菅首相のトンチンカンな受け答えばかりのインターンネット放送生出演

2011-01-27 09:57:45 | Weblog


 菅首相の1月7日(2011年)インターネット放送生出演を取り上げたブログ記事――前回《菅首相は「政権をとればカネなんて出てくると言った」と小沢氏を批判するなら、小沢氏に政権を任すべき - 『ニッポン情報解読』by手代木恕之》の続き。

 前回は宮台社会学者が菅政権の財源不足からのマニフェスト変更の説明不足と小沢問題で何が不透明なのかの説明不足を改めて問うところで終えた。それに対して菅首相はトンチンカンな方向に話題を飛ばした上、相当いい加減な、デタラメと言っても過言ではない論理を駆使して説明不足の代わりとしている。

 菅首相「一番大きなことのもう一つが、あの、今話題になっていないんですが(と話の方向を変えてしまう)、実はさっき官僚のことを言われました。

 この1年半前の政権交代で、その、政治家と官僚の構造がですね、あの、根本的に変わったんです。ただそれが、あのー、全部うまくいっているかどうかっていうのは、まだありますけども、例えば一番典型的なのが、その事務次官会議を廃止する。あるいは政務三役がですね、従来は大臣以外は、あのー、場合によっては、あー、盲腸とまで言われた政務次官制度が変わって、かなりの権限を持った政治家グループが、それぞれの役所をコントロールしている。

 で、これは変わったんです。で、私は最初に申し上げたように、私にとってはやはり、そのー、国民が、選んだ国会議員が、政治を最終的にコントロールするというのは、国民主権ですから。

 しかし残念ながらこれまでの日本は、形は国民主権だけれども、内閣の制度の中では実は官僚主権になっていたと。そこが一つの、まあ、大きなですね。もう一つの柱なんです。それとマニフェストの具体的な政策課題なんです。

 ですから、私は、このー、もう一つの大きな柱は、あの、根本的にエー、変わっています。

 ですから、その二つのことで、まあ、あの、十分なですね、説明がまだできないとすれば、それは、まあ、これから、色んなことが前に進み始めました。例えばの話ですね、あの、今度の、おー、今、ま、今度はそういうテーマは、あまり来ませんでしたけれども、例えば、あー、社会保障の問題。で、この問題も、オー、従来、よく、財務省が財政に厳しいという言い方をみんな言うんですが、私は財務大臣をやって、あるいは今の総理大臣をやって、財務省が財政に厳しいなんて思ったことは一度もありません。財務省というのは、何とか辻褄合わせる能力はあるけれども、その、この、おカネを使ったらですね、こういう効果があるとかないとか、いうのは、基本的に私が見ていると、オー、ま、判断しないというと、ちょっと言い過ぎですが、政治力学がどうなっているか判断して、纏め上げるという、纏め上げる手法はありますが、おー、これをやったら、本当に経済がよくなるとか、福祉がよくなる、こっちが重要だから、こっちにつけよう、こちらが重要だから、こちらにつけよう、というのは、ま、これは官僚の仕事でないと言えばないかもしれませんが、そういうことにはなっていません。

 ですから、そういう点でですね、やはりあのー、政権交代、というものをの、私は大きな変化、それが、確かに、まあ、中にいる立場と、外から見ておられる立場から見え切れていないというのは、これからもっと努力しなければいけませんが、少なくとも政治家と官僚の関係は、あの、大きく変わったというだけは確かです。

 ただ、その変わったことが、より有効な形になっているか、まだまだ試行錯誤の段階ということになれば、それは試行錯誤の問題もあります。

 実は色んな法律があるんです。例えば、もう時間があるのかどうか分かりません。例えば、面白い法律がありましてね。確か国会の39条だったと思いますが、国会議員は基本的に公務員を兼任できないと書いてあるわけです。で、例外として、大臣とか副大臣はいいと。そうすると、例えば、あー、官房長長官、副長官の下に、副長官補…という人がいるんです。これはなかなか、あのー、大きな力を揮えるポジションなんです。

