日本人の権威主義の行動様式からの上下関係を考える

2008-01-04 13:01:12 | Weblog

 バイオリニスト神尾真由子の言葉から

 暮れの30日午後2時半30分からのNHK教育番組『神尾真由子・21歳のバイオリニストに密着・・・国際コンクール優勝舞台裏』を漫然と見ていた。

 クラッシックからジャズ、ブルース、カントリーミュージック、ポップス、ラテン、シャンソン、カンツオーネ、タンゴと何でも聴くが、曲名と歌手・演奏者の名前を覚えないことこの上なく、ただ単に感覚が受付ければ聴く、受付けなければ聴かない程度で、うまい下手を判断する鑑賞力があるというわけではない。1月1日もNHK総合で7時過ぎから放送した「2008年ニューイヤーコンサート、ウインフィルハーモニーオーケストラ」を録画しつつ聴いたが、ショパンの何々と演奏名がインポーズで示されても、覚えないものだから関心を示すこともなく、以前聴いたことのある曲なら、ああ聴いたことのある曲だな程度で耳を傾けた。
 
 嫌いというわけではないが、各局共占めているお笑い系が正月特別番組と銘打って長時間ものとしているために時間埋めに淘汰を受けていない者も出演していて、全編通して面白いというわけではないから、チャンネルをいたずらに動かすことになる。日テレで箱根駅伝の実況中継を流していたが、一人一人が42・195キロを走り切るマラソンの放送は見るが、偏見のせいかコマ切れ能力の足し算にしか見えない駅伝は好きになれず、チャンネルを回すことはしない。そういったことで昭和天皇が亡くなったとき、殆どのテレビ局が追悼番組にハイジャックされた中で唯一ハイジャックを免れたNHK教育放送かビデオ店に多くの人間が殺到して借りてきたビデオに逃げ込んだように、暮れと正月3が日の多くの時間を以前録画したアル・パチーノ主演の映画2本と録画した「2008年ニューイヤーコンサート、ウインフィルハーモニーオーケストラ」とに逃げ込んでいた。

 神尾真由子は1986年6月12日生まれ。4歳の時からバイオリンを始めて、1996年第50回全日本学生音楽コンクール全国大会小学校の部において4年生で第1位を獲得。1997年3月、オーチャードホールで、シャルル・デュトワ指揮NHK交響楽団とラロ「スペイン交響曲」を共演してわずか10歳でソリストとしてデビュー。各国際コンクールで優勝。2007年6月には4年に1度開催される若手演奏家の登竜門である第13回チャイコフスキー国際コンクールバイオリン部門で優勝。日本人がバイオリン部門で優勝したのは1990年の諏訪内晶子以来2人目だといったことをWikipediaが紹介している。

 所属事務所なのだろうか、「ASPEN」なるHPで、<「この才能は、ただただ神から授けられたとしか言いようのないヴァイオリン奏者」、「歌心に満ちた音楽が体の中からあふれ出てくる」と大絶賛され、その将来を嘱望されている。>と出ている。天才バイオリニストというわけである。勿論、どこが天才なのか私の鑑賞力では判断できない。

 ただバイオリニストといったソリストの場合、全神経を集中して演奏に没頭しているときの眉根を寄せた年寄り臭くさえなる険しい表情が演奏を終えて元に戻る年齢相応の満足感に満ちた溌剌とした表情に何とも言えない美しさを感じる。21歳の美人顔の神尾真由子にしても演奏中は40代前半のおばあさんの顔になる。

 番組自体はNHK交響楽団と共に日本各地を演奏旅行する内容となっているが、演奏シーンのみ紹介されるのではなく、NHKのインタビューをあれこれ受けている。NHK交響楽団の指揮者は外国人で、インポーズで紹介していながら、例の如く記憶することができず、ここにその名前を記すこともできない。

 「指揮者が外国人ですが、緊張しますか?」

 外国人の指揮者は何度も経験済みなのだから、「指揮者が日本人と外国人とではどちらが緊張しますか?」と聞くべきだったのではないだろうか。優勝した第13回チャイコフスキー国際コンクールヴァイオリン部門の演奏シーンも番組で紹介していたが、指揮者は外国人である。「コンクール」となれば専門家の評価を受けるのだから、緊張すると言う点ではNHK交響楽団との演奏旅行の比ではないと思うのだが。

