日本海軍 400時間の証言/ 第二回 特攻 やましき沈黙(1)

2009-12-28 10:13:13 | Weblog

 以前書いてそのまま放置し、忘れていた記事です。参考までにブログ記事に加えることにしました。

 途中途中で( )付き青文字で気づいたことを記した。

●印は殆んど解説の言葉を簡略化したものとインポーズの文字を書き写したものとの混交です。

 最初に総合的な感想を記しておくと、元海軍将校たちは“やましき沈黙”は海軍という組織に特有な行動慣習であるが如くに扱っているが、これは日本人が権威主義を行動様式としていることから起きている日本人全体の問題だということ。

 確かに戦後アメリカから民主主義の思想と個人の権利の思想が移入されて日本人の権威主義性は弱まっているが、それでも組織の中で力を得た者や地位の上の者を、あるいは組織そのものを比較絶対者として下の者をして“やましき沈黙”を自らに課す悪しき権威主義性は依然として残っている。

 例えば妻が出産した。夫が育児休業を取って妻と共に育児を体験したいと思っても、社員の権利として認められていながら、本来の仕事から離れて育児などしていていいのだろうか、長期休暇で会社の評価が下がりはしないだろうかなどと恐れて声を上げることができず我慢してしまうのも自己を下に置く、いわば会社や上司に対して自己を対等に置くことができない権威主義性が強いる“やましき沈黙”であろう。

 個人の権利は相互の関係を対等に置くことによってよりよく発揮可能となる。上下の力関係で人間関係を律する権威主義は個人の権利主張の阻害要因として立ちはだかる。

 08年度の雇用均等基本調査によると、育児休業の取得率は女性が前年度より0.9ポイント上昇して90.6%と初めて9割を超えた一方で、男性は前年度より0.33ポイント低下して1.23%と低い水準にとどまっていると「asahi.com」記事)2009年8月18日23時5分)が伝えている。
 
 〈育休取得率は、前年度の出産者(男性は妻が出産した人)のうち調査時までに育休を始めた人の割合。男性は05年度の0.50%よりは上昇したものの、政府が目標とする10%には遠く及ばない。取得期間も女性は10カ月以上が52%を占めるのに対し、男性は54%が1カ月未満と短い。〉――

 当然の権利を発揮できないこの状況は権利主張の阻害要因として立ちはだかっている権威主義性にとらわれているからに他ならない。 


 日本海軍 400時間の証言/ 第二回 特攻 やましき沈黙(総合テレビ/2009年8月10日(月) 午後10時00分~10時59分)

●特攻隊員死亡者――陸海会わせて千人以上。

●特攻作戦推進部署――軍令部、海軍のすべての作戦構想が練られていた部署。

大本営――陸海軍合同の戦争指揮機関、その中核が軍令部。
        特攻にどう関与したのか、その全容を示す資料は殆ど残されていない。

●「海軍反省会」の録音テープ。
 戦後、元海軍将校が400時間に亘って議論していた。

軍令部は神風特攻隊よりも前から組織的に特攻兵器の装備を始めていた。

●軍令部はどのような特攻作戦を進めていたのか。戦後沈黙を続けてきた日本海軍幹部たち当事者の告発。

●フィリッピン・マニラの北の街スバラカット、日本から遠く離れたこの地から最初の特攻神風特別攻撃隊が出撃。
 特攻は生きたまま体当たり攻撃していく作戦。その死が想像を絶するものであるがゆえに隊員たちの姿は広く伝えられてきた。特攻隊の慰霊碑の碑文にはb>隊員たちが自ら志願したことを示す「Volunteer」(ボランティア)の文字が刻まれ、当時の姿を今に伝えている。

●しかし隊員たちに比べて特攻を命じた側のことはあまり知られていない。特攻は死ぬことでしか目的を達成できない作戦。誰が、なぜ、何のためにこの作戦を行ったのか。

●昭和56年(1981)2月13日。東京原宿。水交会(海軍OB)――海軍元将 
 校たちが集まり、海軍反省会を開催。メンバーの年齢は70代~80代。
戦争の真実を語り、残しておくことが目的。

●反省会が始まって21年。この日初めて特攻に関する議論が行われた。口火を切ったのは特攻を現場で担当した鳥巣健之助元中佐。中央の軍令部は特攻を早くから計画していたが、関与を認めてこなかったと批判。

 鳥巣「中澤さん(軍令部一部長)が中央で特攻を指令したことはないと言うんですよ。私はね、冗談じゃないよと。それは間違いだと。中澤さんはですね、まことにその点はけしからんと私は思いますよ」

