西武・松阪60億円、談合なしの金額

2006-11-17 02:14:07 | Weblog

 佐藤栄佐久・前福島県知事談合容疑逮捕、木村良樹・和歌山県知事談合・収賄容疑逮捕はその他その他の政治家・官僚の類似事件を引き継いでの2人の不正・コジキ行為であり、〝斬り取り強盗、武士の習い〟ならぬ、談合・裏ガネ・収賄、口利きは政治家・官僚・役人の習いとして見習った〝習い事〟でもあり、これからも後に続く政治家・官僚・役人が跡を断たずに引き継いでいく〝習い事〟となることだろう。とにかく「規律を知る凜とした国」(安倍首相)、美しい日本である。

 武士道などと武士を持ち上げる武士優越論が昨今はびこっているが、一般的にはその他大勢と同じく矛盾多き生きものでしかなかった。支配者であった武士を持ち上げることで、現代の支配者である自分たち国政政治家を持ち上げたいから、武士を〝武士道〟なる見せ掛けで枯れ木に花を咲かせようとするが如くに持ち上げる虚しい努力を行っているのだろう。

 ポスティングシステムで大リーグ入りを目指した西武の松阪投手にレッドソックスが史上最高額の60億円という値をつけた。西武がこれまで松阪に支払った8年間の報酬は14億円、勿論「特大プラスα-14億」の利益を球団は得てきているだろうが、その上に60億円、「日本の球団の年間運営費に匹敵する金額」だと新聞に出ていた。このことは少なくともその他のニューヨークヤンキースといった松阪獲得に動いた他球団との間で、日本の公共事業入札で日常茶飯事的光景となっている談合などなかったことの確実この上ない状況証拠となる金額であろう。

 尤もレッドソックスとの入団交渉が決裂ということになったら、松阪大リーグ移籍ならずで、悪い冗談へと急降下ということになりかねない。

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「国を愛する」よりも「国はどうあるべきか」

2006-11-16 02:07:20 | Weblog

 安倍首相は所信表明演説で「美しい国、日本」の意味について「文化、伝統、自然、歴史を大切にする国」だと言っている。改正教育基本法や改正憲法にも盛り込みたいとしている程にも「大切にする」だけの特別な価値があるということだろう。

 安倍首相だけではなく、自民党内の国家主義者たちは、あるいは国家主義の気のある国会議員たちは日本の「歴史・伝統・文化」の優越性を動機として「愛国心」を求めている。いわば「愛国心」と日本の「歴史・伝統・文化」は二本立ての体裁を成している。

 このことは自民党が改正憲法に盛り込むべく≪わが国の憲法として守るべき価値に関して≫の提案項目で、「新憲法は、国民主権・平和主義・基本的人権の尊重という三原則など現憲法の良いところ、すなわち人類普遍の価値を発展させつつ、現憲法の制定時に占領政策を優先した結果置き去りにされた歴史、伝統、文化に根ざしたわが国固有の価値(すなわち「国柄」)や、日本人が元来有してきた道徳心など健全な常識に基づいたものでなければならない。同時に、日本国、日本人のアイデンティティを憲法の中に見出すことができるものでなければならない。」と要求していることからも証明できる。

 日本の「歴史・伝統・文化に根ざしたわが国固有の価値(すなわち「国柄」)」が「憲法として守るべき価値」だと位置づけることができるのは、それを優越的と把えているからに他ならない。

 このような優越的観念からは当然のことだが、人間の矛盾と、人間の矛盾の先にある社会の矛盾、国家の矛盾に向けた冷静・平等な相対的・客観的な視点を些かも窺うことができない。

 そのことを裏返すなら、彼ら国家主義者たちとその同類たちは日本の「歴史・伝統・文化」に矛盾(負の歴史・伝統・文化)が存在することを些かも認めてはいない。これは日本という国と国家を優越的であることを超えて絶対化することであり、それらの絶対化は同時に国家の指導者(勿論天皇が第一番に入っている)を絶対化することでもあろう。彼らを国家主義者とする所以がここにある。安倍首相が東京裁判でA級戦犯として裁かれた戦前の日本の国家指導者を「国内法的には」との理由付けで犯罪人ではないとするのも、絶対化したい衝動が優っているからだろう。犯罪人だと認めたなら、日本の「歴史・伝統・文化」に瑕疵・欠陥があると認めることになって、「歴史・伝統・文化に根ざしたわが国固有の価値(すなわち「国柄」)」が「憲法として守るべき価値」だと無条件的に位置づけることは不可能となる。いわば彼らの論理自体が破綻を来すことになる。

 「歴史・伝統・文化」の絶対化は政治がもたらした生活格差といった現在の矛盾(=政治そのものの矛盾)を隠す役目をも果たす。「歴史・伝統・文化」の優越化・絶対化によって、そのように素晴しい日本の「歴史・伝統・文化」が矛盾をもたらすはずはなく、〝日本的なるもの〟以外に原因を求めることをするからである。それは「占領政策を優先した結果」であり、安倍首相の言う「戦後レジーム」であろう。

 自国の「歴史・伝統・文化」に優越的絶対性を持たせた「愛国心」は常に国家主義の危険を伴う。あるいは自民族優越意識の芽を内に忍ばせることになる。
 
 明治・大正・昭和、そして戦後も暫くの間は貧しい農民は人間としての扱いを受けてこなかったが、特に江戸時代とそれを遡る封建制度を国家体制とした時代に於いては最低の扱いを常識とする社会の矛盾を日本の「歴史・伝統・文化」は抱えてきた。百姓たちが年貢で痛めつけられ、大飢饉で何万何十万と餓死者が出たときでも、武士からは餓死者を出さなかったという、まさに自己自身のために存在したのではなく、武士を生かすために存在した矛盾は歴史の事実として存在する。このような歴史的実態も「日本人が元来有してきた道徳心」からの成果なのだろう。

 これらの矛盾を一切捨象して、「愛国心」意識と「歴史・伝統・文化」の優越的絶対性を相互に響かせようと企む。このことはまた日本という国の絶対化であり、自民族の優越化・絶対化以外の何ものでもない。

 安倍晋三や中川昭一のような国民それぞれの個人性に自信を持てない内容空疎な政治家・人間程、全体的な形式でしかない国家を絶対化したい衝動を抱える。人間性ではなく、個人的な形式でしかない家柄や血筋を誇るようにである。

 「歴史・伝統・文化」を誇り、国家を誇ることで日本人としての誇りと自信を持たせようとするのだが、例えそう仕向けることができたとしても、カラ威張りと同じく実質的な能力性を備えない空虚な誇りと自信しか生まれないだろう。カラ威張りやカラ元気は戦前の大日本帝国軍隊の天皇の兵士のように緒戦にのみ通用して長続きしない痩せ馬の先っ走りで終わるものと相場は決まっている。

 「歴史・伝統・文化」の実態を美化する空虚を侵すことよりも、「歴史・伝統・文化」の一長一短を正直に客観視して、学ぶべき点と改めるべき点をそれぞれ教訓とすべく相対化し、「国はどうあるべきか」の参考料としていくことの方が遥かに懸命な「歴史・伝統・文化」の受け止め方ではないだろうか。

 安倍晋三は「保守主義」について、「現在と未来は勿論、過去に生きた人々に対しても責任を負うもの」とした上で、「百年・千年、日本の長い歴史の中で生まれた伝統が、どのように守られてきたのかということに対して、いつも賢明な認識を持っていくこと」が「保守の精神」だと定義づけているそうだが、現在に生きる日本人が「過去に生きた人々に対しても責任を負うもの」とするなら、「百年・千年、日本の長い歴史の中で生まれた伝統が、どのように守られてきたのかということに対して、いつも賢明な認識を持っていくこと」よりも、「現在と未来」に向けて正負を含めた日本の「歴史・伝統・文化」を如何に生かしていくかの知恵を働かす(=「認識を持っていく」)ことのほうは遥かに「賢明」と言える。

 大体が戦前の歴史認識では中国・韓国に対しては、「過去よりも未来志向」と言いながら、国内的には日本の「歴史・伝統・文化」を掲げて〝過去志向〟(「どのように守られてきたのか」)を演ずる二重基準の矛盾を平気で犯している。

 「国はどうあるべきか」への思索は同時並行的に規範意識の育みにもつながっていく。〝国〟(国家)は社会とその成員たる人間を含むから、「国はどうあるべきか」は「社会はどうあるべきか」、「人間はどうあるべきか」に必然的につながっていき、そのようなありよう(=あるべき存在様式)への問いかけは否応もなしに規範意識につながらざるを得ないからである。

 日本の「歴史・伝統・文化」を誇り、「愛国心」を煽り立て、その上安倍首相が「自由な社会を基本とし、規律を知る凜とした国」といった具体性のないスローガンでしかない抽象論を念仏のようにいくら声高に唱えようとも、「規律」も何も生まれはしない。

