菅仮免の似た者夫婦が紡ぎ出した「決然と生きる 菅直人」座右の銘

2011-06-14 07:16:02 | Weblog



 菅仮免首相の賢夫人(けんぷじん――賢くてしっかりとした夫人)菅伸子女史がインタビューに応じた記事がある。《ザ・特集:「家庭内野党」伸子夫人に聞く 菅さんが総理になって--》毎日jp/2011年6月9日)

 「家庭内野党」を自任し、居宅としている首相公邸を「首相の社宅」と呼び習わしているという。要するにファーストレディではない、普通の人に見せようとしているということなのだろう。

 だが、鳩山前が入居の際の改修に公表で413万円もかけた「社宅」である。その前の麻生太郎が382万円、その前の福田康夫が282万円、さらにその前の安倍晋三が222万円とそれぞれカネをかけている。改築ではない。改修である。部屋の造りに合わせると改修のみでそれ相応のカネがかかるということであって、住人がどれ程普通人を演じようと、決して一般の社宅とは言えない豪華版の住いとなっているはずだ。

 要するに気の利いた呼称だと自己満足程度にとどまっている「首相の社宅」といったところではないのか。 
 
 伸子賢夫人の発言だけを記事から取り出してみる。質問は賢夫人の発言から想像してもらいたい。

 伸子賢夫人「引っ越し? ええ、決まれば、いつでも。だって、この社宅、家具はすべてちゃんとそろってたし、洋服と調味料、広辞苑くらいしか持ってこなかったもの。すぐ(東京都内の)吉祥寺の自宅に帰れますよ」

 荷物が少ないから引越しが簡単でいつでも引き払うことができるという問題ではないはずだ。本人の意志によるものではない、周囲からの強制による、いわば無理やり降ろされる任期半ばでの不本意な退陣(不本意であることは居座りにあれこれ言葉を費やしていることが証明していることだが)に対する気持を引越しの簡単さに代えてたいしたことではないと思わせようとしているところに逆に心中穏やからざる悔しさを窺うことができる。

 賢夫人は一見ざっくばらん あるいはあっけからんと振舞っているようだが、菅仮免自身のしぶとい居座りへの執念がそもそもからしていつでも引越しできるという状況に反している。

 人間には常にプライドがついてまわる。例えそれが根拠のないプライドであっても、それを失ったなら、卑屈一辺倒の人間か無気力一辺倒の人間と化してしまう。今回の強制退陣劇は相当菅仮免のプライドを傷つけているはずで、生半可ではあるはずはないその傷の痛みは賢夫人にも伝わっていないわけではあるまい。

 当然夫婦共々引越しは1カ月でも2カ月でも先延ばししたいはずだ。

 それを隠した賢夫人の引越しの簡単さに代えた退陣の気持にはどうということはないと見せかけたのと等量、あるいはそれ以上の人間に付き物の彼女自身のプライドをそこに抑え込んでいるはずで、負け惜しみが言わせた引越し云々であるはずである。

 そもそもからして菅仮免は最低衆院の任期を「一つのメド」とし、このことを自らの持論として機会あるごとに発言してきた。

 菅首相「政権を担当したら4年間の衆院の任期を一つのメドとして一方の政党が頑張ってみる。4年後に(衆院)解散・総選挙で継続するかしないか国民の信を問うという考え方がこれから政治的な慣例になっていくことが望ましいと思います」 

 それが衆院の任期が来る前に本人が望まないにも関わらず、引き摺り下ろされる。夫婦共々悔しくないはずはない。
 
 ビールを飲みだし、ワインに移ったという。

 伸子賢夫人 「アハハ、そうね。菅さんの原点はゲリラ、市民ゲリラだってこと、もっと思い出してもらわなくちゃ。昔の菅さんを知る支持者のみんなからさんざん言われるの。あと少ししかないなら、何かやってくれなきゃ。面白くないよって。私もそう思う」

 「あと少ししかないなら、何かやってくれなきゃ」と「昔の菅さんを知る支持者」から言われているということは何もやっていないから、彼らを満足させていないということであろう。

