10/3衆院予算委の民進党長妻昭のムダな時間浪費と10/5参院予算委蓮舫の何も学習しない同じ繰返し

2016-10-06 13:03:56 | 政治

 2016年10月3日の衆院予算委員会で民進党の長妻昭が安倍晋三に対して自民党憲法改正草案の基本的人権に関わる新しい規定が人権をより制約する内容になっていないか問い質したが、安倍晋三は憲法草案はまだ政府案となっていないから、行政府の長としてここに立っている自身として憲法の中身について議論する立場にはないと答弁を回避、長妻は諦めずに質問を続けたが、最後まで答弁させることができない、埒の明かない質疑となった。

 翌々日の10月5日午前の参院予算委員会でも民進党代表の蓮舫が同じ趣旨の質問を繰返したが、長妻昭と同じで、埒の明かない結末を迎えることになった。

 先ず長妻昭の自民党草案の基本的人権に関わる質問と安倍晋三の答弁を見てみる。

 長妻昭「総理はですね、金曜日、憲法97条、この最高法規、人権尊重を規定する条文を自民党憲法草案はまるごと削除していること、その理由を問われて、総理は97条の削除は条文の整理に過ぎない』というふうのお答えになった。

 飛んでもない発想だと思います。条文の整理というのは恐らく憲法11条にですね、基本的人権についての条文があるから、これとダブっているから、97条を削除しようという趣旨だと思うんですが、憲法97条はですね、これは基本的人権がやはり侵すことのできない永久の権利、その由来、これがきちっと書き込まれている大変重要な条文だと思います。

 しかも憲法11条自体が自民党の憲法草案変えておられて、本来の現行の憲法11条はですね、『基本的人権は侵すことのできない永久の権利として現在及び将来の国民に与えられる』

 『現在及び将来の国民に与えられる』という文言があるんですが、自民党の憲法草案は『現在及び将来の国民に与えられる』という文言が削除されているんですね。そして人権を制約する、その一つの要件としての(現憲法の)『公共の福祉』という言葉が(自民党憲法改正草案では)『公益及び公の秩序』という言葉に変わっている。

 ま、そういうことからするとですね、より人権が制約されるんではないかという懸念が広がるのも私は無理のないことだというふうに思うわけであります。総理、自民党の責任者として、こういう憲法改正案を(なぜ)出されたのか、基本的人権に関わる条文をこういうふうに(なぜ)変更されたのか、そのご説明をして頂きたいと思います」

 安倍晋三は長妻昭が発言した「総理、自民党の責任者として、こういう憲法改正案を(なぜ)出されたのか」という文言を捉えて、出したのは谷垣総裁であって、自分ではない、事実誤認だと、開き直りに近い逆ねじを食らわした。

 確かに谷垣総裁のときに出した憲法草案だが、一度首相を務めたことで自民党の実力者としてそれなりの発言力を有していることと、現憲法を占領軍憲法だと否定的に捉えている関係から、安倍晋三が自身の主張・意見を草案に深く関与させていないはずはないし、自身が総裁になっても自民党の憲法改正草案として掲げているのだから、誰が出した出さないかは瑣末な問題に過ぎないはずだ。

 にも関わらず、最後まで谷垣総裁が出したのだと異常とも思える執拗さで拘る。瑣末な問題に過ぎない事実に異常に拘るのはケツの穴の小さい人間か、あるいは体調が優れない状態にあって、内心イライラしていて、そのイライラがちょっとしたことで外に出てしまうことを抑えることができない人間か、いずれかであろう。

 長妻昭の質問も自民党草案が憲法97条を削除し、憲法11条の条文のうち、「基本的人権は侵すことのできない永久の権利として現在及び将来の国民に与えられる」の文言を削除していることがなぜ人権を制約する懸念に繋がるのか、各条文をボードに書き込んで提示し、その理由を具体的に説明しなければ、そのことを承知していない国民は国会中継を視聴していても理解できないことになる。

 そういった親切心はなかったようだ。

 現憲法の関係する条文を掲げてみる。

 97条〈この憲法が日本国民に保障する基本的人権は、人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果であつて、これらの権利は、過去幾多の試錬に堪へ、現在及び将来の国民に対し、侵すことのできない永久の権利として信託されたものである。 〉

