4月10日(2013年)の当ブログ記事――《国民の基本的人権を制約する意思が露わな自民党日本国憲法改正草案の危険性 - 『ニッポン情報解読』by手代木恕之》で、《自民党日本国憲法改正草案》の「前文」で謳っている「日本国民は、国と郷土を誇りと気概を持って自ら守り」とか、「家族や社会全体が互いに助け合って国家を形成する」、「美しい国土と自然環境を守りつつ」、「良き伝統と我々の国家を末永く子孫に継承する」等々の文言を取り上げて、〈一見国民に対する義務付けのように見えるが、そのような義務付けの直接的な目的が国民一人一人の福利(幸福と利益)ではなく、国の形づくりであり、国の形づくりを福利となす国家主体の条文となっている〉と批判、さらに現憲法が基本的人権を含めた「第13条 個人の尊重」に関して、〈生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り〉と制限対象を特定していないのに反して、《自民党日本国憲法改正草案》が謳っている基本的人権の自由が「公益及び公の秩序に反しない限り」となっているのは、〈国家権力の価値判断次第で「公益」も「公の秩序」も解釈変更が可能となって、いわば勢力の違いや立場の違いで「公益」も「公の秩序」も姿を変えることになって(このことは戦前の日本で見てきたはずだ)、国民の権利・義務に対する国家権力の恣意的運用の制約を原則とする憲法の精神に反して、逆に国家権力の干渉の余地を拡大し、国民の権利を制約する危険性を孕んだ規定〉となっていると批判した。
いわば《自民党日本国憲法改正草案》は国家主体・国民従属の憲法草案であり、個人の自由に対する国家権力干渉の余地を持たせた危険性を孕んでいるということであり、当然、その憲法は国家権力の恣意性を制約する憲法本来の役目を負わず、逆に各国民の活動を制約する内容を持っていることになる。
この国家主体・国民従属の構造を成し、国家権力がそうすべきだとしている価値判断の押し付けは「家族、婚姻等に関する基本原則」の項目の「第24条 家族は、社会の自然かつ基礎的な単位として、尊重される。家族は、互いに助け合わなければならない」という条文の中の「家族は、互いに助け合わなければならない」の規定にも見ることができる。
第3項で、「家族、扶養、後見、婚姻及び離婚、財産権、相続並びに親族に関するその他の事項に関しては、法律は、個人の尊厳と両性の本質的平等に立脚して、制定されなければならない」と規定して、「個人の尊厳と両性の本質的平等に立脚して」と謳っているものの、「家族は、互いに助け合わなければならない」と、国家の最高法規である日本国憲法で規定し、その規定に「家族、扶養、後見、婚姻及び離婚、財産権、相続並びに親族に関するその他の事項に関して」違反した場合、どうなるのだろうか。
実は河野太郎自民党議員がこの「家族は、互いに助け合わなければならない」の規定を6月13日の衆院憲法審査会で批判している。
河野太郎「道徳を憲法の中に持ち込むべきではない。
家族が助け合うのは、そうあるべきだろう。道徳は個人に任せられるものだ」
道徳が「個人に任せられるもの」でなければならないのは、道徳観は時代によって異なる姿を取る場合があるし、国家権力によっても異なる道徳感を抱えている場合があるからである。
そうであるにも関わらず、国家権力を支配的立場で構成する政治家たちがこうあるべきだとする道徳観のもと、「家族は、互いに助け合わなければならない」とした場合、否応もなしに個人の自由に対する国家権力の干渉=国家権力の価値判断の押し付けが生じることになる。
具体的な例を言うと、国家権力が同性婚に反対の立場を取った場合、「家族は、互いに助け合わなければならない」の「家族」の中に同性婚者は存在しないことになり、この規定は国家権力の価値判断に基づいた「家族」の押し付けとなって、やはり国家権力の個人の自由に対する干渉が生じることになる。
また、「家族は、互いに助け合わなければならない」の規定に違反した場合、いわば憲法違反を犯した場合、家庭内暴力や児童虐待によって家族助け合いの憲法に違反したときは一般の法律で犯罪として罰することことで憲法違反に決着を付けることができるが、離婚によって家族助け合いの憲法に違反したとき、離婚裁判は犯罪として裁くものではないから、憲法違反にどう決着をつけるのだろうか。
特に妻が夫と子供を捨てて家を出て他の男性と一緒になったといった事例による家族助け合いの憲法に違反した場合、どう決着をつけるのだろうか。
何も決着の方法を取らなければ、憲法は有名無実化する。
安倍晋三みたいな古い家族観・結婚観を持った政治家が国家権力の地位を占めている間は、憲法を有名無実化しないためにも一般的な法律で決着づけることができない家族助け合いに反する離婚のような憲法違反は勢い、かつてそうであったように社会悪としてブレーキをかける形で決着をつける風潮に向かわないだろうか。
離婚に社会が寛容となった現在でも離婚は恥ずかしい、世間体が悪いと社会悪として把え、我慢して結婚生活を送る女性が少なくないようだが、かつての離婚に非寛容な時代は離婚して実家に戻った女性を嘲る意味合いで「出戻り」と称した。本人も出戻りとして肩身の狭い思いをして、なるべく目立たないように生活した。
要するに離婚を再び社会悪とし、肩身の狭い思いをさせる社会的・精神的懲罰を力としない限り、結婚生活に関した場合の「家族は、互いに助け合わなければならない」の憲法の規定は守られないことになる。