 すべきことは過去の存在様式よりも、それを現在と未来に反射させて「国はどうあるべきか」の存在様式を問うことであり、常に問い続ける姿勢(=「認識を持っていく」こと)をこそを優先させるべきであろう。「愛国心」云々よりも、より価値のある課題であると思うのだが。

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自民一極集中が政治腐敗の根源

2006-11-14 05:20:20 | Weblog

 前福島県知事佐藤栄佐久は1988年9月に福島県知事選当選から、実弟の県政に関わる汚職事件の道義的責任を取って今年2006年9月27日に辞職し、10月に入って本人も関係していた容疑で逮捕されたが、5期連続当選の長期に亘った末の破局である。表面的に見れば、長期権力は腐敗するの譬えを見事に実践した形となるのだが、実際はそうはいかないところに難しい問題がある。

 先月の10月28日土曜日だと思ったが、テレビで民主党議員が多選禁止を制度化すべきだと主張していたのに対して、自民党の桝添要一が、民意で選ばれるのであって、法律で禁止となると、民意無視になる。誰を選ぶのかは民意が決めることで、民意にも責任がある。地方へ行くと10年とか15年とか町長をやっていて、あの人でなければダメだというケースもあるのだから、一律的に法律で禁止することには反対だ、といったことを喋って法制化反対・民意重視論をぶち上げていた。

一方「連続5期を務めた前の福島県知事が逮捕されるなど、一人の知事が何度も選挙で選ばれることへの批判が強まっていることについて、自民党・中川幹事長は1日(11月)、来週にも党で一定の結論を出す考えを示した。
 自民党では、知事の任期を3期までに法律で制限することや、4期以上を目指す候補には党の推薦を出さないなどの案が出ている」と11月2日(06年)の日テレ24時間テレビが伝えていた。

 桝添の言う「民意」とはどのようなものだろうか。辞書で調べてみると、「国民の意思。人民の意志」(『大辞林』三省堂)と出ている。国や社会の形成は政治家によって主導される。だが、その政治家を政治家足らしめるのは国民の選挙を通してである。いわば桝添が言うように「民意」が政治家を決定する。となると、基本的には国や社会の姿は民意をスタートラインとして民意の選択を受けた政治家が官僚や学者・知識人といった協力者を得て民意を形にしていくと言える。政治家という仲介者が存在するものの、国や社会を形成するそもそもの原動力は民意であろう。民意に反する国の形・社会の形であったなら、そのような形を取った責任のある政治家を次の選挙で落選させる民意の働かせによって排斥すればいい。

 政治家は党派の政策に従って行動する。あるいは影響を受けて行動する。党派とは政策利害を同じくする政治家同士が形成する集団であり、その成員たる個々の政治家は集団の制約を受けるからである。政治家を政治家足らしめるのが民意であるなら、党派の選択を俯瞰することによって、逆に民意の方向を知ることができる。

 この原理を自民党296議席・公明党31議席(与党合計327議席)・民主党113議席(前回減64議席)といった与党圧勝の絶対安定多数の形で表された昨年05年の9月11日総選挙に当てはめて民意を解くと、是非は別として、この選挙結果は小泉構造改革に対する国民の信任の形で表された民意であろう。民意は自民党政権の小泉構造改革に絶対的信頼を寄せた。そのことは小泉内閣の支持率の推移によっても証明されている。

 最初に挙げた佐藤栄佐久前福島県知事の場合の選挙に関する民意はそもそもは自民党参議院議員からの転出ということで、自民党という党派の選択から出発して、5選という同一人物の当選の積み重ねの形で表されたものだろう。当然最大公約数の民意は県知事にふさわしいと見て5期県政を託したということだろうが、例え無所属を名乗っていたとしても、基本は自民党という党派への信頼が民意選択の土台を成していたに違いない。

 対して託された側は、「90年代初めの時期までは、仙台市を拠点とするゼネコン東北支店の談合組織に対し、同県(福島県)発注工事の受注業者を指名する、前知事自身の意向が伝えられ」(『佐藤前知事、93年まで「天の声」 汚職事件機に中止』/06.10.25.08:14.asahi.com)ていたが、「93年に特捜部がゼネコン汚職を摘発し、当時の仙台市長や宮城県知事などを次々と逮捕」され、「この事件をきっかけに、福島県では前知事による『天の声』が出されることがなくなった。代わりに、実弟の前社長が、ゼネコンの受注調整に介入し、発言力を強めていったという」(同記事)から、1988年に初当選して1期目終了の1992年前後から談合に関わる『天の声』を発していたことになる。それとも当選早々からだろうか。

 以上の経緯は前知事は長期政権とまで行かない初当選から早い段階で民意を裏切っていたことを証明している。長期権力は腐敗するの譬えを民意が選挙に生かしていたとしても、前知事の腐敗を途中で断ち切ることはできただろうが、腐敗の発生そのものは防げなかった。

 佐藤栄佐久が県知事選に初立候補した時点で有権者に人物を見る目がなかったというわけではない。その前の経歴は地元の福島県出身、東大卒で日本商工会議所副会頭を務め、1983年参議院に当選、参議院議員からの転進で知事選に立候補しているのである。どこから見ても非の打ち所はない立派な経歴の持ち主に見える。自民党の要職にある国会議員も選挙応援に駆けつけただろう。その上民意が知るよしもない暗い場所で政・官の犯罪はこっそりと隠れて行われる。佐藤栄佐久を取り巻く政治家・役人はその人となりを直接的に知ることができても、有権者はマスコミの報道で初めて実際の人柄を知る。人柄など人前ではいくらでも装えるからだ。だからこそ、民意は党派を選択の基準とする。人物で決めるなどという基準は、余程身近に接した人間でなければできない芸当だろう。長年結婚生活を続けていながら、夫が毎晩遅くまで残業していると思っていたのが、コインロッカーに預けてある女性の衣装を着て夜な夜なハーフレディの店に出入りしていたといった隠れた面に長年気づかないでいるといったこともあるくらいである。

 長期政権でなくても腐敗するとなると、すべての政治家を疑ってかかることを習慣としなければならない。日本人性善説ならぬ、政治家性悪説でかかったほうが、無難ということになる。その〝無難〟を形にするとしたら、4年ごとに他の候補者にクビをすげ替えていくということだろう。任期終了ごとに常に政権交代を心掛ける以外に少なくとも4年以上の政治腐敗は防ぐ方法がないということになる。

 だが、例えそのような基準で以てクビのすげ替えを行ったとしても、民意は党派を基準とする選択を行わざるを得ないに違いない。前科がなければ、その人物の犯罪性を知ることができないからだし、基準は党派が掲げる政策だろうからである。

 党派選択を国政で見てみると、少なくとも国政に於いては大きな政治転換点に遭遇するたびに変化を選択した場合の生活を脅かす恐れから生活保守主義の穴熊と化して、民意は自民党政権維持という常に無難な道を取る党派選択できた。

 では国政を離れて地方政治に於いてはどのような党派選択が行われているのだろうか。選択状況を俯瞰することによって、逆に民意の方向を探ることができる。

 中央集権国家の日本に於いては、いわば地方が中央に対して独立していない、独立とは反対の従属している社会に於いては、国政に於ける戦後以来の自民党一党支配状態を受け継いで自民党国会議員の数に対応して地方に向かう程に逆ピラミッドの人数を取るのが当然の姿であろう。そのような形を取らないとしたら、中央集権国家と言えなくなるし、小泉自民党が三位一体改革と称して地方の中央からの独立を掲げたそもそもの意味まで失う。

 ということは民意自体が中央集権的であることを証明している。日本人が上が下を従わせ、下が上に従う権威主義を行動様式としていることからの民意が選択した中央集権制ということだろう。

 総務省調査による平成16年12月31日現在在職する者に関わる各々の立候補の届出時の県知事の所属党派を見てみると、全員がどの政党にも属さない無所属となっている。佐藤栄佐久前福島県知事も無所属の立候補であった。

 実際にどの政党にも属さない存在であったなら、日本という全体社会と各地方社会は政治的に何らつながりのない二重構造の政治社会ということになり、中央集権制を裏切る政治体制となる。本来は自民党に所属していたか、自民党の推薦を受けて立候補・当選した保守系が多数を占める無所属であろう。そうであることによって国政の自民党支配による中央集権制は整合性を保つことが可能となる。

 このことは民主党以下の野党の地方に於ける人材不足から選択せざるを得ない相乗りの場合は自民党を名乗らないで貰った方が都合がよいことと、立候補者にしても広く県民の支持を受けたという形を取るために自民党の名前を隠した方が都合がいい双方の利害の一致が無所属を名乗るといった傾向を生じせしめている理由の一つでもあるに違いない。佐藤栄佐久前知事の汚職辞任を受けた出直し選挙でも当選した佐藤氏は無所属立候補であるが、実質的には民主党の支援を受けた党派候補である。「民主、社民両党からの推薦を受けたが、『県民党』を強調し、『党派色を薄める』という戦略をとった」(06.11.13.「朝日」夕刊『党派色薄め「脱よどみ」 福島県知事選))と広く県民の支持を受ける形を取っているが、有権者は佐藤前知事の汚職に対する自民党をも含めた懲罰から、対立する民主党という党派を選択した選挙結果であるはずである。

