テストの成績も大事だが、人間の現実の姿を教える教育を
今年(07年)4月24日に行われた小学6年生と中学3年生を対象とした全国学力テストの結果が10月24日に文科省によって公表された。
<今回のテストは、学力低下の指摘を受け、自治体や学校、児童生徒の課題を明確にし、改善に役立てるため、4月24日に実施された。>(07.10.25/読売新聞≪全国学力テスト結果公表、基本知識あるも応用力に課題≫)ということだが、経済協力開発機構(OECD)の国際学習到達度調査(PISA)で00年調査では日本8位が03年調査では14位に下落した「読解力」の獲得レベルを調査する目的も一つとしていたらしい。
そのために「基礎的知識」を問うA問題、「知識の活用」、いわば「読解力」を見るB問題とに分けたのだろう。
「読解力」とは文科省HPによると、「自らの目標を達成し、自らの知識と可能性を発達させ、効果的に社会に参加するために、書かれたテキストを理解し、利用し、熟考する能力」と出ている。
日本の官僚の文章らしく、言っていることが簡単には頭に入らない欲張った難しい言い回しとなっている。要する情報を読み解いて、それを自らが思考し、行動する知恵に応用して自らの活動の力としていく、「読解と応用」を併せた能力のことであろう。それを「知識の活用」でどの程度か計ったわけである。
ここで言う「知恵」とは単なる知識ではなく、「事に当たって適切に判断し、処置する能力」(『大辞林』三省堂)を言う。
テストの結果は上記『読売』記事の見出しが既に示しているが、<全問題中、何問正解したかを示す平均正答率を教科別に見ると、小学校の国語A、算数Aはともに82%だったのに対し、国語Bは63%、算数Bは64%にとどまった。
中学校でも、国語Aの82%、数学Aの73%に比べ、国語Bは72%、数学Bは61%だった。表現力や思考力を十分身につけていない子供が多い実情が明確になり、経済協力開発機構(OECD)の「国際学習到達度調査(PISA)」などと同じ傾向が出た。>(同『読売』記事)と解説している。
ここで問題としているのは生徒の学力テストの結果そのものではない。学力テストの成績が将来的な果実とする学歴の問題である。今回の学力ストでは<経済的な理由で国や自治体などから学用品代や修学旅行費などの就学援助を受けている児童生徒の割合の高い学校の方が、低い学校より平均正答率が低い傾向が見られた。>(同『読売』)と解説している。教育の機会にしても市場経済下にあるのだから当然のことで、親の経済力が子供の学力に直接的に影響することの正直な反映であろう。家が貧しくて塾に通うカネもない、部屋の間取りも子どもが勉強するスペースも満足にないでは、「学用品代や修学旅行費など」を援助されても焼け石に水と化す。
当然のこととして就学援助を受けている児童生徒は劣る成績の反映として、将来的な果実たる学歴の獲得に少なからず影響するに違いない。
「基礎的知識」と「知識の活用」との、あるいはOECDとかが問題とする「読解力」との比率がどうであろうと、あるいは暗記力でも片付く「基礎的知識」が「知識の活用」・「読解力」を補って十分に優秀で、本人の全体的な成績を助けていたとしても、そうでなくても、テストの全体的な成績次第で東大や京大、東北大の学歴を果実とすることができる。すべての出発点は全体的なテストの点数によって決定される。生活態度は普通でありさえすればいい。問題行動を起こさなければいいと言うわけである。
各省の現在の事務次官は文部科学事務次官が東北大卒以外はすべて東大卒となっている。防衛省前事務次官であった我らが守屋武昌は残念ながら東大卒ではなく、現在の文部科学省事務次官と同じ東北大卒である。地位を利用して不正に甘い汁を吸ったその優れた能力の発揮という点で、日本ではそれ以上の学歴はない東大卒になぞらえてもいい優秀さである。
守屋武昌だけではなく、他の事務次官も、またその他幹部も省内で得た地位に比例する地位と待遇を得て天下っていき、守屋的スケールではなくても、それ相応の甘い汁を吸うことになるだろう。そしてすべての出発点は学校のテストの成績である。それが大学という学歴の果実を生み、天下りの果実を最終的に保証する。
小・中・高校のテストの成績に応じたグレードの大学学歴を果実とするが、しかし学歴という果実は人間の生き方まで保証しないことを守屋武昌の犯罪は教えている。談合や口利き、その他で不正な利益を私腹している国会議員・県知事等の政治家、あるいは中央官僚、地方役人にしても、その殆どが例え東大卒・京大卒でなくても優秀な大学卒の学歴を果実としているはずであるのに、生きる姿まで保証していない。
社会的に高い地位に就いた人間ほど、学歴がその人間の生き方を保証する果実とならなければならないはずだが、現実に保証しない逆の状況にあるとしたら、学歴にふさわしい生き方を求めることも教育の目的の一つにしなければならないのではないだろうか。
こう言うと、単細胞にも「さらに道徳教育の充実を図れ」とか「道徳教育を教科とせよ」と言い出す者が出てくるが、どのような道徳も人間の利害・欲望(権力欲・金銭欲・名誉欲・色欲etc)には敵わない。その証拠としてそれぞれが人間は如何に生きるべきかの言い諭し、あるいは道徳の集大成となっている孔子の『論語』もキリスト教の『聖書』も仏教の『聖典』もイスラム教の『コーラン』も一般的には役に立っていないことを挙げることができる。
『論語』・『聖書』・『聖典』・『コーラン』が役に立っていないのに、安部前首相が如何に意欲を燃やした道徳教育であろうと、教育再生会議の面々がどう逆立ちして道徳の教科化を目論もうと、結果は知れている。ああしろ、こうしろといった指示・命令のお題目を並べるだけで終わるだろう。
どう生きるかは人それぞれの自覚に任せるしかない。学校教育ができることは現実社会で見せている無数にある人間の生きる姿・形を教えて、どう生きるかのサンプルとすることぐらいだろう。善悪取り混ぜて世の中にある様々な生きる姿を学ぶ過程で、学ぶ者は否応もなしに現在の自分の姿と、あるいは将来の自分の姿を予想して比較対照するだろうから、自他の省察能力を自然と育むことになる。生きる姿に関わる自他の省察は生き方に関わる情報を自他の姿から読み解いて、それを自らが思考し、行動する知恵に応用して自らの活動の力としていく、「読解と応用」を併せた能力へと発展していく機会とならないはずはない。役に立たない人間もいるだろうが。
道徳を言うなら、特に将来的に悪い姿に向かわない教訓とするために悪い生き方をサンプルとして教えることが有効であろう。守屋武昌的生き方を教科書として、生き方の教育とする。あるいはコロッケや羊羹、鶏肉の燻製を偽造したミートソープ社の社長やその他の経営者の騙しの手口から、露見して最初は言い逃れや責任逃れする姿、それができなくなって偽装・インチキを認め謝罪の頭を下げる。それだけで済まずに中には逮捕されるに至る姿等を教えるのは教育効果があるに違いない。
他者の姿を学び、自己の姿を眺める。自己の姿を省み、どのような生き方をしているか肝に命ずる。自他の省察は自覚行為でもある。常に自他の姿に対する自覚を促す。