皇族三笠宮崇仁が終戦後日本人の作成に拘った憲法観を安倍晋三が現在受け継ぐ

2016-10-28 11:37:05 | Weblog

 親王の三笠宮崇仁が10月27日、東京都中央区の聖路加国際病院で亡くなった。年齢は100歳の長寿。マスコミは「薨去」という言葉で伝えている。皇族・三位(さんみ)以上の人の死亡を言う言葉だそうだ。

 大正天皇の第4皇男子で、現天皇の叔父に当たるという。自身も軍務に就いた戦争の反省に立ち、戦後一貫して平和の大切さを訴えていたとマスコミは紹介している。

 戦後はオリエント研究者となり、歴史学者として「紀元節」復活に反対したという。

 戦前の男子皇族は全て軍務に就く規則があったそうだ。そのため1936年(昭和11年)に陸軍士官学校を卒業後、騎兵第15連隊で小隊長、続いて中隊長を務めのちに陸軍大学校を卒業、中国南京に派遣されたという。

 ところが、陸軍士官学校と陸軍大学で学んだことや、そこで仲間となった人間関係が作り出す世界と現実世界は違ったのだろう、次第に反軍思想に染まっていったようだ。

 先ずは《三笠宮さまが歩んだ激動の一世紀 日本軍を批判、紀元節復活に反対も》The Huffington Post/2016年10月27日 16時06分)なる記事から、三笠宮崇仁の言動を拾ってみる。記事執筆者は吉川慧なる人物。文飾は当方。
  
 汪兆銘が日本の軍事力を背景として蒋介石の政権とは別個に1940年3月30日に南京に樹立した国民政府について――

 「元来、国民政府は日本が真に中国のためを思い、民衆を救い、統一国家を完成するために作ったというより、諸外国から非難された日本の侵略主義を掩蔽(えんぺい)せんがための、一時的思いつきによる小刀細工の観が深い」

 1937年(昭和12年)に盧溝橋事件を機に勃発した日中戦争について――

 「陛下の御考え又は御命令で戦闘が生じたのでなく、現地軍が戦闘を始めてから陛下に後始末を押しつけ奉ったとも言うべきもの」

 日中戦争の解決しない理由に就いて――

 「日本陸軍軍人の『内省』『自粛』の欠如と断ずる」

 中国内の抗日活動について――

 「抗日ならしめた責任は日本が負わなければならない」

 1956年出版の著書『帝王と墓と民衆 - オリエントのあけぼの』に付された1956年までの自叙伝「わが思い出の記」の中での記述。

 「一部の将兵の残虐行為は、中国人の対日敵愾心をいやがうえにもあおりたて、およそ聖戦とはおもいもつかない結果を招いてしまった」

 「聖戦に対する信念を完全に喪失した私としては、求めるものはただ和平のみとなった」

 昭和天皇や政府の統制の効かなくなった軍部の姿が浮かんでくる。軍部独走と言われる所以である。

 中国との戦争もアメリカとの戦争も軍部独走で始まり、止むを得ず昭和天皇が従い、戦争終結は軍部では幕を引くことができず、皮肉なことに戦争中はその存在を軽んじていた天皇の聖断なる裁決を仰ぐことになった。

 上記記事は、〈戦後間もない1946年6月、新憲法案を採決した枢密院の本会議で、三笠宮さまは新憲法案の戦争放棄を積極的に支持。日本の非武装中立を主張した。〉と解説している。

 具体的には次のように残している発言を記事は紹介している。

 「日本はたとえ受動的にせよ他国間の戦争はもちろん局地紛争にでも巻き込まれては日本の再建ができぬばかりでなく、今度こそ日本人の滅亡に陥る危険性がある。兵器の進歩を予察する時一層しかりである。故に日本は絶対に厳正なる局外中立を堅持せねばならぬ」

 無節操だった戦争の強い反動が平和を願わしたということなのだろう。

 但し誤った戦争を起こし、中国で横暴を極め、中国の民衆を抑圧してきたのは軍人を職業とする日本人でありながら、憲法に関しては日本人の作成に拘った。

 記事はその発言を紹介している。

 「第一は本草案はどうしても、マッカーサー元帥の憲法か、一歩譲ってもごく少数の日本人の決めた憲法という印象を受けること」

 「種々の情勢上反対する訳にも行かないが、さりとて賛成することは良心が許さぬ」

 この記事には書いてないが、他のマスコミ記事によると、採決は棄権したことになっている。

 例えそれがマッカーサー-憲法であったとしても、果たして日本人の手によって国民主権・平和主義・基本的人権の尊重の3大原理を憲法の中に打ち立てることができたのかどうかを判断できるだけの論理的冷静な思考能力を有していなかった。