 一方県議会議員の所属党派を同じ総務省調査で見てみると、自民党が最も多い1,403人(49.8%)、次いで無所属の699人(24.8%)、民主党の227人(8.1%)、公明党の203人(7.2%)、日本共産党の127人(4.5%)、社会民主党の74人(2.6%)となっている。

 但し、中央の勢力分布と比較対照して中央集権制の力学を当てはめた場合、ここでの無所属もその圧倒的多数は保守系と見なければならない。民主党以下の野党としたら、地方に於ける自己の勢力を誇示するためには少しでも多くそれぞれの政党名を名乗る必要があるだろうから、無所属を名乗る場合は例外といった事情があっての無所属であろう。

 同じ調査による市区町村長の党派は無所属が2,936人(99.9%)と圧倒的に多く、党派に所属しているのはたったの3人(自由民主党2人、諸派1人)のみである。明らかに自民党隠しが一般化していると言える。

 次いで党派別市区町村議会議員数を挙げてみると、次のようになっている。

 ①無所属43,473人(80.3%)
 ②日本共産党3,865人(7.1%)
 ③公明党3,161人(5.8%)
 ④自由民主党2,018人(3.7%)
 ⑤民主党749人(1.4%)
 ⑥社民党559人(1.0%)

 2位以下が10%以内にとどまっているのに対して、1位の無所属議員が80.3%という高い確率を占めている。これは県知事や市区町村長の所属党派分布に対応する趨勢であろう。

 県議会議員のみ自民党所属が第1位を占めるのは、これはあくまでも推測だが、一つには県会議員を国会議員へのステップと考えているからではないだろうか。地元選出の自民党国会議員の系列に入り、その庇護を受けて上へのチャンスを窺うには自民党に所属し、自民党を名乗った方が都合がいいだろうからである。

 二つ目は地元で勢力を張るには同じ地元選出の自民党国会議員の影響力を利用する都合上、(悪く言えば虎の威を借りる都合上)同じ自民党に所属し、自民党を名乗る必要が生じるからであろう。

 一方党派別市区町村議会議員数に於ける無所属80.3%の独占は市区町村議員止まりを人生の目標としている政治家が多数を占める結果ではないだろうか。しかし隠れ自民党でありながら無所属という曖昧化は殊更な敬語の多用で自己を装うのと同じレベルの奇麗事に思えて仕方がない。

 地方に於けるこのような自民党支配は政治家を政治家足らしめるのは選挙を通した民意の結果でもあるものだから、民意が選択した自民党長期支配であり、民意がそのような支配状況を許していることを示している。と言うことは、民意が国政に於けるのと同様に地方に於いても自民党長期支配の現状維持を望んでいるとも言える。この全体性は権威主義の力学を受けた中央集権制の当然の構図としてあるものだろ。

 このように民意を通して国政に於ける自民党一党独裁と同じく地方に於いても隠れ自民党たる無所属を含めて自民党一党独裁状態となっているとすると、自民党が「知事の任期を3期までに法律で制限することや、4期以上を目指す候補には党の推薦を出さない」を例え党の決定事項としたとしても、地方に占める無所属の隠れ自民党の意志が中央の「推薦を出さない」意志に反して「4期以上を目指す候補」を支持したなら、中央の「推薦を出さない」は単なる形式で終わる。形式で終わらせないためには自民党が党推薦として別の候補を立てることをしなければならないだろう。多選知事が自民党中央に反旗を翻して地元の県会議員以下の系列議員と結んで立候補を目論んだ場合、9・11総選挙のように刺客の形で別の候補を立てない以上、多選は阻止できまい。

 今までのケースから言ったなら、民意が働いて多選を覆すのは今回の福島県知事選(06.11.12)のように前知事が汚職を働いて、そのことへの拒絶反応から対立する党派への選択へと民意が働いたといった場合が殆どであろう。だが、この手の多選反対の民意は汚職その他の犯罪といった敵失に対する懲罰を主とした事後選択であって、他党派への自律的・主体的に行った予防的な事前選択ではない。

 ただ確実に言えることは、民意が地方に亘って自民党支配を選択していたとしても、それが敵失を条件とした事後選択の場合は自民党支配の選択を覆す民意を取ることもあり得るという事実である。その事実を敵失をきっかけとするのではなく、予防的な事前選択で示すことができるようになったとき、民意は自民党長期支配の現状維持を離れて、政治の発展を望む方向(中央集権からの離脱をも意味する)に自律的・主体性的に行動できるようになるのではないだろうか。

 自民党支配の現状維持を離れることが政治の発展を望む方向だとするのは、自民党支配という戦後から現在に亘る長期性が長期政権は腐敗するという一面的真理を体現しているからに他ならない。地方政治家の跡を絶たない口利き・談合、視察と称した観光旅行、役人に頼った政策立案・議会答弁、そのような政治家の姿勢が官僚・役人を管理・監督する立場にあるにも関わらず、その能力を欠如させるに至っているそもそもの原因であり、それが地方役人の、中央官僚の腐敗にも対応しているカラ出張・カラ手当・カラ給与、あるいは裏ガネを原資とした飲み食い・私腹行為、さらにコスト意識の欠如・非能率・予算のムダ遣い、天下り等々の跡を絶たない腐敗を生み出している素因でもあろう。

 このような腐敗状況は全国的な自民長期支配の一側面であることは誰も否定できまい。殆どの地方が財政赤字を抱えていることが、腐敗が全国的規模であることを証明し、自民支配が全国に亘っていることと美しいばかりに見事に合致する。

 民意は自民党という党派を全国に亘って選択することによって、政治家・官僚・役人の腐敗の全国的な生み出しをも手助けしているとも言える。政治家を政治家足らしめているのは民意だからである。

 構造改革と称して地方の独立を果たしたとしても、民意自体が地方の長期に亘る自民党支配の打破を選択しなければ、腐敗状況はさして変わらないだろう

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安倍首相が言うが如く「基本法とは別問題」ではない

2006-11-12 07:52:45 | Weblog

 タウンミーティングでの「やらせ質問」問題で、安倍首相は「教育基本法の問題と、このタウンミーティングの問題は別の問題だ。教育改革を進めていく上においても、速やかにこの教育基本法の成立を図りたいと思う」(06.11.11「朝日」朝刊『首相「教育基本法とは別問題」』)と述べたという。
 
 同じ記事で二階俊博国会対策委員長が「教育基本法を60年ぶりに改正しようとしている。(それに比べ)タウンミーティングでやらせがあったなんて、やる方もやる方だが、誠につまらん」と言及、「いつまでも慎重審議に引きずられていては政治の生産性が上がらない」(同記事)と国会審議と「やらせ」とはやはり別問題だと主張したという。

 そもそもタウンミーティングは「『積極的な国民との対話を通じて新しい社会、新しい未来を創造していく』(小泉首相の所信表明演説)」(06.11.10「朝日」朝刊『時時刻刻 「やらせ」ウラに文科省』)という美しい理念・目標を掲げて開始されたのだという。

 理念・目標を具体的に目に見える形で示すべく、「小泉内閣の閣僚と国民の直接対話」と「あなたの意見が日本の未来を創ります」とのスローガンを「演壇の両脇のスクリーンに映し出し」(同記事)て、その趣旨の会場であることを知らしめていたというから、国民意見との「直接対話」とそれを反映させた「未来創造」への確立を目指すという民主主義の発展・成熟をも意図していたのだろう。

 ところが、広く国民に向けて宣言していいたことと実際に行っていたことが180度違っていた。それも民主主義に反する手を使った180度の違いである。民主主義の発展・成熟の方向へではなく、退行、あるいは現状維持を成果としたに過ぎなかった。

 いわば掲げた理念を実現させるだけの力・能力がなかったから、インチキを行って見せかけの「直接対話」とそのような見せかけからは到底到達不可能な「未来創造」なる成熟した民主主義を演出したということだろう。「朝日」の記事はタウンミーティングの「過去はヤジで荒れたり、だれも手を挙げず、見かねた国会議員が発言したりする」例があったと書いているが、と言うことは民主主義を行う力・能力の欠如は国民の側の問題となる。但し、国会審議での議員同士のヤジの横行を考えると、単に同じことをしていることになり、国民は国会議員と同じ穴のムジに位置しているだけのことで、国民の側にのみ責任を負わせることはできない、政治家、国民とも同罪となる。

 権威主義を行動様式としてきて、上(=国)からの指示・命令で下(=国民)を動かしてきた、あるいは下(=国民)が上(=国)からの指示・命令に従う意思伝達の構造が国民の議論能力の成熟を阻み、怒鳴りあったりヤジったりのシーンを生み出している。

