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チェルノブイリ2(ベラルーシ)

2005-05-08 23:55:44 | チェルノブイリ

ベラルーシ

フォトアルバムにべラルーシ94,95を載せたので、文章も。

parlament
大統領府 翻る国旗も紋章も、95年に廃止され、現在は使われていない。

                                                                       

                                       

ミンスクへは’94、’95,’96年と3年連続で行った。はじめは連れられてキエフから、2度目は夫と二人だけで、前もってインビテイションを取っておいてもらって、ミンスクだけでなく、ホイニキやベリキボールの子ども達の家をまわった。3度目はこれまた二人で、しかもビザもとらず、インビテイションもなく行った。アンドレイさんには到着を知らせておいたので、迎えに来ていてくれたので事なきを得たが、入国にはとても時間がかかった。

この時はホテル・プラネットに泊まった。
ホテルにカジノがあり、びっくりしたが、どこのホテルもカジノがあるようだ。
church
カトリック教会

                                       

デニスが甲状腺の手術をしたので、様子を見に行ったのである。被爆した子供たちは甲状腺異常になる子が多い。デニスは元気でほっとした。95年は私と背丈が同じだったのに、96年は170cmの夫の背を抜いていた。このときはホテルに泊まり、二人だけでミンスクを歩き、タクシーで空港へ行き、ウィーンに戻った。空港の待合室にはアルバニアに帰る人々の集団が大騒ぎをしていた。

                                               

ミンスクには通訳として子ども達と一緒に我が家に滞在したアンドレイさん一家(アンドレイさん、イリーナさん、インナ)とデニス一家(ウラジミールさん、エレーナさん、デニス)が住んでいる。現在デニス一家はウラジミールさんの仕事の関係でモスクワに住んでいる。

apart
デニスの住むアパート群

                                       

さて、話を1995年に戻そう。95年はアンドレイさんにインビテイションをとっておいてもらって、夫と二人だけで行った。空港にはアンドレイさんが迎えに来ていてくれた。このときも5月、アンドレイさんはベラルーシの大統領選挙の仕事で忙しく、私たちの案内ができないからと、その日はアンドレイさんのお宅に泊めてもらい、翌日からデニスの家に滞在した。デニスのママのエレーナさんは美人でその上料理が上手だった。私たちを心から迎えてくれた。

                                                   

アンドレイさんのアパートは都心に近く、外観はレンガ張りだが、デニスのアパートは、バスで30分ほどかかる郊外のコンクリート建ての一大団地内にある。チェルノブイリ事故で避難してきた人たちが多く住むときいた。家族数に応じて割り当てられるのか、中のつくりはどちらもほぼ同じ。広いリビング、子ども部屋、食事のできるキッチン。入り口のフロアがかなりある。集中暖房なので、暖房器具はいらない。湯もいつも使えるようになっている。私たちのためにバスタブに湯をはってくれた。

                                              

社会主義の名残か、市民の生活の基本の公共料金や食料品は安く抑えられている。そかわり必需品以外のものは高い。

フラットは余計な家具がないからか、すっきりと片づいている。壁にはスラブの伝統なのか、大きな絨毯が貼られている。今にも止まりそうな、がたがたいうエレベーター。電気を極力抑えているので、廊下の灯りは必要最低限しかなかった。ゴミ収集車を見ていたが、そんなにゴミは出ていない。市内も市外もゴミであふれている様はなかった。

                                                  

ミンスクはベラルーシの首都である。したがって文化にふれることがあった。デニス一家が誘ってくれたバレエ「胡桃割り人形」。オーケストラの編成がちょっと違っているがいい音を出していた。もともとクラッシクバレエはロシア生まれ、ソ連邦のひとつとしてかっては親しまれていたのだろう。外に出ると、デニスが金平糖の踊りを口ずさみながら、まねして踊っている。親しんでいなかったら、こんなことはできない。次の出し物を見ると「カルメン」だった。いまでこそソ連崩壊とチェルノブイリ被災で経済的に苦しい国づくりをしているが、かつては生活の文化程度は高かったのだろうと思う。国立の美術館にも行ったが、古いものも、新しいものも収蔵品はあまりなく、これといったものはなかった。

                                                   