 しかし、副長官補に国会議員を置こうとすると、置けないんですね。その官邸の中の、おー、ポジションに民間人をポンと置いても機能はしにくい。そうすると結果的に色んなところの官僚、OBが、そこに座ると。そういう形でですね、まだまだ、事務次官会議を廃止し、ま、政務三役はできましたけども、実はそういうですね、一歩、中に入ってみたら、さらにそこにですね、壁があり。色んなクモの巣のようなものがあるわけです。

 ですから私は、あー、その政治主導法案、まだ通ってませんけれども、それを順次出していって、ですね、きちんと仕事できるような体制をつくって、効果的なですね、国民主権の、内閣にしていきたいと、そう思っています」――

 宮台氏はマニフェストの変更と小沢問題の国民に対する説明不足を挙げた。だが、菅首相は政治主導と官僚主導の問題を持ち出して、その点の説明不足の問題にすり替えている。だが、言っていることはデタラメなことを並べ立てた過ぎない。

 まず、「政治家と官僚の構造が根本的に変わった」と言っている。だが、その舌の根が乾く暇もない次の瞬間に、「全部うまくいっているかどうかっていうのは、まだあります」と言っている。

 肯定的に取り上げる場合の根本的な変化とは有効な方向への確かな変化を確認できたときに言うのであって、有効か無効か判断がつかない場合は根本的な変化と言うことはできないはずだが、平気で言う矛盾を犯している。

 その確認ができていないにも関わらず、菅首相は「政治家と官僚の構造」が日本の政治にとって有効な形、役立つ形へと変化したとしている。その例として事務次官会議の廃止、政務三役会議の設置を挙げ、「かなりの権限を持った政治家グループが、それぞれの役所をコントロールしている」とまで言い切って、官僚主導から政治主導への変化を確約している。

 だが、少し前にブログに取り上げたばかりだが、菅首相のインターネット放送出演は1月7日(2011年)、それからたった2週間後の1月21日午前、各省事務次官らを首相官邸に集めて、事務次官と政務三役の協力関係に問題があった、「積極的な協力関係を作ってもらいたい」と要望、間接的に政治主導が十分に機能していなかったことを暴露している。

 「政治家と官僚の構造が根本的に変わった」とまで言っていながらである。要するに「全部うまくいっているかどうかっていうのは、まだあります」が実際の姿だったことになり、「盲腸とまで言われた政務次官制度が変わって、かなりの権限を持った政治家グループが、それぞれの役所をコントロールしている」は事実に反する虚言、ウソの類いに過ぎないことになる。

 当然、「政治家と官僚の構造が根本的に変わった」とは決して言えないことになる。単に表面的、あるいは形式的な変化にとどまっていたということだろう。かつて「霞が関なんて成績が良かっただけで大バカだ」と官僚を貶めて、そうすることで自分を何様の位置に置き、尚且つ偉そうに「政治主導、政治主導」と言っておきながら、この場に及んで官僚に協力を求めたことからすると、今後どこでどう官僚に呑み込まれない保証はない。

 また例の如く自慢話を持ち出しているが、その自慢話が自慢話になっていない論理の破綻は滑稽そのものである。財務大臣と総理大臣の経験から、財務省は政治力学がどうなっているか判断して、いわば有力政治家の顔を窺ってということなのだろう、予算配分を「何とか辻褄合わせる能力はある」とその知見振りをひけらかしたはいいが、「これをやったら、本当に経済がよくなるとか、福祉がよくなる、こっちが重要だから、こっちにつけよう、こちらが重要だから、こちらにつけよう、という」能力はないと貶している。

 だが、貶している最中に、「ま、これは官僚の仕事でないと言えばないかもしれませんが」と自身の話の展開を自ら否定していながら、その否定も何その、否定自体を無視して、官僚の仕事だとして、そういった仕事の能力を否定している。

 論理の破綻と言うよりも言っていること自体がデタラメとなっている。この動画を官僚が見ていたなら、こいつバカなことを言っていると腹を立て、軽蔑するに違いない。

 「これをやったら、本当に経済がよくなるとか、福祉がよくなる、こっちが重要だから、こっちにつけよう、こちらが重要だから、こちらにつけよう」はまさしく政治主導でやるべき仕事、政治家の仕事であろう。