 例えそうであっても、タウンミーティングで国民の意見を聞いて、その意見が法案に反映されるという事例が頻繁に示されるようであったなら、事情は違ってくるに違いない。先ず最初に首相の政策があって、それに従って関係する閣僚と政権党、さらに所管の官僚、あるいは諮問委員会の民間議員が案を出し合って細かい部分を決定していくプロセスを踏む法案作成となっていて、最初から違う意見の入り込む余地はない構造となっているから、ヤジや誰も手を挙げないという事態が生じるのではないだろうか。

 沖縄の基地問題でも、地元の政策が国の政策と異なっていても、地元が満足のいく形で国の政策に入り込む余地を見つけ出せないでいる。国の政策とは異なる地元の意見や国民の意見を取り入れていく、そこまでいかなくても、双方の意見に折り合いをつけて妥協点を見い出していく政策決定の構造になっていたら、国民の側も意を強くして活発に意見を述べるようになるだろう。いわば下(=国民)が上(=国)からの指示・命令に従う意思伝達の行動様式からの脱却である。しかし、現実はそうはなっていない。殆どの場合、先に国の決定がありきであって、国民が従わらされる関係にある。

 官僚側は正常な状態で議論を活性化させるために質問者と質問内容を予め指定したと言っているが、そのことが民主主義を裏切り、国民を騙す〝言論操作〟に当たると気づかない幼稚な民主主義意識しかなかった。時間をかけて国民の民主主義意識を育て、真正な形でスローガン通りの「直接対話」と「未来創造」の確立を図るだけの根気強い意志を示すことができなかった。

 このようにタウンミーティングの〝ヤラセ質問〟は民主主義に関わる様々な問題を含んでいる。それを安倍首相も二階国会対策委員長もたいした問題でないように受け止めている。ヤラセをヤラセとしか表面的に把握できない単純解釈からきているのだろう。
 
 政治の質の問題、民主主義の質の問題であって、〝質〟が問われている。教育基本法改正案の文言がいくら美しく、また教育を通して〝美しい国〟を目指す理念をどのくらい盛り込んでいようと、タウンミーティングで掲げ、目標とした「積極的な国民との対話を通じて新しい社会、新しい未来を創造していく」、あるいは「閣僚と国民の直接対話」、「あなたの意見が日本の未来を創ります」といったスローガンと会場での実際の姿とのかけ離れた民主主義の実態とのお粗末な落差・懸隔が教育基本法改正案に盛り込んだ理念と教育現場で展開される教育の実態にそっくりのそまま移し変えられて、両者の間にどうしようもない落差・懸隔をつくり出さない保証はない。

 その厳然たる証拠が現行基本法の理念とそれが些かも生かされていない現在の日本の荒廃した、あるいは学歴獲得や就職いった実利だけを目的とした偏った教育の姿との落差・懸隔であろう。

 だからこそ、改正するのだと言うだろうが、教育基本法改正に関わる国民の意見を問うタウンミーティングでの程度の低い愚かしいばかりの誤魔化しの民主主義を教育行政を預かる張本人たる文科省と政策の中心を担う内閣府が行ったのである。同じことの繰返しに終わる可能性も否定できないわけである。安倍首相が言うように決して「基本法とは別問題」ではない。

 日本の政治の質が低劣で、民主主義が発展途上であったなら、教育憲法とも言われている教育基本法だからと美しい理念を盛り込もうといくら気張ったとしても、内容空疎を内に隠した単なるもっともらしげな美しい言葉の羅列を正体とするだけであろう。現行教育基本法の理念が現実の教育に生かすことができず、単なる言葉の羅列に終わっている現実は日本の政治の質の低さがかつての文部省、あるいは現在の文科省の教育行政にも反映した状況としてあるものであろう。他に説明のつく原因があるのだろうか。

 政治の質の問題ではない、日本の教育の矛盾点は教員の質の問題だと言う意見があるが、では官僚・役人の類の質の低さ、好き勝手な振舞いはどう説明がつくのだろうか。質の悪さ・低さは教員だけの問題ではない。管理監督すべき立場にある政治家・国会議員の不行き届き、管理能力の問題でもあろう。ということは教員も官僚・役人の類も、政治家も質の悪さ・低さの点で同等の関係にあり、結果として日本の政治の質の問題となっていく。

 二階俊博なる自民党議員は国会対策委員長だか何だか知らないが、「教育基本法を60年ぶりに改正しようとしている」などと「60年ぶり」がさもたいしたことのように言っているが、「60年ぶり」だろうが、100年ぶりだろうが、法律はいくらでも制定できるが、その実効性は改正年数が決定要件ではないぐらい理解する頭を持っていないのだろうか。

 このような政治家の程度の低さも日本の政治の質の低さの反映として現れている政治家像なのだろう。テレビ局がお笑い芸人を使ってやるのではない、民主主義の質が問われる「ヤラセ」は決して「つまらん」問題ではない。

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安倍・中川・麻生の核議論の矛盾を衝く

2006-11-11 05:21:33 | Weblog

 06年10月30日記事「核保有議論をする資格」に引き続いて 

 10月15日テレビ朝日の「サンデーモーニング」
中川氏「非核三原則は守るが議論はしないといけない。重要な戦後の約束を見直す必要があるのかどうか、議論を尽くす必要がある」

 「見直す必要」があるとすることのできる有資格者はあくまでも核保有論者か、「非核三原則」堅持に疑問を持つようになり、「持ち込ませず」の変更等、何らかの形で保有の必要性を感じるに至った者に限るだろう。当然、「「非核三原則は守る」としての立場を前提とした「議論」の促進(「重要な戦後の約束を見直す必要があるのかどうか、尽くす必要」)は矛盾が生じる。

 「議論」を促進して、世論が核保有へ動いたとしても、「非核三原則は守」ります。「政府の非核三原則堅持は何ら変更はございません」では、何のための議論だったのか意味を失う。意味を失わせないためには、世論に早々に従って「非核三原則」を放棄しなければならない。そういう目的を持った「議論を尽くす必要」なのだろう。そのような狙いを持ってこそ、発言そのものの矛盾が解消可能となる。「非核三原則は守る」が単なるタテマエで、核保有への衝動を内心に抱えているといったところが実態なのだろう。正直に「私自身の考えでは非核三原則は時代錯誤と確信している。重要な戦後の約束ではあるが、見直す必要があるのではないか。どうするかの議論を尽くす必要がある」とするのが正直というものだろう。

 中川昭一の従軍慰安婦否定や強制連行否定、麻生の「創氏改名は韓国人が自分たちから求めたものだ」といったこれまでの歴史認識発言からしたら、正直さを求めても始まらないことは分かってはいる。

 中川氏の発言を受けて麻生外相は「非核三原則は政府の立場として変わらないが」、「この話をまったくしていないのは多分日本自身であり、他の国はみんなしているのが現実だ。隣の国が持つとなったときに、一つの考え方としていろいろな議論をしておくのは大事だ」とか、「日本は言論統制された国ではない。言論の自由を封殺することにくみしないという以上に明確な答えはない」、あるいは「北東アジアの核の状況は一転した。持たないなら持たないで、もう一回きちんと論議することも止めるのは言論封殺だ」と述べているが、中川昭一と同じ論理構成で、当然前後に矛盾を抱えている。

 一見まっとうなことを言っているようには聞こえるその主張を一言で言い返すなら、「非核三原則を守るなら、なぜ議論なのだ」である。国民の中から核保有論議が生じるというならまだしも、「非核三原則は政府の立場として変わらない」と宣言している政府に関係する人間自らが「議論をしておくのは大事だ」と主導する矛盾は、そこに何らかの作為がなければ説明つかない。

 ――「北東アジアの核の状況は一転した。このような時代の変化に非核三原則の堅持は非現実的なものとなっていないだろうか。持たないなら持たないで、もう一回きちんと論議する必要があるのではないか」としたなら、何ら矛盾も誤魔化しもない。例えば自民党の笹川尭党紀委員長が11月7日(06年)の党役員連絡会で「非核3原則のうち『持ち込ませず』を堅持していて日本の安全が守れるのか議論が出てくる」と発言したそうだが、本人は「私は非核三原則論者だが」とか、「日本は非核三原則を今後とも守っていくべきだが」とは言っていない。頭から「非核三原則」の時代的な有効性を問い質していて、どこにも矛盾も作為も感じさせない。中川氏も麻生氏も、「議論」をすることが正しいとするなら、笹川氏を見習って、「非核三原則」自体の有効性に言及し、その上で「議論」を促すべきだろう。安倍首相の消費税隠しと同様に狡猾である。「言論統制」云々、「言論封殺」云々は一切関係ない。〝言論の自由〟を単に核保有衝動を正当化させるための方便に使っているだけである。

 中川・麻生両氏の発言が〝保有〟に向けた「核議論」であることを押さえておかなければならない。

 安倍首相の民主党代表小沢一郎との党首討論(06.11.8)での答弁を新聞・テレビから纏めてみると、
 「非核三原則という政府の原則は、今後とも維持していく。これについてはいささかの変更もない」

