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ウズベキスタン①

2005-05-11 21:24:45 | 旅行記 アジア

tail1
タイル

プロローグ

ウズベキスタンの旗は緑、白、空色、そして白のふちに赤い線が入っている。空色の部分に月と12の星がついている。
緑はウズベキスタンの自然、白はウズベキスタン人の心、空色はウズベキスタンの青い空だ。赤い縁取りはウズベキスタン人の血を、月はカラカルパック自治共和国、12の星は12の州を表しているのだそうだ。紋章に描かれている鳥の絵は仮空上の鳥、フモ、ハッピーバードだ。ウズベキスタンには120もの民族が混在している。

ウズベク語で、ウズとは自己、ベクは見る、すなわち「自分を見つめる」の意味だそうだ。ほほう、ソクラテスの「汝自身を知れ」だ。広大な国土、多くは荒野だ。西は山はあっても低い。タシケントの方には4000mを越す山もあるが、大体において平野だ。耕作地は広く、かってはソホーズやコルホーズであったろうが、いまは共同農場はあるにしても個人が人を雇ったりしても、耕作しているところが多いそうだ。農地は国有地である。土地は国有地、だから土地の売買などはない。土地は国から借りるのである。

貧富の差は大きいようだが、公務員の平均月収は約50ドル、しかし副業をして、だいたいが倍ぐらいの収入を得ているようだ。50ドルというと貧しいようにきこえるが、物価は安いし、家賃も安い、しかも勉強する意思さえあれば、教育は無料、社会的資本はまだまだのところはあるが、暮らしにくくはなさそうだ。

埋蔵資源は100種を越え、実際に60種以上が使われている。金の埋蔵量は世界4位、銅は10位、ウランは7位である。天然ガスと石油の埋蔵量は豊富で、中央アジア全域からロシアヘパイプラインで供給している。砂漠を行くと、砂漠の中に不自然な草の垣根の道が出来ている。これはパイプラインの存在を示している。綿花の生産も世界4位だという。子どもは大勢いるし、これからの国だという感じがする。

ウズベキ語は覚えて行かなかったが、ロシア語でことたりたのはラッキーだった。帝政ロシア、ソ連と続くロシアの影響が強かったので、ロシア語はいきわたっている。一部ローマ字表記も見られるが、まだキリル文字がふんだんに使われている。私のロシア語はまったくの片言だが、耳で覚えた言葉は(だから文字で書けない。アルファベットはたどたどしく読める)けっこう通じるみたいだ。12日間で少しだが復活する。しかしまたすぐ元に戻って忘れてしまうだろう。

旅をしていて、一番楽だったのは治安がよかったことだ。人々はなつっこく、親切だった。もちろん、スリや泥棒がいないわけではないだろうが、いやな目にはあわなかった。観光地は物乞いがついてきたが。どこの国でも、連泊しても、出かけるときは荷物を整理し、バッグに鍵をかけていくのだが、今回の旅でホテルの荷物に鍵をかけたのは着いた時だけだった。
パソコンはテーブルに出しっぱなしで置いたまま。ヌクスへ飛んでからは鍵は財布にしまわれたまま、帰りの荷造りでやっと思い出してもらえたような存在だった。

パスポートは腹巻に入れて移動するのだが、これも不必要で腹巻はザックにいれられたまま。パスポートはウェストポーチにいれっぱなし。バザールにはいつも警官が巡回しているし、交通の取り締まりもきびしい。
私たちの車もスピード違反の取り締まりをやっているところに差しかかると、車が警告を発しておかしかった。検問にはずいぶん遭った。そのたびにオバサンはポリスマンに手を振ったり、敬礼したり。すると、かならず答えてくれた。人はいいのだろう。

特記すべきは肉、野菜、果物をはじめ食べ物、料理の美味しかったこと。ワインも美味しかった。これは旅行者にはなによりのことだ。こんな荒野の遊牧なのに、ヒツジは臭くは無く、肉に味がある。もちろん牛肉も美味しい。肉のヨーロッパやオーストラリアと比べたら、数段の美味しさだ。どうしてだろう。肉としては鶏肉が高い。もうひとつ、ここはお茶の文化圏である。日ごろ水を飲む習慣がない、ましてやジュースや清涼飲料を飲まない私には、このお茶はなによりもありがたかった。

どこでも私のカメラを見ると、大人も子供も写真を撮ってくれという。気安く応じてシャッターを切ると、「ありがとう」と喜んでいる。別に写真を送ってくれというわけではない。自分が写真に撮られたことがうれしいみたいだ。こちらとしてはなんとも幸運。フィルムは50本以上持って行ったが、今日現像に出すと、使ったのは35本。どんなふうに撮れているか出来上がってくるのが楽しみである。