 ゲリラとは少人数の勢力で大勢力の権力の悪に権力が思いもよらない奇襲作戦で立ち向かい、その権力悪に打撃を与える、あるいは倒すことを目的とした行動を言うはずである。

 また自らが絶対と信じた正義が市民・国民から一般的に認知されて正当性を獲ち得ていることを前提としていなければ、そのゲリラはテロと化す。

 ここから汲み取ることのできるゲリラの精神とは改めて断るまでもなく権力に対する反骨精神であり、それが彼ら一人ひとりの人間性に太く逞しく貫いているというこであろう。

 【反骨】「不当な権力や世俗的風習に反抗する気概」(『大辞林』三省堂)

 菅仮免の「原点はゲリラ」と言うからには例え権力の側に身を置いても、その反骨精神は失ってはならないはずであるし、自らが信じる正義を徒手空拳で闘い取る気骨を維持した姿勢を保持していなければならない。

 だが、現在の菅仮免の政治家像から反骨精神だ、徒手空拳の気骨だといった強い意志を感じ取ることできる国民はどれくらいいるのだろうか。

 ゲリラ精神を維持していたなら、内閣不信任決議案が可決される状況になったとしても、鳩山前と確認書を取り交わし、守るつもりもなく退陣を条件に不信任案可決を回避する狡猾な策を弄することはなかったろう。

 また、ゲリラである以上、自身の能力発揮の機会を「4年間の衆院の任期」に置くのではなく、その場その場勝負に置き、その積み重ねに価値を見い出そうとしたはずだ。

 その積み重ねが国民に受入れられた場合、「4年間の衆院の任期」を自ずと獲ち取ることができる。

 だが、菅仮免は何を為すかに重きを置くのではなく、「4年間の衆院の任期」に拘った。これを以てゲリラの精神とはとても言えない。賢夫人の「菅さんの原点はゲリラ、市民ゲリラだ」は買いかぶりに等しい虚像に過ぎない。

 菅仮免が注目すべき成果を上げていないこと、何もやっていないは次の発言が証言している。

 菅仮免就任後まもなくに出版した賢夫人著作物のタイトル「あなたが総理になって、いったい日本の何が変わるの」

 どのような目的で出版したのか、尻を叩く意味があったのか。女房に尻を叩かれて発奮する一国のリーダーは自発性に欠け、そのことだけでリーダーとしての資格を失う。

 伸子賢夫人「大して何も変わっちゃおらんわ! ただ東日本大震災があって、浜岡原発を止めたのは大きいんじゃないかなあ。突発の思いつきなんかじゃない。菅さん、国会議員に初当選した1980年にアメリカに出かけ、風力発電を視察しているんです。風力や太陽光エネルギーこそ、次の時代の基幹エネルギーになると信じてきた。それに究極は植物によるバイオマスエネルギーも夢見ている。いろんな政党を経験してきたけど、僕の最後は植物党をつくることだって、今も真顔で言ってますから」

 浜岡原発停止のみを成果だとし、他は国を変えたり社会を変えたりする成果は何もない。このことを以って首相としての使命・責任を果たしたとされたのでは適わない。

 総体性に価値を置くのではなく、たった一つの個別性に価値を置く。その価値が国を変え社会を変える大いなる力を持つなら個別性が総体性を超えることもあり得るが、津波対策さえ済めば再稼動を認める浜岡原発停止であって、原発政策を根本から変えて、それが国の変化、社会の変化へとつながっていく停止ではないのだから、賢夫人が誇る程のことではない。

 実際にも政府の国家戦略室は原発推進の姿勢を堅持する「革新的エネルギー・環境戦略」の素案を纏めている。

 また「僕の最後は植物党をつくること」が願望だとしても、党として実際に行ってきたことは2020年までに9基、2030年までに14基以上の原発を新増設するエネルギー政策を掲げてきた。今回の原発事故でその数が減ることはあっても原発推進の姿勢が変わらない以上、「植物党をつくること」云々は単なる奇麗事の域を脱しない。