ミンスクには古くから子どもだけで運営する子ども鉄道がある。遊園地の電車程度のものだが、運転手も車掌もみな子どもである。車掌さんの写真をポラロイドで撮ってあげる。アンドレイさんが子どもの頃、父親に乗りたいというと「パトム(後で)」といわれ、乗るのは今日が初めてだと言った。男の子がずっと私たちについてくる。なんと彼もポラロイドで写真を撮ってもらいたかったのだ。お安いご用。写真を渡すと、男の子はうれしそうに「サンキュー」と言って帰っていった。

                                                

車をチャーターして60キロ離れたハティンへ行った。1943年3月22日、ドイツ軍はこの村を包囲し、老人、婦女、子ども149人を銃殺し、家に火を放った。ただ二人生き残った少女がこの惨状を伝えたことから、皆殺しの実体が浮き彫りにされた。ハティンは子どもを抱えた男の大きな立像があり、皆殺しにあった村の各家々に鐘楼がつけられ、かつての住民と虐殺当時は何歳だったか、一戸一戸書いてある。そして同じように抹殺された180近い村々のその村の土を入れた記念碑もある。石で囲まれた小さな池、というより水漕に、紙幣がたくさん浮いていた。ベラルーシにはコインがないので紙幣を投げ込むようだ。それにしてもコインにせよ、紙幣にせよ、お賽銭をあげる風習は洋の東西を問わず存在するようだ。

katin
ハティンの像

                                      

                                       

                                      かえりは森の中でたき火を焚いて、ピクニックをした。慣れているらしく、準備は手早い。デニスも大人達と小枝を集めに行く。アンドレイさんが我が家にいたとき、桜の枝を集め、たき火をしようと言った。日本では消防署の許可がないと、たき火ができないのだというと、腑に落ちない様子だったが、彼らにしてみれば森でのたき火は日常的なことだったのだろう。デニスが森の奥から薄い紫のオキナソウに似た花を摘んできてくれた。やさしい色だ。
片づけも早い。大体ゴミが出ない。残り物や空き瓶やコップは持って帰る。火の始末をし、パンを一切れ枝にさして野鳥達へのプレゼント。

                                               

5月9日は戦勝記念日、ナチスからの独立を記念して祝う。ベラルーシのテレビは各地で行われるパレードをこれでもか、これでもかと流す。ベラルーシは徴兵制があり、軍隊がある。目抜き通りではミサイルや戦車のパレードが続き、ヘリコプターや飛行機によるデモンストレイションも行われる。人々は花を片手にパレードを声援する。夜には花火があがり、あちこちのアパートから「ウラー。ウラー」といった歓声があがる。5月の夜は身をさすように寒い。

                                               

ベラルーシは内陸で、日本の半分の国土に東京都の人口が住む。見渡す限り平野で視界を遮るものは松の森。北に行くに従って白樺が増える。モスクワへの中継点であったため、歴史的にも幾度となく戦火に踏みにじられた。
street
わずかに残っているふるい町並み

                                        

首都ミンスクも戦火に焼かれ、古い建造物はあまりない。古い住宅街を残す一角があるだけ。ここのレストランで94年食事をしたので、それを覚えていて、96年11月、夫婦だけでこのレストランに入った。ロシア語のメニューが読めなかったのでワイン、スープ、肉、魚とだけ注文すると、キノコのスープとソテーした肉と魚が出てきた。モルドバ産のワインを飲んだ。例年になく暖かいということだったが、11月のミンスクは私には寒すぎた。食事が体を温めるのにはなによりだった。この一角はレストランやバーや喫茶店などの店が増えている。

                                                 

マーケットにも行った。大きな体育館のような建物の中に市場がある。品物は十分ある。この市場の敷地内に青空市場があり活気を呈している。さらに外には手に手に売りたい品物を抱えた人たちが立っている。ほんの一つか二つしか持っていない人もいる。現金に換えたいからだろう。子猫や子犬を売りに来ている人々もいる。辻音楽士もいる。果物をずいぶん買い込んだ。

seller
市場の外で物を売る人々

                                           

                                              

団地内にあるデニスの学校にも行った。観葉植物がいっぱい飾られたきれいな学校だ。カーテンもフリルのついたレース。壁にはきれいな風景画が描かれている。日本の学校よりムードがある。

classroom
デニスの教室

                                       

                                               