 天才バイオリニスト神尾真由子、口許に軽く笑みを見せながら落着いた声で、「日本人の指揮者の方が緊張するかもしれない」
 「なぜ?」と問われて、「なぜか外国人の方が緊張しない」とやはり落着いて軽く受け流す。

 「日本人の指揮者の方が緊張するかもしれない」を当て推量で読み解くとしたら、簡単に言うなら、外国人の方がフランク(=率直)で接しやすいということではないだろうか。と言うことは日本人はそうではない、あるいは外国人と比較してフランクさに欠けて接しにくいということになる。

 この差はどこから来ているかというと、日本人が依然として権威主義を行動様式としているからで、相手との距離を上下関係で計るからだろう。

 日本人の指揮者はオーケストラという集団内では最上位位置を占め、各楽器演奏者を指揮者の下に位置させることから、演奏以外の個人的態度に関しても指揮者に対して礼儀正しい態度、指揮者をそれ相応に尊敬する態度を知らず知らずのうちに要求することになる。

 そのように自分を上位者と位置づけた指揮者の暗黙の態度要求を受けて、自分の態度をその要求内に収めつつ演奏に臨まなければならない。率直な態度など飛んでもないということになる。

 外国人の場合は対等――と言うよりも、自分は一人の指揮者であり、指揮を担っている。各楽器演奏者はそれぞれの楽器を専門に演奏する者たちであると水平にある関係で見ているから、個人的態度に関しては相手に失礼にならない範囲で自分は自分で振舞えばいい、自分の務めを果たす責任ある態度のみが求められている。いわば自分の持てる力で楽器を演奏する義務のみを負えばいいといった意識を人間関係のルールとして完成させているから、自分の務めである演奏のみに意識を集中させればいい。対人関係に意識を使わなくて済む分、お互いが緊張なく率直な態度で接することができるということではないだろうか。

 このことは楽器を習うにしても大学院で教授について研究に従事するにしても、先生と生徒との間に上下関係(大学院では「徒弟制度」がまだ生きているなどと言われている)が私的空間にまで亘って否応もなしに生じる現在も生きている権威主義的人間関係が証明している。

 先にアル・パチーノのビデオを見て暮れと正月の時間を潰したと書いたが、その一つ1992年製作「セント・オブ・ウーマン(scent of a woman)」の中で人間関係に関わる印象的なシーンが演じられていた。1週間の休暇を伴う感謝祭前のレアードという名の優秀な高校で生徒が校長を侮辱するいたずらを仕出かす。3人の生徒が日が暮れて暗くなった校庭の外灯にハシゴをかけ、天辺に萎んだ状態の大きな風船を吊るす。それを校舎から出てきたチャーリー・シムズとジョージの2人の生徒が目撃して、ジョージが何をしているんだと声をかける。相手の1人が「でかい声を出すな、明日の朝教える」と抑えた声で制したとき、年のいった女性教師アンセーカー先生が出てきて物音に気づき、「何なの?」と尋ねるが、ジョージが調子よく誤魔化して遣り過ごす。

 次の日の朝、生徒が登校する中を校長がジャガーに乗って登場。外灯の下に停める。それを教室から窺っていた3人のうちの真ん中の1人がマイクで、「ドラック校長は貪欲な読書家だ」とか、「教養・学識に恵まれ、賢明な判断ができるお方だ」と先ず褒め上げ、「だが、彼についての疑惑が広がっている」と校庭に流す。次いで右側の一人がマイクを引き取って脇に置いたガスボンベの栓をひねると、外灯の天辺に吊るした風船が膨らんでいく。生徒たちがジャガー脇に降り立った校長を遠巻きに囲む。ガスボンベの栓をひねっていた生徒がマイクで、「ドラック校長はどうやってあのご機嫌な取引をしたのか。理事会はなぜジャガーを彼に買い与えた?彼は知らぬ振りをしたのではない。知らなかったわけではない。唇をすぼめて突き出し、彼らのケツにキスしただけだ」

