麻生太郎の女性記者福田事務次官セクハラ告発は「ハメられた」に見る大臣としての認識力、安倍晋三の任命責任

2018-05-03 11:23:39 | 政治
 安倍晋三:従軍慰安婦強制連行否定2007年3月16日閣議決定

「政府が発見した資料の中には、軍や官憲がいわゆる強制連行を
直接示すような記述も見当たらなかった」
とする
“政府発見資料”とは如何なる資料か、公表すべき

 UAE、ヨルダン、パレスチナ自治政府、イスラエルを歴訪中の安倍晋三が2018年5月1日午後(日本時間同日夜)、ヨルダンで記者会見して、森友学園問題の決裁文書改竄や辞任した財務省事務次官福田淳一のセクハラ問題での対応で野党から辞任要求が出ていた財務大臣麻生太郎について続投させる意向を表明したとマスコミが伝えていた。

 麻生太郎は安倍晋三にとって長年の盟友であり、自民党内の実力者である。その辺のペイペイとは違って下手にクビを切ったら、逆恨んで反旗でも翻されたら、9月に自民党総裁選を控えている時期でもあり、実力相応の反旗となって厄介事とならない保証はない。

 あるいは麻生太郎を辞任させた場合に勢いづくことが予想される野党が次のクビを任命責任を理由に安倍晋三に狙いを定めたなら、ドミノ倒しとならない保証もなく、自身に嵐が及ばない防波堤の意味でただただ麻生太郎のクビを守らなければならない切羽詰まった状況に立ち至っていることからの麻生太郎のクビを守るということなのだろう。

 こういった構図であるとしたら、この麻生太郎のクビを繋ぐの図は安倍晋三自身のクビを繋ぐの図、自己保身の図から出た私利的作為と言うことになるが、この私利的作為を取り除いた場合、果たして麻生太郎は続投の資格はあるだろうか。

 野党が辞任を迫った理由の一つである当時財務相事務次官だった福田淳一のセクハラ問題を例に取って続投の資格如何を見てみる。

 週刊新潮が報道した福田淳一の女性記者に対する「キスしたいんですけど。すごく好きになっちゃったんだけど・・・おっぱい触らせて」等々の女性記者に録音されたセクハラ発言、当の本人は「言葉遊び」、「悪ふざけ」だとしてセクハラを否定、但し「報道が出ること自体、不徳の致すところ、職務を遂行する上で問題になっている」からと辞任、その一方で名誉毀損訴訟でセクハラ否定を証明するとまで言っているが、財務省は4月27日、セクハラ行為を認定し懲戒処分相当とした。

 しかしこの認定4月27日3日前の4月24日の財務大臣の閣議後記者会見では麻生太郎は「ハメられて(女性記者から)訴えられているんじゃないかとか、色々なご意見が世の中にはいっぱいありますので、本人の人権を考え、双方の話を伺った上でないと決められない」(「東京新聞」(2018年4月25日)と女性記者からも聴取する意向を示していたが、聴取しないままの処分となったのは森友問題も抱えていたことからの早期の幕引きを図ったのだろうとはマスコミの意見である。

 より問題なのは麻生太郎が福田淳一は女性記者から「ハメられた」と、謀略説を“認定”していることである。当たり前のことであるが、麻生太郎の「ハメられた」は女性記者側が「ハメた」の意味を取ることになり、「ハメる女、性悪な女、あるいは質の悪い女」と見ていることになる。セクハラの被害者であることから一転、加害者、それも単なる加害者ではなく、女性記者を記事のためには手段を選ばない悪巧みを持った反社会的な人格の持ち主だと印象づけたこと示す。

 いくら財務大臣だからと言って、いや、財務大臣だからこそ、このような印象づけを根拠を示さずに他人の一つの意見として公にすることは許されない。

 麻生太郎は4月27日になって、「そういう話もあるという話をしただけだ」と釈明した。これも名誉毀損の訴訟対象になってもいい財務大臣にあるまじき無責任な発言となる。「そういう話もある」からだけを根拠とし、記事のためには手段を選ばない悪巧みを持った反社会的な人格の持ち主だとの印象操作を行ったことになるからだ。

 確たる根拠(=証拠)を示さないままに罪を匂わせるのは冤罪付与に相当する。

 この見事なまでの軽薄な認識力、認識の質の程度は財務大臣としての資格という点で考えた場合、果たして合格点を与えることができるだろうか。財務大臣に就いているだけではない、自民党副総裁まで務めている。一般人以上に優れた認識力を備えていなければならない立場の人間が一般人以下だとしたら、合格点どころか、財務大臣としても自民党副総裁としても最悪である。

 続投の資格どころか、財務大臣や自民党副総裁に任命された資格まで問わなければならない。軽薄な認識力、認識の質の程度が低い自民党国会議員を財務大臣に任命し、党副総裁にまで任命したのだから、当然、安倍晋三の任命責任の是非まで問わなければならないことになる。

 麻生太郎の「ハメられた」発言の発信元が元文科大臣下村博文の4月22日の都内での講演発言であることは4月23日付「しんぶん赤旗」がその発言を伝え、「動画」を公表したことによって明らかである。

 動画から。

 下村博文「日本のメディアっていうのは日本国家を潰すために存在しているのかと最近つくづく思う。それから、まあ、兎に角テレビは見ませんけども、ムシャクシャするから。見るとですね、そんなことばっかでしょ、つまんないことに。

  確かにね、福田事務次官がそういうことはね、飛んでもない発言をしているかもしれないけども、そんなの隠しテープで録っていてね、テレビ局の人が週刊誌に売ることはハメられていますよね。ある意味犯罪だと思うけど」――