ロシア語の授業に参加したがロシア語が出来ないので、こどもたちに日本のことを伝えられなくて残念だった。

class
ロシア語の授業で

                                        

                                                

大統領選挙の投票もエレーナさんについていった。投票用紙をもらって、試着室のようなカーテンで区切られた中に入って、投票用紙を書いているようだ。ものめずらしがって写真を撮って、腕章をした女性に注意を受けた。でもこんな体験は貴重。

                                               

エレーナさんは元教師で、当時は新聞社でロシア語をベラルーシ語に直す仕事をしていた。その仕事を休んでホイニキやベリキボールへ一緒に行ってくれることになった。デニスは汚染地域の近くに行かせるのは心配だというので、留守番をすることになる。ただし、エレーナさんは英語も日本語もできないから、これからの旅は片言しか通じない。

                                                

今日はベリキボールへ行く日。エレーナさんがなにやら人待ち顔だ。9時、エレーナのパパがはるばるベリキボールから私たちを迎えに来てくれた。朝4時発ちしてきたという。そしてとってかえしてベリキボールに向かうのだから運転手も大変だ。

                                                 

ベリキボールはミンスクから400キロ近くある。一日の行程だ。ベリキボールはソフォーズである。エレーナの父セルゲイさんはソフォーズの役員である。
朝私たちのために搾ってきた牛乳をもらった。
エレーナさんの両親はホイニキに住んでいる。
私たちがベリキボールにいる間、休暇をとって両親と過ごす予定のようだ。デニスは禁止区域に近づくことを気にした親に留守番をさせられ、むくれている。

                                               

エレーナさんは言葉がとぎれることがないくらい、運転手やエレーナのパパと盛んに話している。
いくつかの町や村を過ぎていく。途中、トイレ休憩がある。トイレといっても、草むらにしゃがんで勝手にする。

                                                   

お昼は森でのピクニック。パンやソーセージ、ニシンの薫製、トマトの塩漬け、生のラディッシュなどが並ぶ。お華に使うアスパラガスの葉みたいな香草も必ずと言っていいくらいにつく。ポットには暖かい紅茶が入っている。そうそう、ここで忘れてはいけないのがウォッカ。まずはウォッカで乾杯だ。ベラルーシ滞在中、食事の度に「ザバーシュ ズダロービェ」と言って乾杯するので、すっかりお馴染みになってしまった言葉だ。酒は強い方だが生のウォッカは好きじゃない。私は飲めないことにする。「少し」というのは「チューチュー」。食事のたびにチューチューを繰り返す。このアウトドアの食事はたのしく、気に入った。

                                                   

まずホイニキに行き、エレーナさんを両親の家に送った。両親は娘のためにご馳走を作って待っていた。挨拶に寄ると、それを私たちにも食べろと言う。ベリキボールでみんなが待っているからと、抱き合って頬ずりして出る。

                                              

ベリキボールはソフォーズだ。覚えのある白樺林が出迎えてくれる。エレーナの家に着くと、エレーナはドイツへ保養に行ってしまっていて留守だった。エレーナの母オリガさん、兄さんのサーシャ、弟のセルゲイと再会を喜ぶ。滞在中はエレーナの部屋を借りた。

                                                    

何人かの女性が集まって夕食の支度をしているところだったので、台所をのぞいた。定番料理の他に粉を練って薄くのばし、中に挽肉をのせ、上からもう一枚シートをかぶせ、形押しで圧すと、簡単にワンタンのようなものができる。これを茹で、サワークリームをかける。ミートソースか、醤油の方が私たちには口に合う。アーラやアーラのママのナージャさん、エレーナさん、親戚の人など大勢が来て、いっしょにご馳走をたのしんだ。アコーディオンのようなバイヤンを弾いてくれる人も来て宴はもりあがった。カチューシャ、カリンカ、トロイカ、モスクワ郊外の夜は更けて、ともしび、といったロシア民謡を、私たちは日本語で、あちらはロシア語で歌いまくる。

「ダシビダーニア」と言って、客が帰る。それを受けて私が「ダパパチェンニア」と挨拶すると、帰りかけていた人たちが「mamasan!」と言って戻ってきて抱きついた。「ダパパチェンニア」とはベラルーシ語で「さよなら」のことだ。ベラルーシ語を使ったことがよほどうれしかったのだろう。