バザールで写真を撮ってあげたら、花屋のお兄ちゃんがすばらしい真紅のバラを1本くれた。でも持って歩くわけに行かないから、「ニナーダ スパシーバ(ありがとう、でも要らない)」と断ったが、どうしても受け取ってくれという。ドライバーさんにあげることにして受け取ると、それを見た他の花屋のおばさんたちも「マダム、マダム」とそれぞれにバラをくれた。真紅とローズの香りのいいバラの花束ができた。

いつもしていることでしなかったのは絵葉書を出すこと!
絵葉書をそのまま送れない。絵葉書を封筒に入れて送るのだ。興がそがれて、止めてしまった。送ったのはヌクスからだけ。はて、無事に着くだろうか。

さて、旅日記をはじめよう。

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サマルカンドで

旅の始まり

2003年5月14日(水)
12時12分発アクティで小田原へ。小田原駅が新しくなって初めて下りた。荷物を持って新幹線までいくのもラクになった。
荷物はふたつ。衣類と洗面用具(多く持ったのはウェットティッシュ)とフィルムが半分は占めているザックとカメラバッグだけである。カメラバッグにはレンズをつけた2台のカメラ、ストロボ、PCが入っている。ザックの重量は10kg。カメラgバッグは7kg。

他の人の荷物は重い。1人は布のスーツケースが20kgあるという。「なんでこんなに持ってくるの?重量制限にひっかかるよ。」というと、「きっとmamasanが少ないから、大丈夫」とすましている。

12時51分「こだま」、静岡で「ひかり」に乗り換え新大阪、「はるか」で関空へ。今回のメンバーはブータンへ一緒に行ったNさん、Hさん、Eさん、私の4人。60代3人、50代1人のオバサン・パーティである。関空はがらがら。時間が遅いせいだろうか、それともSARSのせいだろうか。

関空19時発ソウル行き。アシアナ航空。おや、機内のモニターは日本海が「JAPAN SEA 」ではなく「EAST SEA」になっている。韓国がそう主張しているのは知っていたが、へぇ~。機内放送は英語、韓国語、日本語。韓国語は復習してこなかったなぁ。機内食は海苔巻きのすし。不味い。キムチが出ると思ったのに、とがっかりしている。

ソウル・インチョン空港。ひとけはほとんどない。電気も暗い。transfer deskに行くと、スタッフがこれは明日の便だとわけのわからないことを言う。ようやくもうひとつのtransfer desk T4だとわかり、えんえん歩いていく。係りの女性が待っていてくれた。トランスファーは私たち4人だけ。もしかしたら乗客予定が4人だけだったので、直行便の関空乗り入れが中止になったのかも。係りの女性が案内してくれ、32番ゲートまで行く。途中インターネットがあったが、わき目もせず後についていく。

22時近く、機内乗入れをはじめた。クルーたちは全員手術用の大きな白いマスクをしている。それを見て、思わず笑ってしまった。しかし、乗務員たちは無愛想。旧ソ連のお役人って感じ。関空でも、インチョン空港でも、こんなマスクはしていなかった。

ほぼ一杯になったが、空席もたくさんある。通路をはさんで右3席、左3席の小さな飛行機。体格がいいひとたちの国だからか、前の席との間に余裕がある。これはラクだ。

ところがちっとも飛ばない。予定は23:30分と書いてあるから、それまで機内で待てということか。「離陸許可が下りないから、出発できない」とアナウンスが入る。アナウンスはロシア語、英語、韓国語。直行便だったら日本語が加わったかも。

12時過ぎ、食事が出た。「食べられないよ」と言いながらも結構食べてしまった。白いご飯にハヤシライスのような煮込みがかかっている。ピリッとして美味しい。これはこれからの食事に期待ができそうだ。しかし、マスク姿でのサービスは気持ち良いものではない。じゃぁ、こちらも負けじとマスクを掛けるとするか。ポケットから用意のマスクを出してかけた。

毛布とクッションが別々に出され、それを借りてから3席を独占して横になって寝てしまう。

5月15日(木)

ウズベキスタンの首都、タシケントにつく。午前2時だ。眠い、眠い。タラップを下り、バスに乗り、空港事務所につく。
ガラス戸を1枚だけ開けた入り口の向こうに机が置かれ、ひとりずつ中に入れ、パスポートを見て名前を手書きで大きな紙に書き込んでいる。それがすんでからやっと入国審査。私の並んだところは特に時間がかかっている。どうやらそれも通過。荷物が出てくるまでも時間がかかる。ようやく受け取って、また手荷物のX線検査を受け外へ。

