電子黒板は有効な教育グッズとなり得て、生徒の考える力の育成に役立つのか

2009-09-27 08:46:35 | Weblog

 

 日本の教育に於いて欠けている要素は生徒の考える力だとされている。これは日本の教育が知識の機械的伝達と機械的授受で成り立っている暗記教育を歴史としている以上、歴史的な傾向としてある欠如であろう。

 この傾向は2007年から再開された、全国の小学6年生と中学3年生を対象とし、毎年4月に実施の全国学力テストの結果にも現れている。

 2009年全国学力テストの結果が今年8月に公表されたが、「過去2回のテスト結果と同様に知識や技能を活用する力の育成に課題があることが分か」ったと「NHK」が伝えているが、「知識や技能を活用する力に課題」とは基盤となる“考える力”の欠如を言っているはずである。

 別の「NHK」記事――《学力定着傾向も活用に課題》は具体的に解説している。

 〈正答率の平均は、問題の数を減らした影響で、小学校・国語の「問題B」と中学校・数学の「問題A」を除いて去年より3ポイントから13ポイント高くな〉ったが、〈その一方で、過去2回の結果と同じように基礎的な学力を問う「問題A」に比べて活用力を問う「問題B」の正答率が低く、文部科学省は資料から必要な情報を読み取って自分の考えを表現する力や、基礎的な知識を日常生活の中で活用する力の育成に課題があると分析してい〉ると。

 1回目のテストの結果を受けて各学校ともそれなりに「資料から必要な情報を読み取って自分の考えを表現する力や、基礎的な知識を日常生活の中で活用する力の育成」に重点を置いた教育を講じたはずだが、「過去2回のテスト結果と同様」ということはそういった教育が力を発揮できなかったことの証明以外の何ものでもないだろう。

 このことは何を意味するかと言うと、一般的に日本の学校教師は考える力を生徒に植えつける教育能力に欠けるということであろう。学校教師のそのような教育能力の欠如を受けた生徒の考える力の欠如ということになる。

 最初に触れたが、日本の教育が考えるプロセスを省いた知識の機械的伝達と機械的授受のみで成り立っている暗記教育を歴史としているのだから、教師と生徒が同様の状況に立つこととなっている当然の対応関係と言える。

 民主党がバラ撒きと批判した麻生内閣の09年度補正予算からムダな贅肉を落とすべくその見直しを進めているが、文科省関係の補正予算からは全国の各公立小中学校へ1台ずつ導入を予定、テレビの地上デジタル化とあわせて約670億円を計上していた電子黒板が見直しの対象となった。

 もし導入ということになったなら、多額の予算をかける以上、日本の教育に欠けている生徒の考える力の育みに役立たなければ意味はない。

 名前を聞いただけでおおよその見当はつくが、電子黒板とは具体的にはどんなものなのか。非常に便利な道具であることは確かである。今までノートに筆記していた文章をパソコンで入力するようになったときの便利さに匹敵するに違いない。パソコン入力した文章は保存可能、いつでも簡単に呼び出すことができて、書き直しも文字で汚すことなく簡単にできる。読み直したい箇所、どう書いたか改めて知りたい箇所はノートのように文字を追い、ときには何ページもめくって探す手間をかける必要もなく、文字検索で簡単・確実に辿りつくことができる。

 だが、多くの教師が授業の資料作りにパソコンを利用しているはずだが、生徒の考える力の育みに役立ったているだろうか。役立っていたなら、日本の教育の今言われている課題はとっくに解決できていたことになる。

 となると、670億円もかけて全国の各公立小中学校へ1台ずつ導入予定の電子黒板もパソコンと同様に考える力の育みには役に立たない単なる便利グッズで終わる可能性が生じる。

 電子黒板を使った教育が考える機能を持たせ、生徒に考える機会を与える教育グッズとなり得るのかが問題となる。なるとしたら、なぜ教師は電子黒板を用いずとも、従来的な教育形式の中で自らの教育方法に考える機能を持たせて生徒に考える機会を与えることができなかったのか。

 教師が特別な機器を用いずとも考える機能を持たせた知識の提供を行うことができ、生徒に考える機会を与えて考える力の育成に力があったなら、パソコンもそうなっただろうが、電子黒板にしても便利グッズとして考える力の育成により力を発揮すると言える。

 基本は教師の教育方法にかかっているからである。

 いわば教師の教育方法が従来どおりなら、電子黒板を如何に活用しても、黒板に直接文字を書いたり、一旦消してまた書き入れるといった労力的手間を省くことに役立つ教育で終わる可能性が高くなる。

 『電子黒板普及推進に資する調査研究事業サイト -平成19年度 文部科学省委託事業 先導的教育情報化推進プログラム』という長たらしい名前のHPがその効能を謳い上げている。勿論いいこと尽くめのことばかりで、悪いことは書いてない。 

