全国的な制度と化していた必修無視・受験優先授業によって生じた生徒の単位不足回復策として文科省が与党に示した案に関する記事が11月(06年)1日の朝日新聞朝刊に『必修漏れ救済 一律70回 公明反発 補習上限50回の軽減案も』の見出しで出ている。
必修を必修としなかった授業方式は学校側によるものであっても、生徒の要望を受けたものであっても、意図的行為なのだから、マスメディアが「必修漏れ」と表現するのは、無意図的偶然性を意味して、厳密に言うなら不適切である。日本社会に蔓延している学歴主義の底が割れた今回の騒動でもあったわけである。
あるいは必修無視といったゴマカシの上に現在の学歴主義が成り立っていたとも言える。学歴主義とは点取り主義をも意味する。
その記事の最後に、「『一方で自民党議員からは生徒は悪くのないだから、補修は必要ない』などと意見が出された」と出ているが、必修無視に生徒の要望が入っていたとしても、学校・生徒にそう仕向けた元凶は日本の社会をかくまで学歴社会とした日本の先人たちと、特に戦前の「お国のため」のスローガンを学力に変えたような最近の学力向上、学力向上と、それがすべてであるかようにバカの一つ覚えに繰返す今の日本の大人たちにこそ(勿論政治家・官僚も含めて)責任はあって、ある面学校・生徒は学歴主義の被害者でもあるのだから、補修など必要としないのは当然の措置であろう。
しかし政治家・官僚の多くは「ルールはルールだ」と、さも自分たちはありとあらゆるルールを守っているかのように見せかけるために他人にはルールを厳しく求める巧妙な立ち居振る舞いをオハコとしているから、「補修は必要ない」とすることはしないに違いない。
いじめ問題でもそうだが、学校や教育委員会をさも悪者であるが如くに糾弾するのは、糾弾することで自分たちを正義の立場に立たせることができるからで、そのように正義漢を装うことで自分たちの得点とするためであろう。こういった人間はマスメディアに顔を出す人間に特に多い。
勿論学校・教育委員会に非はないとは言えないが、非があるとするなら、自分たち政治家・官僚にも同じように非があるとしなければならない。文科相と文科省は教育委員会と学校に対して管理不行き届きの使用者責任があり、内閣を代表・総括する内閣総理大臣は文科相に対して、同じように管理不行き届きの使用者責任、あるいは任命責任を有しているはずである。
いわば代々の文科相および文科省、そして両者を管轄し内閣を指揮する代々の内閣総理大臣が共同して現在の学校の教育体制と教育委員会の管理体制を見逃してきた共犯者でもあると言えるのである。
記事は文科省が示した「一律70回案」に対して、公明党が70回不足の生徒は何ら救済に当たらないから、そのような生徒を対象に50回に抑えるよう求めたといった内容になっている。
「ルールはルールだ」ということで補修を受けなければならないとなったなら、受験に関係のない授業では出席だけしてその授業の教科書は広げるが、形式だけのことで、隠れて受験に関係する科目の勉強にいそしむといったことを大抵の生徒がしているだろうから、同じ形式で補習をやり過ごせばいい。テストで授業の成果を問われるだろうが、教師は必修無視の自分たちの責任も考えて、そこは阿吽の呼吸で、テスト前の授業で、テストに出る問題の大体のところを教えれば、必修無視の責任をある程度軽くすることができするし、生徒の救済にも役に立つ。プロ野球の監督のブロックサインのようにサインを出すのである。
40年以上も前の高校の授業でも、中間試験前とか期末試験前になると、受験に関係のない科目では教科書をその学期で教えた最初まで遡って、「ここは重要だから、頭に入れておいたほうがいいかな」とか、「ここは役に立つところだな」と復習の形で再解説して、それとなくテストに出る箇所を教えてくれる教師もいた。我々生徒の方は教師が読み上げた箇所に急いで下線を引いておいて、その箇所だけを一夜漬けで丸暗記していく。いざ試験の当日となって裏返しで配られたテスト用紙を開始のベルと同時に表返しにしながら素早くザーッと目を通すと、物の見事に解説した箇所が問題となっていた。
