日本人の精神に見合った朝青龍のガッツポーズ否定――品格要求なのか

2009-09-30 16:29:15 | Weblog

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 今秋場所千秋楽で白鳳に圧倒的な攻めで寄り切られて全勝優勝は逃したものの、優勝決定戦ですくい投げで勝って場所前の芳しくない評判に反して4場所ぶりの優勝、貴乃花を抜いて北の湖にあと1つと迫る通算23回の優勝を獲ち取った朝青龍が土俵上で何度もガッツポーズを取ったことを横綱の品位を汚す行為だと批判する声を紹介しつつ、待ってましたとばかりにマスコミが騒ぎ立てた。

 勿論ガッツポーズを擁護する声も紹介しているし、横綱審議委員会でも賛否の意見が割れたそうだが、相反する声を紹介してどっちが正しいと煽ることで、読者・視聴者の関心を集めようと腐心している。

 朝青龍の大関から横綱への昇進時に品格がないという理由で反対し、それ以来横綱としての品位・品格がないと批判を続けて朝青龍の天敵とされている横綱審議委員会の一員である内館牧子はマスコミにとっては朝青龍批判を煽る側の必要不可欠な素材として今回も顔を覗かせている。

 朝青龍を大相撲のヒール役(悪役)と位置づけているマスコミ、ファンがいるが、内館牧子はマスコミにとって朝青龍批判を煽る一種のヒール役に位置づけている観がある。

 内館牧子「絶対によくない。土俵には一種の武士道があり、守るところは守るべき。・・・・(相撲協会は)許していくのか、やらないように厳しくしていくのか。一体どちらなのですか」(日刊スポーツ

 「(謝罪に)高砂親方が横審に来るのは初めて。それだけ反省しているということでしょう。でも朝青龍は、いつも反省しているというけど、おおかみ少年と一緒ですね」(同日刊スポーツ

 「帰国過多のけいこ不足。心技体すべてにおいて満たされていない。・・・・(優勝は)どうとらえるかというと『まぐれ』ですよ。・・・・(自身の来年1月の任期終了に絡めて)朝青龍の方が早く引退すると思ってたけど、私の方が先に引退しちゃうわ」(日刊スポーツ

 「負けた相手を前に喜んだり、ガッツポーズしたりすることが、いかに恥ずべきで、情けないことか、私は双葉山さんに直接聞いた。・・・・幕内最高優勝は心技体そろう人が受け取るもの。朝青龍は心が充実せず、技も磨いておらず、体もけいこ不足でブヨブヨ。今回はまぐれ、としか考えられない」(中日スポーツ

 準肯定派の横綱審議委員会の鶴田卓彦委員長。

 「高砂親方は謝罪ではなく説明に来た。・・・・あの程度はいい。個人的に違和感はない。国民もそう思っているのではないか。・・・・あの体力と精神力があれば、まだまだ頑張れる」(msn産経

 「土俵には一種の武士道がある」――

 如何なる競技に於いても卑怯な手は使わない、正々堂々と戦うということ以外に求める姿勢があるのだろうか。朝青龍は卑怯な手を使っているわけでも、正々堂々と戦っていないわけでもない。ただ、勝ったときにガッツポーズすることとダメ押し、それと土俵外の服装やその他の行動が批判されている。

 土俵上の立居振舞いに「武士道」を求めること自体が無理があるのではないのか。封建時代の武士自体が武士道を体現していたわけではなかった。体現していたなら、ことさら武士道を言い立てる必要は生じなかったろう。

 各宗教が人間の正しい行いを永遠の教えとしなければならないのは人間の多くが正しい行いからハズレた生き方をしているからだろう。

 いわば人間が正しい行いをしていないから、正しい行いを永遠の教えとする宗教が成り立つ。武士道にしても然り。

 封建時代にことさら武士道を言い立てたのは、支配層としての武士が武士以下の士農工商層と同じ世俗的存在であっては支配の示しがつかない、支配者としての存在意義を失い、支配者としての価値が疑われることになることから、支配者としての人間的価値を持たせるために「武士道」なる価値づけを必要としたと言うことであろう。

 また「武士道」なる価値観を装わせることによって士農工商に対する支配の正統性を獲ち取ることができると同時に、武士たちの最終的支配者としての領主等が支配下に置いている彼ら武士を自らの支配に都合のいい存在に封じ込めることができる。

 だが、武士と言えども存在形式は違えても、被支配層と同じ世俗的存在に過ぎなかった。だから、同じ存在ではあってはならない、高い価値を持った支配者として優れた存在でなければならないと武士道を延々と講じることとなった。今の言葉で言うと、能書きを垂れることとなった。

