赤ちゃんポスト/預けられた子の身元判別は必要なのか

2012-03-30 10:42:58 | Weblog

 2007年5月10日から運用開始の熊本市は慈恵病院の「こうのとりのゆりかご(赤ちゃんポスト)」。2009年10月から2011年9月までの2年間に受け入れた30人の赤ちゃんを対象に市の有識者委員会が身元が判明した親から聞き取り調査を行い、3月29日(2012年)、その検証報告を公表した。

 《海外留学の親が預けたケースも 赤ちゃんポスト》MSN産経/2012.3.29 17:21)
 
 記事題名からすると、親が海外に留学するために子供を預けたケースを不適切事例の筆頭として挙げたということなのだろう。

 その他には、仕事の際に子供を預ける施設が見つからずに利用した例、未成年後見人の伯父が甥の男児を預けた後に相続財産を着服した例を挙げている。

 報告書「明らかな自己都合による利用と見なされる事例があり、安易な預け入れにつながっている」

 記事からでは「こうのとりのゆりかご(赤ちゃんポスト)」が安易な受入れを誘発する否定されるべき制度と検証しているのかどうかは分からない。

 勿論、記事が触れていないのだから、廃止の方向に向けた総括を結論づけているわけではないことは理解できる。

 だが、次の記事を読むと、否定されるべき制度と検証しているかのように受け取られかねない内容となっている。《慈恵病院が反論「安易な受け入れない」 赤ちゃんポスト》MSN産経/2012.3.29 18:25)

 記事題名は否定検証に対する反論としての肯定の主張の体裁を採っている。

 〈親が育てられない子供を匿名で受け入れる、熊本市の慈恵病院の「こうのとりのゆりかご(赤ちゃんポスト)」で複数の不適切な事例があるとした検証報告書について、病院側は29日に記者会見し「検証報告が指摘するような安易な受け入れはない」などと反論した。〉――

 親が海外留学のために子供を預けた事例に関して。

 田尻由貴子看護部長「彼女は葛藤の中で預けたが、今は自分で養育している。報告書は事実を追跡して評価してもらいたい」

 批判は当たらないと反論し、制度の正当性を訴えている。

 出産直後に飛行機に乗るなど、預け入れ前の子供の安全性が確保されていないとの指摘に関しては。

 蓮田太二理事長「慈恵病院だけで受け止めるのは限界がある。全国に何カ所か同じような施設ができてほしい」

 駅から徒歩何分のマンションといった具合に地理的利便性の確保を訴えている。

 制度の存在価値に否定的な検証なのか、肯定的な検証なのか、熊本市のHPにアクセス、《「こうのとりのゆりかご」検証報告書について <概要版>》(平成24 年3 月 熊本市子ども政策課作成)を探し出して、閲覧してみた。  

 報告書の「慈恵病院に対する要望」「熊本市に対する要望」「国に対すると要望」を見ると、改善の促しであって、制度自体の価値を否定してはいない。

第6章 今後の対応策 -各機関への要望-

1 慈恵病院に対する要望

・預け入れに至る前に相談につなぐ方策のさらなる充実。
・可能な限り相談につなぎ、子どもの身元判明につながるためのあらゆる努力。
・母子の安全確保のため、自宅出産の危険性や出産直後の長距離での移動の危険性のさらなる周
 知。
・ゆりかごの運用に当たる熊本市との連携。
・新生児のための施設であることの周知の徹底。

2 熊本市に対する要望

・身元の判明のため引き続きの調査の徹底。
・預けられた子どもたちの現在の状況の把握。
・里親委託をさらなる推進と里親への十分な支援。
・ゆりかごへの預け入れや虐待を行った親への支援のしくみの確立。
・育児困難な低所得世帯への援助についての検討。
・県検証報告書の要望についての実現に向けての国への働きかけの継続。

3 国に対すると要望

・医療機関で出生した子どもについて、市町村への出生届の確認のための全国的なシステムの導入
 についての検討。
・妊娠・出産や子育てに関する相談窓口や支援制度についてのさらなる周知・広報
・上記以外の県検証報告書での提言に対する取り組み。〉・・・・・

 特に報告書が要望している点は、子どもの身元となっている。 

 「慈恵病院に対する要望」では、〈可能な限り相談につなぎ、子どもの身元判明につながるためのあらゆる努力。〉を要望。

 「熊本市に対する要望」でも、〈身元の判明のため引き続きの調査の徹底〉の要望。

 身元の重要性については、3 預け入れられた後の子どもの状況の項目でも触れている。

 〈3 預け入れられた後の子どもの状況

 (1)身元が判明した事例の養育状況

・施設で養育されている子どもの割合は、平成21年9月30日時点より半減。
・早い年度に預け入れられた施設養育の子どもの多くが里親委託や家庭引取りに移行。
・特別養子縁組の成立事例は大きく増加。