 これは中川・麻生と同じ前提に立つ。

 「閣内、政府、党の正式な機関で核を保有する可能性を議論することはない。安全保障の議論で触れたというので大問題になるのはおかしい。勿論、誤解があってはならない」
 「核をめぐる論議について抑止はどうあるべきかという議論をする、またそういう議論に対する論評はあり得る」
 「核をめぐる議論と、核武装をすることについての議論は別だ。外相は核をめぐる議論についての評論をしたということではないか」
 「(核保有が)政治的、軍事的に意味がないということ自体も議論といえば議論になる。その議論すらいけないというのは行き過ぎではないか。大切なことは政策論として、非核三原則について国是と言われている。原則を守るかどうかについて、完全に我々と同じ考えであれば、同じ考えであり、意見は一致していると思う」――

 「非核三原則という政府の原則は、今後とも維持していく」とするなら、「安全保障の議論」は「非核三原則」を基本原則として展開されなければならない。「非核三原則という政府の原則」の上に「安全保障の議論」を構築していかなければならないし、今までもそうしてきているはずである。「非核三原則」堅持を原則としながら、核ミサイルの配備を想定した「安全保障の議論」を行ったのでは矛盾することになる。あくまでも米軍の支援と日本の通常兵器
を基本とした防衛体制及び外交術で日本の主権と国土、国民の生命財産を守っていくかを「安全保障の議論で触れる」べきである。ところが中川・麻生両氏は「核を保有する可能性」を探る議論を促したもので、その「可能性」を含めて「安全保障の議論で触れた」のであって、当然「非核三原則」姿勢に矛盾していることになる。

 「核をめぐる論議について抑止はどうあるべきかという議論をする、またそういう議論に対する論評はあり得る」とするのは、中川・麻生両氏の発言を「核を保有する可能性」探る議論(〝核保有〟に向けた「核議論」)と見ていないことになる。安倍首相の解釈に問題があるのか、当方の解釈が的外れなのか、いずれかであろう。

 但し安倍首相にしても中川昭一にしても、核保有に向けた衝動を内に隠し持っているのは事実である。中川氏は「憲法の政府解釈では、必要最小限の軍備の中には核も入るとしている。その片方で非核三原則がある。現実の政策としては核は持たないということになるが、憲法上は持つことができると政府は言っている」と述べている。この発言に対して安倍首相は「法理論上の議論として言及したものと思う」と擁護しているが、首相自身も同じ内容の発言をしている。

 「我が国が自衛のための必要最小限度を超えない実力を保持するのは憲法によって禁止されていない。そのような限度にとどまるものである限り、核兵器であると通常兵器であるとを問わず、これを保有することは憲法の禁ずるところではない」

 核保有は憲法上可能であると言及すること自体が核保有を安全保障上の選択肢の一つとしていることの証明であろう。非核三原則を絶対としている人間は例え憲法上保有可能でも、言及はしないはずである。

 但し安倍氏にしても中川氏にしても「法理論上の議論として言及したもの」と逃げの手を打つだろうが、「非核三原則」堅持は日本の安全保障の前提であり、また現在のところ結論でもある。そのような〝前提〟と〝結論〟の間に「法理論上の議論として」は「核兵器であると通常兵器であるとを問わず、これを保有することは憲法の禁ずるところではない」とする主張の展開は入り込む余地はないはずである。ないにも関わらず、入り込ませていること自体が、やはり核保有衝動を抱えていることの証明としなければならない。

 となると、安倍・中川・麻生三氏の「核をめぐる議論と、核武装をすることについての議論は別」とすることはできないことになる。三氏とも「核武装をすることについての議論」に向けた「核をめぐる議論」となっている。そういう構図を取った議論となっている。

 「(核保有が)政治的、軍事的に意味がないということ自体も議論といえば議論になる。その議論すらいけないというのは行き過ぎではないか」。

 これは小沢民主党代表の「核武装は政治的にも軍事的にも日本にプラスではない。発言を慎むよう指示すべきだ」と迫ったのに対する首相の答弁であるが、自分たちの核保有衝動を韜晦し、誤魔化すレトリック以外の何ものでもない。「非核三原則」を絶対とするなら、「(核保有が)政治的、軍事的に意味がないという」方向に向けた議論となり、逆に「(核保有が)政治的、軍事的に意味がないという」論拠を自らのものとすることによって、「非核三原則」を絶対とする姿勢に至ることが可能事項となる。この双方向性を獲得し得て、初めて両者は矛盾とは無縁の整合性を持ち得る。

 中川、麻生、首相自身の三氏の主張はそのような双方向性を備えてはいない。双方向性の「議論」が求められていて、そのことを問題としているのであって、双方向性の「議論すらいけないと」しているわけではない。それを「いけないというのは行き過ぎではないのか」と誤魔化すレトリックを展開しているにすぎない。

 三氏とも、核保有衝動の隠蔽・抑圧が矛盾と誤魔化しの出発点となっている。

 中国は核弾頭ミサイルを10発も日本に向けている、北朝鮮が7発のミサイル発射実験に続き、核実験を行った、日本は中国、ロシア、北朝鮮と核保有国の脅威に晒される状況となったのである。そういった現実に対して非核三原則は有効であり得るのかとする議論がある。

 だが、これは表面的な見方に過ぎない。中国、ロシアが日本に核を使用するだろうか。その場合は中国にしてもロシアにしても自らがダメージを背負うことになる。日本の侵略戦争と同じく負の歴史として人類史に記憶されることになるだろう。北朝鮮は核を使用する可能性はある。しかし核に対して日本が核で対抗した場合、十全に正当性を獲得し得るかどうかが問題となる。

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国を愛してどうする

2006-11-09 06:12:06 | Weblog

 「愛国心」は行動基準足り得ない

 人間は会社のため、生活のため、家族のため、自分のため、愛する人のためをそれぞれに行動基準とする。一般的には「国のため」を行動基準とはしない。「国」の利益を考えて行動するのは、戦争かスポーツで日本を代表して世界のチームを相手に戦うときぐらいだろう。日本人なら否応もなしに日本という国を背負うことになるからだ。戦争では「国のために」を一義的とするだろうが、スポーツの場合は二義的であろう。

 しかしそのようなスポーツ選手であっても、国内で日本の一チームの選手として他の日本のチームと試合するとき、日本という国を背負って「国のため」に試合する選手はいないだろう。自分が所属するチームを背負って、と同時に家族や愛する人を背負って、チームの勝利と自己活躍という足跡(=成績)を残すために戦うに違いない。

 自衛隊員にしても、日本の主権と国土を軍事の面から守るための訓練を日頃から励んでいるだろうが、巨大地震等の自然災害の発生で緊急出動した場合、日本という国を背負って「国のため」に救助活動するだろうか。地域被災者の救助、復旧のためを目的のすべてとするに違いない。

 それが「国のため」の行動であったなら、いわば「国のため」が直接的な目的対象であったなら、〝被災者のため〟は間接的な目的対象と化す。あるいは被災者救助は「国のため」の方便に位置づけられることになる。

 「国のため」ではなく、あくまでも被災者の救助を一義的な目的として、それが結果として国家の目的(=国民の生命・財産の保全)に添うというプロセスを取るべきだろう。

 こうも言える。国民の生命・財産の保全は政府の役目であり、それを自衛隊及び自衛隊員の活動を通して企画し、自衛隊及び自衛隊員の直接的・一義的役目は被災者生命の救助そのものにある。そうすることが人間の自然な感情でもあるだろう。「俺は国民の生命・財産を守るという国の役目を果たすために救助に来ている」としたら、奇妙なことになる。

 一般的には「国のため」は常に基本的であることから離れた機会的な行動原理としかなり得ないと言うことである。

 人間、生命の基本は自己である。自己が成り立たなければ、社会も国家もない。無意味と化す。この世に生まれない子供にとっては、社会も国家も存在しないのと同じである。病苦、あるいは生活苦から自殺を決意している人間にとって、社会も国家ももはや意味を成さない存在となる。

 自己が成り立ってこそ、社会は意味を持ち、国家も意味を持つ。そのためにこそ人間は自己利害の生きものであることを生存競争に於ける基本的ルール・基本的行動原理とするに至っている。

 だが人間は独りで生存できるわけではなく、常に何らかの社会を形成し、それぞれの社会の一員として生き、一員であることの制約を受ける。いわば自己利害は一員であることの制約を受ける。

 別の言葉で言い換えると、人間は如何せん自己利害の生きものに出来上がっているが、自己利害は社会の一員であることに従わなければならない。自己利害を社会の一員であることに優先させてはならない。

 これをルールとして社会の一員として生き、一員としての務めを果たす。そのような生き方を絶対とする。それを生存上の絶対的基本形とする。その上で、社会の一員という範囲内でどう生きるかはそれぞれの価値判断に任せるべきである。

