ミャンマー軍事政権の民衆デモ弾圧に対して米国が新たに加えた「資産凍結」や「渡航禁止」などの制裁強化策に対して、議会などから「中国が加わらない政策に意味があるのか」と批判が集中し、対策として北朝鮮の核問題をめぐる6者協議のように周辺国も含めた対話枠組みの構築といった従来の圧力一辺倒からの政策転換を求める声が出ていることと、一方で米上院外交委員会公聴会で民主党議員の追及を受けたマーシャル国務次官補代理(南アジア・太平洋担当)が90年代以来の軍政に対する資産凍結や投資・人的交流を禁止した対ミャンマー制裁が「正直なところ、問題は解決できなかった」と、制裁の「不成功」を認めたことを、10月9日(07年)の朝日朝刊(≪対ミャンマー 米制裁国内から疑問 対話枠組み求める声≫)が報じている。
同記事によると、シェブロンなど米大手石油企業が制裁前の投資のために制裁対象外となっている石油・天然ガス開発で「年間4億ドル~6億ドルの収入を軍政にもたらしている」「制裁の抜け穴」も公聴会で槍玉に挙がっていると、国際的な制裁の輪に加わらない中国やロシアだけが「抜け穴」になっているわけではないことを伝えている。
尤も企業のレベルで「制裁の抜け穴」に加担しているのはフランスも同じ問題を抱えていて、フランス政府がミャンマー(ビルマ)への「投資の凍結」を自国企業に求めたが、<仏石油大手トタルから「わが社は現地住民の生活向上に貢献している」と反発され、対応に苦慮している。>(同日付≪仏政権、投資凍結に苦慮 国内石油大手が反発≫)と報じている。
トタルは「住民がさらに困窮するリスクは受け入れがたい」と声明を発表して、<92年からミャンマーで操業しているが、「(新規)投資は過去10年ない」と、サルコジ氏の要求の対象にならないとの立場を示し>、<これに対しクシュネル仏外務相は2日「(国連安保理などによる)制裁があるとすれば、トタルも免れない。免れる企業はない」と牽制。もっとも同外相は、過去、海外企業がミャンマーから撤退した際に「軍事政権系が中国資本の企業に取って代わられた」とも指摘。トタル撤退で問題が解決するわけではないことを認めた。>と伝えていて、やはり中国がネックになっていることを指摘している。
トタルが言っている「住民がさらに困窮するリスク」は逆に民衆が自ら立ち上がる〝困窮状況〟を敢えて政策的につくり出す荒療治とする方法ともなり得る。勿論、これを行うには前以てミャンマー軍事政権に対して宣言して行う必要がある。目的を明確に示すことによって、発動する前から圧力となるだろうからである。
国連の制裁であるが、議長声明案に盛り込むべく求めていた米英仏の当初の厳しい姿勢が<強制色が強い文言に難色を示す中国やロシアに歩み寄る内容>(07.10.10『朝日』夕刊≪声明案から「非難」削除 対ミャンマー米英仏、中ロに配慮」≫)へと見出しだけ見れば分かるように後退したと伝えている、
さらに昨11日の『朝日』夕刊≪対ミャンマー 弾圧停止要求も削除 議長声明案に大筋合意≫は、<前日提示された修正案からさらに軍政への強制色が薄められた。>と制裁内容が一層後退していることを伝えている。
どのように後退しているかと言うと、
①「弾圧的措置の停止」や自宅軟禁中の民主化運動指導者のアウン・サ
ン・スー・チーさんの「解放」など、軍事政権に対する直接的な要求事
項が削られた。
②今後の情勢次第で「さらなる手段を検討する」としていた部分や、
「民主化に必要な措置の履行」についての言及も省略。
③「全政治犯と残る拘束者の釈放」に関しては軍政に釈放を「求める」
案と、「重要性を強調する」にとどめる案が併記。
④スー・チーさんは他の政治犯と区別され、「早期に制約を解除」す
る必要性は強調されたが、解放を直接求める表現は避けることになっ
た。
昨11日の『朝日』朝刊はベトナムのグエン・ミン・チェット国家主席(大統領)と朝日新聞記者とのハノイの大統領府での記者会見の模様を載せているが、対ミャンマー政策に関して、<「独立国の主権が大切だ」と話し、制裁に反対する考えを明らかにした。>≪チェット・ベトナム主席 「ミャンマー主権尊重」 制裁に反対 対話促す≫と伝えている。
ベトナムも<民主化活動家や宗教関係者の拘束>(同記事)などの人権問題を国内に抱えているそうだが、国際社会からの自国への民主化圧力を回避したい〝体制維持利害〟からの対ミャンマー「制裁反対」も含まれているに違いない。
中国にしても経済的利害を前面に出している対ミャンマー制裁反対ではあるが、自国の共産党一党独裁を維持する防波堤の意味をも持たせたミャンマー軍事政権支持でもあろう。
チェット主席は国家と国民の関係を何ら問題とせずに「独立国」だからと無条件に主権を尊重している。だが、いくら独立国の体裁を取っていても、国民に自由と人権を認めない「主権」は正当な主権と言えるのだろうか。言えるとしたら、政治は、あるいは政治体制は国民に対してどのような悪事も許されることになる。そしてそれを「主権」と認める。
主権とは、他国の意思に左右されず、自らの意思で国民および領土を統治する権利(『大辞林』三省堂)だが、国民に対してどのような悪意を持って統治しようが、それを独立国家の意思だと主権の範疇に入れる。
政治体制の犠牲となって国民が自由と人権が抑圧され、生活困窮や飢餓を受けている。そのような政治、そのような政治体制を固守して国民の困窮・苦難を他処に自分たちだけの自由と豊かな生活を享受している独裁者たちを「独立国の主権が大切だ」、「内政不干渉」の口実で見逃し、何ら痛みも感じない。
国民の自由と人権を犠牲にして手に入れている独裁者たちのこの世の春を「独立国の主権」と看過し、「内政不干渉」だからと外部から正当性の免罪符を与える。そういったことのできる人間の感覚は人間として正常な感覚と言えるのだろうか。
だが、このような声は独裁国家から経済的利益を受けている国や企業にとっては「犬の遠吠え」にしか聞こえない。
「犬の遠吠え」としないためには、「自由と人権と国民の生活の保障は世界中のすべての国の国民が等しく享受すべき権利であり、このことに国境を設けてはならない。当然世界中の国民の権利とするためには、このことに関しては国家の独立性は存在せず、内政干渉批判も無効化する」といった声を自らの発言が国際的に影響を与える人間が国際社会に向かって繰返し発言することで、その声を正当性の認知を持たせた国際的合意とすべく努力すべきではないだろうか。
日本にしても安倍前首相が従軍慰安婦問題を正当化する口実に言ったに過ぎないが、「20世紀は人権が侵害された世紀だった。21世紀は人権侵害がない、世界の人々にとって明るい時代にしていくことが大切だ」と一旦は口にしている手前、あるいは日本政府が「自由・民主・人権・法の支配」といった価値を基本原則とした価値観外交を掲げている手前、何らかのミャンマー民主化の創造的な政策を構築して米英仏と共同歩調を取り、その民主化に向けて積極的に関与していくべきで、そうせずに「ミャンマーが中国にだけ傾斜していく姿がいいのか」(町村)と民主化に及び腰では、カンバンに偽りありの外交、口先だけの外交と化す。安部・麻生・町村を筆頭に口先だけなのは今に始まった自民党政治ではないが。