 三代一就(みよ・かずなり)元大佐(元航空作戦担当者――昭和14年~17年軍令部)「僕の知っている範囲に於いてはね、特攻隊のオー・・・」

 「大西さん」

 三代「ね、大西さんがね、赴任する前に軍令部に来たんですよ。軍令部の方には総長と次長と部長、これらがおられたわけです。そして、その場で以って、『もう日本海軍の航空兵力の連中の実力が到底、それは敵を攻撃するなんてできないから、じゃあ体当たりでも手がないんでしょう』と。みんな黙っちゃったと」

●最初の特攻は大西中将が発案し、軍令部は認めただけだと、三代元大佐は語った。

 (提案を認めたとは提案にある計画の成算を検討した上で成功の見込みありと承認した場合であっても、上の言うことだからと無条件な従属性で単に黙認しただけであっても、最終責任は承認側にもある。)

 鳥巣健之助「いや、それはね、あくまでもね、あの飛行機(神風特攻機)だけの話だけであってねですね、もうその前にですね、神風特攻よりもずっと前にですね、回天(水中特攻機)をね、採用しているわけです。実際の――」

 「中央で」
 
 鳥巣「実際の計画はもう中澤さん(軍令一部長)おられるときにやってるわけですから、それを俺は中央では指令をした覚えはないなんてことをね、言われること自体おかしいとことですよ」

  (否定自体が特攻を間違っていたと中澤が認識しているからであって、正しい作戦だったと信じていたなら、隠すどころか胸を張るだろう。)

 「時期が違うんじゃないかと――」

 鳥巣「違いませんよ」
 
 「今のね、今の問題、ね。あの、みなさん、一寸待ってください」

●     
     |―軍令部(作戦立案)――第一部・第二部・第三部・第四部
     |
 天皇― |
     |             
     |―政 府――海軍省(予算・人事)

 軍令部は予算・人事を掌る海軍省に対して作戦を立案、天皇が持つ軍隊を指揮する権利・統帥権を補佐する機関。

●鳥巣元中佐が名前を挙げた中沢佑(たすく)元中将は軍令部一部の部長をしていた。この反省会の3年前に死亡。軍令部が作戦命令を伝えるが、連合艦隊、その指揮下にあった第三艦隊で鳥巣元大佐は特攻作戦を実行していた。鳥巣元大佐が担当していたのは人間魚雷・回天作戦。

●回天基地のあった瀬戸内海大津島。ここで鳥巣元中佐は軍令部の指示に従って隊員を送り出していた。亡くなった隊員について次のように記していた。

 鳥巣元中佐・記「戦後神風特別攻撃隊のことは知らない人は殆んどいないようであったが、同じ特攻隊でも回天特別攻撃隊のことを知っている人は極めて少なかった。戦死した1万人以上の潜水艦乗員や回天搭乗員に対しても、またその遺族の方々に対しても、相済まぬことだと思っていた」――

 鳥巣「確かに特攻に準じた若者たちの行為は如何なる賛美も惜しむものではない。だからと言ってですね、特攻作戦を賛美することはできない。そこには深刻な反省と懺悔がなければならない」

●鳥巣元中佐の発言を受けて、重要証言があった。特攻作戦が始まったとき、軍令部にいた土肥一夫元中佐(昭和19年~20年軍令部)

 土肥「この今のお話の、大西さんとの話じゃなくて、その遥か前にですね、回天も桜花も、マル四艇もみんな、海軍省で建造はじめているんですよ。そうするとね、その特攻をね、(軍令部)一部長ともあろう者がね、知らないというのはおかしいとこう言うちょるとです、鳥巣さん」

 鳥巣「そうなんですよ」

●土肥元中佐が語った特攻兵器、魚雷を改造した回天、小型戦闘機の先端に爆弾を取り付けた桜花、ボートに爆薬を積んで体当たりする震洋(マル四艇)、なぜ軍令部は特攻兵器の開発に踏み切ったのか。

●昭和18年、日本は太平洋の拠点を次々と失い、9月には絶対国防圏と名づけて死守すべき前線と定める。

 以下「Wikipedia」参照 
 絶対国防圏とは、第二次世界大戦において、守勢に立たされた大日本帝国が本土防衛上確保及び戦争継続のために必要不可欠である領土・地点を定め、防衛を命じた地点・地域である。

