国民の命をトカゲのシッポとする「命の生き剥がし」思想
昨年暮れの朝日新聞(07.12.31朝刊)に≪歴史は生きている 東アジアの150年 ≫と銘打った特集記事が出ている。その≪第7章 アジア・太平洋戦争と国共内戦 下≫は≪国共両軍に残留日本人がいた≫という内容となっている。
但し、自発的「残留」でもないし、自発的「入隊」でもない。記事は次のように伝えている。日本は45年8月にポツダム宣言を受諾した。将兵は武装解除して帰国するはずだったが、中国山西省の省都・太源に司令部が置かれていた日本の「支那派遣軍北支那方面軍第1軍」の5万9千人のうち2600人もが残留し、共産軍との戦いで550人が死亡、奥村さんら700人以上が捕虜になった。
「そりやあ、日本に帰りたかったですよ」と奥村さんは言う。「でも、上官に残れといわれれば従うしかありません。軍隊では、上官の命令は天皇の命令。抗命、反抗はできないのです」
記事は残留の理由を、日本の第1軍司令官・澄田らい(貝偏に來)四郎中将らにかけられていた戦犯の容疑を免れる代わりに日本撤退後に内戦になれば劣勢は必至だった山西省を支配していた国民党系の軍閥リーダー、閻錫山(えん・しゃくざん/イエン・シーシャン)を支援する交換条件で日本軍の一部を残す取引したためではないかとしている。
帰国した奥村さんたちは自分の意思で勝手に残ったとされ、日本の政府から旧軍人としての補償を受けることができず、裁判でも敗訴したという。
軍の命令での残留ということにしたなら、天皇の大日本帝国軍隊は「天皇」と冠する限り無誤謬でなければならなかったその絶対性を自ら破棄することになる、それを守るための「沖縄集団自決軍強制無罪説」と同じ線上の「自分たちの意思で勝手に残った」とする歴史偽装に違いない。
一方共産党軍に加わっていたのは満蒙開拓青少年義勇隊に所属していた兵頭さん、坂口さんで、戦後の46年9月、関東軍(旧満州の日本軍)の傷病兵を運ぶためと思って担架を運ぶ訓練をさせられた後、送り込まれた場所は国共内戦の激戦地の共産党軍で、そこで担架隊員にさせられた。
なぜなのか、当時はわけが分からなかったが、「今は思い当たることがある。関係者に迷惑がかかるから」と思い当たることを明かさない。
その後坂口さんは戦死、兵頭さんは中国各地を転戦、内戦が終わった後は薬剤師となり、58年に帰国。当時を振返って次のように述べていると記事は記している。
「帰国させようとしても、途中の国民党軍の勢力地域で捕まって使われる。ならば共産党軍で使おうと考えたのでしょう」
前後で言っていることと矛盾がある。引き揚げ途中で「捕まって使われる」怖れは引揚者すべてが共有しなければならない同じ条件であろう。それを引き揚げる者と残す者を差別化し、同じであるべき条件を無効としている。
これは「支那派遣軍北支那方面軍第1軍」の5万9千人のうち2600人が同じであるべき引き揚げ条件を無効とされて国民党系の軍閥軍隊に強制的に入隊させられた差別化と同じ構図をなす。
このような関係構図に上から下に向けた犠牲強要の力学が存在しなかったと日本軍の無誤謬性・絶対性を今以って信じている現在も天皇主義者であり、国家主義者である人間を除いて誰も否定はできまい。正直に話したなら、「関係者に迷惑がかかる」事情が隠されていたと見るべきである。
国民党系の軍閥軍への強制的入隊にしても明らかに他者に犠牲を強いることによって自らを助ける生贄の構図そのものを窺うことができる。
1929年締結の「ジュネーヴ条約27条」は「捕虜を抑留し、将校およびこれに準じる者をのぞく健康なる捕虜を労働者として使役する権利は、これを捕獲した交戦当事国にある」、「75条」は、「交戦者が休戦条約を締結せんとするときは右交戦者は原則として捕虜の送還に関する規定を設くべし。この点に関する規定が右条約に挿入せられ得ざりし場合といえども交戦者は成るべく速に之が為連絡をとるべし。一切の場合に於いて捕虜の送還は平和克復後成るべく速に行はるべし」(『第二次世界大戦と捕虜問題』藤田勇・神奈川大学/社会主義法から引用)とそれぞれ規定しているということだが、日本軍が一部の兵を帰国させずに共産党軍および国民党軍の利益に供したのは上記条約の規定の逆を行く行為となっている。捕虜でない者をわざわざ捕虜の形にして提供したのである。
