2016年10月24日付「NHK NEWS WEB」記事が、文科省の有識者会議が深刻なイジメの定義を明確化する新指針の作成を決めたと報じている。
有識者会議とは正式には「いじめ防止対策協議会」と言い、10月24日に平成28年度第6回を開催しているが、文科省のサイトにはまだその内容が公表されていない。
上記記事を頼りにどのような新指針なのか見てみる。
先ず記事は、2011年に大津市の中学2年男子生徒が自殺したことをきっかけに3年前、イジメがあった場合は学校などが組織的に対応することを務づけた、「いじめ防止対策推進法」(2013年9月28日施行)が成立したものの、昨年度(2015年度)はイジメが原因と見られる自殺が9件にも上り、そのことを受けた文科省による有識者会議の設置だと前置きしている。
要するに「いじめ防止対策推進法」を施行させることで学校に対してイジメに組織的に対応することを義務づけたものの、学校側は組織的に対応できなかった状況があったことになる。
深刻なイジメを防いだという記事を見かけないから、イジメが原因の可能性の9件以外の学校はたまたま深刻なイジメが起きなかった幸運に助けれれていたのかもしれない。
中にはイジメから逃れる最終手段として転校を選び、学校側は転校の本当の理由もイジメがあったことも知らないままに平穏無事に時間を経過させていくといった例も数多くあるに違いない。
有識者会議は学校が深刻なイジメに対して組織的な対応ができなかった原因として子どもたちの命や心身に重大な影響を及ぼす深刻なイジメの定義が曖昧であったために学校の判断や対応にばらつきが生じたとして、その是正策として具体的な事例を示して定義を明確化することやイジメを認知したなら、早めに教育委員会に第三者による調査委員会を設置すること、いじめの調査方法等、新しい指針の作成を国に求めることにしたという。
深刻なイジメの定義を明確化したからと言って、どうなるのだろう。イジメは主として隠れたところで、あるいは隠す形で進行していく。進行していく過程で時と場合に応じてイジメは深刻化していく。
そしてそれが明確に表面に現れるのは多くの場合、一定の潜伏期間を経て、イジメを受けた児童・生徒の自殺や自殺未遂といった結末を迎えたのちに調査によって過去形でイジメがどれ程に深刻だったかを知ることになる。
病気が症状に現れないまま身体の中で進行し、深刻化していくのと同じで深刻なイジメは初期の段階でのイジメに気づかないからこその病気の進行と同じ道を辿った深刻化ということであろう。
当然、イジメに気づかず、その進行を受けた深刻化を見過ごしていたなら、早めに教育委員会に第三者による調査委員会を設置することなどできようがない。
要は教師がイジメは隠れたところで、あるいは隠す形で進行し、ついには深刻なイジメの形を取るケースも生じかねないとする危機感を常に備えていて、その手前で防ぐためには例えそれがふざけあっているようなその場の関係に見えたとしても、一応はイジメではないかと疑ってかかって、イジメの場合はそれ以上深刻化することへの危機感を前面に出して行動することが教師に必要な深刻なイジメ防止の要件となるはずである。
ところが、イジメを受けて児童・生徒が自殺したケースの多くで教師はそのような危機感で行動できていなかった。
例えば東京中野の富士見中学2年の鹿川裕史君(13歳)が学校でイジメを受けて1986年2月1日、岩手県の盛岡駅ビルのショッピングセンター「フェザン」のB1トイレ内で首を吊って自殺した事件を伝えた、《中野・富士見中学いじめ自殺事件》なるサイトには、事件直後に富士見中に電話をかけた取材記者と校長の間での次の遣り取りが記されている。
記者「自殺の原因を思い当たらないか」
校長「分からないが、イジメられたことは聞いている」
記者「それが原因か」
校長「かも知れない。それも考えられる。が、イジメといっても、仲間同士のプロレスごっこや、使い走りをさせられてる程度だ」
この記事は一方で生徒の目撃情報として、鹿川君はプロレスごっこの投げられ役など、「サンドバッグの状態だった」と記している。
イジメはふざけ合いを装うことが定番化している。いくらふざけ合いを装っても、それがイジメなら、そこに勝ち負けを存在させて、勝ち負けの関係を固定化させることになる。
