【菅首相 無能】鳩山「確認書」が教えた不信任案可決を最も恐れた菅仮免首相

2011-06-08 10:45:12 | Weblog


 
 ポータルサイトの検索欄に「菅首相 有能」と入れると、「菅首相 無能の間違いではありませんか」と警告文字が出るそうだが、と言うことは、記事題名に「菅首相 無能」の文字を入れると、検索でより多くヒットすることになるということであろう。

 それで試しに記事題名に「菅首相 無能」を入れてみた。今まで「無能」という文字を入れた記事題はあったが、「菅首相 無能」と直接的に露骨に入れるのは初めてである。例えヒットしたとしても、読んで貰える保証はないし、政治家が支持率狙いのみの政策を行うように邪道かもしれないが、菅仮免を取り上げた記事の内容自体は一貫してその無能を扱っているから、関連がないわけではなく、少なくとも内容にヒットする検索文字と言える。

 野党が例え不信任案を提出しても十分に否決できると高を括っていた菅仮免とその一派だったが、採決直前になって不信任案賛成に向けた小沢氏とそのグループ、さらに鳩山氏とそのグループの動きから、菅派の読みは採決直前の土壇場で可決へと逆転した。

 殊更断るまでもなく、確認書を取り交わさなければならなかったことがそのことを証明している。

 時系列を遡ると、6月2日午後採決。正午から民主党代議士会。午前中の首相官邸での確認書の取り交わし、1日の野党不信任案提出だったのだから、まさしく最後の土壇場になって可決と読まざるを得なかった。

 だが、菅首相とその一派は不信任案が提出されて可決されたなら、解散・総選挙に打って出ると機会あるごとに宣言してきた。これは菅とその一派がそうすると申し合わせていたからこそできた共同歩調であろう。

 だとすると、採決直前の土壇場になってだろうと何だろうと、可決される情勢となったとしても、これまで宣言してきたとおりに粛々と解散・総選挙の準備に入る心構えで不信任案の審判を待てばよかったはずだ。そうすることが自分たちが発してきた言葉に対する責任となる。

 菅仮免が実際に取った行動は不信任案可決回避の交換条件に退陣を約束する確認書の取り交わしだった。

 その策が成功し、賛成意思を見せていた鳩山前等が否決意思に変え、鳩山グループからの援軍がなければ小沢グループのみでは野党と併せても可決できるだけの数を確保できないために小沢氏は自主投票を選択、自身は欠席にまわり、小沢グループでは最初の意志どおりに賛成票を投じたのは松木謙公議員一人のみであった。

 菅仮免の不信任案否決後の行動を見ると、退陣するつもりはさらさらないままにその意思を隠して不信任案可決回避のみを目的に、そのために署名を求められながら応じなかった、菅仮免からしたら退陣を匂わせただけということになるのだろう、その程度の確認書の取り交わしに応じたことが分かるが、鳩山前との会談後の正午からの代議士会で、多分、無署名の不確かさを補って確認書の取り交わしを事実だと思わせる必要上からではないか、「一定のメドがついた段階で、若い世代に責任を引き継ぎたい」と発言したことが命取りとなった。

 但し菅仮免本人は「一定のメド」なる言葉に自身の判断一つで決めることができる恣意性を持たせていたに違いない。だが、“退陣”という言葉が一人歩きすることとなって既成事実化し、当然時期が問題となる。時期が定まって初めて“退陣”という事実に向けてスケジュ-ル化する。

 野党、その他から時期はいつだと迫られたが、「職に恋々としない」と言いながら、言質を取られまいと「退陣」と言う発言を封じて、原子炉事故収束工程表ステップ2完了時の来年1月と言ったりしてはぐらかしていたが、基本的には信服(信頼して従う)も心服(尊敬して従う)も結節点としていない関係だったのだろう、閣内からも反旗が翻り、それが一人増え、二人増えて、「社会保障と税の一体改革をまとめ、今年度の第2次補正予算案を来月、国会に提出するなど、やるべきことをやったうえで、常識的に判断したい」と「一定のメド」を8月に前倒しすることになった。