但し、1問か2問だけ、解説しない箇所が問題に出た。それもかなり難しい問題で、それができないと授業時間他の科目の勉強をしていた生徒とバレることになるのだが、教師に分かってしまうことは生徒にも分かっていたことで、受験優先の生徒にしても勉強嫌いな生徒にしても、そんなことは頓着しなかった。お互いが分かっている。そこが阿吽の呼吸の最も阿吽の呼吸たる所以である。
現金なもので、そういった授業に限って居眠りしている生徒は一人としていないし、ヌード写真が掲載されている週刊誌を回し読みしている生徒もいなかった。
ときには受験科目に入っている授業でもそういったことをする教師がいた。テストの成績の全体的な底上げを図って、教師自身の授業技術を証明する目的もあったろうが、大学受験で最終的に暗記の実力が試される進学希望の生徒にはそこでテストの点を上げたとしてもある意味猫に小判であって、真に役に立ったのは勉強嫌いな生徒であったろう。
あるいは学歴主義に意味を見い出せなくて、その反発からテストに出る問題を教えているということもあったのかもしれない。
クソ真面目にやることはない。政治家・官僚だってクソ真面目にはやっていないのだから。下、上を見習うべし。世の中は巧妙に立ち回る人間こそが有利となる仕組みとなっている。「真面目に取り組む人間が損をしないような世の中」なんてことは嘘っぱちもいいとこで、安倍首相の歴史認識に関わる巧妙な立ち回りを見習うべし。さすが一国の総理大臣となっただけのことはある。
自民党の除名した郵政造反議員を選挙対策のために復党させようとする巧妙な立ち回りは人生生きていく上で参考となる、状況に応じて態度を変える節操替え・状況主義ではないか。来年夏の参議院選挙で不利な戦いを強いられないようにと消費税増税隠しをやる巧妙な立ち回りは物の見事なカモフラージュ作戦ではないか。うまく立ち回ってこそ、人生の勝者となれる。
国会議員・高級官僚のなすコジキ行為・ムダ遣い、地方政治家・地方公務員これに倣う
岐阜県庁の前知事時代の巨額裏ガネ問題、5期18年の間クリーンのイメージで長期に亘って県政を担ってきた福島県知事の公共工事談合汚職、和歌山県の同じ公共工事をめぐる談合と出納課長の競売入札妨害容疑、5年間で8日しか勤務していなかったにも関わらず、約2700万円もの給与を受けていた奈良市役所職員等々、このところ地方の側からの犯罪・コジキ行為が美しい日本の伝統づくりに目立って寄与している。中央の犯罪・コジキ行為の影がすっかり薄くなった印象さえ与える。
10月29日日曜日のサンデーモーニングで官僚のムダ遣い・コジキ行為に関しての議論が行われた。司会者は例の太鼓持ち田原総一郎、出席者は自民党幹事長中川秀直、民主党代表代行菅直人、外交評論家岡崎久彦、塩川正十郎。肝心なところだけを拾ってみると。
岡崎久彦「そういうことを言うと非難ごうごうですけどね、本当なら官僚と言うものは定年までお国のために働いて、後は年金で食えなくてはいけないんですね」
田原総一郎「そう」
田原総一郎は先ずは岡崎久彦の意見を肯定する。
岡崎久彦「そうでしょ。それをね、高級官僚は年金を減らしましたからね。そうしますとね、そうすると天下りするところをつくるね。それから役職中、あのー財産つくるね、そういう弊害が出てくるんですよ。それはね、私はね、高級官僚の年金、みんなから批判されますけども、それは世界的に見て極めて低くなっているんですね」
田原総一郎「日本の――」
岡崎久彦「いや、そうするとね、その、どうしても後のことを考えなくてはいけなくなってくるんですよ。本当はね、役人である限りお国のことだけを考えていりゃあいいんですよ」――