 大体次のように言っている。(青文字)で従来の黒板教育と代らないことを書き入れた。
 
 電子黒板なら、映写された画面上でコンピュータを直接操作することができます。声のする所(操作する所)と提示されている所が一致しているので、子どもたちはどこを見てよいか迷うことなく集中して授業に臨むことができますし、先生は行ったり来たりする無駄な時間をなくすことができます。

 (従来の黒板教育から比較して機械的な便利さを言っているに過ぎない。生徒が集中できるかどうかは教師が伝える授業内容に、あるいは提示知識に関心・興味が持てるかどうかによって決まるからだ。同じディスプレイ形式のテレビに慣らされているといっても、テレビから受ける情報同様、受け身の情報で終わらせたなら、電子黒板をわざわざ導入する意味を失う。)

 電子黒板に拡大提示した教科書、子どものノート、ワークシート、テスト・宿題プリントの本文や挿絵、図・グラフ等に書き込みながら説明できます。

 (確かに便利であるが、説明する教師の言葉が従来の黒板教育と変わらなければ、考える力を養うまでには至らない。常に教師の言葉が問題となるからだ。)

 学習効果の高い画像や書きこみを利用することで、生徒の興味・感心そして集中力を持続させることができます。

 (生徒が興味を持って「学習効果の高い画像や書き込み」に意識を集中させたとしても、それをどう咀嚼し、どのように自分の考えへと高めるかは、説明が従来の言葉から出ていなければ、道具立ての違いで終わるだけのことで、やはり従来にない教師の生徒に考えさせる言葉が必要となる。)

 電子黒板の画面の保存が可能なため、書きこんだ画面を再度呼び出して振返ることができます。昨日の黒板を呼びもどすことは通常では不可能ですが、電子黒板ならそれができるます。

 (パソコンを使って自分で勉強することと変わらないことを学校が電子黒板を使ってするだけのこと。家でパソコンを使って勉強していない生徒には目新しいだろうが、このような便利さが考える力の育みとなる保証はどこにもない。)

 画像を拡大提示することで、注目させる部分を生徒に意識させることができ、また、知識として定着させる事項や関連づけたい事項について、電子黒板に直接書き込むことができ、それを授業のまとめで再提示することで、振り返りを容易にできます。

 (これは教師が授業終了間際に纏めとして言葉や板書を使ってやっていたことで、テストが近いときなどは、「ここはテストに出るかもしれないから、よく勉強しておくように」といったことまでした。だが、すべては機械的暗記で済ますことができた。電子黒板のこのような使い方でもしも生徒に考える機会を与えることができるなら、いわば知識の機械的定着で終わらせずに済ますことができるなら、電子黒板を使った場合に劣るとしても、例え使わなくとも考える力を植えつけることができたろう。例えそれが小さな植えつけであっても、それがキッカケとなって生徒自身が育み、発展させていき、大きな考える力に成長させていくだろうから、電子黒板が必ずしも必要な教育グッズとはならないことになる。)

 教科書画像など生徒と同じ学習環境を黒板に提示することで視覚的学習効果に深まりをもたらします。さらに電子黒板では教科書の一部を拡大させることも簡単です。重要部分を拡大しそこにさらに書きこみ、理解を深める。簡単な使用法でも大きな学習効果を生み出します。

 「書きこみ」が教師の従来どおりの説明と同じなら、機械的な問題で終わる。)

 児童の机上にある学習環境(児童が見ている教科書等の学習教材)と同じものを黒板上に表せるので、つまづいている児童にとって視覚的に理解しやすくなり、学級全体へ高い共通理解をもたらすことができます。

 (いいこと尽くめだが、理解できない文章をパソコンに取り入れたからといって、「視覚的に理解しやすくな」る保証はどこにもない。授業に興味を持たせて、考える機会を与えかどうかにかかっている。教師が電子黒板にそのような機能を持たせることができるかかどうかである。持たせることができるなら、黒板教育でも持たせることができるはずである。

 つまり、電子黒板が問題ではなく、あくまでも教師が問題となる。)


 これまでは学習プリントを用意し、教師はその拡大版(とはいえA1程度)を黒板に貼るなどしながら、また、マス目短冊黒板を複数用意し、そこに書き込んでおいたりして授業を進めていた。拡大版とはいえ児童には見えにくく、指示が通りにくかったし、マス目短冊黒板の枚数も十分ではなく多くの児童に考えさせるには限界を感じていたが、電子黒板を使うことでそのいずれもが払拭された。

 (これも機械的な便利さの問題。そこから考える力の育成につながる道筋が描くことができるわけではない。)

 電子黒板に生徒の作文を書画カメラで写し、優れた表現の部分を指摘したり、全体の構想がどのようになっているのかを書き込みながら説明できるます。自分の作品と友達の作品を比較したり、はじめに書いた作文と書き直した作文を比較したりすることが容易であり、また視覚的にとらえることでクラス全体の理解を深めることができます。