 第11条〈国民は、すべての基本的人権の享有を妨げられない。この憲法が国民に保障する基本的人権は、侵すことのできない永久の権利として、現在及び将来の国民に与へられる。 〉

 第12条〈この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない。又、国民は、これを濫用してはならないのであつて、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ。 〉

 第13条〈すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。 〉

 自民党憲法改正草案

 97条削除。

 第11条〈 国民は、全ての基本的人権を享有する。この憲法が国民に保障する基本的人権は、侵すことのできない永久の権利である。〉

 第12条〈この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力により、保持されなければならない。国民は、これを濫用してはならず、自由及び権利には責任及び義務が伴うことを自覚し、常に公益及び公の秩序に反してはならない。〉(以上)

 長妻昭は「憲法97条はですね、これは基本的人権がやはり侵すことのできない永久の権利、その由来、これがきちっと書き込まれている大変重要な条文だと思います」と説明しているが、要するに日本国民が基本的人権の保障を国民の権利とするに至った理由を97条は「人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果」だとの表現で、基本的人権の保障は日本国民だけに与えられる権利ではなく、人類に普遍的な権利だと謳うことによって、保障の重要性を人類レベルで刻印させていると見なければならない。

 このことは基本的人権の保障は人類共通の原則としなければならないとの謂(いい)でもあるはずである。

 ゆえにこの文言があるかないかによって、あるいは大事にするかしないかによって基本的人権の保障をどの程度重要視しているかいないかのバロメーターとなるはずである。

 だが、自民党草案は削除している。

 この削除――基本的人権の保障に対する重要視の程度が現憲法第11条の〈国民は、すべての基本的人権の享有を妨げられない。この憲法が国民に保障する基本的人権は、侵すことのできない永久の権利として、現在及び将来の国民に与へられる。 〉の条文から、「現在及び将来の国民に与へられる。」の文言を削って、自民党草案第11条〈 国民は、全ての基本的人権を享有する。この憲法が国民に保障する基本的人権は、侵すことのできない永久の権利である。〉と簡潔化するに至ったのだろう。

 「現在及び将来の国民に与へられる。」は基本的人権の保障の永久不変性の標榜を意味する。単に「侵すことのできない永久の権利である」だけでは、永久の不変性を意味しない。

 いわば自民党草案第11条は基本的人権の保障の永久不変性に手を加えた。

 この改変、いわば基本的人権の保障に対する重要視の程度が自民党草案第12条に現れている。

 第12条〈この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力により、保持されなければならない。国民は、これを濫用してはならず、自由及び権利には責任及び義務が伴うことを自覚し、常に公益及び公の秩序に反してはならない。〉

 現憲法第12条に加筆された自民党草案の〈常に公益及び公の秩序に反してはならない。 〉の文言である。

 だが、「公益」にしても「公の秩序」にしても、時代によって規定する価値観は姿を変える。封建時代の美徳とされた夫婦観は「妻たるもの、三歩下がって夫の影を踏まず」とされた。

 現在、夫と妻は、だけではなく、結婚前の男女も同じだが、並んで腕を組み、あるいは手を繋いで歩く。封建時代は妻は夫の仕事への送り迎えを玄関先で三指を突いて行ったものだが、現在は玄関先でキスを交わすことが送り迎えの儀式としている夫婦が多いとされている。

 封建時代とその名残が濃かった時代は女性の方から男性を性行為に誘うことは以ての外、アバズレ女、尻軽女とされたが、現在では女性の方から積極的に誘う時代となっている。その積極性に助けられている、自分から言い出せない男性は多くいるはずだ。

 当然、政治権力者等によって時代が保守化されて、その試みが過度の様相を呈することに成功した場合、時代が逆行することになってかつての価値観や秩序を先祖返りのように蘇らせることにならない保証はどこにもない。

 いわば自民党草案第12条は現憲法第11条が規定している基本的人権の保障の永久不変性を削除することによって、国民一般の価値観ではなく、国家権力の価値観に応じた「公益」、あるいは「公の秩序」の名の縛りによって可変化させることが可能な条文となっている。

 結果として現憲法97条が保障する基本的人権が人類に普遍的な権利であることを喪失することになる。

 断るまでもなく、自民党草案は最初から基本的人権の保障が蔑ろにされる危険性を孕んでいる条文と言うことができる。

 安倍晋三は質疑の中で「基本的人権についてはこれは立場が変わらないと言うことは申し上げているとおりでございます」と言い、「基本的人権、そして平和主義、国民主権ということは変えないということは再三申し上げているわけでございます」発言している。