 このことは当時の幣原内閣のもとで松本烝治国務大臣が中心となって1946年(昭和21年)1月に松本試案として纏めた憲法改正私案を見れば、一目瞭然である。

 松本試案第三条「天皇ハ至尊ニシテ侵スヘカラス」

 これは大日本帝国憲法の第1章天皇第3条「天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス」と何ら変わらないままに天皇を絶対的存在として国民の遥か上に位置させている。

 松本試案第二十条「日本臣民ハ法律ノ定ムル所ニ従ヒ役務ニ服スル義務ヲ有ス」

 これは大日本帝国憲法第2章臣民権利義務第20条の「日本臣民ハ法律ノ定ムル所ニ従ヒ兵役ノ義務ヲ有ス」の「兵役の義務」を「役務の義務」に変えただけで、GHQによって解体された日本軍のいつの日かの復活に備えて用意した文言であるはずだ。

 でなくても、国家権力が国民に対して勝手に法律を作って上から「役務」を命じていいはずはない。

 命じていいとしているから、大日本国憲法にも松本試案にも「職業選択の自由」の規定が存在しない。規定した場合、「兵役の義務」や「役務の義務」と相反することになる。

 少なくとも「兵役の義務」にしても「役務の義務」にしても、「職業選択の自由」の例外規定としなければならない。

 だが、そういった思想すらない。

 大体が松本試案が国民を「臣民」としていること自体が大日本帝国憲法観と同様に天皇及び国家権力と国民の関係を支配と従属の結びつきでしか見ることができないからであろう。

 連中にとっては国民は遥か下の存在でしかなかった。

 国民を天皇及び国家権力の支配のもとに従属させる関係で見ていたから、「信教の自由」にしても、松本試案は「日本臣民ハ安寧秩序ヲ妨ケサル限ニ於テ」とし、大日本帝国憲法も、「日本臣民ハ安寧秩序ヲ妨ケス及臣民タルノ義務ニ背カサル限ニ於テ」と、支配と従属の関係性の中でしか自由を認めることができないでいる。

 当時の日本人の多くが敗戦という手痛い目に遭いながら、明治以降の国家主義の思想に囚われて、そこから完全に抜け出ることができずに大日本帝国憲法の思想とさして変わらない日本国憲法を目指そうとした。

 マッカーサーが松本試案を忌避し、当時の民間の憲法研究会の「憲法草案要綱」を参考にしてGHQのもとで作らざるを得なかったのは以上の理由があったからであろう。

 憲法研究会の「憲法草案要綱」の内容を「Wikipedia」から引用してみる。

 「日本国の統治権は、日本国民より発する」
 「天皇は、国民の委任により専ら国家的儀礼を司る」
 「国民の言論・学術・芸術・宗教の自由を妨げる如何なる法令をも発布することはできない」
 「国民は、健康にして文化的水準の生活を営む権利を有する」
 「男女は、公的並びに私的に完全に平等の権利を享有する」(以上)

 この精神は現在の日本国憲法に生きている。

 当時の政治家に日本国憲法の作成を任せていたなら、どうなっただろうか。現在の民主主義の確立も自由な活動もなかったに違いない。

 日本国憲法成立には以上のような経緯がありながら、三笠宮は「第一は本草案はどうしても、マッカーサー元帥の憲法か、一歩譲ってもごく少数の日本人の決めた憲法という印象を受けること」といった思いで日本人の手による作成に拘り、採決に棄権した。

 当時の三笠宮が論理的冷静な思考性を持ち合わせていなかったように安倍晋三は現在もなお持ち合わせていない。

 日本国憲法をマッカーサーがつくった占領軍憲法だと忌避し、その憲法によって明治以降から戦前まで受け継いできた日本が改造され、同じく明治以降から戦前まで受け継いできた日本人の精神に悪影響を及ぼしたといった趣旨の批判を行っている。

 三笠宮一人ではなかっただろうが、戦後の三笠宮が日本人の作成に拘った憲法観を安倍晋三が今なお受け継いでいる。

 安倍晋三が三笠宮より始末が悪いのは、三笠宮が日本の戦争を戦後忌避し続けたのに対して安倍晋三はそれを侵略戦争と認めていないことである。

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