いじめられて自殺する学校の生徒が跡を絶たない。誰の目にも連鎖反応と見える。但しいじめから逃れる手段として自殺を選択することだけの連鎖反応ではなく、自分が追いつめられるところまでいじめられているという事実を知らしめたい願望があって、その手段ともなっている自殺の連鎖でもあるのではないだろうか。遺書を残すことでその理由を記し、自殺すれば、自分がいじめられていたことを自分が通っている学校の仲間や教師だけではなく、全国の学校の生徒・教師、そして日本中の大人が知ってくれる。訴えないでは済まないという僅かに残された最後の権利意識が自殺へと衝き動かす理由の一つになっているようにも思える。
文部科学省にいじめ自殺を予告する手紙が郵送され、それも続いている。伊吹文部科学大臣は緊急事態だと思ったのか、何か自分から働きかけなければ恰好がつかないからなのか、「文部大臣からのお願い」と題するメーセージを記者会見を開いて読み上げた。これは異例なことだとマスコミは伝えていたが、文科相宛てにいじめ自殺予告の手紙を出すこと自体が既に従来にない異例事態であろう。実際にいじめられている状況を抱えた上での予告であるなら、自殺の決行如何に関わらず、差出人は予告に知らしめの役割を担わしていることになる。
「未来のある君たちへ
弱いたちばの友だちや同級生をいじめるのは、はずかしいこと。
仲間といっしょに友だちをいじめるのは、ひきょうなこと。
君たちもいじめられるたちばになることもあるんだよ。後になって、なぜあんな恥ずかしいことをしたのだろう、ばかだったなあと思うより、今やっているいじめすぐやめよう。
○ 〇 〇
いじめられて苦しんでいる君は、けっして一人ぼっちじゃないんだよ。
お父さん、お母さん、おじいちゃん、きょうだい、学校の先生、学校や近所のお友達、だれにでもいいから、はずかしがらず、一人でくるしまず、いじめられていることを話すゆうきを持とう。話せば楽に張るからね。きっとみんなが助けてくれる。
平成18年11月17日
文部科学大臣 伊吹 文明」
いじめの側に立つ生徒にはこの手のメッセージは自分はいじめているという意識を持ちながらいじめている場合には効果はあるかもしれないが、果してそのような意識を持っていじめている生徒がどれだけいるだろうか。単にからかっているだけ、あるいは気に入らないから口を利かないんだ、ウソをつくから懲らしめてやるんだと自己を正当とした意識を働かせている場合は、そういった本人たちにはいじめ行為とは見えていないから、効果がないのではないだろうか。
またいじめは相手と対等な位置にあるときの相互性を破って自己を優越的位置に置く権力行為(=相手の感情や人格を支配する行為)に他ならないから、いじめる人間にとっては自己活躍行為の部類に入る。いじめと言う行為を通して自己実現を図っているのであり、いじめ行為自体が自己存在証明の手段と化す。一旦そういった状況にはまると、なかなか抜け出し難いところが始末に悪い。いじめがエスカレートする傾向にあるのはそのことが理由となっているからだろう。
いじめが自己実現を図る自己活躍行為であり、そのことを自己存在証明とする権力行為であることは1994年11月27日に首を吊った大河内清輝君のいじめ自殺事件のいじめ首謀者が仲間に自分を「社長」と呼ばせていたことが象徴的に証明している。社長と言う地位は一般社会に於ける大いなる自己実現の一つであり、社長行為自体が自己活躍に入り、その全体が優れた自己存在証明となる。首謀者は清輝君に対して暴力と恐喝を使った権力を通して強制的にカネを貢がせる人間支配を恣(ほしいまま)にし、貢がせたカネで仲間と共にゲームセンターに入り浸ったり、高額な食事を味わったりの豪勢な暮らしに耽った。貢がせたカネを全部自分が所持していて、支払いのたびにさも自分のカネで奢るかのように、いわゆる札びらを切るといったことをしたのだろう。何しろ「社長」なのだから。
いじめを通して清輝君を思いのままに支配した権力行為にしても、社長の地位で思いのままに面白おかしい、彼にしたら豪勢な暮らしに耽った行為にしても、中学生の身分でこれ程の自己実現、自己活躍はなかっただろうし、この上ない自己存在証明であったろう。それを止めるキッカケは清輝君の自殺といじめ側の3少年の逮捕・少年院送致といった物理的要因を待たなければならなかった。教師が輝君を呼び出して、いじめられているのか問い質しても、身体の怪我の原因を訊ねでも、いわば伊吹文部科学大臣のメッセージに当たる問いかけを教師が直接本人に発しながら、いじめが原因だとはついに告白させることができなかった。