 概要
1943年(昭和18年)9月30日の御前会議で決定された「今後採ルヘキ戦争指導ノ大綱」に「帝国戦争遂行上太平洋及印度洋方面ニ於テ絶対確保スヘキ要域ヲ千島、小笠原、内南洋(中西部)及西部「ニューギニア」「スンダ」「ビルマ」ヲ含ム圏域トス」と定められたものがこれで、東部(マーシャル群島)を除く内南洋すなわちマリアナ諸島、カロリン諸島、ゲールビング湾(現在のチェンドラワシ湾)以西のニューギニア以西を範囲とする。

第二次世界大戦時の日本において、太平洋を主戦場とする海軍と中国大陸と東南アジアを主戦場とする陸軍ではその攻撃・防御は分かれていたが、絶対国防圏と設定した地域は陸軍が設定したものに近いものであった。シーレーン防衛能力からして、すでに広範囲な地域を戦場とすることは事実上不可能となっていた。

しかしながら、絶対国防圏設定後も、海軍はその外側に位置する地点の確保にこだわったため、国防圏内で防衛体制の構築が後回しになる拠点があった。重要拠点であるサイパン島についても、防衛体制が整う前にアメリカの侵攻を受けることになる。

倍の兵力をもって侵攻するアメリカ軍に対し日本兵はよく戦ったが、既に制空権、制海権を失っておりマリアナ沖海戦、サイパンの戦いなどで大敗を喫し、サイパン諸島を失ったことによって、攻勢のための布石は無意味となり、日本は防戦一方となる。

絶対国防圏が破られたことで東條英機はその責任を取り内閣総理大臣を辞職した。以後B-29による本土空襲が開始される事となる。〉―― 
 しかし翌19年2月、トラック諸島にある南方最大の海軍根拠地も壊滅的な打撃を受け、軍令部は悪化する戦局の打開策を求められていた。当時作戦を統括する立場だった軍令部一部長中澤佑元中将の軍務日誌昭和18年8月記述の軍令部の別の幹部の提案――。

 「必死必殺の戦法」
 「戦闘機による衝突撃」


●神風特攻隊の1年以上前に出された意見、「体当たり、戦闘機」など、緊急に開発すべき特攻兵器が提示された。回天試作機も完成し、実験の完了。戦局が悪化する中、軍令部の中で特攻兵器の開発が一気に進んでいく。特攻兵器を進言したと記されていた人物は兵器の研究を担当していた軍令部二部の二部長黒島亀人元少将。軍令部はどのようにして特攻兵器の開発を進めていったのか。

●昭和56年8月26日、第20回「反省会」

 鳥巣元中佐が黒島二部長に直接会ったときのことを話す。

 鳥巣「エー、震海(潜水艇の先端に機雷を搭載した試作の兵器)という兵器であります。呉の工廠で審検(審査)があったあときに、黒島少将が立ち会って、私も、この兵器はとても使い物にならんと、元艦隊としてお断りしますとやったわけであります。黒島さん、烈火の如く怒ってですね、この非常時に何を抜かすかと、国賊がっ、て言うわけですね。国賊扱いされたわけですが――」

真珠湾攻撃を行った連合艦隊の山本五十六司令長官の参謀を務めていた黒島少将は真珠湾の成功がその発言力を高めていたと寺崎隆治元大佐が発言。


 (一つの成功を以って、すべての能力に亘って絶対と権威づける権威主義性がここにある。民主党が衆議院選挙で大勝した成功を以って選挙担当の小沢幹事長のすべての能力に亘って絶対と位置づけるのと同じ権威主義性が。)

 寺崎「一番悪いって言うか、あの、思い上がりですね。山本元帥辺りは神格化されておったわけですよ。山本元帥とか黒崎参謀とか、それらの言うことは絶対であるというような、その、恐る恐るやるっていうか。意見の真珠湾作戦が成功、そのためだと思いますけども。非常に神格化されて、寄せつけないと――」

●海軍の頭脳といわれた軍令部の特攻兵器の開発が次々と進んでいったが、特四式内火魚雷を載せた水陸両用の兵器などは使い物にならなかった。潜水服を着た兵士が海底に潜み、爆薬で船を攻撃する「伏龍」は訓練で死亡事故が相次ぐ。

 鳥巣健之助「大本営(軍令部)のお偉方の着想ではありましたけれども、その苛烈な戦局に直面している実施部隊の人々を納得させるような要件は何一つ、具備しておりませんでした。これらの思いつき兵器が如何に大きな無駄を強い、戦争遂行の足を引っ張ったか、想像に余るものがあります」