年金を減らされたから、天下りして私利私欲に走る、役職中、財産をつくるでは、会社で上司に注意されたのが面白くなく、むしゃくしゃして帰宅途中の電車の中で痴漢を働くような人間と頭の程度は同じということになる。犯罪やコジキ行為にならないことで生活の手当・人生の手当てを考えるのが最高学府を出て官僚まで務めた人間の才覚というものではないだろうか。言っていることが的外れに思えて仕方がない。
人間は一方で「お国のこと」を考え、もう一方で私利私欲をも働くことができる、極めて器用にできている生きものだという人間の現実の姿を知らずして、よく外交評論家が務まるものだと思うが、務まっているから、務まるということなのだろう。
高級官僚が「定年までお国のために働」かないのは、同期に入省した者の中から事務次官を出すと、残りは勇退するといった慣行があって、そのため50歳前後から退職・再就職に向けて準備し、政府関係機関や民間企業に天下っていくという手順になっているそうだが、事務次官と同期入省者が勇退という慣例はどんな意味や価値があるのだろうか。
事務次官とは事務方のトップである。生え抜きの国家老と言ったところだろう。同期がいたのでは遠慮があって十分に腕を振るうことができないだろうと暗黙の了解からの排除する制度であるとしたら(それ以外に理由は考えられない)、如何に官機構の人間関係が上下関係を絶対とする権威主義で成り立っているかの証明を示すものであろう。能力発揮が年齢や先輩・後輩、さらに多分卒業した大学の格といった序列を額面として、その影響を受ける変数となっていることを意味する。
その同じ上下の権威主義が天下り先で逆に生きて、自らの存在価値を高めることができる。
中川秀直自民党幹事長が岡崎名外交評論家を遮るようにして口を挟んだ。世間一般に出れば十分に暴力団の親分をやっていける貫禄たっぷりの風貌で、なお且つドスの効いた声をしている。
「それは岡崎氏がご自身でね、シンクタンクなんかやっておられる。高級官僚はそんな数が多いわけじゃないんですから。そういう形で(シンクタンクのような形で)定年後は60過ぎたら、そういうお仕事なさって、一旦、今度またそういう形で(天下りという形で)戻ってくる場合もあると、そういう形で行くべきだと思う」
田原総一郎「そこはいいんです」
中川幹事長「やっぱ、そこはそういう形にしていくべきだと思います」
田原総一郎「僕はね、官僚の問題、本当にやって欲しいと思ってる。霞ヶ関改革、地方公務員まで。その場合にね、やっぱ岡崎さんが言ったみたいにね、その、年金薄くなっちゃったとかね、それから塩川さん言ったみたいにね、50歳、51歳でやめなきゃいけないとか、そういうことみんな国民が分かるように論議して欲しい」
田原総一郎はここでは自民党側の言い分に肯定的態度を示す。
菅直人「田原さんね、高級官僚だけじゃないですよ。道路公団なんかも官製談合になるのは、あるいは高級官僚の防衛施設庁も、殆どすべての役所ですよ。それによってどのくらいの税金がムダ遣いになっているか、私は公共調達と言われるものの2割、3割だと、ということは7兆ばかりの規模なんですよ」
田原総一郎「ちょっと、なぜ菅さんは前に言ってくれないんです。そういうこと国会でガンガンやってくださいよ」
次に民主党側の言い分の肩を持つ。その繰返しである。
菅直人「言ってるけど、逃げてるんですよ。そのことをやらないで、その他の、そのどっちかと言うと、一般職員的なところだけをターゲットにして、中川さんが言われるが、ちゃんと、その高級官僚のその問題をやってくださいよと言ってるんですよ」
中川幹事長「高級官僚なんか、そんなものは僅かな数で――」
田原総一郎「そう」
菅直人「いやいや、凄いですよ」
中川幹事長「三百何十万一般職員で、金額の方は全然一般職員の方が多くて――」