風の旅行社の黄色い旗を持った、ぽちゃっとした若くて可愛い女性が待っていてくれた。ガイドのスウェタさんだ。
「ドーブラ ウートラ」(おはよう)と声をかけると、近くにいたお兄さんが「ドーブラ ウートラではない」と言う。
「じゃぁ、ズドラーストヴィッチエ?」と言うとうなづいている。そこで改めて、大きな声で「ズドラーストヴィッチエ」

空港から10分ばかりで、ポイヤット・ホテルに到着。ポイヤットとは「首都」という意味だそうだ。このホテルは去年出来たばかり。パスポートを渡し、宿泊名簿を書き、鍵を貰う。私とHさんが同室。3階、323号が私たちの部屋。きれいな部屋だ。まず変圧器のプラグを入れ、PCのコードにつなぐ。うん、出来た、出来た。片付けは後回しにして、きれいなので風呂に入る。洗濯をして干し、ベッドに入ると、空が白々と明るんできた。

目を覚ますと外は明るい。まだこの国の時間に時計を合わせてないので、何時だかわからない。もう一度寝る。もう一度目を覚ますと、外はさらに明るい。Hさんも目を覚まして、テレビをつけて、時刻を探す。私はフロントに聞こうと思って、受話器を上げるが、どこともつながらない。

チャンネルをくるくる回して、やっと見つけた。7時だ。そこで時計を現地時間に合わす。今日の観光にどの程度の服装で出かけたらいいか。外は暖かそうだ。綿シャツ1枚にする。窓から見下ろすと中庭は緑の芝生と花壇がある。

来たとき上がってきたエレベーターまで行くのは面倒と近くのエレベーターで1階に下りたはいいが、レストランの位置がわからなくなった。幸い人が来たので聞くと、中庭を通って、外から入る入り口を教えてくれた。

Nさんたちがフロントで待っているはずなので探しに行く。朝食はビュッフェスタイル。種類は豊富。私はクレープとサラミとチーズ、野菜を少しと、ミルク、紅茶。デザートに果物のコンポートを少し取った。ものめずらしいので、他の人がいろんなものをとってくる。それをつまんで味見している。美味しい、美味しい。これはいける、と朝からちょっと食べ過ぎの感じだ。

11時に迎えが来るので、腹ごなしにHさんと散歩に出た。通りは広く、古い形の車が行き来している。市電が走っている。ベラルーシやウクライナに感じが似ている。すぐ傍に大きな木々が茂る公園がある。真ん中には騎馬に乗ったチムールの像。そのまわりにはいろとりどりのバラが花をつけている。「はじめましてチムールさん」とまずは挨拶。
見上げる空は青くて高い。プラタナスの緑がまぶしい。花の盛りを過ぎたマロニエからは綿毛が散っている。
アムゼル(ブラックバード)の歌がうつくしく響く。カササギもいる。ムクドリもハトもいる。上空にはアマツバメが飛んでいる。もちろんツバメも。都心にこういう緑のスポットがあるのはいい。キエフにもこういうスポットがたくさんあった。

ホテルのならびに日本料理と韓国料理の店がある。つばさの広い帽子を被った軍人の姿もある。

ホテルに戻って両替をした。50ドル替えたら50,000スム、(1ドル=1000スム)、5cm位厚さの札束ができた。500スム紙幣と200スム紙幣だけ。200スムは帯びつき、たぶん100枚の束なのだろう。どれもピン札。財布に入らないので、ファスナーつきのポリ袋に入れて持つ。おかげで財布はどかされた。空港の両替所ではポンド、ドル、円、ユーロの立て看板が出ていたが、ホテルでは円の両替はだめだという。500スム紙幣にはさっきのチムールの騎馬像が刷ってある。そこでチムールの騎馬像は呼び名を「500スムのおじさん」にする。

11時、車に乗って、先ずはチェルシ バザールへいく。
ガイドのスウェタは韓国系ウズベキスタン人。大学で日本語を専攻し、大学院生のとき日本へ研修に来ている。今は大学で日本語を教えているウチチューニッツア(女教師)だ。副業でこの旅行社の日本語ガイドをしているとか。漢字も読める。大学は国費なので無料だが、そのかわり難しい試験に合格しなければならないので勉強はよくしたそうだ。

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バザールで

バザールは,大きなドームが5つあり、さらに外でも店が軒をならべている。ここには民族衣装があふれている。派手な柄のワンピース姿が多い。顔立ちもずいぶん違う。初めは見慣れない姿にどうしても目が行ってしまう。いずれはそういう中に浸るのに。