これは「役務賠償」の一変形であろう。『第二次世界大戦と捕虜問題』でもシベリア抑留が「役務賠償」の疑いが限りなく濃いことに触れているが、【役務賠償】(えきむばいしょう)とは「労力を提供することによって相手国に与えた損害を賠償すること」(『大辞林』三省堂)を言うが、誇り高き天皇の軍隊の澄田中将の場合の実態はその誇り高き人格にふさわしく「労力を提供することによって」自らの身の安全を交換条件としたとなる。
「役務賠償」については当ブログ記事≪薬害肝炎/「命の生き剥がし」は日本の歴史・文化・伝統≫(07.10.28/日曜日)で、「天皇の軍隊・関東軍は開拓民に対する『命の生き剥がし』だけではなく、ソ連軍に捕らえられた日本兵捕虜の即時送還を国際法に基づいて求めることはせずに、逆に<帰国までの間「極力貴軍の経営に協力する如く御使い願い度いと思います」>(93、7.6『朝日』≪旧満州捕虜のシベリア使役 関東軍司令部から申し出≫)と「役務賠償」の生贄に利用する目的の「命の生き剥がし」を将兵に対して行っている。そう申し出たご褒美に自身の身の安全を保証してもらう自己保身からのゴマすりだったに違いない。」と部分的に触れ、2003年8月3日アップロードの自作HP「市民ひとりひとり/戦争百態」でも、「シベリア抑留者は、捕虜中の未払い賃金の支払いを求める訴訟を政府に対して起こしています。南方から帰国した捕虜には労働賃金が支払われ、シベリア抑留者には支払われていないということです。特に民間人を含めたシベリア抑留は、大本営が「国体護持」と引き換えにソ連に労働力として提供した<役務賠償>の産物であった疑いを示す、大本営参謀名の視察報告書がロシア軍関係の公文書施設で発見されたと、1993年8月13日の朝日新聞が記事にしています。同記事は、『ソ連に捕虜の一部を労働力として差し出す「役務賠償」については、昭和20年7月に昭和天皇から対ソ平和交渉を命ぜられた近衛文麿元首相が作成した天皇制維持を目的とする『和平交渉の要綱』に盛り込まれている」と解説しています。そのときの和平交渉は、ソ連に拒否されていますが、敗戦前の『昭和20年7月』の段階で、大日本帝国という国家は、国民を生け贄にする意志は持っていたという事実が存在し、シベリア抑留はそのような意志の発展形として発生したものではないかという疑いを引きずっていた歴史性を持ち、その疑いを証明する視察報告書の発見となっています。」と触れてみたが、この「役務賠償」はあくまでも国体護持(天皇制維持)を至上命題とし、交換条件として国民の命を犠牲とする生贄の構図を描いている。
いわば近衛文麿が『和平交渉の要綱』で示した国体護持を優先課題とした「役務賠償」の提案を関東軍が軍隊護持、あるいは軍上層部の身の安全を優先課題としてソ連軍に捕虜となった日本兵及び民間人に応用した犠牲の構図だっただろうということである。
そして敗戦決定後の中国に於ける日本軍の帰国から外され、共産党軍や国民党軍に編入させられた兵士たちも軍そのものの体裁を維持するため、あるいは軍上層部の延命の犠牲とされて「役務賠償」の形を取らされた。このこと以外の真相は考えにくい。
近衛文麿の国体護持・天皇制至上主義は戦前の絶対的天皇制の一端を重要な立場で支える皇族の一人だったのだから、当然の姿勢であろう。あくまでも初めに天皇制ありきなのである。国体護持・天皇制維持のためには何でもする、国民の犠牲を何らいとわない、歯牙にもかけないが基本的国家観だった。
このことは太平洋戦争の戦局悪化に際して近衛文麿が1945年、敗戦の年の2月に上層した文書(「近衛上奏文」)にも如実に現れている。
近衛文麿の上奏文(抜粋)
敗戦ハ遣憾ナカラ最早必至ナリト存候、以下此ノ前提ノ下ニ申述候。
敗戦ハ我カ国体ノ暇僅(カキン)タルヘキモ、英米ノ輿論ハ今日マテノ所国体ノ変革トマテハ進ミ居ラス(勿論一部ニハ過激論アリ、又将来如何(イカ)ニ変化スルヤハ測知シ難(ガタ)シ)随(シタガッテ)敗戦タケナラハ国体上ハサマテ憂フル要ナシト存候。国体護持ノ建前ヨリ最モ憂フルヘキハ敗戦ヨリモ敗戦ニ伴フテ起ルコトアルヘキ共産革命ニ御座候。