 社会の一員として生きること自体が成員全体の活動の健全化と国民相互の生命・財産の保全につながっていく。それ以上何が必要なのだろうか。

 多くの日本人が一員としての務めを果たさず、社会のルールに反して自己利害を優先させている。一般人だけではなく、政治家・官僚に如何に多く見受けることができることか。社会の一員であることを生存上の絶対的基本形とすることができない、「愛国心」自体が基本的であることから離れた機会的な行動原理でしかないのだから、当然「愛国心」を基本的行動原理とするはずもない自己利害を基本的行動原理としている人間に上からの命令、あるいは指示で「愛国心」をお呪(まじな)いとさせて、自己利害優先を改めさようとすること自体が自己矛盾を侵すことでしかない。

 自己矛盾であることに気づかずに、日本という国を愛します、郷土を愛します、日本は素晴しい歴史を持っています、素晴しい伝統と文化を持っています、国旗の掲揚に心掛け、いつも心に太陽を、ではなく、心に日の丸をはためかせ、君が代の斉唱に努めます、天皇陛下を敬いますと、そのように「愛国心」意識を植えつけることで社会の一員としてのルールを守らせることができると本気で考えているのだろうか。単純な頭の人間にしかそう考えることはできないだろう。

 自己利害を基本的行動原理としているとは、殊更断るまでもなく、自己利害を行動の基本とし、そのように行動することを常態としていることを意味する。ゆえに日常生活に於いては機会的行動原理でしかない「愛国心」の上をいくことになる。そのような自己利害意識を抑えて社会のルールを優先させるには非常な努力を必要とする。一般国民のビン・缶のポイ捨てから、政治家・官僚の犯罪・私腹肥やしまで、社会のルールよりも自己利害の優先が優位を占めている。

 社会のルールを破り、社会の一員であることに反して自己利害を優先させた場合は罰するしかない。そのために各種法律は存在する。「愛国心」で取り締まることはできない。「愛国心」は基本的行動原理でないばかりか、厳密な意味に於いてルールではないし、ルールとすることはできないからだ。社会のルールと違って、「愛国心」は人間感情の一つに過ぎないからなのは言うまでもない。当然発揚するもしないも社会のルールに反しない限り基本的には自由である。

 社会のルールは制約、あるいは強制としての意味を持つが、「愛国心」は制約とはなり得ないし、当然なことに強制することもできない。ルール化し、個人の行動を律する制約・強制としたとき、思想・信条の自由の侵害へと進むことになる。国家主義体制への道である。

 「愛国心」のルール化を戦前の日本から拾い出すと、敵性外国語の使用禁止、敵性音楽の鑑賞禁止、日本的なものの優先、あるいは皇居遥拝を義務づけたり、現在の北朝鮮が個人崇拝を目的として金日成と金正日の写真をあらゆる場所に掲げさせているように天皇と皇后の御真影の掲額を義務づけて個人崇拝の対象とした強制、国民の命を天皇のため、国のために捧げる天皇の国民生命の私物化、あるいは国家の国民生命の私物化等々を挙げることができる。思想・信条の自由の侵害そのものであり、個人の否定そのものであった。

 このような「愛国心」を表向きとして個人を抑圧する構図はしつけを装った幼い子供への虐待の構図に近い。あるいは愛のムチを表向きとした親や教師の体罰の構図と近親相姦の関係にないとは言えない。

 社会の一員であること、社会のルールに則ること、自己利害を超えてそれを基本的行動原理・原則として打ち立てること。そのような方向性の確立が社会の秩序を生み出し、そのことが全体社会としての国を健全・強固にしていく。

 強制された「愛国心」が打ち立てることができるのは、個人に於ける自己利害優先を国家に対応させた国家利害の優先(=国家優先)ぐらいのものだろう。それが行き過ぎた場合は国内的には個人否定、国外的には自民族中心主義へと発展していく。

 法律とかの強制による方法ではなく、自律性に頼るとしたら、社会の一員であること、社会のルールに則ることの自覚(=社会意識)の植え付けのみが自己利害をコントロール可能とする。ルール化危険な「愛国心」の植え付け・強制(=ルール化)からは肯定的なものは何も生まれない。精々、表面的な同調ぐらいのものだろう。表面的な同調に業を煮やして、さらなる強制へと進む。

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郵政造反組復党は小泉決定の否定・変更なのか

2006-11-07 06:39:04 | Weblog

 安倍首相は11月6日(06年)、郵政造反議員の復党問題で、「私の所信に賛成し、首相指名で私を支持した(ことを前提に)、その上で党員の声、国民の声を勘案しながら判断したいということで、党の幹事長、執行部に検討していただきたい」(『郵政離党組の復党問題 「国民の声も判断材料に」』06.11.7.『朝日』朝刊)と語ったという。

 これに対して「塩崎官房長官は6日の記者会見で『なんと言っても国民に分かりやすい、理解しやすい解決が為されなければいけない』云々と語り、さらに「『(昨年9月の郵政解散・総選挙の)論理ときちっと整合性が取れているか』と述べ、郵政民営化への賛成が条件になるとの見方を示した」(同記事)ということだが、それでも一旦は郵政民営化反対の姿勢を取りながら、民営化法案が国会を通過し、既に法制化されて時計の針は戻せない、離党・除名を指示した小泉首相から安倍首相に政権が変わっている、そういった状況変化にあるから郵政民営化反対を貫く理由がなくなった、だから郵政民営化には賛成しますと態度を変えることにしたとしても、節度・節操、あるいは信念という点で決して「国民に分かりやすい、理解しやすい」理由とは言えない。

 最も「国民に分かりやすい、理解しやすい」方法は、郵政民営化法案が参議院で否決され、衆議院解散に打って出たときに小泉首相が反対票を投じた自党議員に取った非公認、その後の離党勧告・除名等の措置は間違いだった、安倍政権への交代を機に安倍首相がそれを今回改めて、彼らの名誉回復を図るとすることではないだろうか。

 但し、安倍氏は小泉政権でそれを支える幹事長・官房長官と重要な役割を担ってきている。郵政民営化造反議員に対する小泉決定にも自らも手を染めているだろうから、いくら自分が首相になったから、その決定を覆すとするのは矛盾が生じることになるが、それでも「党員の声、国民の声を勘案」を始めとしてどのような条件をつけようとも、復党を認めるとなると、小泉決定の否定、少なくとも変更に当たる。

 小泉首相が取った決定は間違いだった、だから改めるとすることが一番筋が通る「国民に分かりやすい、理解しやすい」復党容認ではないだろうか。

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「反党行為」禁止は安倍国家主義への大いなる一歩

2006-11-05 16:03:06 | Weblog

 一週間程前に郵政造反議員復党問題で、中川秀直自民党幹事長が「反党行為をしない」ことを条件に復党を認めるといった発言をしたとテレビで報じているのをパソコンに向かっているときチラッと耳にしたものだから、後でインターネットで確かめて見た。日経のHPに次のような記事を見つけた。

『「反党行為せず」の確約も 造反組復党条件で中川氏』(06.10.29.日12:27)

 「自民党の中川秀直幹事長は29日の民放テレビ番組で、郵政造反組の復党条件について、昨年の衆院選での政権公約順守や安倍晋三首相の所信表明演説支持に加えて『二度と反党行為をしない』と確約することも必要だとの認識を示した。
同時に『復党を希望する人には踏み絵を踏んでもらわなければならない』と指摘。造反組のうち郵政民営化反対を貫いている平沼赳夫元経済産業相についても『きちんと反省すると言ってもらわないと大義がなくなる』と述べ、復党条件として郵政民営関連法案の採決で2回にわたり反対票を投じたことへの反省表明を挙げた。
 造反組が復党後の党公認候補との選挙区調整に関しては『方法は色々ある』と自信を示した」

 ここに見る「反党行為」禁止は一見新たに付け加える単なる党規則のように見えるが、条件となっている「昨年の衆院選(05年9月11日)での政権公約順守や安倍晋三首相の所信表明演説支持」をすべて賛成せよとする無条件性の要求を裏返すと「公約」と「所信表明演説」を絶対善とすることへの命令であり、そこに個人の思想・信条が自由に入り込むことを許さない、それらの否定(思想・信条の自由の否定)に当たる。このような禁止制度は全体主義的、もしくは国家主義的禁止事項に入らないだろうか。

 大体が政府・与党が党として掲げた公約自体も多数決の原理に従って賛否の手続きを経たもので、賛成多数を得た政策だからとの理由で、あるいは党の賛成多数を経て総理・総裁となって掲げた「所信」だからと、すべての議員にその「遵守」を命ずるのはやはり全体主義あるいは国家主義の網にかける行為に当たらないはずはない。

 政府・与党提出の法案を与党議員が反対票を投じたことを以て、「反党行為」とする。その法案にしても政府・与党案と決定する段階で反対少数が存在した賛成多数の採決という民主主義の手続き経ているもので(「反党行為」が生ずる以上、全会一致の賛成ではない)、反対者が採決後も自らの主義主張もしくは信念に関わるからと多数決の原理を裏切って反対を貫き、それを行為で以て表現したとしても、それが反社会行為・反法律行為に当たらない場合は思想・信条の自由なる基本的人権の保障によって許されるはずである。