 膨らみ切った風船にはズボンと下着を脱いで尻を突き出し紳士風の中年男性のその剥き出しの尻に腰を屈めた男性が唇を突き出してキスしているマンガが描かれている。校長は気づき、その風船を割ろうと取り出した小さなナイフでジャンプをしながら突き刺そうとするが、もう少しのところで届かない。そこでジャガーのドアを開け、ステップに乗ってそこから手を伸ばして何度か試した後、やっと突き刺すが、同時に風船が割れて、中から噴き出した白いドロドロの液体をジャガーごと頭からかぶってしまう。

 ジョージとチャーリーが校長室に呼びつけられ、3人がいたずらを仕掛けている場面を目撃したはずだとアンセーカー先生が言っている、誰がやったんだと問い詰められる。2人とも暗くてよく見えなかったと誤魔化す。校長は感謝祭明けに懲罰委員会を開いて究明に当たる、集会で解決が得られなかった場合は、君たちは退学だとなかなかの独裁振りで2人に圧力を掛ける。

 そして親が金持ちのジョージに対しては「帰っていい」と許可を出す。するとジョージは椅子から立ち上がって、「じゃあ、いい感謝祭を」と校長に手を差し出す。校長はその手をいかがわしげに見下ろしていたが、「ありがとう、君もな」と言って握り返す。生徒は「そうします」と答えて、校長室から出て行く。

 握手する習慣が日本発のものではないとしても、高校生が対等な関係で校長に握手を求める光景は日本では考えられるだろうか。確かに校長は指導者の位置に立っている。指導者としての口を利く。そして生徒は指導を受ける立場にいる。だがそれは立場上の関係で、人間関係はあくまでも対等な関係にある。そうと窺わせる場面であった。

 そうでなければ、「じゃあ、いい感謝祭を」と校長に生徒の方から握手を求めることなどできないだろう。対等に口を利き、日本の場合の下に立つ者の上に立つ者に対する恐る恐るの態度や腰の低さは微塵も感じさせなかった。

 暮れの夜にチャンネルを変えつつ見たモノマネ合戦の番組で、ホンモノの歌手にそっくりに扮装した歌手がホンモノの持ち歌をそっくりな声とそっくりな仕草で謳った後、ホンモノが現れてそのあと拍手喝采の中で歌うというパターン化した場面で、ホンモノ歌手が差出す手をそっくりさんは腰を屈め、頭を低くして何度もペコペコと下げながら手を下から差出し、さも有難いことだといった素振りで握り返していたが、明らかにそっくりさんは自分を下の者に置いた態度を演じ、そしてホンモノは当然のように自分を上の者に置いた態度で鷹揚に握手を受けていて、図らずも日本人の上下関係を暗黙裡に炙り出した象徴的シーンとなっていた。

 「セント・オブ・ウーマン(scent of a woman)」の校長はジョージが校長室を出た後、チャーリー・シムズにいたずらの犯人が誰か喋らそうと働きかける。立場上持っている有利なカードを狡猾にも利用して。と言うことは親が金持のジョージを先に退出させたのは、親がカネを持っているというその理由でその生徒にはそのカードは効き目がないからである。

 「ハーバードの入学許可局は私との間に合意があって、通常レアードが提出する願書の事実上の3分の2が入学を保証されている。今年提出した一人が実に優秀だが、経済的には恵まれず、授業料も生活費を払えない生徒だ。願書にはメモを書き添えたが、それは誰のためか分かるか?」
 「分かりません」
 「君だよ。君だ、シムズ君。誰がやったか話してくれるか?」
 「お話できません」
 「休み中に考えておいてくれたまえ」・・・・・

 「上位者の命令は絶対」とばかりに簡単には言うことを聞かない。日本の場合、高校生が校長に対してこういった立場に立たされ場合、断るにしても、下の者であることを弁えて、相手を上の者と見てお願いする形で断るに違いない。

 ビデオのストーリー自体は至近距離戦闘の訓練の朝、スクリュードライバーを4杯も飲んだ酔った状態で訓練に臨み、ピンを抜いた手榴弾を投げる前に手から滑り落としてそれを爆発させてしまい最終的に視力をすべて失ったアメリカ陸軍の元中佐アル・パチーノが住んでいるボストンの郊外から元華やかな生活を送ったニューヨークに人生を見限る旅に出るのだが、目が見えないから付き添いと身の回りの世話にチャーリー・シムズをアルバイトに雇う。