●昭和19年8月、人間魚雷回天を正式に採用。同じ月に公布された「海軍特修兵令」(表紙に筆文字で「裕仁」と書いてある。)。天皇の裁可を経て、特攻兵器で戦う特攻術が法令でさ定められた。その前日、海軍は特攻隊員の募集に向けて動き始めていたが、全国に送った兵士募集の文書(昭和十九年―昭和二十年 航空軍備)には「○兵器(まるへいき)要員」と書いてあるのみで、特攻兵器であることは伏せられていた。

●募集に応じた坂本雅俊さん(83)。戦局打開の新兵器と聞かされ、志願した。

 坂本「(船で)大津島(人間魚雷基地)へ近づいてきて、初めて、あの、人間魚雷をクレーンで吊り上げて、あって、それを見て、ま、ギョッとしたわ」

●戦局打開の新兵器が人間魚雷回天であった。自分の体を兵器に代える訓練が始まる。

 坂本「もうハッチ、ピシャンと閉められたら、全く鉄の棺桶の中に入れられたみたいの、ああ、もう、緊張、最高の緊張ですね。不安と緊張、恐怖。やっぱり人間ですから。まして、若者なんですから。生きたいいう、これは本能、が出てしまうのは当然ですよ」

●軍令部からの指示で現場で実行されていった出撃直前に撮られた写真。送り出す参謀と鳥巣元中佐が映っている。隊員89人が戦死した。

●回天顕彰会長高松工氏が目撃した戦後の回天搭乗員慰霊祭で鳥巣元中佐が生き残った隊員から責められる場面の証言。

 高松(生き残った隊員が座っていたようにだろう、縦長の机の手前端下座に座って)「ここから高橋が立ち上がって(机反対端の上座に指差して)怒鳴り始めたんですよ。鳥巣さんよ、あんたがその上(かみ)の場にあんたが座るもんじゃないよ、ってね。あんたは兎に角あれだけのことをやりやがって、一番下(しも)に座るのがお前の役だ、って」

 (絶対服従の権威主義が支配していた日本軍のかつての上官を「お前」呼ばわりをする。戦時中に囚われていた権威主義性が強かったことに比例した、その解き放ちの反動の強さが「お前」呼ばわりとなって現れたものであろう。言うべきときに言えずに、言っても甲斐なきときに言う。)

 高松「軍令部の参謀なんていうと、本当にクソ喰らえと私は言うんですが、ああいうやつらは兎に角ひどいことをやりやがって、自分は戦後関係ないって、実線におった隊長とか参謀とかは、ヒジョーニ苦しみながら、、兎に角戦争終わって、戦後もそれをずうーっと死ぬまで担いでたと思いますね、私は」

●反省会で軍令部を追及した鳥巣元大佐。これに対して軍令部に在籍したメンバーは多くを語らなかった。反省会で幹部を務めていた平塚清一元少佐(94)は鳥巣元大佐の発言に対する他のメンバーの反応を今も克明に覚えている。

 平塚「黙っていました。沈黙です。誰も反論がない。反応がありませんでしたね。人の命を結局無駄にするわけですね。あのー、軍隊というものは決死で行くけれども、生きて帰れる道が必ずあるわけですよね。特攻隊はそれがないわけですね。あって然るべきじゃなくて、あの、あってはならないことをやったという、気持はみなさん、あるんじゃないですかねぇ」

●日本海軍では兵士の死を前提とした生きて戻ることのできない作戦、特攻は決して命じてはならないとされてきた。しかし、軍令部は戦局が刻一刻と悪化する中で絶対に越えてはならない一線を越え、特攻作戦に踏み切った。

 そして現場には兵士の身体を兵器に代える過酷な作戦を求めていった。最初の特攻隊はここフィリッピンから出撃していった。その前から軍令部は組織的に特攻を準備していたにも関わらず、戦後、このことは私たち(国民)に伝わってこなかった。ここにも軍令部の知られざる動きがあった。 

 日本海軍 400時間の証言/ 第二回 特攻 やましき沈黙(2)に続く
  

コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

日本海軍 400時間の証言/ 第二回 特攻 やましき沈黙(2)

2009-12-28 10:10:37 | Weblog

 
第42回反省会(昭和58年6月9日)

 軍令部が最初の神風特攻隊を利用してある作戦を考えていたことがこの日明らかにされる。明らかにしたのはこのときも鳥巣健之助元大佐。
 極めて重要なことを示しているとして一通の電報を読み上げる。