また伊吹大臣の「いじめられて苦しんでいる君は、けっして一人ぼっちじゃないんだよ」といったメッセージは既に自分が一人ぼっちの状態に追い込まれ、自らも追い込んでいる人間に果たして効果を持つのだろうか。「お父さん、お母さん、おじいちゃん、きょうだい、学校の先生、学校や近所のお友達」といった身近な人間のいずれかでも常によき理解者であり、日常的に親しく言葉を交わし合っている間柄にあったなら、いじめられる以前から「一人ぼっち」という状況は生まれていないだろうから、例えいじめが原因だとしても、「一人ぼっち」となること自体が既に彼らの存在が役に立たなかったことの証明でしかなく、それは誰も信用できないという不信に支配された世界であろう。その殻を破ることのできるほどの強い力をメッセージが持ち得ているかが問題となるが、果して持ち得ているのだろうか。
「けっして一人ぼっちじゃないんだよ」と呼びかけるよりも、「君は今一人ぼっちなんだね」と呼びかける方がより強いメッセージ性を発揮するのではないだろうか。事実「一人ぼっち」だろうからである。それを「一人ぼっちじゃないんだよ」と言ったら、ウソになりかねない。その確率は高いはずであるし、自殺しようと思いつめている人間がメッセージぐらいで、「ああ、自分は一人ぼっちではないんだ」と簡単に思い直すとは思えない。
「死んでしまいたいと思っているほどに君は一人ぼっちな場所に追い込まれているようだ。いじめを受けることほど苦しいことはない。自分が自分でいられなくなるのだから」と。「そんな君に手を差しのべるには、どうしたらいいのだろうか。もう一度手紙をくれないか。手を差しのべることができるようだったら、力になってあげたい。仮に役に立たないと思ったとしても、もう一度手紙をくれないか」
もう一度手紙を書く気力を持たせたなら、それは生への方向へ向かう気力ではないだろうか。
いじめ自殺が起きてから、周囲はバタバタする。責任逃れ、それが通用しなくなってからの認定。全校集会と保護者会を開いての説明と自殺してしまった生徒には何の役にも立たない「命の尊さ」を訴える紋切り型となっている儀式――その繰返しがすっかりパターン化している。いじめに於ける学校での美しいばかりの歴史・伝統・文化となっている。
地震対策と同じく常に備えておかなければならない危機管理の問題だと誰も気づかない。校内暴力や席立ち、過度な私語による授業混乱、学校外での万引きなどと同じようにいじめを学校社会の秩序を脅かす重大な危機の一つと把えて、常に予防対策を講じておく姿勢がそもそもからない。人間には誰もが十全に生きる権利がある。十全に生きるとは、それぞれの人間がその人間なりに持つ自然な欲求としてある喜怒哀楽の感情や自らの人格を他人に迷惑をかけない範囲で、それを絶対条件として自由・自然に発揮できることを言う。十全に生き、発揮すべき喜怒哀楽の感情や人格を他人が支配し、歪める権利は誰にもない。いじめることによって、楽しいと感じる喜びの感情を奪ったり、歪めたりしていいと思うか。そうすることが他人を支配するということだと。他人の感情を支配して、思うように発揮できなくする、他人の人格を支配して、自分がしたいと思う行為をさせなくする。君がいじめられて、嫌な思いばかりすることになって、誰もが持っている楽しいと思う感情を失うことになったら、どう思う?自由にのびのびと遊んだり、勉強したりしたいと思っているのに、いじめを受けて嫌な思いばかりで、のびのびと遊ぶことも積極的に勉強することもできなくなったら、どうする。そんな目には遭いたくないだろう。そんな目に遭いたくないのは誰も同じで、自分がされたくないことは他の人間にもしないことだ。
ときには生徒を何人かずつ、今日一日笑うことを禁止する苦行を課す。いじめを受けたとき、嫌な思いばかりで、笑いたくても笑えなくなる。実際のいじめはもっとひどいもので、仮の苦行で確実に知ることはできないが、その苦しさを少しでも身を以て経験し、学ぶためだと。お笑い芸人のテレビ番組を見せて、笑ってはいけないと命ずるのも一つの手である。笑いたいのに笑えない苦しさを確実に知るだろうから。そしてどのくらいに苦しかったか、発表させる。
学校は生徒に対してそういうメッセージを機会あるごとに発したり、具体的な訓錬を行ったりして、備えなければならない。それが学校管理者が責任を持って行わなければならない危機管理と言うべきものであろう。