香辛料、米、ドライフルーツ、チーズ、ハムやソーセージ、パン、はちみつ、サラダの類はそこで調理している。なんでもかんでも売っている、といった表現がいいくらい、同じ店がごまんと並んでいる。外のバザールは野菜や果物。イチゴと杏と桑の実(青白い)とナシをフルーツ好きのHさんが買った。桑の実の色は日本では見慣れない色だが、実は甘い。ナッツやドライフルーツの店で、私はピスタッチオを買った。
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サクランボとイチゴ

急に雨が降り始めた。しかも大粒の雨だ。バザールを駈けるようにして通り抜け、急いで車に戻る。車の前にはメドレッセがある。このドレッセはいまも神学校として使われている。雨なので、車内で説明を聞く。メドレッセというのはイスラムの神学校で、イスラムを普及するために各地にたくさんつくられた。形式はどこも似たり寄ったり。二階は教室。一階は寮。しかし、ソ連のイスラム弾圧で、ほとんどのメドレッセが廃止され、いまは形骸をとどめているに過ぎない。

そのまま昼食に行く。雷が鳴り、風が屋根にうちつけ、雨が屋根を叩く。嵐みたいだ。赤ワインを取ると、名前はモナリザ。ドライといったのだが、甘いワインだ。何種類かのサラダ。どれも野菜を細かく切って、ドレッシングであえてある。大抵細かく刻んだ香菜が入っている。ドレッシングも種類が豊富。スープはヒツジの肉と野菜を煮たもの。でもスープがすこぶる美味しい。臭みもない。メインは牛肉の串焼きだ。

私たちのために注文は半量にしてもらってあるという。これも美味しい。外で焼き鳥のように焼いている。デザートは果物のもりあわせ。お茶はポットで出る。茶碗になみなみと注がないで、6分目に注ぐのが礼儀。真ん中に泡ができたら、すかさず、泡を指でさわって頭につけるとお金持ちになるのだそうだ。みんなよろこんでやっている。

食事をしている間に、雨は上がり、強い日差しが照りつけている。国会議事堂のすぐ傍にあるメドレッセを訪ねる。いま、ここは木工訓練所になっていて、直売もしている。そこでクルミの木でつくった本台(コーランをおく)をpapasanのために買う。

いったんホテルに帰り、4時、スムしか使えないツム デパートへ行く。買い物好きの3人はやたらと買っている。その後すぐ近くにあるナボイ劇場でオペラを見る予定だ。劇場の名のナボイというのは15世紀の詩人で、この劇場建設にはタシケントに抑留されていた日本兵捕虜が携わったそうだ。加藤登紀子のコンサートが18日にあると書いてあるので、それを入れてコンサートホールの写真を撮っていると、中学生ぐらいの男の子たちがやってきて写真を撮ってくれという。カメラを向けるとうれしそうにポーズをとっている。アドレスを書けば送ってやるよ、というと、さぁ大変。嵐のようなさわぎになった。結局、引率の先生もふくめて総勢17名。噴水をバックに撮ってくれと言ったが、逆光なので、劇場をバックに記念写真を撮り、学校宛に送ることを約束する。子どもたちは本当にうれしそうだ。「ありがとう」を繰り返している。
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子どもたちに「日本を知っているか」と聞いてみた。一様に「知っている」と答える。
「では、何を知っているか」聞くと
「日本は工業がすすんだ国だ」という答が返って来た。
子どもたちは手をふりながら別れて行った。学校は5月25日から9月2日まで夏休みに入る。9月1日が独立記念日なので2日から始まる。大学は6月まで授業はあるそうだ。

噴水横のテラスでアイスクリームを食べ、そろそろ会場時間だと行くと、入り口に立て看板。読んでもらうと、主演の歌手が病気のため、今日は休演、チケットは他の日に使えます、と書いてあるという。「しかたがないさ。でも会場はみたかったなぁ」というと、スウェタが「では会場だけでもみせてもらいましょう」と交渉に行く。「日本からわざわざ見に来たのです。チケットも用意してある。」と云った様な事を言っているらしい。だが、それからが大変だった。入ってもいいという係、ダメだという係。結局、外にいた所長にねじ込んで許可を貰い、舞台裏から、日ごろ公開されていない部屋までみんな見せてもらった。ちゃんと案内がついて説明してくれた。
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ロビーの内装が実に美しい。説明によると、それぞれのロビーの内装は、タシケント、サマルカンド、ブハラ、テルミズ、フェルガナの6都市を表しているのだという。彫刻はホラズム様式とか。ストロボをつけて、劇場の天井から、ロビー、胸像、かたっぱしから撮っている。本来はカメラ撮影は禁止なのだそうだが、今日は特別にOK。いやはやスウェタの一歩も引き下がらない、粘っこい交渉ぶりには感心した。25歳だというが、実にしっかりしている。日本人は諦めが早すぎるかも。でも後で、スウェタも「ウズベキスタン人だったら、交渉は無理だったかも」ともらしていた。さもあらん。

