9月2日(06年)の青森県八戸市で開催した「教育改革タウンミーティング」で、内閣府が参加予定者に教育基本法改正に賛成の立場で質問するよう依頼していた事実が国会質問の中で明るみに出たと、11月3日(06年)朝の「日テレ24時間テレビ」とTBS「みのもんたの朝ズバッ」でやっていた。
「みのもんたの朝ズバッ」ではまずフリップを画面に映し出して、
「・5年前小泉首相が作った
・さまざまな政策に対し『国民の声』を直接聞き、大臣
や副大臣に直接語りかけ、理解を深める目的
・内閣府が担当し、5年間で164回開催」
だと、タウンミーティングの趣旨を説明。
それがそのような趣旨を裏切って、「青森県教育庁教育政策課情報広報グループ」が差出人となった「■中学校■校長様」宛の文書を実写し、そこには青森県八戸市で開催された「教育改革タウンミーティング」での質問依頼に関する発言の仕方の注意書きが記されていて、〝ヤラセ〟だったとみのもんたが憤りを見せて報じていた。
その内容の一端は、
「さて、文部科学省(内閣府経由)での依頼発言者について、内閣府から以下のとおりの発言の仕方について注意がありましたので、発言を引き受けてくださった■PTA会長さんにお伝えいただきたいと思います。
できるだけ趣旨を踏まえて、自分の言葉で
(せりふの棒読みは避けてください。)
(発言していただく内容は別紙の通り②についてです。)
(『お願いされている・・・』とか、『依頼されている・・・』というのは言わないでください。あくまでも自分自身の意見を言っている感じで)」
【別紙②】
「教育基本法の改正案について、『人格の完成』を目指すのはもちろんですが、『公共の精神』や『社会の形成者』など社会の一員としてという視点が重視されていることが強く出ているところに共感しています。個の尊重が『わがまま』勝手と誤って考えられているのではないかという気がしてなりません。教育基本法の改正を一つのきっかけとして、もう一度教育のあり方を見直して、みんなで支えあって生きていく社会、思いやりのある社会の実現を目指していくべきだと思います」
日テレの24時間テレビでは、「時代に対応すべく、教育の基本となる教育基本法は見直すべきだと思います――」と質問の内容を指示した文書の一部分をテレビ画面に映し出して、それに重ねて男性質問者の「時代時代に即応した形で変えていくべきではないかなと、早期に見直すべきところは見直していただきたいなと――」とさも自分の意見らしく自分の声を使って質問する声を流し、次いで再び「教育の原点は家庭教育だと思います。××大臣のご説明にあったように、新しい教育基本法は『家庭教育』の規定――」と文書の一部分、今度は女性の質問者の声を「私は教育の原点は家庭教育であると思います。大臣のご説明にあったように新しい教育基本法には『家庭教育』の項目が設けられている~」と流すとこまで報道していた。
内閣府の役人は国会で共産党女性議員の質問に次のように答えている。「活発な意見を促すきっかけを作ると、そういう目的で参加者の発言の参考となるような資料を作成するというような場合もあります」と状況論で逃げようとした。
これに対して共産党議員が八戸でのタウンミーティングでの質問は作成したものなのかどうか再度質問すると、「参考資料を作成したというところは内閣府が作成したものでございます」と、「場合」ではなく正真正銘の〝事実〟であることを認めた。証拠の配布資料を相手が所持しているから、認めざるを得なくて仕方なく認めたのだろう。と言うことは、認めざるを得ないという状況に立たされていなければ、認めることはしないということである。
日テレ24時間テレビでも「朝ズバッ」でも、安倍首相は首相官邸での記者会見で次のように答えている。「タウンミーティングは国民の対話の場であり、また双方向で意見交換できる大切な場ですから、こうした誤解があってはならないと、そういうことがないように注意をしました」
これは「誤解」の類なのだろうか。マスコミがヤラセだと「誤解」して受け止め、その誤解をそのまま報道したということになる。いわば虚偽報道した。周りを囲んでいる記者たちはただ承るだけで、何一つ突っ込んだ質問ができない体たらくである。
「みのもんたの朝ズバッ」でコメンテーターとして出演していた国会議員なのかどうか、見かけた顔ではあるが、岡崎とか言うオバサンが「直接大臣と話せる、双方向で話せる絶好のチャンスで、民意を問わなければならないタウンミーティングで民意を汲み取らなければならないのに、民意をつくってどうするんです。これはもう本当に言論統制と言われても仕方がないと思うんですよね。民主主義に反する出来事だと思うんです」と、「言論統制」論を打ち出した。