 但し、「職に恋々としない」も、「一定のメド」も、「常識的に」も具体性を一切示す言葉ではないから、8月が9月に先延ばしされない保証はなく、直ちに反撃を受けて、「6月中の退陣」を求める声を却って強めることとなった。

 確実と読んだ内閣不信任決議案可決を回避するために退陣すると思わせ、念を入れて署名までしなかった確認書を取り交わしたことが逆にアダとなって、そのしっぺ返しを食らうこととなった。

 政権への執着があまりに過度であったために却って反発の磁力が働いたといったところか。やっとのことでしがみついた枝がたわんで、後は枝が折れて落ちるのを待つばかりの状態に身動き取れなくなったとも形容できる。

 すべては不信任案が可決されたら解散・総選挙に打って出ると公言してきたことを守る責任を果たし得なかったことにそもそもの原因がある。

 勿論、解散・総選挙に打って出たとしても、民主党大敗、政権喪失の場面は予想されていて、実際には打って出ることはできない単なる威し、牽制の類だろうと疑いの目を向けられていた。だが、疑いは疑いであって、破れかぶれの解散・総選挙ということもあるから、それなりの効果はあったが、確認書の取り交わしによって解散・総選挙がこけ威しであったことが明確に判明した。

 解散・総選挙を恐れていたのは何よりも菅仮免自身であり、菅以下のその一派であった。敗戦の予想が予想通りに事実化した場合、長年の苦労の末にやっとのことで実現した歴史的な政権交代を短日月に手離した愚かな首相として歴史に名を刻むことも次の事実として十分に予想されていたからだ。

 解散・総選挙を回避するためには不信任案可決を回避しなければならない。

 要するに不信任案が提出されても否決が確実な状況の場合のみ通用した解散・総選挙の威しであり、牽制であった。

 寺田学元首相補佐官の「もし首相退陣を求めるなら、選挙で勝った人間がやらないと、国民に対しての示しがつかない。私は衆院を解散して総選挙すべきだと思う」(MSN産経)にしても、「選挙で勝った人間がやらないと、国民に対しての示しがつかない」いうのは白々しい強がりに過ぎないのはさて措いて、安住国会対策委員長の「不信任決議案が万が一可決された場合は、菅総理大臣に衆議院の解散を進言する」(同MSN産経)にしても、岡田の「不信任案が可決すれば首相は絶対に解散する」にしても、枝野の「解散はひとえに総理の専権事項だ」にしても、条件付きの威し・牽制の類いに過ぎなかった。

 条件付だから、その条件が崩れると、発言が約束していた行動の一貫性を失い、当然、責任まで失うことになる。

 元々菅仮免は「やるべき一定の役割が果たせた段階」としての「一定のメド」の期間を衆院任期の4年間に置いていた。

 2010年11月8日の衆院予算委員会。

 菅首相「わたし自身どこまで頑張りきれるか分からないが、物事が進んでいる限りは石にかじりついても頑張りたい。・・・。政権を担当したら4年間の衆院の任期を一つのメドとして一方の政党が頑張ってみる。4年後に(衆院)解散・総選挙で継続するかしないか国民の信を問うという考え方がこれから政治的な慣例になっていくことが望ましい」 

 しかしこの主張は一国の首相が身につけていなければならない資質・才能を無視した、そのことに目を向けない単に法律上の衆院任期に首相の任期を願望として機械的に重ねた主張に過ぎない。資質・才能についてくるものとしての任期であるという視点を一切欠いてkる。

 一国の首相が常に問題とされるのは指導力、リーダーシップの有無・程度であり、政権担当能力や統治能力、さらに実務能力如何である。

 岡田幹事長は参院野党多数のねじれ国会では誰がやってもうまくいかないと言っていたが、参院選敗北を招いた原因は菅自身の能力にあることを忘れてはならない。菅仮免の能力が作り出した参院選敗北である以上、どう転んでも常に首相の資質・能力が問われることになる。

 野党に不信任案提出を誘導させる動機にしても、首相の資質・能力に対する疑問・不信をキッカケとする。


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