 「ま、これは官僚の仕事でないと言えばないかもしれませんが」と言いつつ、その能力を官僚の職分とし、官僚は「そういうことにはなっていません(=官僚はそういう能力は持っていません)」と言っているのは、逆に官僚にそういった能力を求めていることになり、官僚依存の姿勢でいるということであろう。官僚が保持している情報・知識は最大限に利用するが、要所要所の判断・決定は政治家が行うという強い姿勢で臨み、厳格に実行していたなら、 「これをやったら、本当に経済がよくなるとか、福祉がよくなる、こっちが重要だから、こっちにつけよう、こちらが重要だから、こちらにつけよう」は頭から政治家の領分とし、口が裂けても官僚に期待する能力とはしなかったろう。

 ここから見て取ることができる風景は菅首相が普段言っている「政治主導」のかくあるべしの姿自体が、各省事務次官を首相官邸に集めて官僚に協力を求めたこと自体が証明していることだが、確固とした体裁を整えていないということであろう。

 この「政治家と官僚の構造」、あるいは「政治家と官僚の関係」が外からは見え切れていないことを以って説明不足に見えることの説明に代えているが、宮台氏が指摘したマニフェスト変更と小沢問題の説明不足の答になるわけではない。

 菅首相の合理的判断能力の欠如は何度も指摘してきたが、この欠如の程度は一国の指導者としては既に致命傷となっている。その最たる証拠が、「少なくとも政治家と官僚の関係は、あの、大きく変わったというだけは確かです」と政治主導確立に太鼓判を押しながら、続く言葉で、「ただ、その変わったことが、より有効な形になっているか、まだまだ試行錯誤の段階ということになれば、それは試行錯誤の問題もあります」と、最初の方で言っていた「政治家と官僚の構造が根本的に変わった」と言いいながら、「全部うまくいっているかどうかっていうのは、まだあります」と同じ言い回しで、肯定の否定という論理の破綻を平気で犯しているところに現れている。

 有効な形となっていない、試行錯誤の段階だと言うなら、政治家と官僚の関係が未だ大きく変わったとは言えないはずだが、大きく変わったと平気で言える合理的判断能力というのはまさしく倒錯そのものである。

 要するに政治主導に関しては単に口で言っているだけで、実際には自信が持てるところまでいっていないというということなのだろう。

 政治主導法案を国会に順次上程して政治主導の仕事がきちんとできるような体制に持っていき、効果的な国民主権の内閣にしたいという最後の言葉自体も現実にはそういった体制にはまだなっていないことの裏返しとなる言及であって、発言全体の政治主導を確立したとう趣旨自体の否定となる混乱を見せている。

 また菅首相は日頃から「国民主権」という言葉を使い、ここでは「国民が選んだ国会議員が政治を最終的にコントロールするというのは国民主権ですから」と国民主権=政治主導と位置づけているが、実質的には内閣が国民の支持を受けていなければ、いくら政治主導の政治であっても、国民主権とならないことに気づいていない。主たる権利者は国民であるとする国民主権としながら、国民の意思に反する政治が行われていたなら、権利者の権利が損なわれることとなって国民主権から離れることになる。

 この点、菅内閣は内閣支持率から言って、相当に国民主権から離れていると言える。その辺の視点を欠いた菅首相の「国民主権」に過ぎない。

 神保代表「今ちょっと、もう閉めようというカンペも出ていますので、宮台さんね、まあ、色々、番組の中でこれまでやってきたけど、どうですか。そのー、菅さんの話を聞いてね、やっぱ最後、宮台に一言だけ貰いたいのは、その凄く理念だの、哲学だのがないってことが、多くの声で出ると。

 まあね、今までの内閣総理大臣というのは、果してそんな理念だとか哲学だとか問われたかってことは――」

 宮台社会学者「問われていません。ただ――」
 
 神保代表「ただ、考えるとね、ここに来て、それが非常に問われるっていうのは、ある意味では、ある意味では非常に気の毒かもしれないが、ある意味では非常に重要な何かを意味しているんじゃないかな、と。

 つまりこれからの総理は、やっぱそれが問われるようになったんだとすれば、ね、まあ、それはある意味進歩なわけで、そこに大変な重荷を負っているんだと思うけど、それを最後に宮台さん、一言――」

