積み重ね可能な伝統と積み重ね不可能な伝統

2007-10-10 05:28:03 | Weblog

 歴史と伝統と文化なるもの

 多くの人間が誇ることのできる価値として日本の伝統と歴史を口にする。あるいは文化を口にする。しかし足許にある今の時代の今の社会を見てみると、誇ることができるような社会状況となっていない。一方に日本人であることを誇ろう、日本の伝統と文化、歴史を誇ることのできる価値と把える風潮があり、一方に不公平や矛盾や人間の不正行為が社会の隅々にまで蔓延していて、誇るべきだとしている日本の伝統と文化、歴史が役に立っているとは思えない、誇ることのできない殺伐とした風景が際限もなく広がっている。

 この乖離・裏切りはどこから来ているのだろうか。既に偉い人が解明していることだろうが、自分なりに考えてみた。

 日本人のモノづくりの技術は世界的に優秀との評価を受けている。それを以て、日本人は優秀だと言う。だが、このことはモノづくりの才能の優秀さを日本人の社会的倫理性にまで広げて(厳しく言うなら、人間性にまで広げて)優秀だと評価するもので、教育に関しても、社会の治安にしても、政治の公平性の問題にしても、政治や企業の倫理の問題にしても、すべてに亘って優秀とは言えない、逆に矛盾や不正が横行している社会の実態との差異が説明つかなくなる。
 
 このことに整合性を与えるためには、モノづくりに於ける才能と社会的倫理性に関わる才能とは別個の才能だと把えるべきだろう。

 ではなぜ日本人のモノづくりの才能は世界的に優秀であるとされながら、その優秀な才能が社会的倫理性に忠実に反映されて、矛盾や不公正の少ない、より公平・公正な社会
を築くことができないのだろうか。

 勿論このことは日本だけの問題ではなく、日本に劣らずにモノづくりの技術が優秀でありながら、社会の矛盾を様々に抱えているアメリカやドイツ、フランス、イギリス、あるいはその他の多くの国についても言えることで、技術的才能を以って社会的倫理性や人間性の評価基準とすることは不可能であることを証明している。

 例えば日本にはお茶の文化があり、コメの文化があると言い、それを以てさも日本人が優秀であるとのニュアンスを持たせる。だが、その優れているとしている現在あるお茶やコメの文化は一面的には技術の発展した姿であって、他方に於いて技術的な発展に伴ってそれぞれの文化はそれぞれに特有な精神性を備えるに至っているが、それぞれの文化に関係する精神性はそれぞれの文化を表現する場合に於いては有効な行動成分となり得る。ただ、それがそのまま一般的な社会的倫理性として応用が効くかと言うと、別問題となる。

 茶道には「和敬清寂」という言葉があるらしいが、『大辞林』(三省堂)によると、茶道で重んじられる精神だと説明している。「和敬」(心を穏やかに慎み深く持ち、敬いの気持を持つこと)は茶会に於いて主客が専らとすべき精神であり、「清寂」は茶室・茶庭・茶器など全般に備わるべき精神をいうと出ている。

 だが、茶道に於けるこのような「和敬清寂」の精神が茶室という環境で茶を点てる場合に限って発揮可能な精神であるなら、つまり一般的な社会活動の環境下でも茶室に於けると同じように行動基準となり得る精神でないなら、茶道に担わせている精神が一般的な社会的倫理性に対して支配的な力を持ち得ていないことの証明としかならない。

 支配的な力を持ち得ているなら、茶道や華道に関わる人間の脱税や家元跡継ぎ問題、あるいは本家争いといった騒動が起きることはないだろう。一つも起きなかったわけではないということは、それぞれの文化によって養うこととなる精神を一般的な社会活動に於ける人間行動の精神と替えることができないことを物語っている。

 できないからこそ、人間社会が常に猥雑さに包まれ、矛盾や不公平、不正行為に満たされることになるのだろう。

 日本人が誇る精神として武士道がある。そして今、武士道の精神が日本人から失われたと言う。しかし言われているところの武士が担うべきとされた倫理観(=武士道)を日常生活に於いて自らの社会的倫理性とし得た武士がどれ程存在しただろうか。

 武士は支配者として常に下位階級者に対して情け容赦のない厳しい態度で臨んでいた。それは支配者としてその地位を守るための当然の措置であったろう。軍事独裁者が自らの独裁権力を損なわないために国民に対して情け容赦のない厳しい政策で対峙するのと同じ構図を持つ。

 しかし支配するについては支配する正統性を示して国民に納得させる必要がある。日本の4大氏族である源平藤橘のいずれかの子孫であること以って高貴な身分とし、それを主たる正統性としているが(家系図を偽造する者もいたろう)、如何なる身分の者も自己利害の生きものであることから出ないことに変わりはなく、それが現実の姿だと曝したままでは高貴な身分は形だけのもの、形式と化して支配の整合性を失う。