 「容易」というだけのことで、教師の書き込みながらの説明が従来の説明と異なっていなければ、生徒の説明も教師の説明に従った、その範囲内の説明で終わるだろうから、考える力の源泉とはならないだろう。考える力の育みは教師が考える力を育む教育能力を有しているかどうかに偏にかかっているのであって、電子黒板の機能そのものとは関係ないからだ。教師が生徒がまだ知らない詩を朗読したのを受けてその詩から生徒が感銘を受け、色々な思考を頭に思い巡らせてその考えを発展させるキッカケは詩自体の言葉と教師の解釈の言葉にかかっている。基本となる考える力を生徒に植えつける教育がなされていなければ、その結果を受けて考える力が生徒に備わっていなければ、教師の詩の朗読は機械的な朗読で終わる。電子黒板を使った作文の比較も同じ運命を辿るに違いない。)

 ペン機能や拡大機能を用いて視覚に訴えながら説明を加えることで、説明する側の表現力を高めることができます。

 (特別な場合を除いて生徒の表現能力は教師の表現能力に対応する。教師の表現能力に見るべきものがなくても、殆んどないことだが、生徒の表現能力に見るべきものがあったなら、教師をそれを学ぶはずだし、その逆も同じ構図を取るはずである。いわば考える力にしても表現能力にしても、その程度は相互対応の姿を取るはずだから、教師の表現能力に見るべきものがなければ、生徒の表現は「ペン機能や拡大機能を用いて視覚に訴え」たとしても、機械的表現で終わりかねない。)

 直方体、立方体の概念について理解するとともに、見取図、展開図について理解し、立体図形の観察と表現の能力を高め、空間概念の基礎を養うことができます。

 3Dソフトを使うと、立方体のフレームを特定の方向から見たように表示した時、立方体ではなく「六角形とその対角線」に見える。そのような教材提示は実物では難しい。どうしてそのように見えてしまうのかという発問から、児童は見取図を書く時に必要な要素について明確に気づくことができ、問題解決的な学習を通して本来のめあてが達成されます。また、その提示から、角度を変えて実際に回転させることで、平面的な場合と立体的な場合をシームレスにイメージさせることができます。さらにその図形に直接書き込みをして説明することで、児童の理解をより深めることができます。

 これまで平行四辺形や三角形の求積は公式を適用することに重点が置かれ、時間的な問題から作業的な算数的活動が十分できなかったり、考えを比較したり共有したりして学びを進める探求的な算数的活動の場面が少なかったりした。そこで、こうした問題を解消する手だてとして、学年及び学級児童の実態を踏まえた上でICT機器やデジタルコンテンツを活用して授業展開する。ICT機器は、児童の理解を促進させるための拡大提示及び成果物共有のためのツールとして、児童の思考の道筋を整理して連続した授業展開を進めるための道具としての活用を図る。

 (確かに平方形や立方体は板書するよりも簡単に提示でき、回転も自在に行って様々な角度から見せることができて形に対する生徒の理解を深めるだろうが、「知識や技能を活用する力」というよりも「基礎的な知識」に属する教育方法ではないだろうか。考える力の育みに役立つとしたなら、電子黒板を使わなくても、教師の工夫次第で育めたはずである。)

 9月25日(09年)に川端文科相が補正予算見直し対象としている電子黒板導入の判断材料にその効果を学校に出かけて授業を受ける形で確認するために約30分間、英語の授業を受けたという。

 どのような印象・感触を受けたのか、結論は週明け以降になるだろうが、今までと同じ教育形式の中で取り入れるだけのことなら、便利グッズで終わだろう。

 ノコギリで材木を切っていたのを電動ノコギリで切るようになった。力は要らないし、格段に時間も早く、アッという間に切れてしまう。時間・労力ともに節約できた。しかし、切断の成果として残る切り口はノコギリで切ったのと電動ノコギリで切ったのとでは殆んど変わりはない。

 必要なのは電子黒板の単なる便利さではない。
 
 要するに従来の暗記教育に立っているなら、何を使おうと、パソコンを使おうと電子黒板を使おうと、便利と言うだけで、考える力の育みに役立つことはないに違いない。

 基本は教師の思想面での教育方法にかかっているということである。機器を使った教育手段の問題ではない。

教師が自ら考える機能を有して教科書の内容を把握し、その内容を生徒に伝える段階で生徒に考えさせる機能を持たせて、生徒自身に考えさせる機会を与えることができるかどうかである。

 知識への自発的(主体的)アクセス、アクセスした知識に対する自発的(主体的)解読、そしてその知識の自発的(主体的)活用。これらが有効に働いて、考える力はつく。そのような状態に持っていくことができるかどうかの教師の教育力が試されているのではないだろうか。

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