君が代の起立斉唱を義務づける「大阪府の施設における国旗の掲揚及び教職員による国歌の斉唱に関する条例案」が昨年2011年6月に成立、共同歩調を合わせる形で「大阪市の施設における国旗の掲揚 及び 教職員による国家の斉唱に関する条例案」が2月28日(2012年)成立。 大阪府の施設における国旗の掲揚及び教職員による国歌の斉唱に関する条例あかもじ
府と市の内容が同じである上、府条例が府内の全公立学校の教職員を対象としていることから、〈市教委は独自の条例制定は不要としていたが、橋下市長が「市の意思を明確にする意義がある」として提案した。〉(毎日jp)のだという。
念には念を入れて強制しようということなのだろう。
但し大阪市議会は維新の会が過半数以下で、自民、公明党以下の野党が反対。公明党が次期衆院選で維新との選挙協力を模索している関係から一部修正の条件付きで賛成に回り、両者が〈自民党の要望を受けて、「市長と市教委の責務」として国旗掲揚と国歌斉唱が適切に行われるために必要な措置を講じる規定を加えることで合意した。〉(MSN産経)という経緯を踏んで成立したそうだ。
大阪府の条例は次のようになっている。
(目的)
第一条この条例は、国旗及び国歌に関する法律(平成十一年法律第百二十七号)、、教育基本法(平成十八年法律第百二十号)及び、学習指導要領の趣旨を踏まえ、府の施設における国旗の掲揚及び教職員による国歌の斉唱について定めることにより、府民、とりわけ次代を担う子どもが伝統と文化を尊重し、それらを育んできた我が国と郷土を愛する意識の高揚に資するとともに、他国を尊重し、国際社会の平和と発展に寄与する態度を養うこと並びに府立学校及び府内の市町村立学校における服務規律の厳格化を図ることを目的とする。
(定義)
第二条この条例において「府の施設」とは、府の教育委員会の所管に属する学校の施設その他の府の事務又は事業の用に供している施設(府以外の者の所有する建物に所在する施設及び府の職員の在勤する公署でない施設を除く)をいう。
2 この条例において「教職員」とは、府立学校及び府内の市町村立学校のうち、学校教育法(昭和二十二年法律第二十六号)第一条に規定する小学校、中学校、高等学校及び特別支援学校に勤務する校長、教員その他の者をいう。
(国旗の掲揚)
第三条府の施設においては、その執務時間(地方自治法(昭和二十二年法律第六十七号)第二百四十四条第一項に規定する公の施設にあっては、府民の利用に供する時間)において、その利用者の見やすい場所に国旗を掲げるものとする。
(国歌の斉唱)
第四条府立学校及び府内の市町村立学校の行事において行われる国歌の斉唱にあっては、教職員は起立により斉唱を行うものとする。ただし、身体上の障がい、負傷又は疾病により起立、若しくは斉唱するのに支障があると校長が認める者については、この限りでない。
2 前項の規定は、市町村の教育委員会による服務の監督の権限を侵すものではない。
附則
この条例は、公布の日から施行する。
要するに国旗掲揚の場合は起立一礼せよ、国歌斉唱のときは起立斉唱せよという教師たちに対する命令である。
だが、日本の保守的物神崇拝者は勘違いしている。「府民、とりわけ次代を担う子どもが伝統と文化を尊重し」と高らかに謳っているが、「尊重」する対象としての「伝統と文化」を固定した絶対価値として等し並に押しつける権利は誰にもない。何を「伝統」とし、何を「文化」とするかは人それぞれの自由な価値観に基づく。
当然、「尊重」する、「伝統と文化」にしても、人それぞれによって異なる姿を取る。
にも関わらず、自分たちの言うところの「伝統と文化」を強制するのは思想・信教の自由、表現の自由を侵す独裁主義の何ものでもない。
「我が国と郷土を愛する」にしても、「我が国」の何をどのように愛するか、「郷土」の何をどのように愛するか、それぞれの自由な価値観に添う。
国旗・国歌はそれが象徴する価値観と国民の存在性と一致していなければならない。
アメリカの国歌「星条旗」を例に取って、その歌詞をインターネット上から拝借して説明してみる。国旗も「星条旗」の呼称がついている。当然のことであるが、同じ価値観を象徴していると看做すことができる。
国歌「星条旗」は1812年~1815年の米英戦争のさなかに生まれたそうだ。英国からの独立を獲ち取った戦争である。当然、独立を一つの価値観として象徴している。
戦争の歌でもあるから、歌詞は全編戦いを勇ましく鼓舞する言葉で貫かれている。だが、その中で次のような歌詞が挿入されている。
ああ、星条旗はまだたなびいているか
自由の地 勇者の故郷の上に
星条旗よ、長きに渡り翻らん
自由の地 勇者の故郷の上に
勝利の歓喜の中、星条旗は翻る
自由の地 勇者の故郷の上に(引用以上)