 だが、チャーリーは気難しい元中佐と付き合うことになるアルバイトを生活費稼ぎのために引き受けたものの、学校での行く末が気がかりでため息ばかりついている。「この車は重いな。誰かさんが背中にクソ重い物をしょってるからだ」と中佐に見抜かれ、「心配事があるなら話してみろ」と言われるが、「たいしたことじゃないです」とその場は断る。しかし中佐に何度か促されて、おいおい学校での出来事を話す。

 アルパチーノの方はこの世の名残にかつて華やかに過ごした時間に再度浸ろうとして高級ホテルに泊まり、高級レストランで食事を摂る。レストランではボーイフレンド待ちの若くて美しい知的な女性を、勿論目に見えないが、女性がつけている香水(=scnt)の匂いからその名を当てて相手を驚かせてから、まだ習い立てだという相手を説得して店のバンドが弾いているタンゴの踊りに誘う。

 見事にリードして素晴らしいダンスを披露し、店に来ていた客の拍手を受けるが、華やかな時間から何も見えない暗闇の世界という現実に引き戻されて却って始末の悪い沈んだ気分に陥る。

 兄とその子どもたちである甥の家を今生のお別れに訪ねるが、元々歓迎されられざる客であったために、言い合いの会話となり、ますます気持が沈み込む。チャーリーに葉巻を買いに行くように言いつけて、その間にピストル自殺を図るべく、勲章をきらびやかにつけた軍服に着替えるが、胸騒ぎを覚えたチャーリーが部屋に戻ってくる。側頭部に向けたピストルを取り上げようとして揉み合いとなり、チャーリーはアル・パチーノにピストルを突きつけられ、「出て行け」と怒鳴られる。チャーリーは抵抗して、「だったらやめればいい、やめたいなら、やめればいい。僕もやめる。お前は氷だって言われたしね。そのとおりだから、僕も人生やめる。二人で死のうよ。早く引き金引けよ、甘ったれ、見栄っ張り、もうクソったれ」と逆に食ってかかる。
 「死にたくないだろう?」
 「中佐もね」
 「死なないでいい理由を教えてくれ、一つでいい」
 「タンゴを踊れるし、運転が誰よりもうまい」
 チャーリーは目は見えてもタンゴを踊れない。チャーリーの誘導でスポーツカーを見事に運転して見せていた。
 「俺はこれからどう生きていけばいいんだ」
 「例え間違えてもいいから、続けるんだ」
 「タンゴの調子でやれっていうのか?死んだ方がマシだと思ったことが何度もある。それでも生きなきゃってことか?ブルースにしておけばよかった」
 
 タンゴの華やかさを知った者の悲劇。ブルース止まりの地味な人生を送っておけば、落差を味わわなくても済んだという意味なのだろう。それに対してチャーリーは「カッコーよかったよ」とタンゴが踊れることの素晴らしさを伝え、勇気づける。

 中佐は死を思い直してチャーリーとボストンに戻る。懲罰委員会が開かれる。校長が全生徒を講堂に集め、ステージの離れた一つの机には金持の息子ジョージとその付き添いとしてその父親が椅子に座り、もう一つの席にはチャーリー・シムズだけが椅子に腰掛けている。

 校長が演壇で、この高校から卒業したレアードマンがホワイトハウスにも国防省にもいる、レアードは国のリーダーを育てる揺籃の場として全世界に名を知られている、ところが、レアードの価値・規範・伝統が軽視された、レアードの名誉が著しく傷つけられた。その名誉を守らなければならないと一席ぶっているところへ、ニューヨークからリムジンで帰ってきた、その運転手に付き添われて元中佐のアル・パチーノが現れ、チャーリーの父親代わりの資格でその隣に腰掛ける。校長は先ずジョージから犯人追及に取り掛かる。