 鳥巣「神風隊突撃の発表は、全軍の士気高揚並びに国民戦意の振作(しんさく)に至大の影響関係あるという、各隊攻撃の実施の都度、純忠至誠に報い――」

 (全軍・国民を奮い立たせる目的をも持たせていたために、たいした効果を上げなくても、戦意高揚を果たすために効果あったと宣伝することになったのだろう。結果、本来なすべき作戦を改めるということをせず、効果のない作戦を続けることとなったのだろう。)
 
●その電報には国民の戦意や全軍の士気高揚のために攻撃の都度、発表される方針が示されている。

●昭和19年10月、神風特別攻撃隊が初めて体当たり攻撃を始めた。

  海軍撮影の映画。「神風特別攻撃隊」と大書した字幕。

  整列して出撃する隊員たちに対する上官の訓示「一機以って敵艦命中、生還を期せず――」

  そして相歌う『海ゆかば』

●司令長官の大西中将や隊員たちの姿が映像と共に広く伝えられていった。前出電報は初めての出撃の15日前に作られていた。起案者軍令部一部で航空作戦を担当していた源田実大佐。

 鳥巣「軍令部の方では作戦課の航空参謀である源田実中佐が10月13日、電報を起草して、第一部長中澤佑少将の承認を得て発信しております。従って大本営が特攻は地方の実施部隊がやったんで、大本営(軍令部)は知らなかったというようなことを言うこと自体が極めておかしいのであります」
 
●神風特攻隊の戦果が宣伝されていく。新聞では神風特攻隊員の動きが一面で伝えられ、国民の戦意を駆り立てる記事が掲載されていく。

  新聞見出し「一機命中 一隻轟沈」
       「只一言、俺に続け」


●大きく伝えられた戦果の裏で、海軍は危機的な戦局に直面していた。神風特攻隊を投入したフィリッピン・レイテ島海戦は主力艦隊の殆んど率いて臨んだ一大決戦だったが、特攻作戦も空しく、海軍は主力艦隊4隻を含む艦艇20隻以上を一挙に失う。

●戦う手立てを失う中、軍令部は特攻作戦に比重を移していく。国民に常に伝えられていたのは特攻の戦果。

第94回反省会(昭和62年10月30日)

 この日軍令部の元将校と特攻の現場を見てきた隊員との間で議論が行われる。軍令部で昭和17年まで航空作戦の参謀を務めていた三代一就(みよ・かずなり)元大佐(昭和14~17年 軍令部)。特攻は現場の熱意から始まったと言う。

 三代「特攻作戦を欠くとしましても、色々な資料とか図書があって、特攻作戦を欠くのは容易ではないと、いうことは航空部隊の間には特別攻撃を必要とする機運が高まり――」

 現場の航空隊にいた小池猪一(いいち)元注意が質問する。

 小池「大所高所から、先輩諸君のご意見を承りたいと思っております。航空特攻の場合はですね、志願という形は取っているが、これは命令で、編成という形で命令されているんで、戦闘機に爆装して、攻撃隊を編成したというのは、どういう根拠から、いわゆる上層部がそれを命じたのか」

 小池元中尉は18年12月、学徒出陣で航空隊に配属され、そのときの上司が特攻で数多く戦死している。

 小池飛行時間80時間から120時間ぐらいの搭乗員をバラバラ、バラバラ、いわゆる纏まって出さないで、小出しにどんどん出して、どんどん消耗していった。全予備学生、予科練学生が大きな疑問を持って、今、この問題でみんなして取り組んでおります」

 現場からの問いに三代元大佐は明確には答えない。

 三代「これはやっぱり、その人の性格によると思いますから。性格と、それから時の情勢ですな――」

 「人の性格」「時の情勢」が決定した特攻作戦だったとは、何という責任転嫁なのか。必要としたのは戦争を続ける能力が残っているかどうかを含めた「時の情勢」を分析する的確な判断能力だったはずだが、それを欠いていた。)

●昭和20年1月15日、最高戦争指導会議(総理大臣や陸海軍トップが出席)

 ここで国家総動員によって戦争を継続し、特攻を主な戦力とすることが確認された。

 この同じ1月、軍令部一部が作成したと見られる資料が今回初めて見つかる。日本列島を覆っている印はすべて特攻兵器を配備する基地。軍令部は一億総特攻の掛け声そのままに特攻で日本列島を守る計画を立てる。