                                                    

夫は部屋でダウン。客も帰り静かになった居間で、エレーナのママとエレーナさんが深刻な顔をして話し込んでいる。言葉がわからないから加われないが、どうも子ども達のことを話し合っているみたいだ。親としてみれば一番気になるのは子ども達の将来、特に子どもたちの健康だろう。

                                                     

「mamasan、チェルノブイリ近くに行ってみたいか」
とセルゲイさんが言う。
「行きたい」
というと、車を出してくれた。
どこでも私は「mamasan」と呼ばれている。
従って夫は「papasan」。

                                                  

45キロゲートの近くは去年は見渡す限りのタンポポの野原だったが、今年は一面ジャガイモ畑になっている。セルゲイさんとオリガさん、運転手は旧禁止地域の住民。ラドニッツァなので手帳を見せ、禁止区域への立ち入りの許可をもらう。

                                               

見覚えのあるバクシンを過ぎ、ひたすら車は走る。森をすぎると野原、野原の次は集落、また野原、森、集落の繰り返しが続く。今野原になっているところは、かつての耕地だ。狐がいる。コウノトリの姿も見える。黒鴻が土の道で餌をついばんでいる。動物たちにとっては人住まぬ地は楽園かもしれないが、放射能はどう影響しているのだろうか。

                                              

人住まぬ集落は電線はたれ落ち、朽ちるに任せている。朽ちゆく集落に対して、自然の生命力はすばらしく、木々は新しく芽吹き、特に白樺の若木があちこちに自生し新たなる森を作ろうとしている。廃屋の周りにはサクラやリンゴは今を盛りと花をつけ、足下にはタンポポの黄色がまぶしい。

                                                   

30キロ地点にも検問所があった。そこで働いているのはセルゲイさんの知り合い。ポラロイドで写真を撮って渡す。女の人もいる。ここをすぎると人の姿は見なかった。ラドニッツァの墓参りがすんだのだなと感じるものは、集落近くの墓に飾られたきれいな布。

                                                  

ラージンについた。ラージンはチェルノブイリ原発から10㌔地点にある。そこで車を降り、廃墟となった村を探索する。役場、学校、人の姿はないといえ、明るい日差しとやさしいみどりに包まれているので、雰囲気はさびしくはない。内部はどうしてこんなに荒れ果てているのだと思うくらいに、ものが散乱している。急いで必要なものをまとめて避難したからだろうか。それとも、ものとりの仕業だろうか。教室の床に子ども達の使っていたものが落ちているのは痛々しかった。窓辺に残された観葉植物の枯れた鉢、デニスの学校の観葉植物の鉢のおいてある窓辺を思い出した。

                                                    

プリピャチ川のそばで昼食にした。プリピャチ川はたっぷりと水量をたたえ流れている。向こう岸はウクライナ。ソ連邦の時はたぶん出入りは自由だったのだろうが、今は国境。川沿いに柵が張ってあるのが見える。でもところどころ破れている。この川の先にプリピャチ市があり、チェルノブイリがある。プリピャチ川はドニエプル川と合流し、黒海へそそぐ。

                                                

かえり、アーラの住んでいた家に寄った。写真「主なくとも春は巡る」はかつてのアーラの家である。運河があり、これを利用して物を運んでいたという。運河のそばの白樺の芽吹きは実に美しかった。

                                                      

汚染地域は豊かな耕作地である。ベラルーシとしてはこんな南の耕作地を予期せぬ事故で放射能汚染され、失ったことは大いなる打撃だろう。

                                                   

去年は測定器もあり、放射能を気にしたが、今回、放射能は目に見えないから気にしようにもわからない。シャワーも浴びずにいる。

allanaja
アーラとナージャ

                                      

アーラは母親のナージャと二人暮らしである。二人は一戸建ての家に住んでいる。彼女はソフォーズで働いている。庭先でジャガイモをつくり、裏庭で鶏を数羽飼っている。この卵が現金収入になるようだ。アーラもよく手伝う。夕
食に鶏肉と野菜を煮込んだ料理をご馳走になった。私たちのために飼っていた大事な鶏をつぶしてくれたのだった。庭先の人目につかないところにむしった羽が落ちていた。

                                                  