 身分の形式性を補い、支配に整合性を持たせる手立てを他の身分の者は持たない、武士のみが持つ倫理に置くべく、武士道を用意するに至ったということだろう。

 武士が歴史的・伝統的・文化的に脈々と受け継いでいる武士道なら、担うべきとする義務付けの体裁を取る必要は生じない。武士道を象徴する主たる倫理としている「武士とは死ぬことと見つけたり」は主人のために「死ぬこと」への義務づけを改めて要求し、担うべきことへの規定であろう。

 裏を返せば、担っていないことからこその要求、義務づけであり、いくら要求し、義務づけたとしても、如何なる人間も利害の生きものであること、欲望の生きものであることから離れられない以上、利害や欲望を否定する、あるいは利害や欲望を念頭に置かない倫理観は利害・欲望を超越し難く、実現困難な規定となる。

 実現させ得たとしても、あくまでも個人に属する倫理観とはなり得るが、それも自己の利害に抵触しない状況に於いてはという条件つきとなることが多いが、武家社会全体を支配する倫理観とはなり得ない。それ程にも人間の利害・欲望は相互の行動を制約する要素として支配的な力を持つ。

 それはよく言われる「相撲道」にしても「野球道」にしても同じである。大相撲に於ける「かわいがり」と称する過度の指導や生活態度に対する制裁、年寄株の不透明なカネの遣り取り、一般的常識に反するその高額さ、7勝7敗の成績の力士に勝ちを譲って勝ち越しとさせる、武士の情けだと称する八百長取組み等は相撲界全体の問題であり、プロ野球での有名選手のスカウトを確実に成功させるための裏ガネの提供、さらに高校選手、大学選手への授業料や生活費のヒモつき手当て等にしても複数の球団が行っていたことであり、またごく少数の選手個人の素行不良は「道」なる倫理性が個人に属することはあっても大相撲全体、あるいは野球界全体に属する倫理性ではないことを証明している。

 武士道があるなら、現在の政治家の世界には「政治道」、官界には「官僚道」があって然るべきだが、日々の情報が政治家や官僚の姿を刻々と伝えて虚構でしかないことを即刻暴露してしまうだろうから、情報社会では「政治道」や「官僚道」を成り立たせる余地は存在しない。

 しかし図々しくも「政治の王道を行く」などと言う政治家がいるが、党利党略、あるいは派利派略、さらには族益・省益を代表して動いたり、カネに対する卑しい金銭欲で口利きの便宜を図ったりの自己利害や様々な欲望から離れることができないのは政治家も同じで、「政治の王道」など「政治道」と同じく存在しようはずはなく、見せかけのキレイゴトに過ぎない「王道」なのを承知しておくべきだろう。

 足許にある今の時代の今の社会が不公平や矛盾や人間の不正行為に溢れているから、そこで過去の世界に存在したかのように「武士道」を掲げる人間がいるが、いつの時代の如何なる社会も不正と不公平と矛盾で成り立っていたことに目が届かない非客観性が言わしめている虚構でしかない。

 武士は封建体制の担い手なのである。江戸時代もそれ以前の時代も支配と従属によって律せられていた封建社会であったことを忘れてはならない。いわば支配者に都合がよく、その偏りが被支配の比較下位に位置するに従って無理が皺寄せする関係力学が巡らされていた。そのような支配者の世界に限った「武士道」であり、立居振舞いへの義務づけであった。

 このことは現在の大手企業や大都市に都合がよく、その偏りが中小の零細企業や地方に無理の皺寄せが押し付けられて格差が生じている今の矛盾した社会構造と連動する。

 支配者の世界に限った立居振舞いへの義務付けが赴く先は自らの階級を特別視し、武士を特別な存在と美化することで下位階級者に対する支配の正統性を持たせることでしかないだろう。

 では逆に考えて、社会的倫理性が立派とは言えないにも関わらず、日本人のモノづくりの才能に限って優秀なのはなぜなのだろうか。

 モノづくりの技術はモノを形で残すことができるから、積み重ねが可能で、その技術は残されたモノを出発点とすることによって、他人によっても受け継ぎ可能となる。

 いわばモノづくりの技術は人から人へ伝えることができ、時代を超えることができるゆえに、歴史と伝統を背負うことが可能となり、文化とすることもできる。

 日本の現在の世界に冠たるモノづくりの技術は律令時代の中国や朝鮮からの製鉄・青銅技術、あるいは製陶技術、木造建築技術の移入に始まり、その模倣(=マネ)の上に大和人の技術を加え、発展させ、安土・桃山・江戸の近世以降、ポルトガルやオランダ、イギリスなどから伝えた技術をさらに重ねて、戦後は主としてアメリカの技術の上塗りを行って、その上に自らの技術を重ねて発展させた技術であろう。