 (2)身元不明の事例養育状況

・早い年度に預け入れられた子どもが里親養育へ移行し、施設養育の割合は減少。
・里親委託されている子どものうち2人は特別養子縁組に移行。現在も、特別養子縁組に向
 けて手続きを進めているものが複数ある。〉・・・・・

 このことは次の報告でも触れている。

 〈(4) 里親制度と養子縁組制度について

・里親登録数を増やすための里親制度の周知・広報や、里親支援の強化などをさらに進める
 ことが必要。
親が判明しない事例においても特別養子縁組が成立した例はあるが、認容までの期間は長期化す
 る。

・養子縁組あっせんの実態について十分な情報がないこと、及び特別養子縁組後の公的なフォロ
 ーの必要性については、引き続き課題。〉――

 何回もの説得によるものだろう、家庭引取りの場合は身元判明を前提とするのは当然のことかもしれないが、要するに里親に出すにしても、特別養子縁組にしても、身元不明のケースよりも身元判明のケースの方が有利な状況にあるとしている。

 結果として、身元判明の子の施設養育は半減した。特別養子縁組成立認容までの期間が短くて済む。

 「身元」とはその人間の生まれや境遇を言う。生まれや境遇は親によって決定する。

 だが、このような身元の重要視の裏を返すと、里親側、特別養子縁組の養父母側が身元判明の子により価値を置いていることを示している。どのような親なのかその存在と職業等を明確に把握し、その子の生まれや境遇を知って安心するというのは相互反映としてある親の生まれや境遇に価値観を置き、権威としていることであって、一種の権威主義への囚われであろう。

 生まれや職業を含めた境遇を判断価値としないはずはない。中には身元判明の子の親に対して調査会社を使って、生まれは勿論、親の学歴や学校の成績まで調べる里親や特別養子縁組の養父母も存在するかもしれない。

 だが、身元不明の子どもの親に対してはそれができない。権威としている生まれや育ち、学歴等は調べようがない。

 その差が身元不明の子と身元判明の子の差となって現れているのではないだろうか。

 身元については報告書はさらに触れている。 

(2) 子どもの健全な成長の確保について

身元が判明しない場合、施設や里親において、子どもの養育上、支障や困難が出てくることが懸念され、身元の判明は重要な課題。〉・・・・・

 子どもに新しい名前をつけて、赤ちゃんポストを人生のスタート地点としてもいいはずだし、実際にもそこが起点となるはずだが、人生のスタート地点を過去にまで遡らせようとしている。

 あるいは親の存在性にまで遡らせようとしている。

 子どもを一個の裸の存在、個人として扱わずに、親を権威としたその付属物として扱っているからこその過去への遡及ではないだろうか。

 だからこそ、社会一般に於いても大人たちだけではなく、子どもたちさえ、親の職業、生まれや境遇の違いで子どもたちに差別をつける。

 この扱いはさらに続く。

第5章 ゆりかごへの評価

1 子どもの人権・子どもの福祉の観点からの評価

(1)出自を知る権利の保障の面からの評価

子どもの権利を保障する観点から、子どもが実の親を知る権利、自らの出自を知る権利は保障されなければならず、子どもの身元がわからない事態は避けなければならない。

今後は制度上もできうる限り子どもの出自に関する情報を確保できるような工夫をすべきである。

 ――(中略)――

(4)ゆりかごの匿名性の観点からの評価

ゆりかごの匿名性は、母子にとっての緊急避難として機能し、さまざまな援助に結びつける入口となりうる一方で、子どもの人権及び子どもの養育環境を整える面から最後まで匿名を貫くことは容認できない。預け入れにあたり実名化を前提とした上で預け入れ者の秘密を守るといった手法についても検討していく必要がある。〉・・・・・

 「子どもの人権・子どもの福祉の観点から」と言いながら、子ども個人として扱う発想を持ち得ず、身元(=生まれや境遇)に拘っている。

 出自よりも、人間の価値は自分が一個の人間としてどう生きるかにあるはずだ。社会人として真面目に生きるかどうかの今後の人生にかかっているはずである。

 一個の人間として生きるとは自己を自律した存在に置き、自律した存在として自己を貫くことを言う。

 難しく、私自身がそういった存在とはなっていないが、少なくとも目指さなければならない生き方としなければならないはずだ。

 このような自律志向は当然、子ども自身の身元(=生まれや境遇)は重要ではなくなる。子の身元を証明する親の存在、親の身元(生まれや境遇)も重要ではなくなる。

 慈恵病院の「こうのとりのゆりかご」に関わるスタッフや子どもを預かることになる施設は子どもをそのように教育すべきであり、そのように教育することによって、一個の自律した社会人としての育ちが期待可能となるはずだ。