ツラツラ思フニ我力国内外ノ情勢ハ今ヤ共産革命ニ向ツテ急速度ニ進行シツツアリト存候。即チ国外ニ於テハソ連ノ異常ナル進出ニ御座侯。(中略)
カクノ如キ形勢ヨリ押シテ考フルニ、ソ連ハヤカテ日本ノ内政二干渉シ来ル危険十分アリト存セラレ候(即チ共産党公認、ドゴール政府、バドリオ政府ニ要求セシ如ク共産主義者ノ入閣、治安維持法、及防共協定ノ廃止等々)翻(ヒルガエッ)テ国内ヲ見ルニ、共産革命達成ノアラユル条件日々具備セラレユク観有之候。即(スナワチ)生活ノ窮乏、労働者発言度ノ増大、英米ニ対スル敵愾心(テキガイシン)昂揚ノ反面タル親ソ気分、軍部内一味ノ革新運動、之二便乗スル所謂(イワユル)新官僚ノ運動、及之ヲ背後ヨリ操リツツアル左翼分子ノ暗躍等ニ御座候。右ノ内特二憂慮スヘキハ軍部内一味ノ革新運動二有之候。(中略)
昨今戦局ノ危急ヲ告クルト共ニ一億玉砕ヲ叫フ声次第ニ勢ヲ加へツツアリト存候。カカル主張ヲナス者ハ所謂右翼者流ナルモ背後ヨリ之ヲ煽動(センドウ)シツツアルハ、之ニヨリテ国内ヲ混乱ニ陥レ遂ニ革命ノ目的ヲ達セントスル共産分子ナリト睨(ニラ)ミ居り候。
一方ニ於テ徹底的ニ米英撃滅ヲ唱フル反面、親ソ的空気ハ次第ニ濃厚ニナリツツアル様ニ御座候。軍郡ノー部ハイカナル犠牲ヲ払ヒテモソ連ト手ヲ握ルヘシトサヘ論スルモノモアリ、又延安(中国共産党ノ拠点)トノ提携ヲ考へ居ル者モアリトノ事ニ御座候。(中略)
戦局ノ前途ニ付キ何等カ一縷(イチル)テモ打開ノ望ミアリト云フナラハ格別ナレト、敗戦必至ノ前提ノ下ニ論スレハ勝利ノ見込ナキ戦争ヲ之以上継続スルハ、全ク共産党ノ手ニ乗ルモノト存候、随(シタガッ)テ国体護持ノ立場ヨリスレハ、一日モ速(スミヤカ)ニ戦争終結ヲ講スヘキモノナリト確信仕リ候。
戦争終結ニ対スル最大ノ障害ハ、満州事変以来今日ノ事態ニマテ時局ヲ推進シ来タリシ軍部内ノカノ一味ノ存在ナリト存候。彼ラハ己二戦争遂行ノ自信ヲ失ヒ居ルモ、今迄ノ面目上飽クマテ抵抗可致者ト存セラレ候。(中略)
ソレハトモ角トシテ、コノー味ヲー掃シ軍都ノ建直シヲ実行スルコトハ、共産革命ヨリ日本ヲ救フ前提、先決条件ナレハ、非常ノ御勇断ヲコソ願ハシク奉存候。
(外務省編『日本外交年表竝主要文書』下より)
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近衛のこのような国体護持・天皇制絶対主義の姿勢は敗戦前後の天皇の戦争責任問題にも現れている。彼が唱えた天皇退位はあくまでも昭和天皇個人に戦争責任を帰すことで国体護持・天皇制維持の身代わりとする主張であって、他権力にその絶対性を利用させることになっている二重権力構造の原因たる天皇制そのものの罪を問い質したものではなかった。
いわば戦争責任の生贄を昭和天皇に求め、そもそものハコモノたる天皇制という国家体制(=国体)の延命を図った。その構図はソ連に捕虜の一部を労働力として差し出す「役務賠償」案の国民を生贄とし、犠牲とさせる構図と対称をなす。言ってみればトカゲのシッポ切りであろう。国民だけではなく、昭和天皇をも国体護持・天皇制維持のためにトカゲのシッポに変えようとした。
中曽根康弘が戦後国会で吉田茂首相に対して行った天皇退位に関する質問に対しても、基本は天皇制維持に立った質問から出ていない。
大宅荘一はその著『大宅荘一全集第23巻 実録・天皇』で、「どっちも決定的証拠があるわけではないが」と断りを入れて、明治天皇の父親孝明天皇の暗殺説を紹介している。「終戦後になって、京都市に保存されている資料の中に、当時祈祷師として多くの信者を持っていた日蓮宗の僧侶の日記が発見された。それによると、天皇が急病だというので、あわてて御所にかけつけたとき、天皇の顔には紫の斑点があらわれて虫の息だったという(一説によると、その前の日に岩倉具視が天皇に新しい筆を二本献上したが、その穂先に毒が含ませてあったのだともいわれている。天皇は筆をとるといつもなめる癖があったからだ)。
アーネスト・サトーはその『日本滞在記』の中で、
風評では崩御の原因は天然痘だといわれたけれど、幾年か後に、私は裏面の消息に精通する日本人から、帝はたしかに毒殺されたのだと教えられた。・・・・東洋では偉い人の死因を毒殺だとすることは、きわめて普通であると書いている。」と。