いったんホテルに帰り7時に集合して夕食に行くという、30分しかないが、ホテル内のビジネスセンターにPCがあるとエレヴェーターのところに表示が出ていたので行ってみる。バーの奥にそれはあった。「インターネットをしたい」というと、係りの女性が「このPCを使いなさい」と選んでくれた。ところがロシア語なので、@がどこにあるのかわからない。勘でおしているのだが、@を見つけられないので家にメールが送れない。そこでYAHOOを呼び出してもらったが、JAPANではない。たしか下の方に国別があったはずと探すと果たしてJAPANがあった。どうやら書き込めそう。初めての経験である。書き出すとアポストロフィの場所もわからない。すこし書いたら7時になってしまった。料金は1000スム。

車でレストランへ。赤ワインはモナリザしかないので、またこれを取る。ワインは私の担当、モナリザは5ドル。サラダと、ペリメニのスープ、これだけで十分。

部屋に帰り、もう一度インタ^ネットに行きたかったが疲れて、そのままダウン。

目が覚めたら4時だった。ほんとよく寝た。

5月16日(金)

5時に起きて、昨日の日記を打ち込んでいる。天気はいい。今日の予定は8時半出発。

7時に食事に行く。8時半、車に乗って飛行場へ。国内空港は車を降りて中までちょっと荷物をひきずって歩く。受付をし、荷物を預け、入るときトイレがあったのを見たので、入り口で断って外のトイレに行く。有料。100スム。トイレットペーパーを切ってくれた。中はきれい。

日本人はトイレに関して脅迫観念があるという。小さいときから躾けられているので、早め早めに排尿する癖がついているからだ。実際には膀胱は余裕があるのだが、8分目で脳がトイレ信号を出してしまうのだそうだ。

10時フライト。席は空いている。それぞれ窓側をとって座ったので私の隣の座席には人はいない。飛行機から見る下界は緑にあふれている。たぶん、麦だろう。山には赤やピンクの絨毯が見える、チューリップの群生だろうか。あとになってこれがケシの群落であることがわかった。何も植えてない畠は綿花畑かもしれない。さらに緑の平原が続き、アムダリア(ダリア=川)の流れが美しく、ペルシアンブルーに輝いている。そこを過ぎると、地上はがらりとかわって砂漠だ。ざらざらとした不毛の大地には、それでも植物が見える。雲がぽつんぽつんと影をおとして、砂漠におもしろい模様を描いている。やがて、草の姿も見えないまったくの土色の砂漠、その中をまっすぐに直線道路が地平線まで走っている。そして周辺には噴出した塩の白い大地。
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飛行機から見る塩の大地は積雪の跡のように白い。

12時半過ぎ、やっとカラカルパクスタンの首都、ヌクスに到着。ヌクス(9人の美女の意)とはロシア語。カラカルパク語ではノキス。飛行機を降りて歩くとそのまま外に出られる。ただし私たち外国人は、もういちどロビーに行き、パスポートのチェックを受ける。

タシケントに到着したとき迎えに来てくれた運転手のラーヒムさんが迎えに来てくれた。なんと彼は一日前にタシケントを出発して、ヌクスまで1400キロを走って迎えてくれたのだった。ひぇ~。申し訳ない!ただし、今日の運転はヌクスの地理に詳しい彼の友人がする。よかった。

車に乗り、ホテルに向かう。ヌクスはカラカルパック自治共和国の首都だが、田舎町といった印象だ。ほとんどの住宅が平屋。道行く女性たちはロングスカートをはいている。カラカルパクの民族衣装だという。なかなか感じがいい。みなきれいなスカーフで髪を包んでいる。遠くから見ると帽子を被っているようだ。男性はダークスーツ姿が多い。こんなに暑いのに、よく平気で着ていられる。
「ねぇ、ちょっと。あのオジサン、三つ揃いだよ」
「ヌクスは夏53℃にもなるのです。だからこの程度は暑くないのでしょう」とスウェタ。

ホテル・デルベントに着く。建物は明るい黄土とこげ茶のツートンカラー。三日月型の変わった2階建。なかは大理石の階段などでできているのだが、部屋は狭いし水の出も悪い。2階18号室。口をゆすぐと鉄分の味がする。ラーヒムさんがミネラルウォーターを各自1本ずつくれたので、うがいや歯磨きはミネラルウォーターですることにする。部屋には大きな冷蔵庫がでんとある。冷蔵庫に水や果物を入れた。シャワーしかないが、湯の出はわるそう。でも使ってみると、シャワーの方が湯の出はよかった。洗濯はシャワーでする。日光がさんさんと射し込むので、窓を開け放す。洗濯物の乾きは早い。