 宮台社会学者「いま、グローバル化が進んで、モノ、カネ、ヒトが移動するので、大変動期なんですね。大変動期なので、色んなところプラットホームを、ゲームのルールを変えていかなければならないんだけども、そこに、別は、良し悪しは別として、自分たちの権益がかかっているので抵抗するのが、先ず行政官僚制のもとで働いている人たちなんですよ。

 特に偉い人たちですよね。あるいは財界に於ける、その既存の産業構造のもとで収益を上げてきた人たち、なんですよね。でー、しかし大変動期だから、まさに政治が主導して、ゲームのプラットホームを変える必要があるんですよね。

 それは産業構造改革であり、霞ヶ関改革、政治主導確立法案みたいなわけですよね。であり、ま、税制改革、なんで、そうしたものを実現するためには、簡単に言うと、官僚の抵抗を排することができるだけの、やっぱ国民の支持が必要で、で、官僚っていうのは、これは既に言っていることだけど、政治家が国民の味方をしているなと思ったら、抵抗できなくなっちゃうんですね。現在の特捜検察なんか典型ですよ。はっきり言えばね。

 行政官僚はそこが弱み。政治家がポピュリズム、いい意味で今使っています。国民の人気を博することに成功すれば、行政官僚はそれまで抵抗していたのが、コロッて変わるっていうことがあるんですね。で、その意味で実は、国民に対する説明っていうのは従来、単なる跡目争い、派閥の間でやっていたような自民党政治と徹底的に違ってね、凄い大事で、行政官僚が、そうか、これからはゲームのルールが変わったんだなと思うことが、合理的であるぐらい、十分な民意の、支持が必要なんですですよね、政治家に対する。

 そういう意味で言うと、ちょっと行政官僚制が抵抗しようとするプラットホームの大変革に必要な、民意の、調達がちょっと、軽視されてるんじゃないかなあって――」

 菅首相、痛いところを突かれたからだろう、戸惑った表情で潤んだ目となっていた。宮台氏が言っている現在の大変動期に於ける「プラットホームの大変革」と言うのは、実質的には国の富の配分を行政官僚上層部や財界主導の「既存の産業構造のもとで収益を上げてきた人たち」が握っていて、一般国民への配分が滞っている現在の、いわば既得権を固定化しているメカニズムの場、プラットホームを変えて一般国民にも十分に配分できるプラットホームに変えることを言っているはずだ。
 
 だから、国民の支持が必要であるし、一般国民への順当な利益配分なくして支持は不可能になるとしている。いくら政治主導と言っても、支持がなければ政治も十分に機能しなくなる。

 だが、菅首相は国民主権という言葉を機会あるごとに使っているが、支持を失っていることが自身の政治が必ずしも国民主権となっていないことに気づいていないから、話が噛み合わない。
 
 神保代表「一方で、二世とか、エスタブリッシュメント(権力や支配力を持つ階層)とかの出身じゃないとかで、まあ、既得権益から自由な立場にいる――」

 宮台社会学者「跡目じゃない方が、その、政治をするということがね、単なる素人のですね、あの、戯れに終わらないためには、やっぱり跡目じゃない、従来とは違う人が政治家になるってことにまさに、あのー、ふさわしいだけのプラットホームの、やっぱ変革っていうのが目に見える形で、やっぱ必要なんですよね」

 確かに二世やエスタブリッシュメント等の出身でない方が一見既得権益から自由な場所を立ち位置とするように見えるが、菅首相みたいに指導力、合理的判断能力共に欠いていたのでは既得権益の打破は到底無理な相談となる。

 神保代表「まあ、テーブルを、ちゃぶ台をひっくり返すようなことを、やっぱ菅さんにやっていただかないと、いけないと――」

 宮台社会学者「特に権益のある程度の利益の変動ですよね――」

 菅首相「あのー、まあ、うちと外の、あの。ギャップと言われれば、そうなんですが。例えば今回、玄葉大臣に、あの、党の政調会長と、それから、あー、国家戦略、担当大臣を、ある意味、党の…中と、党の中と内閣の中を両方持ってもらっています。これは私の、あのー、官僚、を…、の、おー、構造、から言うと、その、非常に大きなですね、あの、力を持ち得る、調整能力を持ち得るわけです。