孝明天皇は反王政復古派で、統幕派の一部公家と薩長の討幕派に不都合な存在だった。孝明天皇の死後、明治天皇は15歳で即位した。言いなりになる都合のいい存在になることは十分に計算できた年齢だったろう。
もし暗殺説が事実なら、孝明天皇にしてもトカゲのシッポとされたと言える。
このような国民を生贄に供し、その犠牲をいとわない天皇制維持優先・国体護持優先の国家観は国家を形成する上層部の人間ほど強く信念していただろうから、民間よりも軍隊組織優先、兵士よりも上官優先・将校優先は当然の成り行きとしてあった構図であったろう。
勿論この天皇制維持優先・国体護持優先の国家観は上は下を従わせ、下は上に従う権威主義の行動様式を基盤とし、その上に最も大袈裟な形を取って成り立たせた思想であろう。
そしてそのような思想は今以て国民の命の生き剥がし・犠牲を何とも思わない国家優先・大企業優先の政治に脈々と受け継がれている。派遣や請負といった労働形態で以って「生活」を人質・捕虜に低賃金・長時間を強制する戦後型「役務賠償」に姿を変えて生き続けている。
参考までに、≪「退位」揺れた天皇/歴史と向き合う≫(06.7.13.『朝日』朝刊)から中曽根の退位問題に関わる質問に対する自らの感想の部分を引用。
終戦後自らの周囲に語る/中曽根康弘
私が衆院予算委員会で昭和天皇の退位問題について質問したのは、51年4月にサンフランシスコ平和条約の調印があり、翌52年4月には条約が発効するというときだった。
いよいよ日本が占領体制から脱却し、独立国家として基本体制をつくってゆく大事な時期だという自覚のもとに、時の吉田茂首相に質問するという形で取り上げたのです。
天皇の側近だった木戸幸一さんや、東大総長だった南原繁さんが、天皇退位論を唱えていた。この問題について、国民はどう判断していいのか迷っていたし、答を求めていた時代でもあった。
保守政治家がそういう質問をするのは勇気のいることだったが、国民がもやもやしている問題に結末をつけておく必要があると考えた。
質問の真意は次のようなものだった。
人間天皇となられた天皇は過去の戦争について非常に苦悩されておられるのではないか。もし天皇に退位したいというお気持ちが万一あるような場合は、吉田首相はそれを抑えてならない。もとよりこれは天皇ご自身が決められることで、外からとやかく言うべき問題ではない。もしそういうことが行われるとすれば日本国民は感銘し、戦没者遺族は感泣し、天皇制の基礎である道徳性が強化、確立されるのではないか。
吉田さんは私の質問の意味を曲解して、「天皇退位を希望するが如き者は非国民」と、珍しく強い口調で答弁した。
吉田さんの誤解はともかく、あの段階ではおそらく、天皇退位論というものに結末がついたような感じだった。国会でそういう議論が行われ、首相の決意が明確になったということによって。
昭和天皇はヒューマニストで、正義感の強い方であったから、大戦の結果については責任を感じられていたと思う。ただ、それは天皇ご自身の心の問題であって、天皇のそういう問題についてあれこれいうべきではないと思う。私自身、その後、首相になって昭和天皇に身近に接した、その実感からすると、昭和天皇という方の人間性、愛国心に触れて、やっぱり退位されないで、がんばってくださってよかったと痛感しました。
それでは、あの戦争の責任は誰が取るのか。戦争までもっていった軍部の指導者や判断を誤った政治家には責任がある。ただし、その責任を裁こうとした東京裁判は、戦勝国が「平和に対する罪」「人道に対する罪」などそれまでなかったものを事後法的につくって、一方的に行った裁判であり、正当なものではなかったと私は主張している。
平和条約11条は、政府の定訳によると、日本は「裁判を受諾し」、その執行に責任を持つとされているが、あの英語は「ジャッジメンツ」(judgements)とあり、複数になっているのは判決のことである。だから正当な解釈は、「判決を受諾し」であり、内容を含めた裁判ではない。
しかし、あの戦争についての責任はいつかが日本国民自身によって問うことが、後世のためにも必要だと考えてきた。戦後60年過ぎて今、ジャーナリズムが改めてその検証に動いていることは、いずれ日本の歴史の上で出てくるべきものが出てきたという感じがしますね。(聞き手・斉藤淳一)