アメリカを自由の地に擬(なぞら)え、価値づけている。
断るまでもなく、自由は独立と民主主義によって獲得される。独裁主義は自由を束縛する。あるいは自由を抑圧する。自由と独立の象徴は同時に民主主義を象徴する。
いわばアメリカ国歌「星条旗」にしてもアメリカ国旗「星条旗」にしても自由と独立と民主主義を象徴している。
アメリカ国旗・国歌「星条旗」が自由と独立と民主主義を象徴していたとしても、アメリカ国民が北朝鮮国民のように自由を抑圧され、権力層の飽食豊満に反して食料も満足に手に入らずに物心共に虐げられた存在性を担わされていたなら、国旗・国歌が如何に自由と独立と民主主義を象徴していようと意味をなさない。
アメリカ国歌・国旗「星条旗」が自由と独立と民主主義を象徴しているのと同じく、アメリカ国民の存在性も自由と独立と民主主義を保障されていなければならないし、保障されて初めてアメリカ国民の国歌・国旗としての意味・価値を持つ。
いわば国旗・国歌の象徴と国民の存在性は一致していなければならない。誰も異論がないはずである。
翻って日本の国歌である「君が代」を見てみよう。「日の丸」の象徴性は「君が代」の象徴性から見れば分かる。異なる価値観に彩られているはずはないからである。
自民党政府提出の「国旗及び国歌に関する法律」(国旗国歌法)は1999年8月9日成立。成立に先立って1999年6月11日、政府は法案提出と同時に政府統一見解を発表し、18日後の1996年6月29日に当時の小渕首相が解釈の変更を行っている
最初の政府統一見解
〈「君」とは、「大日本帝国憲法下では主権者である天皇を指していたと言われているが、日本国憲法下では、日本国及び日本国民統合の象徴である天皇と解釈するのが適当である。」
(「君が代」の歌詞は、)「日本国憲法下では、天皇を日本国及び日本国民統合の象徴とする我が国の末永い繁栄と平和を祈念したものと理解することが適当である。」〉――
小渕首相(当時)による解釈の変更
〈1.日本国憲法においては、国歌君が代の『君』は、日本国及び日本国民統合の象徴であり、その地位が主権の存する日本国民の総意に基づく天皇のことを指す。
2.君が代とは、日本国民の総意に基づき、天皇を日本国及び日本国民統合の象徴とする我が国のこと。
3.君が代の歌詞は、そうした我が国の末永い繁栄と平和を祈念したものと解することが適当である。」〉――
「君が代」の「君」とは「その地位が主権の存する国民の総意に基づく天皇」のことであり、「代」とは、「日本国民の総意に基づき天皇を日本国及び日本国民統合の象徴とする我が国」のことだと言っている。
日本国憲法は天皇を「日本国の象徴であり、日本国民統合の象徴であって、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く」と規定している。
要するに天皇の地位は国民が決めたことだとしている。日本国民を主体者として位置づけていることを意味している。国民主権との整合性を考えるなら、当然の憲法の扱いであろう。
「主体者」とは集団・組織等の中心となる存在を言う。日本国家の中心は日本国民であるということである。
繰返し言うと、主権はあくまでも国民にあり、天皇は「主権の存する日本国民の総意に基」いて、日本国と日本国民統合の「象徴」として位置づけているに過ぎないことになる。戦前のように国民は天皇を頭に戴いているわけではないし、天皇が国民の頭上に位置して国民を支配しているわけではない。
主権が国民に所属していながら、日本国と日本国民統合の象徴に過ぎない天皇を日本国歌たる「君が代」の「君」に位置づけ、「代」は「天皇を日本国及び日本国民統合の象徴とする我が国」のことを指すとして、天皇を中心に置いている。
いわば国旗・国歌はそれが象徴する価値観と国民の存在性が一致していなければならないはずであるにも関わらず、日本国歌「君が代」は天皇を中心に置いて、天皇の存在性(日本国及び日本国民統合の象徴だとする存在性)を謳った国歌ということになる。国民を国家の中心に位置づけて、自由と民主主義を体現した日本国民の存在性を謳い上げた国歌とはなっていない。
君が代・日の丸は戦前の独裁性から戦後の象徴性に姿を変えてはいるものの、その起立斉唱は天皇の存在性の強制以外の何ものでもない。
日本国民の存在性を欠いた国歌を起立して歌う義務が国民にあるだろうか。
当然、君が代に対しても同じである。
所詮、国民主権の今の時代に、あるいは自由と民主主義を日本国民の存在性としている今の時代に大日本帝国憲法で「大日本帝國ハ萬世一系ノ天皇之ヲ統治ス」とした天皇独裁を背景とし、創り上げた天皇の絶対性とその存在の悠久性を歌い上げた「君が代」を戦後民主主義の時代に引きずって日本国歌としていること自体が時代錯誤の過ちと言わざるを得ない。