 つまり、先程宮台さん言われたように、つまり党を通して国民にダイレクトに伝わっています。今までの大臣は、どちらかと言うと、おー、特に自民党時代は、この内閣の中に閉じ込められる。で、内閣全体は官僚が、いわばこの、それを閉じ込めている。

 しかし、それに対して自民党の場合は外に党があって、で、党が二元代表制のような形で、えー、まあ、色々とですね、ま、族議員化というのもありますけれども、そのチェックしたり、あるいは、口を出して。

 しかし我が内閣の場合は、一元化はあるけども、党と内閣の両方に跨って、それをまさに集約して、場合によってはアウフヘーベンしていくというか、そういう機能を持つことによって、あの、新しい形の、まさにプラットホームなんです、これは。

 イギリスは元々こういう内閣制です。しかし日本の内閣制は、あの言葉もですね、与党、野党というように、実は与党という言葉はくみするということなんです。誰が誰に与(くみ)している。そうではなくて、政権党と言うべきなんですね。つまり議員内閣制に於いては、多数を得た党が、内閣を自分たちでつくるという、その発想がこれまで日本には全くありませんでした。

 ですから、その新たな、プラットホームを1年半前にですね、このマニフェストに掲げて、スタートして、え、そういう意味では、私はまだ、そのー、不十分なところがあるのはおっしゃるとおりですが、プラットホームそのものは根本から変えたんだって言うことはですね、是非、ここでも、言っておきたいと思いますね」

 カメラ目線となって、自身ありげににこっと笑う。宮台氏が「権益のある程度の利益の変動ですよね」と、そのような仕組みとなるプラットホームの必要性を解説しているにも関わらず、内閣と党の仕組みを変えたことに話を矮小化するトンチンカンを相変わらず犯している。

 玄葉を党の政調会長と内閣の国家戦略担当大臣に据えたことを以って非常に大きな調整能力を持ち得て、「党を通して国民にダイレクトに伝わっています」とどのような根拠あって言っているのか、請合っている。「党を通して国民にダイレクトに伝わって」いるなら、もっと支持率は上がってよさそうなものだが、現実にはそうなっていない。

 確かに力を発揮し得る組織づくりは必要だが、何よりも指導力がものを言うはずである。指導力がなければ、組織は宝の持ち腐れとなる。

 イギリスの内閣制を持ち出したあとに「議員内閣制に於いては、多数を得た党が、内閣を自分たちでつくるという、その発想がこれまで日本には全くありませんでした」と言っているが、何を言っているのか意味不明。これまで「多数を得た党」が常に「内閣を自分たちでつく」ってきたはずだ。

 「マニフェストに掲げて、スタートして」、「1年半前に」「プラットホーム」をつくったと言っているが、そのプラットホームが従来の既得権益獲固定化の構造を変えて国民にも十分に利益配分されるプラットホームになっているかが問題となっていることから外れていることにも気づかない愚かさを示している。

 また、「与党、野党というように、実は与党という言葉はくみするということなんです。誰が誰に与(くみ)している。そうではなくて、政権党と言うべきなんですね」と言っているが、本人は施政方針演説でも所信表明でも、何度も「与党、野党」の言葉を使っている。勿論「政権党」と言う言葉も使っているだろう。

 だが、名称などどうでもいいはずだ。国民に選択を受けたのだから、国民に与するという意味の「与党」だと解釈してもいいはずだ。野党は国民に与したくても、直接の政治遂行にタッチできない、いわば野(や=政権担当に関係ない場所)にあるから野党だと。

 形式論への拘りが非常に強いが、このことは裏返すと実質性への執着心の希薄さを証明していることになる。政治は「結果責任」だから、形式よりも常に実(じつ=結果)を重要視しなければならないはずだが、そうはなっていないから、菅政治が国民にダイレクトに伝わっているかどうかが問題でありながら、玄葉が党と内閣に跨る要職に就いたことの形式を以って「党を通して国民にダイレクトに伝わっています」などと言うことができる。

 菅首相のバカさ加減だけが伝わるトンチンカンな主張の展開となっていた。

 続きはまたの機会に。 

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