ナージャと散歩すると、人々が私たちを見て、「イポーニア(日本人)」と言っている。学校のそばを通ると、窓から子ども達がのぞき、飛び出してきた。ここでも片言では、残念ながら日本を説明することが出来なかった。

                                                     

アーラやエレーナが通った学校にも行った。校長先生が案内してくれ、わざわざ校庭に植えてあったチューリップを切ってくれた。みんな外からの客に気を使ってくれて、温かい。

                                                     

ホイニキのルスランの家にも行った。ここは5人家族。昨年、レストランで出た料理を、美味しいと言ったので覚えてくれていて、夕食につくってくれた。カルドニというハンバーグにジャガイモをまいて焼いたもの。

                                                   

夕食後散歩した。年寄り達は夕方のひととき野外で過ごす習慣なのか、どこの家の前にもお年寄りが座っている。そのひとり、ルスランのおばあちゃんにも出会った。そこでおばあちゃんの写真をポラロイドで撮って渡すと、はじめは真っ黒な紙を何だろうといった面もちで眺めていたが、そのうち自分の映像が現れると不思議そう。それを見て、近くにいた人たちが寄ってきて写真をのぞいた。おばあちゃんは「この人が撮ってくれたんだ」と私を指さしている。みんなが撮ってくれと言ったらフィルムがないので困る、とそっとその場を立ち去った。100mばかり行って振り返るとまだ人だかりはできていた。

                                                

ベリキボールに戻り、日本に来た他の子ども達の家族とオージェロ川へピクニックに行った。たき火をし、大鍋に鶏、ジャガイモ、タマネギ、人参etc.といった野菜をいれ煮込む。ソーセージ、ハム、ニシンの薫製、パン、ビーツの漬け物、洋なしやリンゴのコンポート、生野菜などいろんなものが並ぶ。
子ども達は河原でたのしそうに遊んでいる。オージェロ川も大きな川。「オージェロ モーリエ(オージェロ海)」だと言う。当然この海の水は塩辛くない。

picnik

                                             

子ども達が真鶴に来たとき毎日のように海で遊ばせた。そのとき、塩水に驚いたようだった。ここの人はあまり塩分をとらない。リンゴを剥いて塩水につけて出したら、子ども達は食べなかった。アンドレイさんが「なぜ塩水につけるのか」ときいたので、「酸化すると赤っぽくなるから」というと、見た目だけなら不必要だと言った。

                                                 

日の傾くまで野外をたのしみ、みんなで大きな声で歌を歌いながら帰った。楽しい、楽しい思い出となった。

                                                    

別れの日、地境まで送るのが慣わしだといって、みんな揃って送ってくれた。振り返ると、白樺林の間にみんなの姿が小さくなっていった。

                                                       

追記:
この文章を読み返して見ると、当時が思い起こされてなつかしい。
エレーナは去年の夏結婚した。そしてエレーナの両親は病気になってしまった。どこの親たちも子どもの健康ばかり心配していたが、親も被爆しているのである。体力がおとろえると、発病するのだろう。近くにいてもアーラ親子の様子は書いてない。ホイニキの ルスランは兵役についている。ルスランノ母親も数年前に発病している。デニスはモスクワ勤務の両親とともにモスクワにいあたが、戻ってきて以来連絡がない。アンドレイさんに聞いても住所は分からない。甲状腺の手術後はいいようだ。身近な例を見ても、チェルノブイリ原発事故はまだまだ終わってはいない。ここの子たちが結婚して、次の世代は?考えたくない。 もういちど、私たちが元気なうちにベラルーシに行こうとは思っているのだが。

                                                

ブッシュが独裁国家として、イラン、リビア、北朝鮮、ベラルーシをあげていてびっくりした。現大統領はロシアよりでかなり中央集権型の独裁者のようではある。私が行った95年は大統領選挙の年であった。そして96年には国旗と紋章を国民投票と言う形を取ったにせよ、変えてしまった。大統領の任期も替えてしまった。地下鉄でいっしょになった男性が英語で、「ベラルーシ国民は長いこと中央集権にならされてしまって、なかなか民主主義を理解しない」と嘆いていた。ベラルーシのアンドレイさんにきくと、私たちがベラルーシを訪れたときより、ずっと経済もよくなっている。外国にも学生たちですら出かけられるようになった、ブッシュの言うような国ではないと返事が来た。私もそう思う。3年間続けて行ったけど、当時ですら町を歩く人々の顔は暗くはなかった。ブッシュの勝手な思い込みで独裁国家にされ、攻撃の目標にされてはかなわない。

