安倍晋三とはどのような人間だったのだろうか。所信表明演説を国会で行った直後の無責任極まる唐突な辞任を受けて様々な報道が飛び交ったが、その存在性を否定するような情報から改めて考えてみた。
何事も母親の洋子の指示を仰いでいたという報道がある。総理大臣になることを望みながら果たせなかった夫安倍晋太郎の夢を息子によって実現させるべく、帝王学を日々施す教育ママの役を担った母親に対して母親離れができなくなり、自己の分身とするに至っていたということなのだろうか。
母親の側から言うと、戦後生まれでは初めてとは言え、50歳を過ぎた日本国総理大臣に対して夫の夢を代理させるべく、ああしなさい、こうしなさいと指示を出していた。それがどのような内容の指示なのか不明だが、国民が知る安倍晋三なる政治家像の一部が国民が知らないままに母親の意思によって形作られていたのである。
07年9月28日号の『週間朝日』には、≪本誌の連続追及で暴かれた安倍家を支える〝怪しい神〟≫との見出しで、安倍家と同郷の光永仁代表が設立した経営コンサルタント会社「慧光塾」との「異様な癒着ぶり」を報じている。
会社の<実態は「神のお告げ」なるものによって信者企業に「投資せよ」と指南したり、オフィスに大量の塩をまき、〝悪霊の縁〟を断ち切らせる〝お清め〟なる儀式を経営者に推奨する〝宗教団体〟ともいえる団体>だったと断じ、慧光塾のパーティーに親子揃って出席する程に光永代表の教えに二人ともが深く傾倒していたと伝えている。
幹事長代理時代の05年4月には安倍夫妻が媒酌人を務めた光永代表の長男の結婚披露宴には塩崎恭久ら、後に〝内閣の友達〟を形成することになる面々と出席し、盛大に執り行われたと言う。ところが3ケ月後の7月に59歳の若さで突然光永代表はあの世に召された。
安倍内閣の発足したのは2006年9月26日。それ以前に安倍晋三はそこで「毎日光永代表のご指導のおかげと感謝しております。先生のパワーで北朝鮮を負かせていただきたい」、洋子は「先生に息子の晋三も色々とご指導いただいておりますけれども、政治の道を誤ることのないようよろしくお願いします」と、俄かには信じがたいお願いを口にしていたと報じている。
朝日新聞社の『週刊朝日』である。いい加減な情報を垂れ流すはずはない。事実と信じて安倍晋三の祈りと光永代表の死の関係を大胆に推理するなら、光永代表は自分の「パワー」を証明して安倍晋三をなおのこと自分に傾倒させるべく、宣伝にもなるしカネにもなることだからと、あるいは当時から将来の首相と嘱望されていたのだから、取り込みに成功したなら、もしかしたらラスプーチンになれるかもしれないと野望を抱いてキム・ジョンイルを呪い殺すべく護摩を焚いたり、<大量の塩をま>いたり、身体を震わせんばかりに念仏を唱えたり精魂込めたが、逆にキム・ジョンイルの「パワー」に負けてエネルギーを吸い取られ精魂果て、59歳の若さでこの世から別れを告げなければならなくなったということなのだろうか。
尤もキム・ジョンイルも無キズではなかった。光永代表の呪いを受けて、髪の毛は少なくなり、白髪も増えて糖尿病だ、心臓病だと疑われるまでに身体が衰弱した――ということなら話は面白くなるのだが。
少なくとも首相になる前の安倍晋三の当初の対北朝鮮強硬態度は「先生のパワーで北朝鮮を負かせていただきたい」と光永代表に託した祈願が叶うだろうとの予測を前提とした強硬態度だったことになる。
拉致被害者やその家族にとっては泣くに泣けない、笑うに笑えない安倍晋三の他力本願ということにならにだろうか。
親子共々の強い支えを失って、安倍晋三は母親への傾斜をなお強めたのではないだろうか。頼りになるのはママしかいなくなったと、母親の自分に対するさらなる支配を自分から求めた?――
母親洋子の息子に対する支配と息子の晋三の母親への従属、あるいは息子の晋三の母親への依存、さらにそのような関係にあった母親と息子の新興宗教まがいの団体の代表に対する無条件の帰依は母親の洋子が息子の晋三の支配者の位置にありながら、一個の人間としては実際には非自律的(非自立的)な存在に過ぎず、息子の安倍晋三なる人間に至っては二重にも非自律的(非自立的)存在であったことの証明するものであろう。
自身の力で立っていなかった。あるいは自身の考えで行動していなかったということである。
このような自己埋没性と比較した表面に現れていた姿との乖離はどう説明したら言いのだろうか。
「私の内閣」、「私の指示」と常に「私」を強調して止まない自負心。「年金問題は私の内閣ですべて解決する」、「官製談合、天下りの問題は、私の内閣で終止符を打ちたい」云々。自負心は自己の能力に対する自らの絶対的信頼によって裏打ちされる。自己の能力に強い信頼を置いていたからこそ言えた「私の内閣」であり「私の指示」なる言葉でなくてはならない。
また「闘う政治家」を標榜していたことも、自己の能力に強い信頼を置いていたからこそできた標榜であろう。
このように自己の能力に自信たっぷりに信頼を置いていた世間向けの態度と、世間から見えない場所での自分自身を持たない、他人に依存した非自律的(非自立的)存在であったことの乖離を読み解くとしたなら、「闘う政治家」にしても、「私の内閣」、「私の指示」にしても、自著『美しい国へ』での内容空疎ではあるが、偉そうな主張にしても、特に国のために命を投げ捨てた特攻隊を例に出して、「ときには自分の命を投げ打っても守るべき価値が存在する」と個人よりも国家を優先価値とするハコモノ意識にしても、国家優先価値を植えつけるための具体的方法としての「改正教育基本法」への「愛国心」の盛り込みにしても、戦争敗北という劇薬を培養液として化学反応させられ、培うこととなった戦後の時代精神は憲法をその字面だけ改正しようと、簡単には変わるわけではないことを認識することもできずに「戦後レジームからの脱却」といったドンキホーテ的誇大妄想な時代を変えようとする挑戦にしても、実際は自分というものを持たないちっぽけな自分を大きく見せるための大風呂敷ではなかったかと言うことである。
母親の洋子に総理大臣になるように日々教育を受けていた。自分もその気になったものの、その器ではなく、自分を大きく見せる代償行為で総理大臣たるにふさわしい人物を擬似的に装うことで自らを満たしていた。
自分を大きく見せようとするその姿は父親から買ってもらったに過ぎない値段のはるオモチャを、それを持っていることによって自分がさも偉い人間になったかのように錯覚して、これ僕のオモチャだぞと自慢する子どもに譬えることができる。少なくとも双方の精神構造は相似形をなす。
そうと解釈しなければ両者の乖離は説明不可能となる。そして内閣を無責任に投げ出したことで、自身を大きく見せていた政治思想や公約のすべてが空約束に終わった。国民の期待に叶う総理大臣らしく見せることに成功していた意匠を凝らした総理大臣役の舞台衣装が剥がされ、惨めったらしい安部晋三がちっぽけな様子で舞台上に一人ぼっちで取り残された。