稲田朋美の靖国参拝「国民の心の問題」は自由であるべき思想・信条の統制と独裁体制への親近性の表明

2016-10-18 10:13:20 | 政治

 稲田朋美が閣議後2016年10月14日に防衛省で行った記者会見で記者から靖国神社例大祭への参拝を問われ、再び「参拝知るかしないかは心の問題」と答えたとマスコミが伝えていたから、防衛省のサイトにアクセス、記者会見での靖国参拝に関係する実際の発言に触れてみた。


 稲田朋美記者会見概要防衛省/2016年10月14日(09時41分~09時51分))  

 記者「靖国神社の件なのですが、来週から例大祭が始まりますけれど、大臣の参拝の認識といいますか、どういうふうに考えられているのかについて伺います」

 稲田朋美「いつも同じ答弁で恐縮なのですが、靖国参拝するかしないかは心の問題だと思っておりますので、行くか行かないということは言うべきではないと思っておりますし、安倍内閣の一員として適切に判断をして行動していきたいと思っています」

 記者「関連で、閣僚の靖国参拝に関しては中韓両国が毎度反発していますけれども、そのこと自体については大臣はどうお考えですか」

 稲田朋美「そのこと自体については心の問題でありますので、いかなる国であっても、いかなる歴史観を持とうとも、自分の国のために命を捧げた方々に追悼の意を表するということは、私は、国民の心の問題であるというふうに考えております。

 最初に「靖国参拝するかしないかは心の問題」と言い、次に「国民の心の問題」だと表現している。

 「心の問題」との物言いは“私自身の”という個人限定であって、意味するところは人それぞれとなり、他人の思想・信条を縛らない。だが、「国民の心の問題」だとすると、国民は等し並みそうすべきだとする無差別性が入っていることになって、人それぞれの自由であるべき思想・信条の統制となる。

 だから、「いかなる歴史観を持とうとも」と、思想・信条を無視した追悼の要求となる。

 要するに稲田朋美はホンネのところでは人それぞれの思想・信条の自由を無視して国民全てに追悼を強制したい独裁性を抱えていることになる。

 この独裁性が現れた発言が2016年9月30日衆院予算委員会での民進党辻清美の質問に対する稲田朋美の答弁に如実に現れている。

 辻元清美は稲田朋美が「自国のために命を捧げた方に感謝の心を表すことのできない国家であっては防衛は成り立ちません。これは日本という国家の存亡にまで関わる」とまで言っていながら、今年8月15日の全国戦没者追悼式になぜ欠席したのか問い質した。

 辻元清美は稲田朋美が「国のために命を捧げた」からと感謝と敬意を表する空間は、あるいは追悼の空間は靖国神社であって、全国戦没者追悼式の場ではないことに愚かしくも気づいていない。

 稲田朋美「私が常々、靖国で日本の国のために命を捧げた方々に感謝と敬意を、そして追悼の思いを持つということは私は日本の国民の権利でもあり、義務でもあるということを申し上げてきました。

 そんな中で、そんな中で、義務というよりも心の問題ですね。心の問題です」

 あとで「心の問題」と言い直したが、靖国神社での追悼を「日本国民の権利と義務」としたい願望を露わにした。

 この願望は「いかなる歴史観を持とうとも」の発言と物の見事に相互対応している。

 稲田朋美が持つこのような精神性こそが人それぞれの自由であるべき思想・信条の統制に当たり、この手の統制を可能とするのは独裁政治以外にない。

 独裁政治こそが国民それぞれの思想・信条の自由を縛ることができる。戦前日本のように縛り、抑圧し、統制することができる。

 また、靖国神社に参拝して、戦没者に「国のために命を捧げた方々に感謝と敬意を、そして追悼の思いを持つ」精神的行為に於ける言葉の意味は戦没者が命を捧げる対象とした国家に対する全面的肯定を含んでいる。

 その国家を否定的に見ていたなら、そのような国家のために命を捧げた戦没者をとても「感謝と敬意を、そして追悼の思いを持つ」ことはできないだろう。

 とんでもない国のために戦ってしまったと、その国家に対する批判と戦った者に対する憐れみやら、悔しさやらの複雑な感情が湧き起こるはずだ。

 だが、稲田朋美は戦前日本国家の全面的肯定の上に立って「国のために命を捧げた」としている。

 いわば稲田朋美が持つ人それぞれの自由であるべき思想・信条を統制したい独裁性は天皇独裁体制下にあった戦前日本の独裁性と通底する関係にあることになる。

 だからこそ、靖国神社での戦没者の追悼を通して戦前日本国家を全面的に肯定することができるのであって、その追悼を国民の自由であるべき思想・信条を統制して全ての国民の権利と義務としたい独裁性を露わにすることになった。

 かねてからブログに、〈靖国神社は戦前日本国家を映し出し、そこに繋がる空間となっているはずだし、参拝はそのための精神的且つ身体的儀式となっているはずだ。〉と書いてきたが、戦前日本国家と精神的に繋がるということは稲田朋美が持つ独裁性と戦前日本国家の独裁性を相通じさせることでもあることを意味することになる。

 と言うことは、稲田朋美にとって、安倍晋三やその他も同じだが、靖国神社に参拝し、戦没者を追悼するということは自身と戦前日本国家との親近性の表明となる。

 そうでなければ、安倍晋三にしても国家主義とは無縁となるはずだし、復古主義者の側面を持つことはないし、何よりも強固な天皇主義を自らの思想・信条とすることはない。

 このような独裁性が谷垣総裁時代に発表した自民党憲法改正案だと言いながら、自分の主張が反映されていないはずはない条文のそこかしこに姿を覗かせることになっている。

 いくら経済が発展しても、いつ国民の基本的人権を縛ることにもなりかねないこういった独裁性をこそ気をつけなければならないのだが、国民の多くは自分たちの生活が良くなることだけに目が向いているようだ。

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