 要するに菅仮免にしても賢夫人にしても自身が口にする言葉と実態はかけ離れていて、かけ離れていること自体にも気づいていないことを示している。

 この点に於いて似た者夫婦と言える。但し夫婦共々合理的な判断能力を欠いているということの証明にしかならない。

 菅仮免が何もたいしてできなかった理由を次のように解説している。

 伸子賢夫人「うーん、やっぱり、おカネの力でものごとを動かそうとする人が強いのよねえ。あのDNAをわが民主党に残されちゃかなわん。菅さんは違う。震災の復旧・復興はほかの人でもできるけど、“政治とカネ”の封じ込めだけは菅さんじゃなきゃできないって、誰かが言ってた。それにしても、永田町の男って政局で元気になるのね。ねたみと、そねみが渦巻いて」
 
 基本的には国を動かし、社会を動かす権力は一国の総理大臣が握っている。「おカネの力でものごとを動かそうとする人が強いのよねえ」と言っているようでは、自らの握っている権力が「おカネの力でものごとを動かそうとする人」に負けていることになる。そのくせ、「“政治とカネ”の封じ込めだけは菅さんじゃなきゃできないって、誰かが言ってた」と矛盾したことを矛盾していることだと気づかずに言っている。

 小沢氏を「封じ込め」るべくして動いて何が残ったというのだろう。党内対立・党内混乱。自身の指導力欠如と相まって支持率を下げることになり、結果として自分で自分の首を絞める自縄自縛を成果としたに過ぎない。

 永田町の「ねたみ」が菅退陣策動の原動力だとしよう。だが、2010年参院選敗北も今年4月の統一選敗北も永田町の「ねたみ」が原因ではあるまい。国民が選択した審判なのだから。菅本人の指導力欠如や政権運営能力欠如から目を逸らして、永田町の「ねたみ」だとすることによって気持の納得を得ることができたとしても、逆に目を曇らせた愚かしさを演じていることになる。

 伸子賢夫人「ええ、ええ、うちの菅直人に徳なんてございません。今の政治家はみんな小粒でしょ。ペテン師? 古いわねえ。昭和の言葉でしょ。まあ、ハラが立つより、くすっと笑っちゃう。鳩山さん、憎めないのよ」

 たいしたことではないと取り合わない姿勢である。だが、内閣不信任決議案が可決される状況にあったからこそ、それを回避するために自らの退陣を交換条件に鳩山前と確認書を取り交わしたはずである。

 そして代議士会で、「一定のメドがついた段階で、私がやるべき一定の役割が果たせた段階で、若い世代に責任を引き継いでもらいたい」と発言することで確認書で交わした退陣の約束を確認書に書いてあるとおりにさも果たすかのように見せかけて不信任案を可決される状況から大差の否決へと逆転に持ち込むことに成功した。

 だが、「第2次補正予算の早期編成のめどをつけること」までとした約束した退陣時期を、代議士会とそれ以後の発言でも退陣とか辞任とかいう言葉は一切使わずに「一定のメド」に取り替えて先延ばしにし、居座る意志を見せているのである。ペテンでなくて何だというのだろうか。

 最初から守るつもりもなく、反故にするつもりで不信任案可決回避と退陣を交換条件に確認書を取り交わしたのである。「おカネの力でものごとを動かそうとする」こと以上に姑息な上、卑劣である。

 だが、夫が夫なら、妻も妻で、ペテン師と言われたことを痛くも痒くもないことだとしている。

 伸子賢夫人「そうかなあ。これまで首相がいともあっさり、簡単に辞めちゃった方が不思議ですよ。日本は、男の引き際だとか、男の美学だとかってすごく好きでしょ。江戸時代の切腹がそう。よくない」

 いつでも引越しできるという状況に反する菅仮免の退陣の先延ばしを正当化している。

 殆んどの首相がしがみつこうとしながら、追いつめられて辞任している。追いつめられなければ、誰が辞任などするだろうか。身内庇いが目を曇らせているのか、元々判断能力を欠いているからか、意味もない精神性を持ち出している。

 引き際が大切ということはこれまで十二分に発揮してきた能力が衰えていながら、そのことに気づかずに衰えた能力を惨めに曝してまで現役にしがみつき、折角築き上げた評価を台無しにしてしまうことへの警告、もしくは自戒を言うのであって、何ら能力を発揮しない場合について言うことではない。