 こういったことの方こそが、身元探しよりも価値あることではないだろうか。

 これまで赤ちゃんポストに関して賛成の立場からブログをいくつか書いてきた。

 2007年5月18日記事――《養育放棄助長論〟から見る赤ちゃんポストと児童虐待死 - 『ニッポン情報解読』by手代木恕之》

 〈これは赤ちゃんポスト設置が親の「養育放棄を助長する」とする危惧論、もしくは反対論が赤ちゃんポスト設置に契機を置いているものの、それが逆に子供の命を救う危機管理の役目を果すのに対して、児童虐待に於ける親の〝養育放棄〟への児童相談所等の関与が虐待死や、虐待死に至らなくても、子供の人格損壊を許してしまう方向に佇むばかりで、必ずしも子供の命を救う危機管理的な契機とはなっていない対応不備・危機管理不全と比較して考えた場合、意義を認めないわけにはいかないのではないだろうか。〉と書いた。

 2007年3月17日記事――《キレイゴトの赤ちゃんポスト忌避論 - 『ニッポン情報解読』by手代木恕之》 

 〈人目につかない場所に既に死んでしまった嬰児・乳児の類を捨てるのは明らかに死体遺棄罪に当たるだろうが、呼吸している新生児等の人目につかない場所への放置は一般的には自力的生命力が脆弱であることを認識し、当然の結果として死へ突き放す可能性が高くなることを予想した行為であるのと違って、人目につく場所への遺棄は逆に自力的生命力の脆弱を補うための行為であり、それはそのまま生への可能性・生育の方向に向けた遺棄行為であろう。死んでもいいやと、わざわざ赤ちゃんポストにまで出かけて捨てるということは、人間の一般性に反するはずである。

 ・・・・・・

  もう一つ赤ちゃんポストの考えられる有効性は嬰児である早い段階に預けることによって、例えそれがポストの設置によって社会的につくり出された「子捨ての勧め」の風潮を受けた行為であったしても、捨て子の年齢を超えた子供の育児が面倒になった場合の〝捨てる〟に代わる虐待を方法とした邪魔者扱いで子供の人格を決定的に傷つけたり、最悪死に至らしめてしまう危険を防げるかもしれない、あるいはその数を減らせる可能性である。

 このような可能性が確実視されるなら、逆に赤ちゃんポストを各地に設置して、捨て子の年齢を超えないうちの「子捨ての勧め」を大いに広めるべきではないだろうか。邪魔者になって虐待するようにならないうちに子供のためを思って赤ちゃんポストに預けてくださいと。〉と書いた。

 2007年2月25日記事――《安倍首相/「赤ちゃんポスト」と「再チャレンジ」の関係 - 『ニッポン情報解読』by手代木恕之》 

 〈新生児を「赤ちゃんポスト」に預けるについては確かに親の無責任もあるだろう。妊娠・出産は頭になく、快楽追求だけが目的のセックスに熱中する。妊娠したのも気づかずにいたとか、気づいても、遊ぶのに夢中で放置しておいて中絶もできなくなった。あるいは男を引き付けておくための方便に妊娠・出産したが、育児まで考えていなかったとか、無責任例は様々に考えることができる。わざわざ飛行機と電車とタクシーを乗り継いで熊本市まで預けにいく母親も出てくるに違いない。

 しかし、産み育てる覚悟で子供を持ったものの、離婚だとかリストラだとか、予期しないその後の変転から、あるいは無慈悲な年貢の嵩上げならぬ種々の税手当ての削減や税上げ、規制緩和が逆に収入低下をもたらすとかによって生活がままならなくなり、自分で育てる自信を失って預けざるを得ない親もいるに違いない。

 そんな一人を救うために100人の無責任には目をつむる。100人の有罪者を無罪にすることになったとしても、たった一人であっても、実際に無罪の人間を有罪とする冤罪を防止するための疑わしきは罰せずの精神、推定無罪の精神の趣旨適合である。〉と書いた。

 どのような制度も否定的側面、肯定的側面がある。否定が肯定を上回る場合は問題となるが、その逆の場合、否定的側面を以って肯定的側面を否定し去るのは疑わしきを以って全てを罰する過剰反応としか言いようがない。

 報告書は未成年後見人の伯父が甥の男児を預けた後に相続財産を着服した例を挙げているが、認知症の高齢者や知的障害者に代わって第三者が財産を管理する「成年後見制度」で、財産が使い込まれる被害が最近の16か月間に約37億円に上ることが最高裁判所の調査で分かったと「NHK NEWS WEB」記事が伝えていたが、このことを以って「成年後見制度」そのものを全否定することはできまい。

 あとは既に書いたように身元など問題とせずに一個の自律した子どもとして育っていき、自律した社会人へと人生の歩みを進めて欲しいと願うだけである。
 
 自分は自分であると。

 最後に、報告書は〈マスメディアの「赤ちゃんポスト」の表現については、表現の見直しを求めて行くことが必要。〉と書いているが、確かに子どもの置かれた深刻な状況に反して軽い感じを与えるが、逆に「こうのとりのゆりかご」よりも権威主義臭がない上に、子どもが大人に成長してから振り返って、ああ、ここから今の俺の人生が始まったんだと、ふと微笑ましさを感じるには似合いの名前に思うが、どんなものだろうか。

コメント (1)
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