 下村博文は女性記者が福田淳一を「ハメ」、福田淳一が女性記者に「ハメられた」「ある意味犯罪」を構成していると断罪している。この下村博文の犯罪構成がそのまま麻生太郎が発言で示した犯罪構成となって現れることになった。

 要するに麻生太郎が「色々なご意見が世の中にはいっぱいあります」と言っていた「色々なご意見」のうちの福田事務次官が女性記者に「ハメらた」とする発言個所は下村博文が発信元であった。

 但し既に指摘しているように麻生太郎は確たる根拠(=証拠)を示さないままに女性記者の人格を貶め、冤罪相当に陥れた。対して下村博文は女性記者が隠しテープで録って週刊誌に売った行為は「ある意味犯罪」だと自ら断定し、それを根拠に福田淳一は女性記者にハメられたのだとする自説を講演で披露するに及んだ。

 この下村博文発言の趣旨を要約すると、女性記者はスクープ狙いの功名心に駆られて犯罪にも等しい隠し録音をして、それを週刊誌に売るために福田淳一と一対一の食事をし、「キスしたいんですけど。すごく好きになっちゃったんだけど・・・おっぱい触らせて」等の発言を引き出すためにある種の色仕掛けでハメたということになる。

 教育行政を与っていた元文科大臣のことである。ご説ご尤もではあるが、女性記者が実際にスクープ狙いの功名心に駆られて福田淳一をハメたのか、そのことについての確たる根拠(=証拠)を示さないままに“ハメた”とする、あるいは「ある意味犯罪だ」と断罪するプロセスは麻生太郎と同じで、下村博文は自分の考えだけで言っているに等しく、麻生太郎は下村博文の謀略説を自分の考えで咀嚼することなく同意したことになって、両者の認識力の軽薄さ、認識の質の低さはどっこいどっこいとなる。

 そしてこのようなどっこいどっこいの一方を安倍晋三はかつて文科大臣に任命した。

 下村博文が女性記者謀略説を唱えたのは4月22日の都内での講演である。女性記者はテレビ朝日所属だそうで、テレビ朝日は4月19日未明に記者会見を開いている。

 「NHK NEWS WEB」(2018年4月19日 0時42分)

 篠塚報道局長「1年半ほど前から、取材目的で福田氏と数回、会食をした。そのたびにセクハラ発言があり、みずからの身を守るために録音を始めた。

 今月4日に呼び出しを受け、1対1での飲食の機会があったが、その際にもセクハラ発言があり、途中から録音をした。後日、上司にセクハラの事実を報じるべきではないかと相談したが上司は『本人が特定され、2次被害が心配される』ことを理由に『報道は難しい』と伝えた。

 この社員は、財務事務次官という社会的に責任の重い立場にある人物の不適切な行為が表に出なければセクハラ被害が黙認されてしまう、という強い思いから週刊新潮に連絡し、取材を受けた」
 
 上司が言ったとする「本人が特定され、2次被害が心配される」とは取材規制を受ける恐れを指すのだろうか。財務相記者会見室への出入り禁止、あるいは禁止しなくても、質問を無視して別の質問者を指す。

 だが、「2次被害」を恐れて、結果的に事務次官という立場にある者のセクハラ発言を野放しにすることになった場合、戦うことはせずにセクハラ発言を許容する権力への屈服を意味することなる。

 もし女性記者が「週刊新潮に連絡し、取材を受け」なければ、テレビ朝日は権力への屈服を隠して自分たちの取材の円滑な遂行を優先させたことになり、問題となるが、下村博文はテレビ朝日が4月19日未明に既にこのように説明している以上、4日後の4月22日の都内での講演ではテレビ朝日の説明を何らかの根拠を以って覆し、その上で同じく何らかの根拠に基づかせて、「いや、女性記者はハメたんだ」との謀略説を唱えなければならなかったのだが、このような確たる手続きは踏む努力さえしなかった。

 下村博文は「兎に角テレビは見ませんけども、ムシャクシャするから」と講演で述べているが、謀略説を打ち立てる以上、セクハラ発言に関する全ての報道に目を通すなり、報道される側としての自分自身の経験なりから謀略説を打ち立てていい確実性のある根拠を拾い出して、その根拠に基に発言しなければならない責任を負っているはずだが、発言の重さに対する責任感すら、窺わせることはしなかった。

 下村博文はまた、「日本のメディアっていうのは日本国家を潰すために存在しているのかと最近つくづく思う」と発言しているが、自分たちが思い描いている国家のみを基準にしていると、こういう発言が出てくる。国家の内容に関して色々な意見があり、色々な把え方があると考える人間はこのような発言は逆立ちしてもできない。

 自分たちが思い描いている国家のみを基準にするということはそのような国家を絶対としているということであり、絶対が行き過ぎると、自分たちが思い描いているのとは異なる国家を否定、自分たちの国家のみを横行させる独裁に行き着くことになる。

 麻生太郎が小泉内閣時代の総務大臣在任中の2005年10月15日に福岡県太宰府市の九州国立博物館開館記念式典の来賓祝辞で日本という国が中国系、朝鮮系、南方系、あるいは北方のアイヌ系の混血国家を成り立ちとしていることを無視して、「一文化、一文明、一民族、一言語の国は日本のほかにはない」と発言していることも日本国家を絶対としているからで、例え現在眠っている状態であっても、独裁意志を根付かせているからこその日本単一民族思想であろう。

 麻生太郎も下村博文も、認識力の軽薄さ、認識の質の低さはどっこいどっこいであるばかりが、内心に自分たちが思い描いている日本国家のみを絶対とする独裁意志を抱えているという点でも、どっこいどっこいであるようだ。

 麻生太郎を大臣に任命する価値はなく、当然、続投の価値はない。この程度の政治家を大臣に据えた安倍晋三自体の任命責任も問わなければならない。

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