●反省会には、その時期軍令部に在籍していた土肥一夫元中佐が発言。

 土肥「終戦の前後、私は軍令部におりまして、軍令部の中に私のクラスでありますが、『一億総特攻』って言って、はしゃぎまわる男がいたんですが、私は喧嘩しましてね、人間をね、今の言葉で言いますと、コンピューター代わりにして飛行機を向こうにぶっつけようなんていう、そんなことはね、考えるなと。お前ら、一億総特攻なんか、言うなってね、喧嘩したことがあります」

 (果して事実かどうか。自身が「一億総特攻」と言ってはしゃぎまわっていたかもしれない。確実に言えることは、その効果を隠していたために「一億総特攻」にオールマイティ(全能)を期待した軍人・国民が多くいたに違いない。その効果を知っていた軍人の間でも、ほかに打つ手を考えつくことも情勢分析をすることもできなかったことから、縋りつくように「一億総特攻」に最後の望みを果敢なくも託していたといったところではないのか。)

●特攻が行われている時期に連合艦隊参謀だった中島親孝元中佐。

 中島「飛行機の搭乗員のですね、補充をということを考えないで、行き当たりばったり行っていく言って、仕方がないから、特攻へ逃げたんです。もう人間を自動操縦機の代わりをするんだと、こういう思想がある。それがですね、日本海軍を毒した最大のもんだと私は見ています」

 (海軍のみならず、大日本帝国軍隊全体に人命軽視の思想が蔓延っていた。上官を絶対として、兵士を対極の人間として扱わない、将棋のコマ並みに扱う権威主義が支配していた。)

 平塚清郎「日本の海軍の上層の方も、それに頼り過ぎていたんじゃないか。万止むを得なかったというなら、それは私は一億総玉砕の思想そのものじゃないか」

●(出撃シーン)太平洋の海の中に若者たちが散っていった。

 (字幕)当初米軍に襲撃を与えた特攻。米軍は特攻への対策を徹底した。特攻機の殆んどは目的を遂げることができなくなる。水中特攻「回天」の命中率は2%(防衛研究所)。

●昭和20年8月15日、終戦。天皇の玉音放送。米軍の進駐。街中を走る米軍ジープ。

 未使用の特攻兵器は米軍によって回収され、分析が進められることになる。

 連合軍司令部(GHQ)――戦争犯罪を追及する動きが始まる。これに対して軍令部は終戦直後から戦犯裁判に向けた準備を進めていた。その対策を纏めた文書。

 特攻が戦争犯罪とされることを恐れ、想定問答を用意していた。

 (戦争犯罪対象となり得る作戦だと認識していたことになる。)

 想定案「特攻は上級指揮官の要請で人道に違反するのではないのか。」

 回答案「特攻は切羽詰った戦況の中実施した。軍人は上下こぞって総員玉砕を期していたが、青年下級者のみに必死の戦法を強いたのではない」


●特攻は上級指揮官の強制ではなく、人道に違反しないと答えている。軍令部の指示で造られた特攻兵器。現場の幹部たちは戦後もその責任を感じ続けている。桜花の製造に携わった長束麗元少佐。製造に反対したが、命令に従わざるを得なかった。GHQの追及はなかったが、兵器を造った事実は重く受け止めていた。

 長束巌元少佐(97)「アメリカの戦犯狩りの情報がクラスメートから刻々入ってくるわけです。誰が捕まって、誰が喋らされた、何級上の誰々が何々の名目で捕まれたと。で、色々聞いてますと、何か、どういう罪の者が戦犯でね、扱われているっていうことを聞いてみたら、第一は人道に関する罪。人道に関する罪ということになると、ちょっと俺は危ないぞと思ったわけです。こういう全く人道に麻痺した飛行機を造ることを命じられて造ったわけですから」

●現場に特攻を支持した軍令部が組織として責任を認めた資料を見つけることはできなかった。
 死ぬことで初めて目的が達せられる特攻。なぜこれ程多くの若者たちが命を落とさなければならなかったのか。反省会で特攻の議論が行われているとき、一人の元将校が発言。扇一登元大佐(昭和11~13年 軍令部)。武官としてヨーロッパで終戦を迎える。組織全体が新兵器に頼る気持に流されたのではないかと語る。

 「新兵器が生まれてくると、使ってみたくなる。そこで私自身が、それにやっぱりよりかかる。気持の上ではおったと。太平洋戦争はそれらの日本の強みとする新兵器に引きずられたんだと言うことは敢えて言うことができませんが、しかし、頼んでおった」

