部屋などがある。床張りのどっしりしたつくり。この階段もホームステイの客のために、新しくつくったもののようだが、歩幅が狭いので、横向きに上ったり、下りたりしなければならない。

トイレは広い。6畳ぐらいの広さだ。一隅に大きなドラムカンに水がいっぱい汲んである。その前の高くなった(階段で2段くらい)ところに白い陶器の便器がある。手桶に水を汲んで、またいで用を足し、手桶の水で流す。しかし、このドラムカンいっぱいの水は家人が客人のために汲み上げてくれたものだろう。

居間には椅子が並べられ、温かいじゅうたんが敷かれている。壁にはいままでホームステイに訪れた人々が持ってきた扇子とか人形とか、折鶴とかいろんな日本のお土産が飾られている。大きなテレビ、ビデオ、電話もある。

ホームステイで茂ちゃんという大阪の若い女性といっしょになった。彼女も風の旅行社に依頼して、ガイドのオサムちゃん(名前を忘れた)と運転手のナド君を連れての旅。彼女はブナカまで行って来て、あとは私たちと同じコースをたどる。

ブータンの観光はGOVERNMENTによって一日200ドルと決められている。うち90ドルはGOVERNMENTの収入となる。去年までは外貨獲得は電力(水力発電)だったが、今年からは観光収入が1位になって、観光客も日本人がトップになったという。たしかに私たちにとっては古き良き日本を思い出させてくれるところだが、この先、この国の観光はどう変化していくのだろうか。観光地で物乞いやしつこい物売りのいないところなんて、ここ以外お目にかからなかった。よほど心しないと、どこでも同じサービスを求める観光客に、俗化してしまうことにもなりかねない。

私たちの部屋は居間の左となり。窓か

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