予め質問者に質問の趣旨を指定するだけではなく、それを超えて言うべき文言(=「せりふ」)まで書き記して、「棒読み」では露見してしまうから、そうならないように「棒読みを避けて」「自分の言葉」で喋って欲しいと要請している経緯に関しては確かに「言論統制」の要素はあるが、但し質問者に限っての「言論統制」であって、質問者以外の不特定多数に「言論統制」を強いるプロセスを踏んでいるわけではない。
実態はタウンミーティングの会場にやってきている聴衆だけではなく、テレビ・新聞等のマスメディアが報じることによって、それらの報道を目にし、耳にする不特定の大多数の国民に教育基本法の改正は必要だと思わせる悪質・不当な〝世論操作〟を行ったということではないだろうか。当然安倍首相が言ったように「誤解があってはならない」といった単純な出来事ではないし、単純な出来事と単純に片付けることはできない問題であろう。
勿論、国家権力がマスメディアに対する言論統制を手段として国家権力が望む方向に民意を誘導する戦前のような世論操作もあり得るが、その場合は国民をも言論統制の網に捕らえているケースが一般的で、現在の日本国民は言論統制下の状況に立たされているわけではない。
逆に憲法で言論の自由を保障している関係上、社会全体に向けた直接的な言論統制は不可能だから(特定のマスメディアに秘密裏に強要するとか部分的には可能ではあるが)、それを手段としないサクラ(同調者)を仕立てる世論操作を手段としたのだろう。
八戸の事例は世論操作という点では、言論統制如何に関係なく戦前の大本営発表の偽装した戦果を新聞・ラジオがそのままなぞって社会全体に伝達した手続きと本質的には同質の世論操作に当たるものであろう。国家権力の意志の仲介者が違うだけのことである。
当然なこととして、このような世論操作は上からの指示を指示されたとおりに下が従う権威主義のメカニズムがあって初めて成り立つもので、そのようなメカニズムが重要な力を果たしている。
その権威主義的メカニズムたるや、これも当然なこととして〝無条件性〟を条件としている。上が下を無条件に従うものと見なしていて、そのように仕向ける〝無条件性〟。下は上の指示に無条件に従うものと決めていて、指示通りに動く〝無条件性〟。そのように上も下もそれぞれの〝無条件性〟をカギとしている。
そして内閣府、あるいは文部科学省という国家機関が、依頼した質問者に要求し、質問者が国家機関の要求に応じて同調したそれぞれの個別的〝無条件性〟は不特定大多数の国民になぞらせる全体性を獲得して初めて世論操作は完成する。いわば〝無条件性〟の心理的な蔓延化という目的を持った質問依頼だったはずである。
このような世論操作に於ける上下双方向の〝無条件性〟は国家をすべてに優先する絶対の存在と見なして、国民をこれに従属させる国家主義の国家と国民の間に通い合わせる〝無条件性〟と本質のところで通底し合う、いわば双子の関係にある動静と言えないだろうか。
あるいは国家主義のヒナ型を成していた世論操作とも言える。改正憲法や教育基本法改正案に「愛国心」の涵養の文言を盛り込もうとする動きにしても、国家を上とし、国民を下に置いて上に従わせようとする国家主義的意志が窺える。
このような動き・意志は自民党政権自体が国家主義の芽を内包していることを暗示するものだろう。あるいは国家主義の血を潜ませている。それが安倍内閣となって、露な姿を現し始めた――。
「朝ズバッ」で出席者の一人である自民党国会議員の渡辺喜美は、「ちょっとお粗末ですね。タウンミーティング全部がこんなヤラセではないと思いますが、たまたま文部科学大臣がご出席されるってんでね、まあ、そういう方面の人たちがこういう文書をつくって流したんでしょうけどね」
そういった抽象的な出来事ではないのは明らかであるにも関わらず、抽象的な出来事で片付けようとする。身内を庇う意識が働いているからに他ならない。これに対してみのもんたは「渡辺さんが出席されたなら、何でも言いたいことを言いなさい、方言でも何でも構わない、好きなように質問してくださいと言うでしょうね」といったことを冗談ぽく言っていたが、このように冗談ぽい締めくくりで終わらせていい問題ではない。この手の番組の司会者はなぜこうも八方美人なのだろうか。八方美人でなければやっていけないということもあるのだろう。みのもんたが最初に見せた憤りも、所詮は視聴率稼ぎの〝世論操作〟に過ぎないことが分かる。