●扇元大佐が指摘した組織の空気。その空気を生んだ海軍の体質を扇元大佐は考え続けていた。

 扇「海軍は自分の意志、判断を持っておりながら、それはこちらに置いて、そうして流れて、海軍のこれは体質だと思うんですよ。だからこそね、思わぬ、好まぬ、自分の本位ではない方向へ流されているなと。誰彼と言わずに、みんなそうですもん」

 (誰だって「意志、判断を持って」いる。それが合理性を備えた意志・判断であるかどうかが問題。合理性を備えていなければ、意味のない「意志、判断」となる。

 「思わぬ、好まぬ、自分の本位ではない方向へ流され」る、それが「誰彼と言わずに、みんなそう」であるとは付和雷同の状態を言い、他の意見を絶対としてそれに無条件に従う権威主義性からきている。)


●自分の意志ではない方向へ流されていく海軍の体質とは何か。扇元大佐の息子暢威(のぶたけ・77)は父親から特攻の話を聞いたことはない。強く印象に残っているのは反省会から帰ってきた父親が時折洩らしていた言葉。

 「何回かね、『それなんだよ、そうなんだよ。やましき沈黙だったんだよ、うん、海軍は』そういうね、発言は私は聞いてますねえ。要するに良心に照らしてみて、これはいかんと思ったときに言えていないと。海軍全体もそうだったと、いうそういう言い方がありましたね」

 (最初触れたように日本人が行動様式としている権威主義から来ている上に対して言いたいことを言えない“沈黙”であって、特に日本の軍隊に於いて上官を絶対としていることからその権威主義性が色濃く現れた組織となっていたということなのだろう。自由に意見を言うについては自由に意見を言う機会を上から与えられた場合という条件付となる。)

●やましき沈黙。間違っていると思っても、口には出せず、組織の空気に飲み込まれていく。特攻が始まったとき作戦を担当していた軍令部一部長中澤佑元中将が亡くなる直前に講演を行ったときのテープが残されている。最初の特攻、神風特攻隊への関与を否定した。

 中澤私は軍令部の作戦部長をしておったのですが、特攻というのは、これは作戦ではないと。作戦よりもっと崇高なる精神の発露であってね、作戦にあらずと。

 そのときに私はその体当たりということは考えておりませんし、ええー、勿論、命令などは出したことはありませんので――」

 (体当たりなくして特攻は成り立たない。特攻と体当たりは一体となって、その存在価値を決定付けられていた。体当たりは特攻の行動性として定められたもの。偵察機が偵察を行動性とするように。「そのときに私はその体当たりということは考えておりません」は薄汚い責任逃れ。「崇高なる精神」を装わせることで納得させ、若者の積極性を引き出したにすぎないだろう。

 この男は戦後源田実のようになぜ政治家に転進しなかったのだろうか。源田以上の政治家となって、総理大臣も夢ではなかったはずだが。)


 息子忠久、父親が軍令部一部長だったとき語った言葉を覚えている。

 「特攻はよくないってことは何回か、それはもう、1%でも帰る方向があるのならいいけど、100%死ぬような遣り方、それは戦術でないと。時々は空気には勝てないんですよねー。もう全体がそういう流れになって。個人がね、いくら心の中で反対だって言っても、大勢に反対ってことは、もう海軍をやめなけりゃあいけないことですよね」

●中澤元中将が大切にしていたアルバム。戦争末期、軍令部から台湾の航空船隊の司令官に移動し、特攻の指揮を任務とした。隊員たちの写真。その横に自ら書いた説明。「笑わんとして死地に向かわんとする特攻隊勇士」

●軍令部二部長として特攻兵器の開発を進めた黒島亀人元少将、戦後哲学や宗教の研究に没頭した。亡くなる直前までつづっていたノート。

 ノートの題名「人間」、中に「霊魂」、「人生の目的」といった文字。
 
 特攻については一言も書き残していない。

●神風特攻隊の電報を起案した軍令部源田実元大佐は戦後航空自衛隊のトップ航空幕僚長に就く。特攻については家族にも多くを語っていない。神風特攻隊の慰霊碑に源田実元大佐は自ら書き記している。

 「青年が自らの意志に基づいて赴いた」

 今も保管されている特攻隊員と戦死した部下の名簿。仏壇に納めて、毎日祈り続けていた。

 (「青年が自らの意志に基づいて赴いた」とすることによって、自己正当化を果たすことができる。日本の軍隊の正しさが証明可能となる。)