 ジョージは最初はのらりくらりと言を左右にしていたが、「ひょっとしたら」と、体型や声で誰々だったかもしれないと3人の名前を挙げる。誰々だったかもしれないでははっきりとした証拠にはならないが君は正直に答えてくれたと褒め、今度は追及をチャーリー・シムズに向ける。チャーリーは迷いながら、「何か見えましたが、それが誰か言えません」

 「つまり君が見たものは?」
 「言えません」
 「体型や身長から判断して、誰なんだ?」
 迷ってから、「レアードタイプの人でした」
 「懲罰委員会が検討するが、恐らく退学だ。君は隠蔽の天才、ウソつきだ」

 ハーバードの入学許可を握っている権力を無視された。そこへ中佐が大声で割って入る。「だが、密告屋じゃない!なぜなら彼はレアードのレッテルなんかもう必要はないからです。ここのモットーは何ですか。少年よ、クラスメートの情報を提供して、自分を守れ。これをやらない者は厳罰に処すですか?いいですか、今事が起こったとき、ある者は逃げ出し、ある者はとどまる。このチャーリーは困難と向き合い、あのジョージはでっかいパパのポケットに隠れる。そしてあなたはジョージに褒美をやる。チャーリーは潰す気だ。誰がここの卒業生か知らないが、ウイリアム・ハワード・タフト、ウイリアム・ジェニングズ・ブライアン、ウイリアム・テルたちの精神は死んでしまっている。過去の亡霊になりつつある。そしてあなたは情報屋をここで育てて世界中に送り出している。もしそれが人類のためだと考えておられるのなら、考え直すことです。なぜなら、あなたたちはこの学校の創立当時の真の精神を破壊しているからです。悲しいことに今日ここで開かれているシーンは何ですか?私の隣にいる少年だけが真の上流。私が保証しますが、彼の魂は損なわれていない。だから取引などできない。ここにおられる誰かさんが情報を買うからと取引きを申し出たが、チャーリーだけが売らなかった」

 「バカげたことを」と校長は叫んで木槌で演壇を叩く。
 「バカげているのはあなたの方だ」と立ち上がってなお一段と声を張り上げる。「あなたは何をバカげたと言うのか分かっておられないからお見せしよう。ここに入ってきたとき私はこういう言葉を聞いた。リーダーを育てる揺籃の場。だが吊り紐が切れると揺り籠は落ちる。ここの揺り籠はもう落ちてしまっている。リーダーたちを育て上げるあなた方。今ここではどんなリーダーたちを製造しているんでしょう?私には分からない。今日のチャーリーの沈黙がよいことか悪いことか、私には判断できない。でもこれだけは言える。彼は自分の将来を買うために魂を売ったりはしなかった。こういうものを私たちは高潔と言う。勇気と言います。それを備えたリーダーこそを創るべきです。チャーリーは十字路に立たされ、取るべき道を選びました。正しい道です。それは品性を養う道義でできた道です。学業を続けさせてやってください。彼の未来はあなた方の手中にあります。委員会のみなさん、価値ある未来です。私を信じて、潰さないで下さい。取り囲んで守ってやってください。いつか誇りに思う日が必ずきます」

 出席中の学生から拍手が起こり、静かに長く続く。その場で懲罰委員は立ち上がって検討し評決する。それをアンセーガー先生が読み上げる。いたずらをした3人の生徒は保護観察。「ひょっとしたら」と犯人の名を告げたジョージに対しては、協力への報酬、お礼などを受け取らないことという厳しいお達し。チャールズ・シムズに対しては、一切の責任なし。拍手と歓声が講堂を覆う。・・・・The endへと続く――

 ストーリーのウラを返すと、地位やカネをエサにされて魂を売る多数派の人間が存在し、少数派に過ぎないが、売ることを踏みとどまる人間が存在する。校長と生徒の間で繰り広げられるそのような人間模様を優秀な生徒が集まる高校を舞台に描いたと言うことだろう。

 だが、ここには立場上の上下関係は存在しても、人間間の上下関係は存在しない。個人性に関わる上下関係、「上尊下卑」の関係は存在しない。ここが日本人の人間関係と違うところではないだろうか。権威主義の行動様式に囚われ、人種差別や女性差別から抜け出れない欧米人も多々存在するが、基本的な人間関係のルールは水平方向で相互作用し合っている。

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