昨日の記事、宮台氏と菅首相との遣り取りの続き――
宮台社会学者「先程、この話(菅政権三つの柱)とね、連動する、もっと大きな話で、例えば先程神保さん、あるいは菅さんが最初にこの番組に出ていただいたときにおっしゃられた政治主導ならざる国民主導がなぜ必要なのかって言うのはね、ちょっとまたアリストテレスに戻りますとね、人々が尊敬されるような生き方をする社会はいい社会なんですよね。
じゃあ、人々が尊敬されるような生き方とはどう生き方なんかっていうときに、アリストテレスは政治への参加っていうのを言うんです。
じゃ、どうしてかって言うと、自分がいいことをするだけじゃなくてね、自分よりもいいことをする人間が他にもたくさん出てくるようにするにはどうしたらいいんだろう、どういう教育が、どういう仕組みが必要なんだろう。
つまり本当にいいことを、自己満足でなく、多くの人々にやってもらいたいと人々が思うんであれば、必ず政治に関心を持つ。つまり彼の場合、公共的善っていう言い方をするんですけどもね、まあ、言葉はどうでもいいです。
要は人々の、なぜ地域主権や市民参加や、国民の声を上げることが大事なのかって言うと、つまりそれがまさに自分さえ良ければいいじゃなくって、自分さえ救ってくれればいいんじゃなくって、この国をいい社会にしたいって国民たちが思ってるんだったら、政治に関心を持たなければいけないし、持つべきだっていうふうに言ってるんですよね。
その辺も実は、あの、日本国民に対するメッセージとしては、必要なことなのかなーって気がします。と言うのは、みんな苦しんですよ、苦しいと緊急避難的にね、こういう手当をつけてくれとか、苦しいから、児童虐待が増えているから、その苦しさを何とかしてくれとか、生活保護を拡充してくれとか、つまり緊急避難としての行政の役割に対する期待の上がるのは当然なんだけれど、ただその政治思想的に言っても、あるいはこの30年間の政治学的な流れから言っても、それはあくまでも緊急避難的であってね、やっぱり国民が自分たちで自分たちのことをよく知ろうと、強く願うがゆえに政治に参加し、自分たちで政治を引き受けるというふうな、流れの中に、ここの平成の開国?最小不幸社会、えー、不条理を正すことが入る。
そうしないと、お任せしている政治家さんたちがよりちゃんと振舞えばいいんですよねっていうことになってしまいがちで、そこは小さ過ぎますよね」
宮台社会学者は国民が政治に参加する、あるいは関心を持ち、政治家側が国民に政治への参加の機会を設ける、あるいは政治への関心を持たせた中で「平成の開国」、「最小不幸社会」、「不条理を正す」政治の展開があって然るべきではないかと言った。
それが「お任せしている政治家さんたちがよりちゃんと振舞えばいいんですよねっていう」ことにならない政治だとしている。
このような双方向型の政治参加を成立させるには先ずは国民が国家レベルで、あるいは社会レベルで求めるあるべき姿を政治側が汲み取って政策化し、政策化した各政策に対するより具体的、かつ懇切丁寧な説明責任が主たる条件となるはずだ。また説明責任をより完璧に果たすためにはそれぞれの政策(三つの柱)を具体化させておかなければ、満足に説明できないことになる。
具体化させた政策を説明することによって、国民が求めたあるべき姿に合致しているか否かの妥当性が判明し、不足分については国民の意見・主張を聞き、取り入れるべきは取り入れて政策をよりよい内容につくり上げていくことが双方向型の政治参加が成立へ向かう。
政治家側が自らの声を国民に向けて発信し、国民も自分たちの声を政治家側に発信して融通無碍な、あるいは自由自在な情報発信の双方向性を持たせることを双方向型政治参加と言うこともできる。
こういったことを言ったのだと思う。この問いかけに菅首相は次のように自説を展開する。
菅首相「宮台さんが言われたこととの関係で、まあ、言うとですね、私が最初に衆議院に出たのは、1976年のロッキード選挙と言われた年です。で、まあ、私は小さな市民運動をやっていたんですが、あー、そのとき何を感じたかと言うと、結局、カネの力で政治が左右されると。とても普通のですね、そのー、私はサラリーマンの息子ですが、30歳の男がですね、多少仲間がいるからといって、何を、このー、言ってもですね、政治なんかにはとっても届かないというのが、当時でもそんな感覚があったんですが、そうじゃないだろうと、やっぱり言ってみようよと、いうところが私の最初の、最初の私の立候補のキッカケなんですね。
ですから、私にとっては国民というか、市民というかですね、その人たちが、あるいは私たちがと言ってもいいんですが、声を出して、そしてその変えていくと、その変えることが、まあ、まさに政治で、その変える中身がですね、ここ(三つの柱)にあるわけです。変え方と、あるいは中身が。ですから、そういう意味では私にとって、政治に国民が参加するというか、そのことが私自身の、まさに原点そのものなんですね」