ウズベキスタンにいる間、水洗でも、トイレの紙はくずかごに捨てた。これは他の国でもしているのでなれてはいる。トイレットペーパーはこれが紙かというくらい固い。ひっぱると、ばさっと切れる。これを流したら、まず詰まってしまうだろう。

カメラだけ持って外に出る。まずはレストランで昼食。入り口でオーナーのおじさんが、右手を胸にあて「アッサラーム・アライクム」と挨拶。私も真似して手を胸に当て「アライクム・アッサラーム」
レストランは個室でカーテンがかかるようになっている。家族連れや、若い女性達がやってきている。目があうとにこっとする。

サラダが5種類。スープは鶏(七面鳥だと言った)とジャガイモ。メインはマンティ。大きな皮に牛肉のミンチを挟んで蒸したもの。大きな蒸し餃子みたい。それにサワークリームをかけて食べる。これがまた美味しい。ワインはモナリザしかない。甘いワインが好きなんだろうか。それにいつもたっぷりのチャイ。ウーロン茶系統だ。この国に来て何が良かったというと、食べ物がおいしいことだ!

新しくできたヌクス博物館へ行く。立派な建物。まわりは公園になっている。イリーナさんという学芸員が説明についてくれた。彼女はロシア人だという。博物館で写真を1枚撮ると150スムかかる。でも撮りたいものがあるかどうかわからないので、後で撮った枚数を払う約束をする。結局、1枚も撮らなかった。

3階から見はじめる。3階はこのMUSEUMをつくったロシア人画家の作品が多く集められている。その他もほとんどロシア人の絵だ。「ロシアでは有名な画家です」という説明があったが、あんまりいただけない。カラカルパクの美術は遅れていたので、ロシア人の指導を受けて発展してきたのだと学芸員が説明する。美術についてはロシアは大したことはない。有名な人たちはみんなパリで活躍していたし、そういうロシア人の指導ではう~んいまいちだなぁ、なんて悪口を言っている。しかし、説明によると、スターリンの規制が厳しかったというから、気の毒に思うように絵も描けなかったのだろう。べリアになって少しは緩和されたというが、そのベリアもたしか粛清されている。今後に期待しよう。

2階は工芸品。木彫にはおもしろいものがある。やっぱり伝統なのだろう。木の根っこを利用して人の顔や姿を彫ってあるものがたくさんある。カラカルパクの伝統的な織物、刺繍、結婚式の衣装などが飾ってある。ここはたのしい。丹念に刺繍された結婚衣装は自分で作るのが慣わし。以前は、13歳くらいで結婚したから、その準備のため6歳ぐらいから刺繍などの練習を始めたそうだ。その他にも銀や宝石を使った装飾品をたくさんつける。さらに頭からは上着のように袖の着いたものを被る。黄色や白は老人の着る色。若い人は赤を着る。

カラカルパクの遺跡群の調査はまだまだ。しかし発掘されたものが飾ってある。カラというのは城。城壁は二重構造になっている。その外に堀をつくったので、城は水に浮いているように見えたとも言う。しかし材質は日干し煉瓦である。明日はその現場を見に行くことになっている。アスワリという死者のための納棺も陳列してある。当時はゾロアスター教が信仰されていたので、死体は放置して腐るにまかせ、骨だけをこのアスワリに入れて埋葬したのだそうだ。アスワリにはいろんな形がある。大きいな靴型の棺が発掘されて、そこには女の子の骨が入れられていた。いっしょにいろんな副葬品もみつかった。
染料について質問したが、まだはっきりとはわからないということだった。

ゾロアスターの遺跡は円形で、天文学観察所もかねていたようだ。考古学会なども開かれているそうだが、まだまだ過去のことはよく解明されていないという。興味をそそられることだ。

2階に来場者の記念簿が置いてあり、私たちにも書いていってくれという。前のページを見ると加藤登紀子の署名が1ページ使ってある。フェルトペンで書き込んであるので裏にひびいている。たしか明日か明後日、タシケントでコンサートがあるはずだ。その前にここに来たのだろう。新しいページに書いていいかと聞くと、加藤登紀子の裏に書いてくれというので、しかたなく白い部分を探して、4人分の署名をする。

受付で民族衣装の絵葉書を数枚買った。郵便はここから日本へは1ケ月位かかるそうだが送ってみたい。ホテルにかえって葉書を書いた。明日投函しよう。

MUSEUMから外を見ると結婚式だ。花嫁は白のウェディングドレス。花婿は黒のタキシード。伝統的なものではない。ここも西洋スタイルになってしまっているようだ。私は飛び出していく。間に合った。写真を撮らせてもらう。

隣は遊園地。観覧車に4人は乗るが私は下で待っている。日差しは暑い。
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公園で

