国を愛してどうする

2006-11-09 06:12:06 | Weblog

 「愛国心」は行動基準足り得ない

 人間は会社のため、生活のため、家族のため、自分のため、愛する人のためをそれぞれに行動基準とする。一般的には「国のため」を行動基準とはしない。「国」の利益を考えて行動するのは、戦争かスポーツで日本を代表して世界のチームを相手に戦うときぐらいだろう。日本人なら否応もなしに日本という国を背負うことになるからだ。戦争では「国のために」を一義的とするだろうが、スポーツの場合は二義的であろう。

 しかしそのようなスポーツ選手であっても、国内で日本の一チームの選手として他の日本のチームと試合するとき、日本という国を背負って「国のため」に試合する選手はいないだろう。自分が所属するチームを背負って、と同時に家族や愛する人を背負って、チームの勝利と自己活躍という足跡(=成績)を残すために戦うに違いない。

 自衛隊員にしても、日本の主権と国土を軍事の面から守るための訓練を日頃から励んでいるだろうが、巨大地震等の自然災害の発生で緊急出動した場合、日本という国を背負って「国のため」に救助活動するだろうか。地域被災者の救助、復旧のためを目的のすべてとするに違いない。

 それが「国のため」の行動であったなら、いわば「国のため」が直接的な目的対象であったなら、〝被災者のため〟は間接的な目的対象と化す。あるいは被災者救助は「国のため」の方便に位置づけられることになる。

 「国のため」ではなく、あくまでも被災者の救助を一義的な目的として、それが結果として国家の目的(=国民の生命・財産の保全)に添うというプロセスを取るべきだろう。

 こうも言える。国民の生命・財産の保全は政府の役目であり、それを自衛隊及び自衛隊員の活動を通して企画し、自衛隊及び自衛隊員の直接的・一義的役目は被災者生命の救助そのものにある。そうすることが人間の自然な感情でもあるだろう。「俺は国民の生命・財産を守るという国の役目を果たすために救助に来ている」としたら、奇妙なことになる。

 一般的には「国のため」は常に基本的であることから離れた機会的な行動原理としかなり得ないと言うことである。

 人間、生命の基本は自己である。自己が成り立たなければ、社会も国家もない。無意味と化す。この世に生まれない子供にとっては、社会も国家も存在しないのと同じである。病苦、あるいは生活苦から自殺を決意している人間にとって、社会も国家ももはや意味を成さない存在となる。

 自己が成り立ってこそ、社会は意味を持ち、国家も意味を持つ。そのためにこそ人間は自己利害の生きものであることを生存競争に於ける基本的ルール・基本的行動原理とするに至っている。

 だが人間は独りで生存できるわけではなく、常に何らかの社会を形成し、それぞれの社会の一員として生き、一員であることの制約を受ける。いわば自己利害は一員であることの制約を受ける。

 別の言葉で言い換えると、人間は如何せん自己利害の生きものに出来上がっているが、自己利害は社会の一員であることに従わなければならない。自己利害を社会の一員であることに優先させてはならない。

 これをルールとして社会の一員として生き、一員としての務めを果たす。そのような生き方を絶対とする。それを生存上の絶対的基本形とする。その上で、社会の一員という範囲内でどう生きるかはそれぞれの価値判断に任せるべきである。

 社会の一員として生きること自体が成員全体の活動の健全化と国民相互の生命・財産の保全につながっていく。それ以上何が必要なのだろうか。

 多くの日本人が一員としての務めを果たさず、社会のルールに反して自己利害を優先させている。一般人だけではなく、政治家・官僚に如何に多く見受けることができることか。社会の一員であることを生存上の絶対的基本形とすることができない、「愛国心」自体が基本的であることから離れた機会的な行動原理でしかないのだから、当然「愛国心」を基本的行動原理とするはずもない自己利害を基本的行動原理としている人間に上からの命令、あるいは指示で「愛国心」をお呪(まじな)いとさせて、自己利害優先を改めさようとすること自体が自己矛盾を侵すことでしかない。

 自己矛盾であることに気づかずに、日本という国を愛します、郷土を愛します、日本は素晴しい歴史を持っています、素晴しい伝統と文化を持っています、国旗の掲揚に心掛け、いつも心に太陽を、ではなく、心に日の丸をはためかせ、君が代の斉唱に努めます、天皇陛下を敬いますと、そのように「愛国心」意識を植えつけることで社会の一員としてのルールを守らせることができると本気で考えているのだろうか。単純な頭の人間にしかそう考えることはできないだろう。

 自己利害を基本的行動原理としているとは、殊更断るまでもなく、自己利害を行動の基本とし、そのように行動することを常態としていることを意味する。ゆえに日常生活に於いては機会的行動原理でしかない「愛国心」の上をいくことになる。そのような自己利害意識を抑えて社会のルールを優先させるには非常な努力を必要とする。一般国民のビン・缶のポイ捨てから、政治家・官僚の犯罪・私腹肥やしまで、社会のルールよりも自己利害の優先が優位を占めている。

 社会のルールを破り、社会の一員であることに反して自己利害を優先させた場合は罰するしかない。そのために各種法律は存在する。「愛国心」で取り締まることはできない。「愛国心」は基本的行動原理でないばかりか、厳密な意味に於いてルールではないし、ルールとすることはできないからだ。社会のルールと違って、「愛国心」は人間感情の一つに過ぎないからなのは言うまでもない。当然発揚するもしないも社会のルールに反しない限り基本的には自由である。

 社会のルールは制約、あるいは強制としての意味を持つが、「愛国心」は制約とはなり得ないし、当然なことに強制することもできない。ルール化し、個人の行動を律する制約・強制としたとき、思想・信条の自由の侵害へと進むことになる。国家主義体制への道である。

 「愛国心」のルール化を戦前の日本から拾い出すと、敵性外国語の使用禁止、敵性音楽の鑑賞禁止、日本的なものの優先、あるいは皇居遥拝を義務づけたり、現在の北朝鮮が個人崇拝を目的として金日成と金正日の写真をあらゆる場所に掲げさせているように天皇と皇后の御真影の掲額を義務づけて個人崇拝の対象とした強制、国民の命を天皇のため、国のために捧げる天皇の国民生命の私物化、あるいは国家の国民生命の私物化等々を挙げることができる。思想・信条の自由の侵害そのものであり、個人の否定そのものであった。

 このような「愛国心」を表向きとして個人を抑圧する構図はしつけを装った幼い子供への虐待の構図に近い。あるいは愛のムチを表向きとした親や教師の体罰の構図と近親相姦の関係にないとは言えない。

 社会の一員であること、社会のルールに則ること、自己利害を超えてそれを基本的行動原理・原則として打ち立てること。そのような方向性の確立が社会の秩序を生み出し、そのことが全体社会としての国を健全・強固にしていく。

 強制された「愛国心」が打ち立てることができるのは、個人に於ける自己利害優先を国家に対応させた国家利害の優先(=国家優先)ぐらいのものだろう。それが行き過ぎた場合は国内的には個人否定、国外的には自民族中心主義へと発展していく。

 法律とかの強制による方法ではなく、自律性に頼るとしたら、社会の一員であること、社会のルールに則ることの自覚(=社会意識)の植え付けのみが自己利害をコントロール可能とする。ルール化危険な「愛国心」の植え付け・強制(=ルール化)からは肯定的なものは何も生まれない。精々、表面的な同調ぐらいのものだろう。表面的な同調に業を煮やして、さらなる強制へと進む。

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