●反省会で軍令部を批判し続けた鳥巣健之助元中佐、戦時中を振返り、家族に一言だけ言い残している。

 「海軍の中で思っていても、言いたいことがあっても、口には出せないことがあった」

 (権威主義に囚われた姿を言っているに過ぎない。)

 神風特攻隊の隊員だった角田和夫(90)、特攻で戦死した仲間の慰霊を今でも行い、靖国神社に参拝している。特攻隊の戦果を空から確認することが任務。

 角田「突っ込むのは自分だけでいいから、もう戦争はやめてくれないかというのは、誰だって、考えじゃなかったかと思います。ねえ、死ぬのは自分だけ、ここで終わりにしてしてくれっていうのがみんなの本心だったと思います」

●角田さんは反省会が開かれていたことを知らなかった。その事実を知らせた上で了解の元、反省会のテープを聞いてもらう。

 ――土肥一夫元中佐「この今のお話の、大西さんとの話じゃなくて、その遥か前にですね、回天も桜花も、マル四艇もみんな、海軍省で建造始めているんですよ。そうするとね、その特攻をね、(軍令部)一部長ともあろう者がね、知らないというのはおかしいとこう言うちょるとです、鳥巣さん」――
 
 角田「いや、そんなに早くから特攻を考えていたなんていうことは、ちょっと信用できないですねえ。じゃあ、その人たちが19年の初めから、その以前から特攻兵器を造らせて、その特攻兵器を造ってどうしようと思っていたんです?、それを聞きたいですねえ。それで勝つと思っていただろうか」

●いくら墓参りしても、亡くなった人間は生きて還らぬという。角田さんは最後に見届けた広田幸宣(ゆきのぶ)(20)さん。

 (広田幸宣の遺言)「ご両親さまの心尽くしの品々、嬉しく拝見して、マフラーを喜んで首に巻いて飛びます。白いマフラーで出発するのを想像してください。国のため、征(ゆ)く身なるとは知りながら、故郷(くに)にて祈る父母恋しき」

 角田さんが最後を見届けたもう一人の谷本逸司(享年22歳)

 (谷本逸司の遺言)「お母さん、元気ですか。長々の御恩、本当にありがとうございました。いよいよ本当に男としての生き甲斐を痛切に感じるときが参りました。くれぐれも体に気をつけて、長々と生き抜いてください。お願いします。遥かお母さんの健康をお祈り致します」

●日本海軍が始めた特攻。始まると、誰も止められずに終戦まで続けられる。

 取材デスク・小貫武「反省会に参加していた一人ひとりは決して命じてはいけない作戦だと心の中では分かっていた。しかしその声が表に出ることはなかった。間違っていると思っても、口には出せず、組織の空気に飲み込まれていく。そうした海軍の体質を反省会の一人は『やましき沈黙』という言葉で表現した。しかし私はこの疚しき沈黙を他人のこととして済ますわけにはいかない気持になる。今の社会を生きる中で、私自身疚しき沈黙に陥らないとは断言できないから。特攻で亡くなった若者たちは陸海軍併せて5千人以上。その一人ひとりがどのような気持ちで出撃して行ったのか。決められた死にどう向かっていったのか。

 その気持を考えると、私は反省会の証言から学び取るべきものは唯一つのことではないかと思う。それは一人ひとりの命に関わることについては、例えどんなに止むを得ない事情があろうと、疚しき沈黙に陥らないことです。

 それこそが特攻で亡くなった若者が死を以って今に伝えていることではないかと私は思います」(終了)

 (では、「一人ひとりの命に関わ」らないことについては「疚しき沈黙に陥」ってもいいのか。日常普段から慣習としている“やましき沈黙”――内心は反対でも上の命令・指示に無条件に従属する権威主義性を「一人ひとりの命に関わることについて」も機械的・自動的に適合させていくことによって生じせしめた上下の関係性としてある“やましき沈黙”なのだから、省察すべき対象は日本人が現在も引きずっている上下で人間関係を把える権威主義の行動様式そのものであろう。

 いわばどんなにささやかな問題・事柄であっても賛成できないこと、訂正が必要なことは“やましき沈黙”に陥らず、恐れずに自分の意見を述べる、そして相手の反論を受ける議論の習慣を普段から持つことから始めなければならない。

 
「組織の空気に飲み込まれる」と言うが、反応するのは個人個人であって、それらが積み重なってその全体的な反応である「組織の空気」を形成するのだから、一人ひとりの反応――それぞれの権威主義性を先ず問題としなければならない。)


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする