安倍・中川・麻生の核議論の矛盾を衝く

2006-11-11 05:21:33 | Weblog

 06年10月30日記事「核保有議論をする資格」に引き続いて 

 10月15日テレビ朝日の「サンデーモーニング」
中川氏「非核三原則は守るが議論はしないといけない。重要な戦後の約束を見直す必要があるのかどうか、議論を尽くす必要がある」

 「見直す必要」があるとすることのできる有資格者はあくまでも核保有論者か、「非核三原則」堅持に疑問を持つようになり、「持ち込ませず」の変更等、何らかの形で保有の必要性を感じるに至った者に限るだろう。当然、「「非核三原則は守る」としての立場を前提とした「議論」の促進(「重要な戦後の約束を見直す必要があるのかどうか、尽くす必要」)は矛盾が生じる。

 「議論」を促進して、世論が核保有へ動いたとしても、「非核三原則は守」ります。「政府の非核三原則堅持は何ら変更はございません」では、何のための議論だったのか意味を失う。意味を失わせないためには、世論に早々に従って「非核三原則」を放棄しなければならない。そういう目的を持った「議論を尽くす必要」なのだろう。そのような狙いを持ってこそ、発言そのものの矛盾が解消可能となる。「非核三原則は守る」が単なるタテマエで、核保有への衝動を内心に抱えているといったところが実態なのだろう。正直に「私自身の考えでは非核三原則は時代錯誤と確信している。重要な戦後の約束ではあるが、見直す必要があるのではないか。どうするかの議論を尽くす必要がある」とするのが正直というものだろう。

 中川昭一の従軍慰安婦否定や強制連行否定、麻生の「創氏改名は韓国人が自分たちから求めたものだ」といったこれまでの歴史認識発言からしたら、正直さを求めても始まらないことは分かってはいる。

 中川氏の発言を受けて麻生外相は「非核三原則は政府の立場として変わらないが」、「この話をまったくしていないのは多分日本自身であり、他の国はみんなしているのが現実だ。隣の国が持つとなったときに、一つの考え方としていろいろな議論をしておくのは大事だ」とか、「日本は言論統制された国ではない。言論の自由を封殺することにくみしないという以上に明確な答えはない」、あるいは「北東アジアの核の状況は一転した。持たないなら持たないで、もう一回きちんと論議することも止めるのは言論封殺だ」と述べているが、中川昭一と同じ論理構成で、当然前後に矛盾を抱えている。

 一見まっとうなことを言っているようには聞こえるその主張を一言で言い返すなら、「非核三原則を守るなら、なぜ議論なのだ」である。国民の中から核保有論議が生じるというならまだしも、「非核三原則は政府の立場として変わらない」と宣言している政府に関係する人間自らが「議論をしておくのは大事だ」と主導する矛盾は、そこに何らかの作為がなければ説明つかない。

 ――「北東アジアの核の状況は一転した。このような時代の変化に非核三原則の堅持は非現実的なものとなっていないだろうか。持たないなら持たないで、もう一回きちんと論議する必要があるのではないか」としたなら、何ら矛盾も誤魔化しもない。例えば自民党の笹川尭党紀委員長が11月7日(06年)の党役員連絡会で「非核3原則のうち『持ち込ませず』を堅持していて日本の安全が守れるのか議論が出てくる」と発言したそうだが、本人は「私は非核三原則論者だが」とか、「日本は非核三原則を今後とも守っていくべきだが」とは言っていない。頭から「非核三原則」の時代的な有効性を問い質していて、どこにも矛盾も作為も感じさせない。中川氏も麻生氏も、「議論」をすることが正しいとするなら、笹川氏を見習って、「非核三原則」自体の有効性に言及し、その上で「議論」を促すべきだろう。安倍首相の消費税隠しと同様に狡猾である。「言論統制」云々、「言論封殺」云々は一切関係ない。〝言論の自由〟を単に核保有衝動を正当化させるための方便に使っているだけである。

 中川・麻生両氏の発言が〝保有〟に向けた「核議論」であることを押さえておかなければならない。

 安倍首相の民主党代表小沢一郎との党首討論(06.11.8)での答弁を新聞・テレビから纏めてみると、
 「非核三原則という政府の原則は、今後とも維持していく。これについてはいささかの変更もない」

 これは中川・麻生と同じ前提に立つ。

 「閣内、政府、党の正式な機関で核を保有する可能性を議論することはない。安全保障の議論で触れたというので大問題になるのはおかしい。勿論、誤解があってはならない」
 「核をめぐる論議について抑止はどうあるべきかという議論をする、またそういう議論に対する論評はあり得る」
 「核をめぐる議論と、核武装をすることについての議論は別だ。外相は核をめぐる議論についての評論をしたということではないか」
 「(核保有が)政治的、軍事的に意味がないということ自体も議論といえば議論になる。その議論すらいけないというのは行き過ぎではないか。大切なことは政策論として、非核三原則について国是と言われている。原則を守るかどうかについて、完全に我々と同じ考えであれば、同じ考えであり、意見は一致していると思う」――