 当然、この発言を捉えて、これこれ基本的人権の保障を危うくする憲法草案となっているのではないかと追及するのも一つの手であるはずが、長妻昭は安倍晋三が自民党草案は政府案として国会に提出していないために行政府の長としてここに立っている自身としては憲法の中身について議論する立場にはないと説明回避を徹底させているにも関わらず、あの手この手で説明させようと勝算のない堂々巡りを演じ、憲法は国家権力を縛る役目を担っているが、自民党草案は逆に国民を縛る内容となっているとかつて国会で質問したとき、安倍晋三から「デマゴーグ」だと言われた、それを撤回しろと要求したが、自民党草案が国民を縛る内容であることを説得力ある言葉で具体的に説明して決してデマゴーグではないことの論陣も張らずに、撤回する気のない相手にデマゴーグと言われたから撤回しろは、これも埒の明かないムダな時間を費やすことになったのみである。

 この長妻昭の衆院予算委での質疑の翌々日の10月5日午前、民進党代表の蓮舫が参院予算委員会で質問に立ったが、長妻昭の何ら成果もなく終わった堂々巡りの質疑を参考にするべくテレビで見ていたはずだが、同じ堂々巡りを演じるムダを繰返したに過ぎなかった。

 この質疑を伝えている「産経ニュース」記事から引用してみる。    

 先ず蓮舫は現憲法にどこが問題があって、それを自民党憲法草案でどう解決するのかの安倍晋三の認識を質すと、安倍晋三は長妻昭に答弁したように行政府の長としてここに立っている自身として憲法の中身について議論する立場にはない、憲法審査会で議論して欲しいと同じく繰返したのに対して蓮舫は次のように質問している。

 蓮舫「因みに自民党におきましては、国民主権、基本的人権の尊重、平和主義、この3つの考え方、現行の憲法の持っているこの3つの考え方については変わりがないということでございます。

 両院の憲法審査会では話せるけれども、予算委員会では話せないというのは何に根拠を持っているのですか」

 安倍晋三はほぼ同じ趣旨の論理で予算委員会での自民党草案の説明、及び自身の憲法観についての説明を回避した。

 蓮舫は食い下がった。

 蓮舫「総理、ここは立法府です。立法府にはルールがあり、先人たちが積み重ねてきた先例録があります。参議院の先例録、予算委員会の総括質疑は国政全般に亘り総括的な問題について政府の統一的見解を質すものであります。先例録、委員は議題について自由に質疑し意見を述べることができる。自由に質疑ができる。何で行政府の長が、立法府のこのルールを勝手に変えて指示ができるんですか」

 安倍晋三「今、読まれたように、政府の統一的な見解を述べる場所であってですね、政府の統一的見解について、自民党の草案について述べることはできないわけであります。

 ですから今、政府の統一的な見解を問うとおっしゃりましたから、まさに政府の統一的見解として、政府案として出しているのであれば、述べることはできますが、私は行政府の長として立っている以上ですね、自民党草案についての個々具体的な、逐条的な解説をするのは、適切ではないと述べたところでございます」――

 長妻昭に対する答弁の繰返しであり、何の策もなく同じ繰返しを許した。

 そればかりか、自民党草案が「現行憲法と同様に国民主権、基本的人権の尊重、平和主義、この3つの考え方は変わりはない」としていると指摘していながら、そのことに対する自分たちの認識はどうなのか触れないままに予算委員会で説明する気のない相手に長妻同様になお説明させようと躍起となって、結局長妻同様にムダな時間を費やすことになった。

 長妻と安倍晋三の質疑を見て、何も学習しなかったのだろうか。質疑を見ていませんでしたでは一党の代表として許されないし、その資格を欠くことになる。

 最後に蓮舫は頭の回転が良いことを印象付けようとしているのか、言葉遣いの歯切れの良さをウリにしようとしているのか、質問相手に言葉を向けていながら、その背後に国民が耳を澄ませていることを考えずに早口の発言に終始していて、聞き取れないことが多々ある。

 その丁寧さの無さからは国民に丁寧に説明しようと心がける姿勢は見えてこない。

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