 それが許されないとなれば、例え法案の内容に対して考え方の違いがあっても、全員が賛成しなければならないことを規定することになる。自分の考えを殺し、政府・党が決定した異なる考えに賛成せよということであって、明らかに全体主義・国家主義を制度とすることに他ならない。

 例えば飲酒運転を罰する法律の制定に関して飲酒運転禁止の条目がその人間の信条に反するとして反対票を投じたから、例え施行されたとしても思想・信条の自由を楯に飲酒運転が許されるわけではない。法律が制定・施行された以上、飲酒運転は誰にとっても反社会行為・反法律行為の範疇に所属することになり、例え事故を起こさなくても飲酒運転をしたことが分かれば罰せられる。

 だが、国営事業を国営維持か民営化なのかの選択で、与党内の賛成多数を得た政府・与党の民営化の法案に対して国会の場で与党から反対票が生じたとしても、例えそれを「反党行為」とするとしても、主義主張の点から反対姿勢を貫くことを以て反社会行為・反法律行為に転ずる行為となるわけではない。事業に所属していて、国営に賛成し、結果として民営が決定した場合は、民営に反対した立場上、民営組織に踏みとどまるのは潔しとしないだろうが、例えとどまったとしても、反社会行為・反法律行為となるわけではない。道義的に骨のない奴だと軽蔑され、出世から見放されはするだろうが。

多数決の原理で主義主張の賛成・反対の決定が下っていくとしても、それが反社会行為・反法律行為か否かの線引きがなされる種類の決定でなければ、是非は別として、〝賛成〟という決定に従う・従わない自由まで制限されるわけではないと言うことである。いわば、そのような決定に対して自分の主義主張まで売り渡す必要はないと言うことができる。

 党議拘束に於いても同じことが言えるはずである。党議自体が多数決の原理で決定していくプロセスを前提としていて、それが反社会行為・反法律行為か否かの線引きがなされる種類の決定でなければ、多数決の決定に従って自らの反対の姿勢を撤回することは自分で自分の思想・信条の自由を裏切る行為となる。元々〝党議拘束〟という態度決定の制度自体が民主主義国家に於ける非民主的で全体主義的な手続きだったのである。

 そのような非民主的で全体主義的な賛否原理から、中川秀直自民党幹事長が唱える「反党行為」禁止は明らかに純然たる全体主義・国家主義への大きな前進を示す。

 中川幹事長は自民党内にあって安倍首相の内閣意思を体現し、それを党に反映させることを重要な役目の一つに担っている。そのことを裏返すと、郵政造反組復党に絡めて「反党行為」禁止で見せた全体主義的・国家主義的色彩は安倍首相の意志の反映でもあるということになる。

 首相の決定が政府・与党の決定であり、その決定に反する行為を「反党行為」とする構図は首相を絶対的な肯定的存在とすること、あるいは戦前の現人神天皇がそうであったように過ちなき存在とすることであって、そういった制約を設けて国家権力指導者を位置づける国家体制は全体主義もしくは国家主義を制度とする国家体制に他ならない。

 反対した法案が法律として制定・施行されたからといって、反対の姿勢が反社会行為・反法律行為となるわけでもない事例の反対であっても「反党行為」とレッテルを貼られということになれば、レッテルを貼られることでいわゆる干されるといった冷遇やそれ以上の除名を恐れて首相の顔色を窺い、自らの言論を封じる更なる全体主義体制・国家主義体制につながっていく危険性が生じる。その行き着く先は口にする主義主張は首相の政策の範囲内の内容となる。そうなることの虚無感から、口をつぐむ議員も生じるだろう。何を言ってもムダだと。

 国家主義の側から言えば、自らの主義主張に反する考えに対しては「反党行為」というレッテルのみで葬り去ることができる便利な武器を手にすることになる。戦前の日本に於いては国家権力が「国賊」・「非国民」・「アメリカのスパイ」等のレッテルを使って国民の意思を国家権力に都合のよい状態に統制可能とした。国民の側から言えば、「国賊」、「非国民」、あるいは「アメリカのスパイ」とレッテルを貼られて村八分状態にされるのを恐れ、国の政策に口をつぐんむこととなったのである。絶対多数の日本人が自らの主義主張に封印を施した。

 民主主義国家に於いても例え文字通り優秀な政治家であっても、首相を絶対的存在としてはならない。矛盾なき存在は存在しない。クリーンを身上として県政を担った知事が多選を重ねることで絶対的存在と化し腐敗していく状況は、絶対的存在化への警告でもあろう。

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タウンミーティングを使った世論操作

2006-11-04 03:19:43 | Weblog

 9月2日(06年)の青森県八戸市で開催した「教育改革タウンミーティング」で、内閣府が参加予定者に教育基本法改正に賛成の立場で質問するよう依頼していた事実が国会質問の中で明るみに出たと、11月3日(06年)朝の「日テレ24時間テレビ」とTBS「みのもんたの朝ズバッ」でやっていた。
  
 「みのもんたの朝ズバッ」ではまずフリップを画面に映し出して、
 「・5年前小泉首相が作った
  ・さまざまな政策に対し『国民の声』を直接聞き、大臣
   や副大臣に直接語りかけ、理解を深める目的
  ・内閣府が担当し、5年間で164回開催」
 だと、タウンミーティングの趣旨を説明。
 
 それがそのような趣旨を裏切って、「青森県教育庁教育政策課情報広報グループ」が差出人となった「■中学校■校長様」宛の文書を実写し、そこには青森県八戸市で開催された「教育改革タウンミーティング」での質問依頼に関する発言の仕方の注意書きが記されていて、〝ヤラセ〟だったとみのもんたが憤りを見せて報じていた。

 その内容の一端は、
 「さて、文部科学省(内閣府経由)での依頼発言者について、内閣府から以下のとおりの発言の仕方について注意がありましたので、発言を引き受けてくださった■PTA会長さんにお伝えいただきたいと思います。
 できるだけ趣旨を踏まえて、自分の言葉で
 (せりふの棒読みは避けてください。)
 (発言していただく内容は別紙の通り②についてです。)
 (『お願いされている・・・』とか、『依頼されている・・・』というのは言わないでください。あくまでも自分自身の意見を言っている感じで)」

 【別紙②】

 「教育基本法の改正案について、『人格の完成』を目指すのはもちろんですが、『公共の精神』や『社会の形成者』など社会の一員としてという視点が重視されていることが強く出ているところに共感しています。個の尊重が『わがまま』勝手と誤って考えられているのではないかという気がしてなりません。教育基本法の改正を一つのきっかけとして、もう一度教育のあり方を見直して、みんなで支えあって生きていく社会、思いやりのある社会の実現を目指していくべきだと思います」

 日テレの24時間テレビでは、「時代に対応すべく、教育の基本となる教育基本法は見直すべきだと思います――」と質問の内容を指示した文書の一部分をテレビ画面に映し出して、それに重ねて男性質問者の「時代時代に即応した形で変えていくべきではないかなと、早期に見直すべきところは見直していただきたいなと――」とさも自分の意見らしく自分の声を使って質問する声を流し、次いで再び「教育の原点は家庭教育だと思います。××大臣のご説明にあったように、新しい教育基本法は『家庭教育』の規定――」と文書の一部分、今度は女性の質問者の声を「私は教育の原点は家庭教育であると思います。大臣のご説明にあったように新しい教育基本法には『家庭教育』の項目が設けられている~」と流すとこまで報道していた。

 内閣府の役人は国会で共産党女性議員の質問に次のように答えている。「活発な意見を促すきっかけを作ると、そういう目的で参加者の発言の参考となるような資料を作成するというような場合もあります」と状況論で逃げようとした。

 これに対して共産党議員が八戸でのタウンミーティングでの質問は作成したものなのかどうか再度質問すると、「参考資料を作成したというところは内閣府が作成したものでございます」と、「場合」ではなく正真正銘の〝事実〟であることを認めた。証拠の配布資料を相手が所持しているから、認めざるを得なくて仕方なく認めたのだろう。と言うことは、認めざるを得ないという状況に立たされていなければ、認めることはしないということである。

 日テレ24時間テレビでも「朝ズバッ」でも、安倍首相は首相官邸での記者会見で次のように答えている。「タウンミーティングは国民の対話の場であり、また双方向で意見交換できる大切な場ですから、こうした誤解があってはならないと、そういうことがないように注意をしました」

 これは「誤解」の類なのだろうか。マスコミがヤラセだと「誤解」して受け止め、その誤解をそのまま報道したということになる。いわば虚偽報道した。周りを囲んでいる記者たちはただ承るだけで、何一つ突っ込んだ質問ができない体たらくである。

