安倍晋三:従軍慰安婦強制連行否定2007年3月16日閣議決定 「政府が発見した資料の中には、軍や官憲がいわゆる強制連行を 直接示すような記述も見当たらなかった」とする “政府発見資料”とは如何なる資料か、公表すべき |
財務省前事務次官の福田淳一のセクハラ問題を「自制心」という点から見てみる。この手の自制心に関しては偉そうなことを言える立場にないが、福田淳一の立場は彼一人にとどまらない、麻生太郎にも関係してくる、比較にならない重要性を抱えているゆえに取り上げてみることにした。
麻生太郎が5月4日に訪問先のフィリピンでの記者会見で財務省前事務次官の福田淳一のセクハラ問題の調査を打ち切る考えを改めて示したと2018年5月4日付「朝日デジタル」記事が伝えていた。
麻生太郎の発言を纏めてみる。
麻生太郎「1対1の会食のやりとりについて、財務省だけで詳細を把握していくことは不可能だ。セクハラ罪っていう罪はない。殺人とか強わい(強制ワイセツ)とは違う。
(福田淳一)本人が否定している以上は裁判になったり、話し合いになったりということになる。ここから先はご本人の話だ。いくら(調査結果が)正確であったとしても、偏った調査じゃないかと言われるわけですから。被害者保護の観点から(調査に)時間をかけるのは、かなり問題がある。
役所に対しての迷惑とか、品位を傷つけたとか、そういった意味で処分をさせて頂いた」
記事は女性社員が被害にあったというテレビ朝日が調査の継続を求めていることに対しての麻生太郎の調査打ち切りであり、財務省が4月27日にセクハラ行為があったことを正式に認定したことは挙げていなかったと解説している。
麻生太郎の頭の程度が知れるのは強制わいせつはまだしも、殺人と比較していることである。比較できない危険極まる重大な犯罪を持ってきて、セクハラは罪は軽い、たいしたことではないとの位置づけを行い、寛大なる情状酌量を謀っている。
一見すると、このような意味づけは部下思いから出ていることのように見えるが、部下思いにかこつけて防衛省に対する評価の毀損を回避したい組織防衛からから出ている場合もあるし、あるいは財務省に於ける麻生太郎の責任者としての立場・監督能力を守ることから、いわば自身の地位・進退を守ることから出ている場合もあるだろう。
部下を庇う思いがこれらの事情のいずれかでも絡んでいるとしたら、自身の監督責任を守るために部下を庇う構図、あるいは部下だけの責任にして辞任させるといったトカゲの尻尾切りの構図も見えてくる。
麻生太郎は福田淳一のセクハラ行為を「強わい(強制わいせつ)とは違う」と罪一等か二等軽くしているが、言葉によるセクハラの範囲を踏み外して抱きついたり、胸を触ったり、手を握ったりの身体的行為を伴わせた場合は強制わいせつに問われることになる両者紙一重の、いつ一線を超えないとも限らない危うい行為であるのに対して現実問題としてそこまではいっていなかったのだからと、そこに事務次官としての自制心を考慮して差引いたとしても、そのことによって麻生太郎のように「強制わいせつとは違う」とすることはできない。
なぜなら、このような場合の自制心はセクハラ行為自体に自己の行動を統制すべく発揮させなければならない精神性だからである。
いわばセクハラ行為自体に自制心を働かせることができずに「セクハラ罪っていう罪はない。殺人とか強わい(強制ワイセツ)とは違う」と擁護しても始まらないとうことである。
麻生太郎は何よりも福田淳一の財務省事務次官としての自制心を問題にしなければならなかった。麻生太郎はそのような自制心を抜きに刑法上の罪と比較して、たいした問題ではないとする趣旨の発言をしている。頭の程度が知れるではないか。
福田淳一は2017年7月5日に財務事務次官に就任していて、麻生太郎が任命責任者となる。女性に接する態度に自制心を欠いているかどうかは気づかなかったとしても、麻生太郎は管理責任を負わなければならない。
自身の管理責任には触れずに福田淳一のセクハラ行為のみを云々するのは無責任で、やはり頭の程度が知れることになる。
身体的行為を伴った過度の痴漢は強制わいせつ罪に問われる。但しセクハラ行為が言葉にとどまっているとの理由で強制わいせつ罪に相当しなくても、精神的痴漢行為=精神的わいせつ行為に譬えることができる。
福田淳一の声でテープに残された「キスしたいんですけど。すごく好きになっちゃったんだけど・・・おっぱい触らせて」云々はまさしく精神的痴漢行為=精神的わいせつ行為そのものであろう。
「セクハラ罪っていう罪はない。殺人とか強わい(強制ワイセツ)とは違う」との表現で以って福田淳一のセクハラ行為を自制心を問題としないままに、あるいは自身の責任を蚊帳の外に置いて刑法上の罪とそのような罪に伴う責任とのみ比較して罪と責任の軽さを判断する。
どこからどう見ても、こういった頭の程度では財務大臣としての資格を有すると言うことができるのだろうか。
麻生太郎は「いくら(調査結果が)正確であったとしても、偏った調査じゃないかと言われるわけですから」と言っているが、自身自体が頭の程度が知れる「偏った」判断しか示し得ないのだから、他者の批判を云々する資格もない。
「偏った調査」との批判は財務省が委託した弁護士を「中立の第三者」だと位置づけて調査の依頼をしていながら、福田淳一に対する実際の聴取は麻生太郎の指示のもと、中立の第三者でも何でもない身内である財務省大臣官房長の矢野康治の主導で行なわれていたことに端を発しているはずだ。
こういった経緯をも無視して、「偏った調査じゃないかと言われるわけですから」とすることができる頭の程度も素晴らしいの一言である。
何度言っても言い足りないが、頭の程度が既に財務大臣の資格喪失を伝えて余りある。