 いわば引き際に関する「男の美学」とは能力が衰える前に前以て衰えが訪れることを察知して能力ある状態で潔く身を引き、後輩に道を譲ることを言うはずである。最近の例で言うなら、成果に毀誉褒貶はあるものの、小泉純一郎を強いて挙げることはできるかもしれないが、菅仮免の少しでも退陣を先延ばしにしようとする出処進退の遣り方を肯定するために「男の美学」を否定的例として持ち出しすこと自体がそもそもからして正当性を持ち得ないはずで、トンチンカンな判断能力を示しているに過ぎない。

 伸子賢夫人「読んでみて。菅さんも読んだ」

 塩野七生著「日本人へ リーダー篇」(文春新書)の一節を示す。タイトル「拝啓 小泉純一郎様」

 〈私があなたに求めることはただ一つ、刀折れ矢尽き、満身創痍(そうい)になるまで責務を果たしつづけ、その後で初めて、今はまだ若造でしかない次の次の世代にバトンタッチして、政治家としての命を終えてくださることなのです〉――

 賢夫人は菅仮免に対してこういう退き際を望み、菅仮免も願望としては目指しているということであろう。

 だが、このことは単に形式をなぞらえようとしているに過ぎない。なぜなら、「刀折れ矢尽き、満身創痍(そうい)になるまで責務を果たしつづけ」るには果たし続けるだけの優れた能力と責任意志、さらに意欲を有していることを条件としていなければならないからであって、この三つを備えていたなら、願望としようとしなかろうと、後からついてくる自らの実質的な生き様とすることができるからである。

 「刀折れ矢尽き、満身創痍」を目指しているということで2010年参院選に惨敗を喫しようと今年4月の統一選に敗北しようと何ら責任を取らずに首相職にとどまっているということかもしれないが、実際は責任を取って辞任し、それでも尚且つ闘い続ける姿勢を「刀折れ矢尽き、満身創痍」と言うはずである。

 だが、自己保身に走り後者の姿を取らなかった。

 自己保身は無傷であろうとすることであって、「刀折れ矢尽き、満身創痍」の状況とは無縁である。

 2010年の北海道5区補選では菅内閣発足後初の国政選挙でありながら、自党候補劣勢のため一度も選挙区入りせず、党首としての責任を果たさなかった。劣勢を挽回できなかった党首との批判を回避する自己保身優先の責任放棄だった。

 このような自己保身姿勢に「刀折れ矢尽き、満身創痍」の生き様を見て取ることができるだろうか。

 能力、責任意志、意欲、共に欠いていながら、「刀折れ矢尽き、満身創痍」の生き様を願望とする。勝手にないものねだりをしているとしか見えない。

 伸子賢夫人「もうひとり、ハマッてる作家がいる。福島のお寺の住職でもある玄侑宗久(げんゆう そうきゅう)さん。たまたまテレビを見ていたら、出ておられて、おっしゃった。『なりゆきを決然と生きる』。これよ、これ! この言葉だなあって。私が生まれたのもなりゆき、菅さんと一緒になったのもなりゆき、首相夫人になったのもなりゆきですから。どこへ行くかわからない。それでも決然と進んでいく。菅さんも、いいねって。ただいま現在、菅家の座右の銘でございます」

 「なりゆき」には自身が周囲の状況の変化に積極的に関わるのではなく、周囲の状況の変化に自身を任せる意味を含んでいる。だから、「どこへ行くかわからない」という言葉が出てくる。自分からどこへ行くと目指す生き方ではない。

 ここで既に闘う姿勢を必要とする「刀折れ矢尽き、満身創痍」の生き様を願望としていたことと矛盾を来たしていることになる。「刀折れ矢尽き、満身創痍」の生き様はあくまでも周囲の状況を自ら変えることを言うはずである。