宮台社会主義者が言っている国民の政治参加と菅首相が言っている政治参加は似て非なるものであることに菅首相は頭が悪いから気づかない。大体が三つの柱はこういう政策だと具体的な説明を果たしていないのだから、市民・国民の声を反映させた政策なのか判断しようがなく、そのこと自体が片方向の政治参加となっている証拠であろう。いわば首相が言っている政治参加は政治家になって直接政治にタッチすることを言っているのであって、国民の側から政治家側に移動したことを指して政治に参加したとしているに過ぎない。すべての国民が菅首相が言っている政治参加ができるわけではない。
「何を、このー、言ってもですね、政治なんかにはとっても届かない」ことがキッカケとなって政治家になったと言うなら、政治家になって自分の声だけ政治に届かせれば済むわけではないのだから、そのキッカケを生かして今度は国民の声を届かせる、政治の側から言うと、国民の声を聞き、また政治側からも国民に対して説明責任の発信を十分に果たすことのできる政治体制をせめて自身だけでも構築してこそ、初めて双方向型の政治参加を実践していますと、宮台氏の主張に対する答となるのだが、「原点」など聞いているわけではないのに、「私にとって、政治に国民が参加するというか、そのことが私自身の、まさに原点そのものなんですね」と自慢の結論で終わっている。
昨日の記事で神保代表が番組が始まる前に視聴者から声をいただいた、大きく分けると、「何がやりたいのか分からない」、「理念・哲学がはっきりしない」、「ちゃんと説明しない」と、いわば説明責任不足を指摘する視聴者の声を菅首相に伝えたことを書いたが、このことは双方向型政治参加となっていないことの指摘でもあろう。
神保代表を仲介して伝えられた視聴者の声と宮台氏の主張を踏まえたなら、双方向型政治参加に留意した自説を展開してもよさそうだが、理解能力に欠けるから、そういった答となっていなかった。
ここで宮台氏は意外な主張を展開する。実際には意外でも何でもなく、私が初めて聞くから意外に思えただけなのかもしれない。
宮台氏「ちょうどね、ロッキード事件の話が出たので、ちょっとそれに関わる、ちょっと本質的な話をさせていただきたいんですが、実はそのマックスウエーバーと言う政治学者が50年前ぐらいに活躍をして、実は彼はこういうことを言っているんですね。その、近代国家に於ける最大の対立は統治権力、即ち国家と国民の間にあるのではなくて、政治家と行政官僚の間にあるって言ってるんですね。
で、政治家と行政官僚が国民を味方につけようと闘争している。政治家はポピュリズムを使う。行政官僚は疑獄を使うんですね。簡単に言うと、行政官僚は、まあ、政治家とは違った課題を持ってますよね。従来の枠組みの中で最適化を図るのが行政官僚。政治家っていうのはむしろ、環境の変化に対応して、行政官僚がルーティン化(手順化?)しているゲームを変えてしまうかもしれないようなね、ゲームのプラットホーム(土台?)を変えるような役目を負っているわけですよね」
神保代表「そこに意義があるのですよね」
宮台氏「そうですよね。
ところが、そういうふうにされてしまうと、行政官僚にとっては自分たちの最適化ゲームができなくなるから、政治家をウザイと思うようになるわけですよね。だから、ウザイと思う政治家については疑獄によってですね、あるいは場合によっては日本的な意味でのサボタージュによってですね、足を引っ張ろうとするということが言われているんです。
で、僕が申し上げたかったのはこういうことです。私が言ったのではなく、私のお師匠である小室直樹っていう人が言ったことなんですけどもね、田中角栄さんていう方は日本で初めて戦後、官僚を完全に服従させることができた天才的な政治家である。それは数字を暗記する力に於いてもですね、あるいは数字の背後にあるコンテキストを読む力に於いても官僚を遥かに凌駕していたので、実は田中角栄に対してだけは頭が上がらないという状態になっていた。
で、ちょっと極端な話ですけどね、小室直樹さんこういうことを言っている。あのロッキード裁判はアメリカ発の、アメリカのゲームで、我々は実は反論権さえですね、田中角栄に関する反論権、反対尋問さえ確保できなかった。あるいはあのコーチャンの嘱託尋問調書、これも免責特権とかいう制度を使っていますから、日本にはそれに相当する制度がないので、免責特権でやられた証言の法廷に於ける価値も分からないんですね。