 「非核三原則という政府の原則は、今後とも維持していく」とするなら、「安全保障の議論」は「非核三原則」を基本原則として展開されなければならない。「非核三原則という政府の原則」の上に「安全保障の議論」を構築していかなければならないし、今までもそうしてきているはずである。「非核三原則」堅持を原則としながら、核ミサイルの配備を想定した「安全保障の議論」を行ったのでは矛盾することになる。あくまでも米軍の支援と日本の通常兵器
を基本とした防衛体制及び外交術で日本の主権と国土、国民の生命財産を守っていくかを「安全保障の議論で触れる」べきである。ところが中川・麻生両氏は「核を保有する可能性」を探る議論を促したもので、その「可能性」を含めて「安全保障の議論で触れた」のであって、当然「非核三原則」姿勢に矛盾していることになる。

 「核をめぐる論議について抑止はどうあるべきかという議論をする、またそういう議論に対する論評はあり得る」とするのは、中川・麻生両氏の発言を「核を保有する可能性」探る議論(〝核保有〟に向けた「核議論」)と見ていないことになる。安倍首相の解釈に問題があるのか、当方の解釈が的外れなのか、いずれかであろう。

 但し安倍首相にしても中川昭一にしても、核保有に向けた衝動を内に隠し持っているのは事実である。中川氏は「憲法の政府解釈では、必要最小限の軍備の中には核も入るとしている。その片方で非核三原則がある。現実の政策としては核は持たないということになるが、憲法上は持つことができると政府は言っている」と述べている。この発言に対して安倍首相は「法理論上の議論として言及したものと思う」と擁護しているが、首相自身も同じ内容の発言をしている。

 「我が国が自衛のための必要最小限度を超えない実力を保持するのは憲法によって禁止されていない。そのような限度にとどまるものである限り、核兵器であると通常兵器であるとを問わず、これを保有することは憲法の禁ずるところではない」

 核保有は憲法上可能であると言及すること自体が核保有を安全保障上の選択肢の一つとしていることの証明であろう。非核三原則を絶対としている人間は例え憲法上保有可能でも、言及はしないはずである。

 但し安倍氏にしても中川氏にしても「法理論上の議論として言及したもの」と逃げの手を打つだろうが、「非核三原則」堅持は日本の安全保障の前提であり、また現在のところ結論でもある。そのような〝前提〟と〝結論〟の間に「法理論上の議論として」は「核兵器であると通常兵器であるとを問わず、これを保有することは憲法の禁ずるところではない」とする主張の展開は入り込む余地はないはずである。ないにも関わらず、入り込ませていること自体が、やはり核保有衝動を抱えていることの証明としなければならない。

 となると、安倍・中川・麻生三氏の「核をめぐる議論と、核武装をすることについての議論は別」とすることはできないことになる。三氏とも「核武装をすることについての議論」に向けた「核をめぐる議論」となっている。そういう構図を取った議論となっている。

 「(核保有が)政治的、軍事的に意味がないということ自体も議論といえば議論になる。その議論すらいけないというのは行き過ぎではないか」。

 これは小沢民主党代表の「核武装は政治的にも軍事的にも日本にプラスではない。発言を慎むよう指示すべきだ」と迫ったのに対する首相の答弁であるが、自分たちの核保有衝動を韜晦し、誤魔化すレトリック以外の何ものでもない。「非核三原則」を絶対とするなら、「(核保有が)政治的、軍事的に意味がないという」方向に向けた議論となり、逆に「(核保有が)政治的、軍事的に意味がないという」論拠を自らのものとすることによって、「非核三原則」を絶対とする姿勢に至ることが可能事項となる。この双方向性を獲得し得て、初めて両者は矛盾とは無縁の整合性を持ち得る。

 中川、麻生、首相自身の三氏の主張はそのような双方向性を備えてはいない。双方向性の「議論」が求められていて、そのことを問題としているのであって、双方向性の「議論すらいけないと」しているわけではない。それを「いけないというのは行き過ぎではないのか」と誤魔化すレトリックを展開しているにすぎない。

 三氏とも、核保有衝動の隠蔽・抑圧が矛盾と誤魔化しの出発点となっている。

 中国は核弾頭ミサイルを10発も日本に向けている、北朝鮮が7発のミサイル発射実験に続き、核実験を行った、日本は中国、ロシア、北朝鮮と核保有国の脅威に晒される状況となったのである。そういった現実に対して非核三原則は有効であり得るのかとする議論がある。

 だが、これは表面的な見方に過ぎない。中国、ロシアが日本に核を使用するだろうか。その場合は中国にしてもロシアにしても自らがダメージを背負うことになる。日本の侵略戦争と同じく負の歴史として人類史に記憶されることになるだろう。北朝鮮は核を使用する可能性はある。しかし核に対して日本が核で対抗した場合、十全に正当性を獲得し得るかどうかが問題となる。

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