菅直人「いやいや、そうじゃなくて、官製談合によるムダ遣いが物凄く多いということです。認めているんじゃないですか」
(中川幹事長と菅直人の声が重なって聞き取りにくい。)
田原総一郎「国会でくだらない論争しないで、そういうことをガンガンやって欲しい」
菅直人「国会でやってますよね」と中川に言う。
中川幹事長、下を向いたまま仕方なさそうに「はい」(以上)
「国会でやってますよね」などと、手打ちみたいな尻切れトンボの終わり方は情けない。「言ってるけど、逃げてるんですよ」と一度口にしているのだから、相手が逃げの姿勢であることを印象づけるべきで、「我々の方に詰めの甘さもあることは認めるが、小泉さんもそうだったけど、今の安倍首相も、首相以下自民党は逃げ上手、ゴマカシ上手で」ぐらいは言うべきだったろう。どこが「逃げ上手か、ゴマカシ上手か」と反論されたら、「知っている国民はよく知っている」と逃げ上手、ゴマカシ上手なところを見せる。
中川幹事長は「高級官僚なんか、そんなものは僅かな数で」あって、誤魔化す「金額の方は全然一般職員の方が多」いとして、さも罪が軽いようなことを言っているが、国家機関たる中央省庁に勤める高級官僚と地方機関たる地方自治体の公務員とでは地位・役割の重さに違いがある。当然地位・役割の軽重に伴って社会的責任の軽重も比較対照的に連動する。国家機関に勤める高級官僚の方が遥かに社会的責任は重いはずである。人数が少ない、誤魔化す金額の合計が少ないで片付けることができるコジキ行為やズサンなコスト意識からのムダ遣い等では決してない。地位・役割から考えたなら、高級官僚の方が遥かに社会的責任は重く、その重さに応じて罪も重いはずである。高級官僚が1億のカネを誤魔化したりムダ遣いしたら、地方公務員の10億の誤魔化し・ムダ遣いに相当するぐらいの10倍計算でいくべきであろう。
当然、年金が少ないとか50歳、51歳で退職しなければならないといった問題でもない。そんなのは責任逃れ・罪逃れの口実に過ぎない。地位・役割に付随し、当然担わなければならない責任意識の欠如の問題であろう。官僚だけではない。口利き、不正政治献金、収賄、視察・研修と称した観光旅行等々の中央政治家のコジキ行為・ムダ遣いも跡を絶たない。
いわば安倍晋三の十八番の口癖である〝規範意識〟に相当する責任意識の視点からも把えなければならないムダ遣い・コジキ行為でもあるはずであるが、サンデーモーニングでの議論にはその点がすっぽりと抜けていた。抜けていることに、司会の田原総一郎にしても、外交評論家の岡崎久彦にしても、菅直人民主党代表代行にしても、その他にしても気づいていなかった。本質的な因果性とは関係のないゴマカシやコジキ行為を働く人数や合計金額の多い少ない、年金の多い少ない、定年が何歳だといったことのみに目が向いていた。
また、「上の為すところ、下これに倣う」(出典は『大学』らしい。難しくて、私の頭ではチンプンカンプンである)という諺がある。これは一面的には真理を成している。上が乱れれば、下も乱れるということであろう。
中央から地方まで日本全国で政治家・役人の規範が乱れている原因はこのこと以外に求めることができるだろうか。
何事も上が手本であって、手本たる上(国会議員・高級官僚)が手本になっていない状況(=上の腐敗・怠慢・無責任)が下に位置する地方議員・地方公務員の腐敗・怠慢・無責任といった規律の緩みを誘発・蔓延させているということだろう。上の規律に下が倣っているとも言える。
また公務員の生産性に関しても、中央官僚がきちっと生産性を発揮していたなら、地方公務員もうかうかしていられない気持にさせられて、引きずられる形で生産性を発揮するはずである。ところが全体的に生産性は低い状態となっている。これも上に倣った下の生産性の低さではないだろうか。
何度でも言わなければならない。国会議員・高級官僚のなすコジキ行為・ムダ遣い、地方政治家・地方公務員これに倣う。