事実ふざけ合いなら、勝ち負けの関係は固定化させることはない。
もしプロレスの勝負の真似事なら、勝ち負けを存在させたとしても、戦う双方の力関係が一定程度対等でなければ、勝負は成り立たない。力関係に差があり、常に負かされる側になると分かっていたなら、勝負の真似事自体を避けるだろう。
要するに富士見中学の校長も教師もイジメは隠れたところで、あるいは隠す形で進行し、ついには深刻なイジメの形を取るケースも生じかねないといったイジメの原理を認識することも、そのような認識に立って万が一にもイジメが深刻化することへの危機感を持って、その回避行動に動くこともしなかった。
2011年0月11日朝、大津市の中2男子生徒が執拗なイジメを受けて自宅マンションから飛び降り、死亡した事件でも、その10日以上も前に女子生徒がトイレで男子生徒が殴られているのを目撃、最初に見かけた担任ではない教師に「イジメられているからやめさせてほしい」と訴えた。
その教師は殴られていた生徒に確認すると、本人は「大丈夫」と答えた。
「大丈夫」、「何でもない」と答えるのも、イジメを受けている側の定番化した反応となっている。事実「大丈夫」、「何でもない」かもしれないが、弱い人間だからと思われたくない虚栄心からの、あるいはイジメを受けていることを喋って相手に知られた場合のイジメのエスカレートを恐れていることからの反応ではないかと疑い、実際には隠れたところで、あるいは隠す形でイジメが進行してはいないかと、そのことに対する危機感を持つことすらしなかった。
件の生徒が自殺する6日前の10月5日、別の生徒が担任に「いじめがある」と伝えた。
担任は自殺した生徒と同級生が喧嘩をしたとして、両方の保護者を呼んで謝罪させた。このとき担任は自殺した生徒を残して、「本当はどうなんだ」とイジメについて聞いたところ、生徒は「きょうはちょっとイヤやった」と答えた。
担任と2年担当の別の教諭たちがその後、男子生徒について話し合い、「イジメかもしれないから、人間関係に気をつけていこう」と確認し合ったという。
男子生徒はこの6日後に自殺した。
イジメが隠れたところで、あるいは隠す形で進行するという認識を持っていたなら、いくら人間関係に気をつけようとも、教師たちが目にする生徒同士の表向きの人間関係からではイジメの存在を窺うことは難しいことに思い至っていたはずだ。
実際にイジメられていても、「大丈夫」、「何でもない」と答えるのも表向きの人間関係を示しているに過ぎないように、生徒が答えた「きょうはちょっとイヤやった」という言葉も表向きの人間関係を示したに過ぎないのではないかと疑わなければならなかったはずだ。
当然、女子生徒が「イジメられている」と告げた時点で、本人が「大丈夫」と答えたとしても、その場に居合わせたすべての生徒とそれぞれ個別的に徹底的に話し合わなければならなかった。勿論、イジメが隠れたところで、あるいは隠す形で進行してはいないか、それが深刻化する前に明らかにするためにである。
イジメの進行と深刻化の関係に関わる危機感を有していたなら、その場その場をたいしたことではない、ちょっとした衝突だ、あるいは単なるふざけ合いだと遣り過ごしてしまうことはないだろう。
現実にも遣り過してしまったことから、自殺の多くを招くことになってしまっている。
深刻なイジメが跡を絶たないから、その定義を明確化するということだが、イジメの存在そのものに気づかなければ、定義は有っても無きが如し、有名無実化する。
イジメそのものを目撃するのは、あるいはイジメではないかと、その疑いを目撃するのは殆どの場合教師ではなく、生徒である。また目撃したとしても、みんなの鞄を持たされているとか、パシリにさせられているとか、プロレスごっこでいつも負け役をさせられいるとか、イジメられている全ての場面を目撃するのではなく、いずれか一つずつの目撃に限られる場合もある。
生徒の一人から目撃情報を伝えられたなら、例え時間がかかろうとも、生徒全てが持つ生徒同士の人間関係に関わる情報を活用する形で他の生徒を順次個別に面談していって、目撃情報の有無を調べ、実際にイジメかどうかを明らかにしてイジメの深刻化の防止に繋げていくことの方が、定義の明確化よりも重要であり、先決問題であるはずだ。