ホテルに戻りもう一度洗濯をする。7時、まだ日は高い。夕食に行く。アルメリア料理の店だ。ニンジンのサラダ、牛のスープ、ジャガイモ入り。大きな肉団子をピリカラのトマト風味のソースで煮込んである。ナンも美味しい。

帰りがけ挨拶に出てきた女主人の写真を撮った、クラッシーワと言いながら。撮り終わるとスウェタが聞いた。
「どうしてあの人の写真を撮ったのですか」
「うん?ドレスがきれいだったからだよ」
「どうりで。Mamasanのカメラの位置が下のほうにあるなと思っていたのですよ」
「そうだよ。ドレスの模様が全部入るように腰をかがめて撮ったんだよ」
「あーあ、クラッシーワはドレスだったのですか。あの人は自分がきれいだといわれたと思いましたよ」
「本人がどうとろうとかまわないよ。私はドレスがきれいと言ったんだから」とすましている。

ウズベキスタンには120を越える民族がいるという。もともと国境はなかったのだし、シルクロードの昔から、民族の往来はあった。オアシスがあり、これだけ資源や農作物に恵まれていれば、いろんな人たちが気に入って住み着いたのだろうとは伺える。

カラカルパクスタンの資料を見ると、カラカルパクの構成は、カラカルパク人32.1%、ウズベク人32,3%,カザフ人26.3%、トルクメン人5%、ロシア人1.6%、朝鮮人0.8%。総人口の48.5%が都市居住者である、とある。

朝鮮人は数こそ少ないが、人口比に入るくらいだから、定住していることになる。どうしてここに、という疑問がわく。タシケントでは韓国人の姿はかなり見た。私たちも先ずはコリア?と聞かれた。ソウルからタシケントに直行便も飛んでいることだし、往来はあるとは思っていた。韓国とウズベキスタンの車の合弁会社もある。走っている車はほとんどそうだ。電気器具も韓国製品が目についた。カラカルパクでも道すがら、ハングルが目について読んでみると「カラオケ」と書いてあった。
しかし人口比は?とそのわけを聞くと、スターリン時代、ソ連国境近くにいた朝鮮族を強制的にウズベキスタンやカラカルパクへ移住させたのだそうだ。チェチェンも強制的に民族移動させられている。朝鮮族がロシア内にいることは知っていたが、こちらにも移住させられていたとは知らなかった。

スウェタもその子孫、4代目になるという。韓国系と言っても彼女はハングルを知らない。

カラは黒、カルパックは彼らがかぶる帽子。カラカルパクは黒い帽子に由来する。カラカルパク自治共和国には外交権はないが、自治権はある。

部屋に戻るや、バタンキューと寝てしまった。

5月17日(土)

早起きして日記を書いている。どうもこのパターンが定着してしまったようだ。日本との時差は4時間だから、いつも私が起きている時間なのだ。

8時朝食。お茶とパンとサワークリームと目玉焼きにソーセージ。円形のナンをちぎり、サワークリームをつけただけで十分美味しい。

9時、車に乗る。今日はロングウェイだ。旅のしおりには走行距離は420kmとなっている。日本から持って来た小さなミネラルウォーターの容器に水を半分ぐらいにして、水でも溶ける粉末の緑茶を入れた。これなら飲める。

スタッフはドライバ-のラーヒムさん、ローカルドライバーのムラードさん、ローカルガイドのラシッド君。彼はヌクス大学で経済学を勉強している学生だ。そしてガイドのスウェタさん。途中から昨日の学芸員のインナさんが加わる。スタッフの方が多い。

「ウズベキスタン経済の将来は?」とラシッド君にきくと
「いまはまだまだですが、将来、発展すると信じています」と答えた。
「君らが頑張ることだ。国をよくしようと思う人々が多ければ、国は発展するよ。
この国はそれが出来そうだよ。視野を広く、勉強してね」

昨日書いた絵葉書を出すために郵便局へ行く。長い列ができている。いやな感じがした。ベラルーシの郵便局を思い出したからだ。案の定、絵葉書をそのまま送ることはできなくて、封筒にいれなければならない。封筒は買うのである。しかも先ず係りが封筒代を受け取って、後にある事務所まで買いに行く。封筒は1枚90スム。封筒に、もう一度宛名を書き、封をした。封筒に糊はついているが、スティック糊はいつも持っている。こんなときは役に立つ。係に渡すとひとつずつ切手を貼っている。手は遅い。日本までの郵便料金は200スム。着くか着かないかわからないが、まぁいいや。全部で10枚ぐらいの葉書を出すのに、30分もかかってしまった。この封書が無事日本に着いたら教えてくれとスウェタがいう。