                                                     

ネロが市民の支持を得るために200日近い闘技大会を開催をした。市民の目を政治からそらそうとしたのだ。ブッシュもいいがかりをつけて戦争をすることが、国民の目をそらすことだ、国民の支持を得ることだと思っているようだ。

                                                              

本:
「不思議の国ベラルーシ」 服部倫卓著 岩波書店

                                               

チェルノブイリ1 キエフ

                                                 

チェルノブイリ原発の事故が起来たのは1986年4月26日。事故が起きた日、テレビで旧ソ連邦で大事故が起きたようだ、原発事故らしいと報じていた。そして時間が経つに従って原発事故であるともわかった。チェルノブイリ原発はウクライナにあり、ベラルーシは隣接した国である。しかしまだベラルーシという国名ではなく、白ロシアといったネイミングで報道していた。もちろん見ている私だって、そこらへんの地理に詳しいわけではなかったから、旧式の白ロシアの方が分かりやすかった。死の灰が広がってウクライナからベラルーシ、ロシアにまで達しているらしい。そういった情報を知るにつけ、被爆したであろう人びとの将来を慮った。とはいえ、直接、私自身と係わり合いができようとは思ってはいなかった。

                                              

1993年、 「チェルノブイリ子ども基金」がベラルーシの被爆した子どもたちを10人、日本に招いて空気のいいところで1ケ月滞在させ、免疫力を回復させようという計画をした。その話に乗って、4月2日、わが家で4人の子どもと通訳さんの計5人を預かった。それがベラルーシとの係わり合いの始まりだった。

                                               

翌1994年5月、「チェルノブイリ子ども基金」のメンバーといっしょに私はウィーンからウクライナの首都キエフに入った。チェルノブイリ原発はベラルーシ国境に近いウクライナにある。キエフにはプリピャチで被爆した人たちの団体がある。プリピャチ市は人口5万人のチェルノブイリ原発で働く原発労働者の町であったが、事故後住民は退去させられ、今は人住まぬ町になってしまっている。ベラルーシとはプリピャチ川で分かれている。プリピャチ川は途中で合流し、大河ドニエプル川となってキエフを流れ、黒海にそそぐ。

                                              

その大河、ドニエプル川はキエフの町を割って、ゆったりと流れていく。広い通りのところどころに公園があって、緑のスポットになっている。感じがいい。
キエフでは支援団体の事務所を訪ね、彼女たちの案内で、クリニク1と子ども病院を訪ねた。代表者の女性も旧プリピャチ住民で被爆者である。クリニク1の方は個室で、重症の子ども達がベッドに横たわり点滴を受けていた。私の仲間達がいっしょに作ってくれた段ボールにいっぱいのミルクキャラメルとディズニーのハンカチをわけて配った。未来のある子供たちが、原発事故の放射能をあびて、十分な医療も受けられず死んでいく姿、この子達にカメラを向けるのが、どんなに心が痛んだことか。

                                                  

アメリカ帰りだという医師は英語で、「アメリカからもヨーロッパからも視察はたくさん来た。しかし何にもしてくれなかった」と声をあらげて惨状を訴えた。この薬がほしいと言われても、薬のことはわからないので、必要なものを書いてもらい日本へ持ち帰った。さっそく、子ども基金がその薬を送った。

                                                

子ども病院はきれいな病院だ。日本の小児病院を知らないが、各部屋のドアの上に飾り皿が飾られ、あちこちに観葉植物の緑がやさしく、レースのカーテンもフリルつきで、実によく気配りされている。まるで幼稚園か学校のようだ。日本の学校はももう少しこんなゆとりがほしいと思った。
それにしても入院している子どもたちは多い。入院できない子どもたちはもっといるだろう。ウクライナの将来を考えずにはいられない。
わざわざ日本から持って行った車椅子を届けに、男の子のアパートへ行った。母親が私たちのために、コンデンスミルクをキャラメルにしたクリームを入れたお菓子を作って待っていてくれた。

                                                