 武士道などという精神を叩き込まれなくても、立派な武士よりも立派な商人や町人、あるいは百姓が存在していなかったことはなかったたはずだ。

 天皇の軍隊たる大日本帝国陸海軍の軍人も同じであろう。もし彼らが言われているところの軍人精神を体現していたなら、アメリカ軍の攻撃を前にして陣地を放棄し敵前逃亡する上級将官は存在しなかったろうし、古参上級兵の新兵いじめにしても存在しなかったろう。略奪や婦女暴行も、日本刀の試し切りと称した敵兵の処断もなかったろうし、国民に戦果のニセ情報を伝える大本営発表もなかったし、勝ち目のない戦争を仕掛けて無残な敗北を喫し、国民に塗炭の苦しみを味わわせたその責任を総括しないまま終えることはなかったろう。勝算のない戦争を精神論だけで戦え、戦えと鼓舞することはなかったろう。

 軍人は国民の上に位置し、支配層を形成する者として価値づけるその証明のために軍人精神を必要とし、上に立つ者としての優秀さを価値づけるべく軍人精神をさも体現しているかのように振舞ったに過ぎない。

 勿論立派な軍人も存在したろう。だが、そういった人間はほかの職業に就いたとしても立派な人間足り得たはずである。軍人となって、軍人精神を叩き込まれたから立派になれたのだとするなら、ほかの職業では軍人精神を叩き込まれる機会がないから、立派にはなれないこととなって軍隊以外に立派な人間は存在しない矛盾を来たすことになる。

 要するに武士道、あるいは軍人精神が人格形成に役立ったとしたら、偶然の機会提供に過ぎないと言える。

人格は日々の人間関係等の社会的経験から自分自身で学び取っていくものだからだ。学び取れない人間は武士道を学ぼうと軍人精神を学ぼうと、人格形成に役立てることはできない。

 新聞には登場していないようだったが、テレビでは相撲評論家の杉山邦博が朝青龍問題の常連として顔を出していた。

 杉山「大相撲はただのスポーツでなない。伝承された日本の文化。だから国技とされる」

 1月場所でも朝青龍のガッツポーズが問題視されたが、杉山邦博氏にご登場を願ってそのことを扱った2009年3月13日付の「msn産経」記事――《【金曜討論】朝青龍の「功罪」 さだやす圭氏、杉山邦博氏》が杉山氏の横綱はどうあるべきかを伝えている。(杉山邦博氏の主張のみを参考引用)

 〈□杉山邦博氏

 ■「抑制の美」理解してほしい

 --朝青龍のガッツポーズに衝撃を受けたとか

 「(優勝を決め、土俵上でガッツポーズをした)初場所の千秋楽、日本の文化が音を立てて壊れかけたという感じがした」

 --力士としてどう見るか

 「貴乃花を抜き、北の湖にあと1つと迫る通算23回の優勝は評価している。だが、マスメディアには『大横綱』という言葉は使ってほしくない」

 --その理由は

 「土俵上での節度ある立ち居振る舞いや『勝者は敗者の胸中を察す』という部分が彼には極めて薄い。横綱というのは大相撲の象徴的な地位であり、公人として範を垂れるべきものだ。“ダメ押し”なども含め、あのような振る舞いが許されるなら、他の若手力士たちがまねをしても、とがめられなくなってしまう」

 --なぜ、横綱には節度が求められるのか

 「NHKに入って以降、56年間、見てきたが、大相撲は1400年の歴史を持つ、五穀豊穣(ほうじょう)の祈願に由来する神事だ。初日の前日には土俵に神を迎える祭りをし、15日間の場所が行われるという大事な日本の文化。神のもとで行われるのだから、神への感謝の気持ちを根底に置く『抑制の美』が求められる。単なるスポーツというなら、力士が大銀杏(おおいちょう)を結ったり、化粧まわしをつける必要もない。行司も古式装束でなくワイシャツでやればいい。そういう大相撲を見たいと皆さん、思いますか」

 --外国人に理解できるのか

 「外国人だから、というが、それは違う。高見山(現・東関親方)が昭和47年に外国出身力士として初めて優勝したとき、何のパフォーマンスもなかった。テレビCMに多数出演していたあのキャラクターを考えれば、派手な振る舞いをしてもおかしくなかった。師匠から厳しく教育され『抑制の美』を理解していたのだ。朝青龍も横綱になって6年にもなるのだから、そろそろ理解してほしい」