 「みのもんたの朝ズバッ」でコメンテーターとして出演していた国会議員なのかどうか、見かけた顔ではあるが、岡崎とか言うオバサンが「直接大臣と話せる、双方向で話せる絶好のチャンスで、民意を問わなければならないタウンミーティングで民意を汲み取らなければならないのに、民意をつくってどうするんです。これはもう本当に言論統制と言われても仕方がないと思うんですよね。民主主義に反する出来事だと思うんです」と、「言論統制」論を打ち出した。

 予め質問者に質問の趣旨を指定するだけではなく、それを超えて言うべき文言(=「せりふ」)まで書き記して、「棒読み」では露見してしまうから、そうならないように「棒読みを避けて」「自分の言葉」で喋って欲しいと要請している経緯に関しては確かに「言論統制」の要素はあるが、但し質問者に限っての「言論統制」であって、質問者以外の不特定多数に「言論統制」を強いるプロセスを踏んでいるわけではない。

 実態はタウンミーティングの会場にやってきている聴衆だけではなく、テレビ・新聞等のマスメディアが報じることによって、それらの報道を目にし、耳にする不特定の大多数の国民に教育基本法の改正は必要だと思わせる悪質・不当な〝世論操作〟を行ったということではないだろうか。当然安倍首相が言ったように「誤解があってはならない」といった単純な出来事ではないし、単純な出来事と単純に片付けることはできない問題であろう。

 勿論、国家権力がマスメディアに対する言論統制を手段として国家権力が望む方向に民意を誘導する戦前のような世論操作もあり得るが、その場合は国民をも言論統制の網に捕らえているケースが一般的で、現在の日本国民は言論統制下の状況に立たされているわけではない。

 逆に憲法で言論の自由を保障している関係上、社会全体に向けた直接的な言論統制は不可能だから(特定のマスメディアに秘密裏に強要するとか部分的には可能ではあるが)、それを手段としないサクラ(同調者)を仕立てる世論操作を手段としたのだろう。

 八戸の事例は世論操作という点では、言論統制如何に関係なく戦前の大本営発表の偽装した戦果を新聞・ラジオがそのままなぞって社会全体に伝達した手続きと本質的には同質の世論操作に当たるものであろう。国家権力の意志の仲介者が違うだけのことである。

 当然なこととして、このような世論操作は上からの指示を指示されたとおりに下が従う権威主義のメカニズムがあって初めて成り立つもので、そのようなメカニズムが重要な力を果たしている。

 その権威主義的メカニズムたるや、これも当然なこととして〝無条件性〟を条件としている。上が下を無条件に従うものと見なしていて、そのように仕向ける〝無条件性〟。下は上の指示に無条件に従うものと決めていて、指示通りに動く〝無条件性〟。そのように上も下もそれぞれの〝無条件性〟をカギとしている。

 そして内閣府、あるいは文部科学省という国家機関が、依頼した質問者に要求し、質問者が国家機関の要求に応じて同調したそれぞれの個別的〝無条件性〟は不特定大多数の国民になぞらせる全体性を獲得して初めて世論操作は完成する。いわば〝無条件性〟の心理的な蔓延化という目的を持った質問依頼だったはずである。

 このような世論操作に於ける上下双方向の〝無条件性〟は国家をすべてに優先する絶対の存在と見なして、国民をこれに従属させる国家主義の国家と国民の間に通い合わせる〝無条件性〟と本質のところで通底し合う、いわば双子の関係にある動静と言えないだろうか。

 あるいは国家主義のヒナ型を成していた世論操作とも言える。改正憲法や教育基本法改正案に「愛国心」の涵養の文言を盛り込もうとする動きにしても、国家を上とし、国民を下に置いて上に従わせようとする国家主義的意志が窺える。

 このような動き・意志は自民党政権自体が国家主義の芽を内包していることを暗示するものだろう。あるいは国家主義の血を潜ませている。それが安倍内閣となって、露な姿を現し始めた――。

 「朝ズバッ」で出席者の一人である自民党国会議員の渡辺喜美は、「ちょっとお粗末ですね。タウンミーティング全部がこんなヤラセではないと思いますが、たまたま文部科学大臣がご出席されるってんでね、まあ、そういう方面の人たちがこういう文書をつくって流したんでしょうけどね」

 そういった抽象的な出来事ではないのは明らかであるにも関わらず、抽象的な出来事で片付けようとする。身内を庇う意識が働いているからに他ならない。これに対してみのもんたは「渡辺さんが出席されたなら、何でも言いたいことを言いなさい、方言でも何でも構わない、好きなように質問してくださいと言うでしょうね」といったことを冗談ぽく言っていたが、このように冗談ぽい締めくくりで終わらせていい問題ではない。この手の番組の司会者はなぜこうも八方美人なのだろうか。八方美人でなければやっていけないということもあるのだろう。みのもんたが最初に見せた憤りも、所詮は視聴率稼ぎの〝世論操作〟に過ぎないことが分かる。 

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中川昭一核保有発言の狼少年的効果

2006-11-03 01:08:44 | Weblog

 中川自民党政調会長の「核保有議論」誘発発言は閣内及び自民党内では目立ったところでは麻生外務大臣からエールを受けたものの、他は「非核三原則」順守の守りにあって、中川昭一の一人相撲の感がある。但し本人は発言が中国・北朝鮮に牽制の役を果たす効果があったとしているらしい。そのことが10月29日(06年)の『朝日』朝刊に記事となっている。

 『本人には自負?』

 「中川氏は一連の発言に、国内の議論喚起と同時に北朝鮮や中国をけん制する意味を込めている。
 15日に中川氏が核保有論議の必要性に言及し、ブッシュ大統領が日本の核保有に対する中国の懸念に触れ、中国の唐家琁国務委員が訪朝して北朝鮮の核実験をめぐる緊張状態はひとまず緩む方向に向かった。中川氏は記者会見で『結果的にそうなった』としながらも、自身の発言が中国の説得外交につながったとの見方を示した。だが、中川氏の発言と中国の動きの関連は定かでなく、政府・与党内でもこれを積極的に認める声はない」

 金正日は自身の独裁体制の維持・保証をすべてに優先する絶対条件としている。そのためには当面の絶対必要事項として緊急に優先させなければならない事態は、日本が核保有に向かうかどうかも分からない動静よりも既に崩壊しかかっている国内経済にトドメを刺し、金正日体制を内側から瓦解させかねないアメリカの金融制裁の解除であろう。

 いわば中川昭一の「核保有論議」誘発発言はどう逆立ちしても、北朝鮮の当面の脅威たり得る代物とはなり得ない。5年先に、あるいは早くて3年先に脅威足り得ても、その間に金正日体制が崩壊したのでは意味を成さないからである。

 ということは中川発言は牽制足り得ないということであろう。金正日が金融制裁の解除と同時にアメリカからの攻撃を受けない保証をアメリカ自身から受け、国内経済の回復を図って、自身の独裁体制を磐石なものとしたら、日本の核保有など、例えあったとしてもどうでもいいに違いない。国家体制さえ維持できたなら、自身の血を受け継いだ者を国家指導者として後継者に選び、父親である金日成から受け継いだ金王朝を北朝鮮の地に永遠の生命で打ち建てていく、そのことを自らの夢としているように受け取れるからである。日本の天皇の男系による万世一系に対抗すべく、金家の血を北朝鮮の地に永遠の歴史・伝統・文化とする。将軍様の男系による万世一系を北朝鮮にも系統づける。

 すべてはアメリカの出方にかかっているのである。日本の出方ではない。それを「『結果的にそうなった』としながらも、自身の発言が中国の説得外交につながったとの見方を示した」とは我田引水に過ぎるのではないのか。「つなが」るには当事者である北朝鮮にとって今やアメリカが握っているとも言える生殺与奪の権に匹敵する牽制球とならなければならない。

 北朝鮮には核を使う恐さがある。日本は核保有後、使えるのか。北朝鮮に日本が使う恐さを与えることができると言うのだろうか。

 北朝鮮はブッシュ・アメリカの北朝鮮攻撃の可能性を真に恐怖している。日本の核がそれほどの恐怖を金正日に与え得ると考えているのだろうか。単に核を保有していますで終わるのではないだろうか。

 日本が核保有に向かうどころか、核保有議論が核保有議論のままで終わったなら、いわば言葉のままで終わったなら、次回の核保有議論は『狼と少年』の少年の「狼が来た」の言葉と化すだろう。実際に保有したとしても、使う恐さを与えることができないとしたら、やはり〝狼少年〟の効果しか与え得ない可能性さえ生じさせかねない。

 アメリカが既に核と核ミサイルを大量に保有していて、北朝鮮を包囲している。日本が新たに保有したからとって、北朝鮮に与える影響はさして変わるまい。違うことと言ったら、、同じ核ミサイルを喰らうとしたら、アメリカの核を喰らうのは構わないが、日本のには喰らいたくないというメンツの問題だけではないか。

 前々から思っていたことだが、あらゆる状況・場面を考えることができない単純な頭の持ち主である。どうも強がりだけで言っている印象を受ける。お坊ちゃんが強がってボクシングの真似でもするようにである。

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