 このような時代を問題(壁)としない技術の伝達と発展に於ける人から人への方法は国籍や人種をも壁としないゆえに、国を超えた人から人への伝達と発展も可能とする。

 この原理のゆえに、日本人も中国や朝鮮からの技術の移入、ポルトガルやオランダ、イギリス、さらにアメリカからの技術を自己転化可能とし、その恩恵を受けることができた。

 当然この原理は韓国人も中国人もインド人も応用可能であって、韓国・中国、あるいはインドはアメリカや日本、その他技術先進国から技術を学習・移入し、それを自ら発展させて、現在のそれぞれの技術水準の獲得があるのだろう。

 一方、人間の社会活動を様々に規制する制度や法律、社会慣習、その他の規則にしても文書と言うモノの形で残すことができるから、時代から時代へ、人から人へ伝達も積み重ねも発展も可能ではあり、制度や法律、社会慣習自体は時代を超えて歴史とし、伝統・文化とすることはできるが、人間の欲望や利害が常に上回ってそれら各規制を無効化し、結果として不公平や矛盾や不正行為が罷り通ることとなって、人間の倫理性自体は時代を超えて伝統とし、歴史とすることは不可能となっている。当然プラスの文化とすることもできない。

 精々できることは「武士道」なる倫理観を編み出し、すべての武士が体現しているかのように思わせる虚構をつくり出すことぐらいだった。武士が被支配者と同じ人間の姿をしていたなら、支配者としての品格を疑われ、最終的には支配の正統性を失うからだ。

 戦争中は「軍人魂」とか「大和魂」という虚構をつくり出した。

 人類は人間のあらゆる利害・あらゆる欲望を適宜規制する能力も、逆にすべてを満足させる能力を持つに至らず現在に至っている。そのため人間の欲望・利害が自分に都合のいい規則を設ける、あるいは逆に自分に都合の悪い規則を巧妙に破って社会の格差や矛盾、不公平、あるいは不正を社会にもたらすこととなっている。如何なる時代に於いても、如何なる社会に於いても格差・矛盾や不正が横行するのはそのためだろう。

 但しそれらがその社会に生きる人間の許容量を超えたとき、政治に対する不満が起き、ときには政治不安や社会不安に発展する。封建時代の威嚇的かつ武力的な支配力学を以てしても政治不安や社会不安の発生を抑えることができなかった場合がある。大塩平八郎の乱然り、百姓一揆然り、打ち毀し然り。

 積み重ねができ、人から人へ、時代から時代へ伝達・発展が可能ゆえに誇ることのできるモノづくりの技術は国から国への伝達・発展も可能であり、そこでも積み重ねられていくだろうから、モノづくりの技術の優秀さは相対化される。かつてのモノづくり王国アメリカの称号が日本へ移ったように。

 それを無視して日本人だけの優秀さだと誇っていたなら、ウサギと亀のウサギよろしく、気がついたら中国・インドの技術に追い越されていたといったことが起こって、モノづくり日本の称号が中国、あるいはインドに移ることもあり得る。

 こういったことを裏返して説明すると、全体的なモノづくりの技術の優秀さは決して全体的な社会的倫理性や人間性に裏打ちされて獲得可能となる才能ではない。モノづくりの技術が優秀でありながら、一方で矛盾や格差、不公平や不正行為に溢れている社会が現実に証明している。

 当然モノづくりの技術の優秀さを以って、すべてに亘って日本人を優秀だとすることはできない。モノづくりの技術に限ったその才能の優秀さを以って社会的倫理性や人間性にまで広げた優秀さだとするのは、武士が「武士道」を掲げることで支配の正統性を裏打ちさせ、武士を優秀な人間集団だとしたのと同じく、日本人全体を優秀な民族だとする民族優越性の確立には役立つだろうが、そのことは同時に自らの姿を偽ることとなって自己省察能力の喪失を伴う。自己省察能力の喪失は自らを傲慢で不誠実な人間とすることに他ならない。

 この自己省察能力の欠如、傲慢な不誠実さが戦前、アジアの国々に思い上がった残酷な態度を取ることを可能としたそもそもの要因だったに違いない。モノづくりの才能の優秀さは誇ってもいい日本人に於ける具体的な一つの勲章だが、それが日本人の社会的な倫理性にも影響を与える才能とはなっていないことを常に念頭に置いておくべきではないだろうか。

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