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教育基本法

2006-11-16 13:27:40 | 日記・エッセイ・コラム

記事:
「政府・与党が今国会の最重要法案と位置づける教育基本法改正案は、16日午後の衆院本会議で、自民、公明両党などの賛成で可決され、参院に送付された。」

自民・公明で多数を握っている現体制だからやむをえないといえば止むを得ないのだが。大まかに言えば「愛国心」を盛り込むくらいのことだから、当然、大したことではないように思われるのかもしれないが、その裏に潜むもの、それが大きく成長して行ったらどうなるのか、そういう面を考えなければいけない。

国旗国歌法案のときも強制はしないといいつつ、法案が通り、法になると、その言葉が消えない現在、法はもう力を得て、為政者は強権で強制をしいている。悪法といえども成立してしまえば法なのである。国民を強いるのにはばかることはない。だから慎重にしなければならないのだ。

愛国心とはなんだろう。国家から教育され、強制されなければ愛国心は育たないものなのだろうか。教育勅語というのがあって、1年生(国民学校)の私にはわけもわからないのに暗誦させられた。天皇に命令されなければ、夫婦も兄弟も仲良く出来なかったのだろうか。そんなことは決してない。

本来、愛国心は愛する国があることなのだ。愛する家庭があり、それを取り巻く愛する町があり、そこで日本という国土が愛せるのだ。

私は「愛国」という言葉は、好きだが怖い言葉だと思っている。私は自分の家庭はもちろんだが、自分の住んでいる町をこよなく愛している。ここに暮らしていることを誇りに思っている。そして友人、仲間、コミュニケイションの媒介となる日本語も愛している。日本の文化も古い伝統も愛している。もちろん食べ物も好きだ。おのずから日本の国土をそこに育っている日本そのものを愛している。これこそが愛国心だろう。言ってみれば愛国者である。

愛国心という言葉に潜む怖さ、それは愛国心という言葉によって、強制される全体主義である。愛国心を狭義に解釈すれば、自分の国だけを愛することになる。愛国、すなわち他国は敵にできる。ナチス・ドイツはどうして生まれたのか。それは愛国心によってであった。ナチスだけのことではない。日本の軍国主義も愛国心を逆手に取り、国民はがんじがらめにされてしまったのであった。戦時中は、国家の命令に従うことが、即愛国であった。従わないことは愛国心のない非国民とされた。

手っ取り早くいうと、愛国心が戦争を引きおこしたのである。侵略も、略奪も、虐殺も愛国心のなせるわざとすりかえることが出来る。愛国心の名の下に自由が奪われ、愛国心の名の下に人権も無視された。これはどこの国にも言えることだ。戦争の根本には、この愛国心が利用されている。

日本国憲法の前文はそれを乗り越え、恒久平和を訴えているものなのだ。それをなくして憲法そのものを変えようとしている。国民がその気になれば、現政府がもくろんでいるその所業を阻止できるのだ。

こんな寓話を思い出した。
ある男が長年「ファッシズム」を追っていた。あるとき、確実にファッシズムがいるという館を突き止めた。その館の部屋をひとつひとうドアを開けて行き、最後のドアに立った。ここにこそ追い求めていた「ファッシズム」がいる。力を込めてノブをまわしドアを開けた。そこに「ファッシズム」が向こうを向いて座っていた。男は「ファッシズム」の前に立った。「ファッシズム」が静かにこちらを向いた。その顔は・・・なんと自分の顔であった。

コメント
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