タウンミーティング謝礼金/「問題なし」は誤魔化し

2006-11-18 02:51:11 | Weblog

 ヤラセ質問して世論操作をやらかしたタウンミーティングで、質問依頼者に1人当たり5000円の謝礼金を支払っていた。当然、それが悪いことか悪くないことかが問題となる。政府は「問題なし」――悪いことではないとした。

 塩崎官房長官の正当性の弁をテレビでの発言や新聞記事から、重複する箇所もあるが、少しずつ違うから、大体のところを拾ってみた。

 「司会者が『代表発言』などと紹介したうえで議論の口火を切ってもらう、かなりオープンな役割に対する謝礼金で、いわゆるやらせ質問に払ったという話ではない」

 「発言してもらう役割をお願いしているわけで講師謝礼があるのと同じだ。その程度の感謝の気持ちを示すべきではないか、ということでした」

 「まったく問題視していない。議論の口火を切ってもらう方への謝礼金だ。いわゆるやらせ質問に謝礼を払ったという話ではまったくない。」

 「議論の口火を切ってもらう役割を担ってもらった謝礼金であり、やらせ質問では全くないと聞いている。手を挙げている人の中から『この人』というのではなく、明確に会の流れの中でお願いをしている人に謝礼を払ってきた事実がある」――

 「謝礼」と言っても、何もしないことに対する「謝礼」ではなく、何かをして相手に何らかの利益を与えたことに対する「謝礼」なのだから〝報酬〟であることに変わりはない。ほんの気持ち程度の報酬と言うことだろう。

 また前以て金額を明示していたなら勿論のこと、明示しなくても、「謝礼はします」程度の応対があったとしたら、予め報酬を約束した契約依頼ということになる。それとも質問終了後に発生させた報酬ということなのだろうか。講演でも契約依頼と、講演だけを依頼して、後から「お車代です」と1万、2万のカネを支払うといったことがあるが、どちらにしても契約か否かの違いがあるのみで、報酬であることに変わりはない。

 但し契約依頼ならば、例え5000円は謝礼としては常識の範囲内だとしても、報酬は報酬である以上、例え内容まで指示していなくてもカネで依頼した質問ということになり、決して「講演の時の講師謝礼と同じ」だとすることはできない。講演は自分が専門としている分野、あるいは得意としている分野の知識を改まった場所で不特定多数の人間に集まってもらって披露する、知識授受に関する精神的利益供与行為であり、その代償として報酬なり、車代なりの金銭的反対給付を受ける構図を取る。対して「質問」はカネの遣り取りの契約をして行う種類のどのような利益行為にも入れることはできないからである。

 講演で最後に聴衆に疑問点に関する質問を受ける場合があるが、質問した人間に「謝礼」という形式の報酬を支払うだろうか。やはり質問はカネの遣り取りだけではなく、その他にどのような形であっても、契約という形を取って行う種類の行為ではないからだろう。

 また、質問終了後に発生させた報酬だとしても、タウンミーティングの主催者である内閣府は運営などを依頼した業者との間で「その他の協力者謝礼金等」の項目が既に用意されていて、金額が「5000円」と書き込んだ書類に基づいて契約を交わしているのである。最初から予定していた報酬ということになる。いわば、単に相手がカネで依頼されたと思っていなかっただけのことで、質問依頼に関しては主催者側は当初から5000円というカネを担保したカネの遣り取りの契約を予定していたこととなる。この点から言えば契約依頼の「講演」と同じ構図を取るが、「質問」はカネの遣り取りだけではなく、その他どのような形であっても、契約という形を取って行う種類の行為ではないという点に関してはやはり問題が残る。

 質問者本人は報酬を予期していなかった、あるいは予定していなかったとしても、いわば主催者側が質問依頼だけして、終わってから、ご苦労様でした、受け取っておいてくださいと渡したとしても、報酬を受け取った時点で事後的にではあるが、質問者は契約行為への変更を自ら行ったことを意味する。受け取るについては、内容までの指示はなくても、質問自体を依頼されたのだからと、当然とする気持があったからに違いない。質問行為自体は本来はごく個人的な主体的行為であるはずなのに、主催者側からの依頼によってお膳立てされた、主体性から離れた従属的な質問行為となる。自分の主張が元々主催者側の主張と意見を同じくしていたとしても、依頼されて行う質問の場合は主催者側の主張に外れないように意識を働かせて言葉を選んだはずである。

 いわば主催者側・質問者側、双方共に純粋な気持からではない、最初から主張の一致を仕組んだ、あるいは主張の一致が決定していた、そのことを相互の利益とする意思疎通行為だったのである。単純に「議論の口火を切ってもらう役割を担ってもらった」だけでは片付けることはできないし、当然一般的な「講演謝礼」と同等だと比較することはできない。それを同じだと比較するのは自らの側の狡猾さ・不純さを誤魔化し正当化する巧妙なレトリックに過ぎない。

 カネで遣り取りすべきことか、すべきことではないか敏感に直感を働かせなければならない事柄に疑いの気持ちを働かすことができるだけの常識の類が作動しない感覚麻痺・不感症がそこにあったという事実。同時にそれを「問題視していない」と正当化できる、あるいは当然視できる周囲の反応としてある感覚麻痺・不感症(=拒絶反応の欠如)――これらは簡単には見逃すことができない重要な問題が含まれているのではないだろうか。

 こういった一見たいしたことがないように見えるカネで遣り取りすることの感覚麻痺・不感症、常識と把える意識が政治家・官僚の各種不正行為・コジキ行為の不正行為ともコジキ行為とも思わずに犯すことのできる初歩的な出発点、あるいはそもそもの下地となっているのではないかと思われるからだ。

 質問の内容から言葉の使い方まで指示を出した質問者に報酬は払わずに、単に「口火を切ってもらう」ためにだけ依頼した質問者にだけ報酬を支払ったという真相解明は俄かには信じがたい。

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