ついでリエシャのアパートを訪れた。リエシャの父親は被爆がもとで亡くなっていた。兄は兵役で、今は母親とふたり暮らし

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ネコ物語2

2005-05-08 13:35:22 | 動物記
pura
子猫時代のプラコッテ

去年の夏、女子大生が捨て猫を拾ってきて、飼ってくれと言った。我が家には6匹のネコがいる。しかも同族だ。だから飼えないと断った。前の教室の卒業生である。前の部屋で主の和美さんと相談して、小学生も一緒になって「教室で飼わせてほしい、面倒は自分たちがみるから」と再度頼みに来た。子どもたちが動物とかかわるのはいいことだ。こんな時代、情操教育の役に立つだろう。そこで、責任を持って面倒を見るなら教室ネコとして飼ってもいい、と許可したのだった。子猫は生後1ケ月ほどのメスで、尻尾は短いし、目やにで両目がくしゃくしゃ、鼻は垂れている、死んでしまうのではないかと思うくらいみっともないネコだった。それがこのネコ、プラコッテである。

朝は私たちが面倒を見るとしても、毎日時間さえあれば、子どもたちが来て面倒を見ていた。当然オシッコやウンチのかたづけも子どもたちがしていた。プラコッテ日誌がおかれ、お当番なのか、来た人が様子を書き込んでいた。その日誌は今もおいてはある。くしゃくしゃの目は、猫用の目薬があったので、それで毎回拭いていたらきれいになった。しかし、目やにのせいだろうか、右目は白く濁り、視力もほとんどないようだ。医者に連れて行ったが、手術はむずかしいとのことだった。でも、プラコッテは子どもたちのみんなの愛情をいっぱい受けて育った。むろん、子どもたちもプラコッテから学んだことは多かったようだ。

片目のせいかバランスがわるい。高いところは好きでのぼるが、おりられない。屋根に上っておりられなくなって、大泣きし、何回おろしたことか。とうとう何回下りられなくなったか、プラコッテのバカ振りがグラフになっていた。我が家のネコは一度は経験する上の家のガスボンベ置き場にも何回も落ち、そのつどはしごをもって助けに行った。経験が学習にならないネコだ。

避妊手術のためのカンパ箱は子どもたちがつくった。そうこうするうちにプラコッテにボーイフレンドができ、妊娠してしまった。ネコの子育ては子どもたちにいい影響を与える、とpapasanの弁で、母ちゃんになることになった。そして今年の3月3日、おひなさまの日、小学生たちが見守る中、4匹の子猫がうまれたのである。子猫はみんな黒トラのようで、見分けがつかない。しかも全匹オスである。名前は子どもたちがつけた。「今の子どもたちは社会常識が欠けているというから、世界の国名をつけるといいよ」とはサジェションしておいた。3文字の国の中から選ばれたのは、チェコ、チャド、リビア、トンガだった。子どもたちは見分けていたが、私には区別がつかなかった。

1ケ月経って、子猫たちの運動も活発になってきた。貰い手もない。そこで我が家のネコとして飼うには我が家のネコ族のルールを覚えなければならないからと、こっちの家に子猫をつれてきた。ミルクタンクの母ちゃんもついてきたのはいうまでもない。我が家のネコ族はここで形勢逆転、プラコッテ一族に遠慮して小さくなってしまった。はじめは大ネコを見ると、いっぱしに仔猫たちがフーフー、すると母ちゃんがいきなり大ネコの横っ面を張り飛ばした。大ネコたちは度肝を抜かれたようだ。机の上は仔猫たちに明け渡された。しかしよくしたもので、今では横になって、尻尾で仔猫たちを遊ばせている。
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ノートパソコンの上で寝る子猫たち

さて、子猫を区別するためにフェルトのリボンを結んだ。赤がトンガ、黄色がチャド、ピンクがリビア、青がチェコである。
2ケ月を過ぎた仔猫たちの成長はめざましい。コネコのためのBGMがいつもかかっている。ショパン、モーツァルト、シューベルトだ。夕方、子どもたちが仔猫を迎えに来る。それを「ご出勤」と呼んでいる。仔猫がご出勤の間に掃除機をかける。