 但し「なりゆきを決然と生きる」ことは可能であろう。周囲の状況の変化に従いつつ、強い意志を持ってかどうか知らないが、とにかく自身を維持して生きてゆく。

 だが、こういった自身を維持していくだけの「なりゆき」の生き方は政治家の夫人には許されても、あるいは頭数にしかならない国会議員には許されても、一国の首相には許されない「なりゆき」の生き方であるはずである。

 国や社会や国民の生活は「なりゆき」に任せるのではなく、一国のリーダーとして自らがあるべきこととしている理想の姿に決然とした意志で以て変えていくことを使命・役目としているからである。

 国や社会や国民の生活はかくあるべしと自ら思い定めて、その実現を結果として出し、それを一個の政治家としての成果とすることを使命としているはずである。

 にも関わらず、「菅さんも、いいねって」言い、菅家の「座右の銘」とし、6月11日に訪問した被災地釜石市のボランティアセンターの壁の寄せ書きに「決然と生きる 菅直人」と書き記したということだから、共鳴した生き様になっていて、そうあるべきだとしていることになる。

 選挙の敗北に責任を取らない姿勢や北海道5区補選で自党候補の応援に選挙区入りしなかった姿勢を「刀折れ矢尽き、満身創痍」の願望としている生き様に反すると書いたが、「決然と生きる」を掲げることも、「決然と生き」て来た履歴を必要とするはずだから、「決然と生きる」ことができなかった人間が掲げてもいい座右の銘ではないことになる。

 各選挙の敗北に党首としての責任から逃れたことは勿論、首相就任半年間を「これまでは仮免だった」とその政権運営の不手際・不慣れの言い訳として責任逃れをしたことも「決然と生きる」とは無縁の生き様でしかない。

 また震災対応・原発事故対応では初動から不手際を演じ、今以て満足に対応し切れず、復興の遅れを招き、内閣トップとしての責任を果たし得ていないことも「刀折れ矢尽き、満身創痍」以前の生き様であり、「決然と生きる」にも反した生き方と言わざるを得ない。

 かくかように過去に一度も「決然と生きる」ことをしてこなかったと言えるのだから、書く資格がないままにいくら「決然と生きる」と書いたとしても期待しようがないにも関わらず、「決然と生きる」と寄せ書きをし、座右の銘とする。そのようには生きてこなかった実態を言葉で装い、そうと見せかける、まさしくペテンなのは明らかである。

 記者持参の桑田佳祐のCD「いいひと」を夫人にかけてもらう。鳩山政権時代に書いた詞らしいということだから、鳩山前のことを歌った曲なのだろう。

 歌詞「お辞任(やめ)になる前に総理(ボス)よ そっとツブやいておくれ Baby!! Tweet!! Baby!! “現代(いま)”が何処(どこ)に向かって何を唱(うた)うべきかを……」

 鳩山前は在職中は盛んにTwitterで呟いていたが、最近は呟いているのかどうか。

 伸子賢夫人「へえーこんな歌、あるんだ。よく見てるわねえ」

 菅仮免帰宅。

 伸子賢夫人「桑田さんの歌、いいわよー。あなた、つぶやかなきゃ、もっと、もっと」

 桑田佳祐が歌っていることは国や社会や国民がどこに向かっているのか、それぞれの姿はどうあるべきかを辞任前に示すべきだということであろう。

 勿論、示すことができる能力を持っているかどうかが先ず最初の問題となる。次の問題として、単に呟くだけで終わらせてはいけない、実現可能能力が控えている。政策は提示した、それを国や社会に利益をもたらす形で具体化できなかったでは呟いた意味、政策を提示した意味を失う。

 だが、賢夫人は菅仮免が問題とされていることはその実現可能能力――実行力でありながら、呟くことだけを考えて勧めている。

 記事は菅仮免がどう答えたかは何も書かずに記事を終えている。

 自身では相当頭のいい女と思っているかもしれないが、理解能力も判断能力も中途半端に出来上がっているようだ。だからこそ、合理的な判断能力を欠いた菅仮免と似た者同士として夫婦していくことができるのだろう。

 最後にもう一度言う。責任から逃れ、責任を放棄してまで自己保身に執着して「決然と生きる」ことをしてこなかった人間が一国のリーダーとして「決然と生きる」ことなどできようはずはない。


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