しかし、それを証拠申請し、検察たちが、特捜がね、証拠採用したのはおかしいじゃないのかということを一方で言いながら、しかしそれは小さなことであると言うんですね。大きなことは田中角栄が本当にバッチイ政治家だったとしようと、しかしそれでも必ずしも田中角栄がいけないとは言えないって言ったんですね。
何故ならば、政治家はマックスウエーバーによれば、場合によっては市民の法を踏み越えることがあったとしても、そうした政治共同体、つまり日本なら日本の国民、乃至国家の運命を切り拓くことが政治家の課題であると、田中角栄はまさにそれをやろうとしていたと、彼の話なんですね。ま、小室直樹先生のね、
しかし、要するにアメリカからすると、行政官僚の言うとおりに振舞わない政治家っていうのはコントロールできないので困る、っていうことがあったのかもしれない。小室先生おっしゃっているけれども、要はですね、政治家っていうのは綺麗でありさえすればいいのか、違うじゃないかって言うのが、マックスウエーバーが認識したことですね」
田中角栄擁護論にかこつけて小沢一郎擁護論を展開しているように聞こえた。だが、官僚にコントロールされるだけ、政治家としての本質はまるきり改革者ではなく、単なる解説者に過ぎないために「日本の国民、乃至国家の運命を切り拓く」力などさらさら持ち合わせていない菅首相にしたら、理解し難い田中角栄擁護論=小沢一郎擁護論であるに違いない。
ここで菅首相は反論する。
菅首相「ただ私が言いたかったのは、当時私は30歳でしたが、えー、まあ、市川(房江)さんの選挙をやったときに、25,6歳です。つまりは普通の意味で言えば、全く無名で、全く色々な権限もない。別に官僚でもない。そういう大きな組織を背にしているわけでもない。そういう人間が、何らかを発信していく。
で、人の選挙を手伝ったり、ま、仲間が一緒になって、自分で選挙に出たりした。そのことを言っているんです。ですから、そのことによって政治が変わるのか変わらないのか。今宮台さんが言われているのは、今の私ならですね、それはおっしゃることは逆に言えば、総理大臣という立場で、それは場合によってはですね、ある意味で国民のためには、多少のことは仕方がないっていうようなことは、それはその通りかもしれません。
しかし、私の30年前、30数年前の立場で言えば、今の若者もそうでしょうが、つまり自分たちの声が届く政治なのかどうかという問題意識なんです。で、私にとって、政治とカネの問題は、カネそのものじゃなくて、自分たちがそういうものに阻まれているのか阻まれていないのかと言うことなんです。
ある意味では官僚にも阻まれていました。それから政治家にも阻まれていました。ですから、その阻まれているものを超えていこうというときに、一つぶっつかったのがちょうどロッキード選挙だったわけです。しかしそれを超えたからといって、当然そのときは知りませんでしたが、次には確かに官僚の壁がありました。色んな壁があります。で、総理大臣になってみても、また壁はあります。ですから、そういう意味では壁を超えてもですね、自分たちの市民の、国民の声が政治を動かすことができるかどうか、という観点から、私はこの政治というものに対して、私の原点だといっているんです」
相変わらずトンチンカンなことを言っている。カネによって政治が不正な方向に曲げられたなら、確かに壁と言える。官僚によって阻まれる、政治家に阻まれるはカネが原因ではなく、自身の指導力が原因の阻害要件である。前日のブログで国民の支持を力とすれば反対する官僚に対しても政治家に対しても対抗し得る大いなる原動力となると書いたが、その支持さえ壁となっている。
国民の支持が壁となって立ちはだかっているということはマイナスの発信しかできていないということであろう。
宮台氏が言ったのは、例えカネを使って政治を動かそうと、それがよりよく「日本の国民、乃至国家の運命を切り拓く」方向に向かうなら、許されるのではないかという菅首相に対する問題提起だった。それを指導力不足から生じる壁と不正なカネの不正な使用によって生じる壁とを混同して、相変わらずロッキード事件のときに選挙に出たことをウリにして、原点だとすることに拘り、そこから一歩も出ていない。
問題は菅首相の「原点」の指摘ではなく、原点とさせた政治状況の解消にあるはずである。
市民の立場、国民の立場からの声が政治に届くかどうかの問題意識を出発点としながら、「今の若者もそうでしょうが」と言うことはできても、それを可能とする政治体制の実現を政治家としてライフワークとしているわけでもない。これは菅首相が市民、国民の立場を離れて、政治家の立場に完璧に立って、情報発信にしろ何にしろ自己中心となっているからだろう。だから、30年前と同じく、「今の若者もそうでしょうが」という同じ閉塞状況に立たされていることになる。