小高い丘の上にあるなんとかシャーン(忘れた)に向かう。この説明はインナさんだ。3つの丘からなる墓地だ。向こうの丘にはゾロアスター教の遺跡がある。ゾロアスター教は拝火教ともよばれ、ペルシャ帝国では受け入れられていたようだ。
善と悪の二元論からなる。いまもイランで数はすくないが信じられている。向こうの丘は、昨日博物館で見た女の子のアスワリが見つかったところだ。

こちらはイスラムの墓。いまでも使われている。イスラムの墓は決まったところがあるわけではないから、空いているところに埋葬するのだそうだ。墓参りも聖地という考えでくるのだとか。霊廟のある周りに人は埋葬されることを願う。ここはその徳高きなんとかシャーンの廟がある。その徳を慕って墓地が出来ているのだ。

墓地のひとつ、地下霊廟を見る。伝えによると、これは支配者の娘の墓で、もともと彼女はここに住んでいた。15世紀、蒙古の軍勢が押し寄せたとき、娘は蒙古の指揮官と恋に落ちた。怒った父によって娘は殺害され、ここに埋葬されたのだという。しかしその話が本当であるかどうかはわからない。

次はイマームの霊廟。前面にはチベットのような布が巻きつけられている。「あれはなに?」と聞くと、ムスリム達がお参りに来て、自分の身につけているものを巻きつけていくのだそうだ。人間のすることは、どこもさほどかわらないもんだなぁ。
ここにもいろんな伝えがあるようだ。(略)

周りには日干し煉瓦や石を積み重ねたケルンのようなものがいっぱい立っている。賽の河原みたいだね、ひとつ積んでは母のため、二つ積んでは父のため・・なんて言っている。イスラムでは7が縁起のいい数字なので、7個積み重ねると、幸せになるという。積み重ねられた石は1ケづつ天に昇っていくので、毎日、積み重ねる必要があるのだそうだ。オバサンたちもあやかろうと石を積んでいる。

霊廟で祈りをささげていたイマームに「ラーイラッハ イル アッラー ムハンムド ラスール アッラー」と言うと、あちらも後半のムハンムドのところから私と唱和した。そして霊廟に入っていいと言ってくれた。中を見る。現在は修復中とのこと。

墓地を出て、一路モイヤックへ向かう。鉄道が見える。複線だ。この鉄道はカザフスタンを通ってモスクワまで続いているそうだ。途中でインナさんを降ろす。

まっすぐな1本道。飛行機から見たとき、砂漠の中をまっすぐな道路が走っているのを何本も見た。そういう類なのだろう。道路は見かけほど悪くはない。スピードをみると、100キロは出ているが、揺れは少ない。道筋にはところどころに屋根つきのバス停がある。モイナックからヌクスまで一日往復2本のバスが出ている。所要時間は片道4時間だそうだ。

緑は麦、空いているのはやっぱり綿花畑。もう種はまかれているのだが、まだ発芽していないのだとラシッド君の説明があった。いつもなら5cmぐらいになっているのだが、と。
「たしかカラカルパクスタンには英雄伝説があったはずだけど」とラシッド君に話しかけた。
「二つあります」
「エディゲといったと思う」
「はい」
「エディゲってどんな英雄?」
「18世紀に民衆を指導した人です」
「えっ、実在した人なの?伝説上の人だと思っていたよ。18世紀じゃ民衆蜂起かなんかの指導者なの?」と歴史を頭の中で探している。
「いえ、間違えました。15世紀の人です」
「うん?15世紀じゃ、チムール以後だね。この辺りの歴史は詳しくないんだけど、そんな事件あったかな」
どうも納得できないので、根掘り葉掘り聞いている。ちょっと若者にはむずかしい質問だったみたいだ。帰って来てから英雄伝説、いわゆる口承伝説を調べてみた。やはり古くからある語り部の英雄伝説で、モデルはあったにしても、尾ひれはひれがついて、大概は戦の時の武勇伝、英雄のおかげで国に平安をもたらされたことで終っている。

アムダリア(AM DARIA 2336m)を越える。アムダリアはまたの名をジャイフンという。ジャイフンは暴れ者の意味である。アムダリアの流れがずいぶん移動したことから、こう呼ばれているようだ。川幅は広い。土手を指差し、昔はここまで水があったが、いまは水量が少なくなってしまったとムラードさんが言う。どうして少なくなったのかときくと、山に降る雨がすくなくなった上に、上流にダムが多く作られたせいだという。上流っていうと、ブハラやサマルカンドになる。もっと遡るとタジキスタンに入る。

ラシッド君が地図を出して説明をはじめる。地図はロシア語表記だ。かつてアムダリアはアラル海に注いでいたが、今は小さな湖に注

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