 --彼のような“悪役”がいるから盛り上がるという意見もある

 「悪役がいないと盛り上がらずに駄目になる、などというほど大相撲は“やわ”な世界ではない。プロの集団で長い伝統も持っており、一時的に客の入りが悪いことがあっても必ず復活する」

 --悪役はいなくても、というなら、春場所は何を期待して見ればいいのか

 「まず、朝青龍を反面教師にして成長した白鵬の謙虚な一挙手一投足やインタビューをよく見てほしい。それから、稀勢の里の気性の激しい攻め、豪栄道の粘りのある四つ相撲、栃煌山のわきを固めたおっつけ-という日本人の次代の担い手3人の相撲に注目してほしい。彼らが10連勝ぐらいするようになれば、悪役なんていなくてもすぐに盛り上がる」(山本雅人)〉――

 「神のもとで行われるのだから、神への感謝の気持ちを根底に置く『抑制の美』が求められる」と言っている。

 要するに「抑制の美」を各相撲取りは自らの品格としなければならないということだろう。勝負に勝ってもあからさまに喜びを見せていけない、控え目控え目に節度を保って振舞い、負けた相手を思いやり(「勝者は敗者の胸中を察す」)、負けた方も悔しさを露骨に見せてはいけない、悔しさを抑えて、控え目な結末にしなければならないと言っている。

 負けた方のみが悔しさを好きなだけ見せていい、勝った方は喜びを見せてはいけないと言うことになったら、不公平が生じる。

 内館牧子氏の「武士道」にしても、相撲評論家の杉山氏の「抑制の美」にしても、いずれも品格の表現手段と看做している。

 日本人全体が大相撲を「伝承された日本の文化」である、あるいは土俵は武士道表現の場である、そうであるからこそ「国技」だと価値づけことができ、ゆえに“品格”を求められるとする構図を取るなら、全体的な日本人の精神性を反映した品格要求であり、その品格は自らにも要求して自ら体現していなければならないという図式を取らなければならないことになる。

 自らの精神性から発してもいない、当然体現もしていない品格を「伝承された日本の文化」だとか武士道表現の場だとか言って、土俵上にのみ求めるとしたら、飛んでもない僭越行為となるからだ。

 自分が正直であってこそ、他人に正直を求めることができる。自分がウソつきでありながら、他人に正直を求める資格を有するはずはない。

 多分、杉山も内館も、また二人を支持して大相撲の横綱に「武士道」だ、「抑制の美」だと言って品格を求める日本人は自らも常日頃から「武士道」「抑制の美」に則って行動し、常に常に品格漂わせているに違いない。

 またそうであるからこそ、自らの品格と土俵上での品格が響き合わないと、不快な感情が引き起こされ、あれこれと批判することになるのだろう。

 私自身の価値観から言うと、朝青龍ファンではないが、そのガッツポーズに不快な感情を呼び起こされたことはない。困難に打ち克った勝利にこそ、競技する者は思わず喜びの感情を爆発させ、全身で表現する。怪我や不調で3場所優勝から遠ざかって横綱としての責任を果たせず、4場所ぶりの賜杯獲得でやっと横綱としての体面を保つことができた喜びからのガッツポーズだと考えると、何の違和感も感じない。

 勝負がついてるにも関わらず必要以上に“ダメ押し”する姿にはいい印象を持てないが、それは品格を私自身の行動原理としているからでも、精神の置き所としているからでもない。いたって俗っぽい人間で、品格は私自身には無縁の精神性でしかない。

 日本の文化に反するとか武士道に反するとかの価値観からでもない。どのような競技であっても、勝敗がついた時点で、その勝負に限って完結させなければならないからだ。だが、朝青龍は明らかに勝負がついているにも関わらず、ダメ押しをする。

 また大相撲が「伝承された日本の文化」であっても、あるいは“神事”に発した競技だと価値づけようとも、後世外国から移入された様々な競技が持つそれぞれの文化に影響を受けて、当初大相撲に与えていた価値観は微妙に変化を遂げて、同じ姿を取っているはずはない。外から受ける変化だけではなく、外国人力士を入れたことによって、彼らの持つ競技文化にも影響を受けて内側からも変化を見せているはずである。

 いわば、「伝承された日本の文化」だ、「土俵には武士道がある」といつまでも変わらずに拘ることの方が間違っているのではないのか。

 それでも大相撲を「伝承された日本の文化」だ、「土俵には武士道がある」と日本性に拘るなら、外国人力士を入れずに、日本人だけの競技とすればいい。あるいは野球やサッカー、ゴルフ等の競技者と触れ合うことを禁じて、他の競技文化の影響を断つべきである。テレビで観戦することも禁じた方がいい。
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