このような国家権力が価値判断した道徳観の押し付け、国家権力の個人の自由に対する干渉を証明する格好の事例がある。2006年9月26日から2007年9月26日の第1次安倍内閣時代の2007年5月、安倍政権の教育再生会議が「子育てに関する緊急提言」を纏め、公表して、子育てに関係している、あるいは今後関係するであろう世の男女の子育ての参考にお節介にも役立たせようととした。
まさにお節介だったからこそ、政府の公式発表前にマスコミが単に事実を伝えるだけではなく、批判的な文脈で報道、世論がその批判に追随したため、2007年7月予定の参院選への悪影響を恐れて安倍晋三が見送りを決定した。
この件に関しては2007年5月4日の当ブログ記事――《安倍教育再生会議のかくまでも美しい上からの子育て管理-『ニッポン情報解読』by手代木恕之》に書いたが、「子育てに関する緊急提言」がどれ程にお節介か、新聞記事に載った項目を参考までに掲載してみる。
●保護者は子守唄を歌いおっぱいを上げ、赤ちゃんの瞳をのぞく。母乳が十分出なくても抱きしめるだけでもい
い。
●授乳中や食事中はテレビをつけない。幼児期はテレビ・ビデオを一人で見せない。
●インターネットや携帯は世界中の悪とも直接つながってしまう。フィルタリングで子供を守る。
●最初は「あいさつをする」「うそをつかない」など人としての基本を、次の段階で「恥ずかしいことはしない」
など社会性を持つ徳目を教える。
●「もったいない」「ありがとう」「いただきます」「おかげさまで」日本の美しい心、言葉。
●子供たちをたくさんほめる。
●PTAは父親も参加。――
一つ一つは各個人に任せるべき各個人が考え、判断して行うべき道徳観であって、それを無視している点、まさに国家権力が価値判断した道徳観の押し付け以外の何ものでもない。
もし子育てに関わる男女のすべてが自分で考え、判断して行うことができずに、上から指示されたすべての項目を指示されたとおりにすべて忠実に守ったとしたら、その方が恐ろしいことに気づかない。国家権力に対する従属人間を造ることになるからだ。
尤も安倍晋三は自身が理想とする戦前国家に従属した国民を造りたい願望を密かに抱いているに違いない。
かくこのように安倍内閣の体質自体が既に国家主体・国民従属の構造となっている。国家権力が価値判断した道徳観の押し付けは国家主体・国民従属の構造をなぞる一つの例に過ぎない。
もう一つ、同じく2006年9月26日から2007年9月26日の第1次安倍内閣時代の2007年4月、民法772条が離婚後300日以内に生まれた子が遺伝的関係とは関係なく前夫の子として戸籍に入れられる規定となっていることから、誰の子か分かっている母親が前夫の子として戸籍に入れられることを避けるために戸籍上の手続きをしない結果、無戸籍の子どもが生じている問題に決着をつけるべく、自民党の「民法772条見直しプロジェクトチーム」が議員立法で法案を提出・成立を図っていた。
どのような法案かというと、妊娠時期を示す医師の証明書やDNA鑑定で離婚後に妊娠したことが明らかな場合、再婚後に出産した子の出生届を『現夫の子』として受理できるようにする内容だというが、離婚前に妊娠していたとしても、そういったことは世の中にザラにあることだろうから、構わないではないかと思っている。
ところが議員立法提出にブレーキが入った。
長勢法相「300日問題の見直しを進める与党プロジェクトチーム(PT)の議員立法案は『不倫の子』も救済対象になりかねず、親子関係を判断するDNA鑑定の信頼性にも問題がある。
貞操義務なり、性道徳なりという問題は考えなければならない」
要するに貞操義務、性道徳という観点から考えた場合、不倫の子の救済が不倫をした母親の救済となって、その貞操義務、性道徳を免罪することになって腹立たしい限りということであって、不倫すべてを罪と断定することは難しいにも関わらず、何の罪もない不倫の子そのものの救済は考えてもいないということになる。
長勢法相は不倫した母親ばかりか、不倫の子どもにまで懲罰を与えようとする古い家族観に支配されている。
国会対策委員会幹部「離婚して別の男の子を出産しようとはけしからん」
女性にとって嫌いになった男の代わりに好きになった男を見つけて、その男の子どもを産むこと程の歓びはないはずだが、古い家族観に囚われている政治家には理解できない。
与党PT案が300日規定見直しだけではなく、再婚禁止期間の短縮まで盛り込む方針を掲げていたことに首相の安倍晋三は拒絶感を示す。
安倍首相「婚姻制度そのものの根幹に関わることについて、いろんな議論がある。そこは慎重な議論が必要だ」
役所に離婚届を提出して受理されたなら、その場で結婚届を提出、受理される法制度も悪くないと思うのだが、安倍晋三はあくまでも現在の再婚禁止期間を守る立場を取っている。
この再婚禁止期間現行制度維持は一度結婚したら、男も女もその結婚を守り通すべきだとする意思を働かせているはずだ。もし働かせていなければ、男女の幸せを基準にして結婚制度を考え、再婚禁止期間短縮の方向へ意思を働かせるはずだからだ。
安倍晋三は「誰もが再チャレンジできる社会」を標榜しているが、結婚に於ける男女の再チャレンジに古い考えでいるようでは、標榜自体をウソとすることになる。
何れにしても安倍晋三や自民党幹部たちの古い家族観に縛られたこういった姿勢も、国家権力が価値判断した道徳観の押し付け、国家権力の個人の自由に対する干渉に当たる。
このような国家主体・国民従属の構造を取った体質が改憲思想と響き合って、「家族は、互いに助け合わなければならない」と、個人に任せるべき道徳観に対する国家権力の干渉が発しているはずだ。
国家主義者安倍晋三の国家主義に基づいた改憲はどのような内容であっても反対すべきだ。