判断能力不足、理解能力不足から、その矛盾に気づきもしない。
菅首相の言う国民主導、国民参加の政治が口先だけの提唱に過ぎないことを物語っている。
宮台社会学者「おっしゃることは分かります。ただね、あの、マックスウエーバーはこうも言っているんです。マックスウエーバーって、ビスマルクドイツ帝国時代の学者さんで、ビスマルクの独裁的な政治を支持したんですね。というか、彼は最終的には止揚、アウフヘーベンされて、市民社会、つまり菅さんがおっしゃるように市民が政治をするような社会になるべきだとはっきり言っている。
ただ、まだ19世紀末のドイツは、まだ人々の民度が、あるいは国民の教育の度合いが、国民教育の度合いっていうのは実は彼が使っている言葉ですけども、まあ、十分ではないから、基本的には何がよい政治なのかっていうことを指し示すためにもね、場合によってはビスマルクのような強い政治化の存在が必要だというふうに言ってるんですね。
で、これと少し別の角度から言うと、こういうことなんですよ。国民は経済さえよくなれば社会はよくなるというふうに思って、自分たちが参加した政治をしようとしているふうな場合ではね、これは例えば、今日で言えば完全に政治の道を誤ります。何故ならば、先進各国は少なくとも80年代に社会は市場に依存しすぎても危ない。市場は不安定だから。で、さらに行政官僚制下で国家に依存しすぎても危ない。何故ならば国家もやはり不安定だからですよ。
特にグローバル化が進むと、市場に依存し過ぎることの怖さ、行政官僚制に依存しすぎることの怖さは、みなさん、日本人であっても最近やっと分かるようになってきた。だから、80年代の先進各国はマドゴロス運動(?調べたが不明)とか、メディアリテラシー運動とかアンチ素材マーケット運動とか。全部含めて、今おっしゃった市民がやる政治、その目標が市場が例えパンクしても、例えパンクしても自分たちの共同体が自分たちがちゃんとするぞ、ちゃんとまわすぞ、ていうふうなね、つまりそういう成約なんですよね」
ここではビスマルク論が小沢一郎論に聞こえる。
宮台氏は「国民は経済さえよくなれば社会はよくなるというふうに思って、自分たちが参加した政治をしようとしているふうな場合ではね、これは例えば、今日で言えば完全に政治の道を誤ります」と言っているが、それでも基本は経済である。国家の財源にしても、最終的には経済に負っているのだから、国の経済が確固としてしていること、その経済が国民一人ひとりの経済により公平に分配・反映されること。この基本を失うと、社会は疲弊することになる。現在の日本がまさしくそういった状況にあるはずである。
菅首相「それがね、つまり、それが出番と居場所がある社会の中でも、ある時期からですね、かなりズタズタになってきていると、まあ、今、鳩山前総理がですね、新しい公共ということを、特に、強く言われて、私もそれを引き継いで、えー、色々な、そういう、まあ、例えばNPOに対する寄付控除とか、そういう若干の、そのインフラ整備やってますが、ですから、そういう、その、貨幣経済で全部うまくいくかというと、うまくいかない。
では、国が全部やれば済むかというと、いかない。そこに社会があり、地域があり、家族があり、そういう人間関係がきちっと成り立っていることがですね、私はまさに最小不幸社会の、条件だと思っているんです」
菅首相は満足げに自分で小さく頷いた。
最後までトンチンカンな自説の展開となっている。確かに経済の発展が著しい時代には、その経済に支えられて国民は社会的な「出番と居場所」を確保できたかもしれない。だが、政治的な「出番と居場所」は政治家に任せっきりで、双方向型の政治参加という認識は育たず、そのような姿勢が自民党一党支配を可能とさせた。政治側は一党支配をいいことに政治を私物化し、利益誘導政治を跋扈させることとなって国家財政の悪化を進行させることとなり、現在末期症状に至っている。
政権交代によって自民党一党支配を終焉させたものの、経済の破綻が多くの国民の社会的な「出番と居場所」を奪っているばかりか、菅首相は「国民主導の政治」、あるいは「国民参加の政治」を掲げて政治的な「出番と居場所」を国民に約束しながら、自らは双方向型の政治参加・双方向型の情報発信に意を置かず、意を置かないから当然政治的な「出番と居場所」は実現の兆しさせ見せず、専らウリにしているロッキード事件が政治家転身の原点だとの宣伝に終始し、あるいは自らが掲げた三つの柱だとしている政策を具体像を構築するところまで進んでいないからだろう、どういった政策なのか具体的に説明する責任を果たさず、政策の名称だけを振り回して、さも希望ある社会の実現が約束されるようなことを言っている。
これが改革者ではない、単に解説者で終わっている菅首相の姿である。
|