仔猫たちといっしょに遊びながらプラコッテも成長しているようである。下りられなかった屋根も、仔猫たちがさっさと上ったり下りたりするので覚えたようである。とはいえ、片目であることが影響している。
仔猫が母親から貰った免疫力は3ケ月ぐらいでなくなってしまう。だから、このころに病気が多い。青いリボンのチェコがゼーゼーいいだした。死んだら子どもたちが嘆くだろう。そこで医者につれていくと肺炎なのだという。インターフェロンと栄養剤のサプリをくれた。このサプリは高カロリーなのだそうだ。獣医学分野も進歩著しいようだ。愛犬愛猫家が多いものね、ここを見落とすわけはない。

5月9日チェコが死んだ。わずか2ケ月の短いいのちだった。
checo
青いリボンのチェコ

夕方チェコの死を知った小学生たちが墓に花をかざり、手を合わせる姿が見えた。かわいい姿だった。

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ばら

2005-05-08 01:25:58 | アート・文化
red


私はバラが好きだ。姿も香りも好きだ。特に大輪のバラが好きだ。以前庭で40種類60本のバラを育てていた。ほとんどが大輪のハイブリット株だった。農薬を使わないので早起きしては害虫を捕まえていた。虫は平気である。アリマキは素手でしごくと、指が緑色に染まった。蕾が膨らんで、明日あたり開くだろうと期待していると、茎を虫にやられて蕾が色あせて下を向いているのにがっかりしたことは何度もある。そのかわり花開いたときの凛とした美しさは最高であった。そのバラも今は1本も残っていない。最近ではバラの季節にバラ園に出かけては美しく咲いている姿をたのしんでいる。とはいえ、バラ園のバラが最高の時に出会えるとはかぎらない。自分で育てていれば、最高の時に接しられるものを、とちょっと残念ではある。

ばらの花びらで砂糖漬けをつくったことがある。花びらをむしって、ばらばらにし、砂糖でにつめ、砂糖をふった砂糖菓子だ。ケーキのかざりに使うためだ。しかし大事に育てた花びらをむしるのは、しのびなかった。盛りが過ぎた花びらはぱさぱさしていて出来上がりはいまいちだった。香りは残ったが、色は煮詰めると失われ、全部濃い色になってしまった。そんなことで作るのはやめてしまった。

フォトアルバムにバラの写真を入れた。種類はまだまだあるが入れきれない。ご覧ください。このバラはすべて園芸バラと呼ばれるもので自然界にある種には入らない。

現在自然界のバラ属には100~200の種があると考えられている。バラ属とは学名をRosaというバラの仲間、日本のノイバラもハマナスもこの仲間である。バラ属には普通の植物ではめったに起こらない異種との間の交配が行われ、発芽する種も出来る。要するに雑種が生まれ易いのである。雑種になるということは、元の親の姿がわからなくなるおそれもある。また分類もしにくくなる。植物学者たちにはやっかいなことである。しかしそれゆえに私たちを魅了するこのバラたちが生まれたのだ。いや、まだ園芸家たちのたゆまざる努力によって、新しい園芸バラが生まれ続けている。

日本語の「ばら」と言う言葉は、「万葉集」にある「ウマラ(宇万良)がイバラ(荊)に転じ、それがさらに変化して出来た言葉だそうだ。もっともこのウマラやイバラはとげのある植物をさしていた。
バラが日常生活とかかわりを持つのは古代ギリシャ、さらにブームとなるのはローマ時代。ローマの初代皇帝アウグストゥスの時からバラは日常生活を潤すものとなっていった。あの暴君ネロはバラの愛好家で、晩餐や酒宴のとき、天井から来客の上にバラの雨を土砂降りのように降らせるのが好きだった。食卓ばかりか、回廊や歩道もバラで埋めたそうだ。そのバラはもちろんバラ園で栽培したものであった。とはいえ、まだ園芸バラではない。

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さて、バラが園芸化して私たちがなじんでいるバラたちが生まれるのだが、100種以上ある野生のバラから園芸品種に貢献したのは8種、しかもすべてアジアのバラであった。その中には日本のノイバラ、ハマナス、テリハイバラも含まれる。その他には中国のコウシンバラとローザ・オドラータ、小アジアのローザ・フェティダ、ローザ・モスカータ、ダマスクバラである。
バラといえば、ヨーロッパを連想してしまうが、19世紀でさえ、ヨーロッパで栽培されていたバラは4種にすぎなかった。


「つづく


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