小坂前文科相解説の教育基本法案

2006-11-20 09:28:28 | Weblog

 「第2条 教育の目標 5」――「愛国心」編

 フジテレビ・06・11・17金曜日「とくダネ!」で「与党が単独採決・・・教育基本法〝素朴な疑問〟に大物議員が生回答」なる番組を朝の8時から流していた。「大物議員」とは小坂憲次郎前文科相のことで、それが「大物」とは日本の政治家は小粒だらけということになるのではないだろうか。民主党からも藤村修文部科学担当だとかいうのが出席していた。

 先ず最初に小泉前総理がまだ首相の頃の国会答弁、確か「小学生が愛国心をどれ程理解しているか、分かりますか?評価できないでしょう」といったことを強い口調で言っていたと思う。慌ててビデオ録画に取り掛かったが、間に合わなかった。最近年齢のせいで元々よくない記憶力の衰えが痴呆症一歩手前まで進行しているようで、覚えていなくてもいいことは覚えるが、逆のことはすぐ忘れてしまう。お陰様で借金のない身だと最近は思い込んでいる。

 次いで安倍首相の国会答弁。「どういう日本が伝統や文化を持っているんだろうということを調べたり、勉強したり、研究したり、そういう姿勢についてですね、学習する態度を、まあ、それを評価する」と、「愛国心」の程度ではなく、「学習する態度」を評価対象とすることを表明して、前内閣との方針の違いを印象づけた。

 解説が「2002年に福岡市で愛国心を3段で評価する通知表がつくられ、問題になったことがあり、愛国心の理念をどう扱うことになるのか」と問いかけ、画面に、――問われる愛国心の理念――の文字を大きく映し出した。

 自民党の法案の(与党案とは言わない。政教分離・反創価学会に立つ私自身としては独善的に公明党を政党とは認めていないし、自民党の単なる腰巾着としか見ていない)問題となっている<第2条 教育の目標 5>の条文が映し出された。

 ――伝統と文化を尊重し、それらを育んできた我が国と郷土を愛するとともに、他国を尊重し、国際社会の平和と発展に寄与する態度を養うこと

 尾木直樹教育評論家の文字で示した批判を取材のアナウンサーが読み上げる形で「評価基準をつくらなくてはいけなくなり、心・人格・感性の育成にはならない」と紹介したあと、その批判をアナウンサー自身が次のように解説して見せた。

 「愛国心に関する評価を生徒が気にしてしまうことになる。それに感性の部分であって、それを学校でジャッジするというのはどうかという話です」

 次に国際基督教大学の藤田英典教授の文字で示した「愛国心の評価に対して子供たちの競い合いが起こる危険性がある」という批判をアナウンサーが読み上げ、同じように解説。

 「俺の方が国を愛している。お前の方の愛国心はイマイチだよ、このような評価をし合ってしまう。あらぬ方向に愛国心が一人歩きしてしまうというような懸念をお持ちです」
 
 小倉何とか司会者「教育基本法に愛国心を愛するとか養うとかっていうのが出てきたら、必ず成績として評価しなければいけないものなんですか」と小坂大物生出演議員に訊ねた。

 大物は当然の如くに上記批判の全面否定を展開する。

 「いえ違いますね。先ずこの教育基本法と言うのは理念法ですから、あの、これからの21世紀の日本の国が行く教育のあり方というものを示しているんですね。例えば愛国心というふうに一言でおっしゃいますが、実際に法律の条文からすると、伝統と文化を尊重し、それらを育んできた我が国と郷土を、と言ってるんですね。即ち、実際の学習ではどういうことをやるかと言うと、郷土の偉人とか郷土の歴史とか、我が国の歴史とか、そういったものを習う中でですね、日本て素晴しい国なんだなってとかですね、ああ日本て、こんなに色んな人が活躍をして今日があるのか、そういう偉人に対して憧れを持ち、また尊敬すると共にですね、それが国を大切にし、自分の郷土を大切にし、そして次第にそれは愛するようになってくる。そういうことをですね、あの、教育として目指していくんですよと言う理念を言ってるんです。ですから、評価をどういうふうになるかと言うと、この内心、いわゆる心の問題を1、2、3で評価することはできないんです。やっちゃあいけないことです。ですから、実際に郷土の偉人を一生懸命するような、図書館で調べているようなことをやったりですね、そして自分から発表するような、積極的な態度があったかとか、その偉人の名前を覚えているとかあるいは我が国の歴史についてどういうことがあったという、今までの歴史のテストみたいなものなんですね、そういうことを総合的に評価して、そういう態度を評価することになります。従って、それはその、そういうものを覚えているのか、覚えていないのか点数で評価されるというふうな基準ですね、これから専門の中央教育審議会の中に家庭教育部会とかいろいろな部会がございますので、そこでそういうあり方というものを審議していただいて、そして客観的な基準に基づいて、その評価基準というものをつくっていただくことになります。心を評価するということは絶対ない」

 評価対象が問題点の一つのなっている。点数での態度評価の基準づくりをこれから各部会に諮って審議してもらうといった後付けではなく、前以て基準を完成させ、その説明を果してから法案を国会審議にかけるべきだが、逆の手順を取っていることに何の疑問も感じないほどに確かに大物らしい。

 対して民主党の文部科学担当は「私たちは前文というところで、まさに理念でありますが、日本を愛する心を涵養し、と、涵養という言葉はちょっと難しいんですが、雨の水が土にじわーっと沁み込むようにと、いうことで、ここはまさに教育が心の問題、強制したり、踏み込んだりするわけではない、そういう思想でございますが、今の政府案のところは2条に教育の目標、と掲げて、その中の5項目に今の愛国心の、その態度を養うと、態度と出ていますと、評価の対象となるというのが一般的な受け止め方でありますし、心にもないことを、との言い方はありますが(態度が心と必ずしも一致しないということを言っているのだろう)、まあ、今までの政府案では、いや、心は態度と表裏一体だとおっしゃるとなると、それではまた心まで評価するのかといういう話になりかねない、そう考えております」

 同じ時間内で論じられた家庭教育の問題と、民主党案と自民党案との決定的な違いであるという教育委員会の問題とは別記事で〝情報解読〟してみたいと思う。

 教育基本法は「理念法」だと言う割には、自民党大物議員は細かい話に終始した感がある。大物だからこその細かい話なのだろう。

 私も細かいことから出発する。私の場合はウソも隠しない小物だからである。つまり「理念」を問題にするのではなく、条文自体のゴマカシを突つくことから始める。自民党が日本語が乱れていると昨今盛んに言っている主たる勢力なのだから、ゴマカシではなく、単なる乱れだとすることはできないだろう。

 自民党案にある「伝統と文化を尊重し、それらを育んできた我が国と郷土を愛するとともに、他国を尊重し、国際社会の平和と発展に寄与する態度を養うこと」の〝尊重する〟と〝愛する〟と〝養う〟それぞれの〝何をするのか〟の意志行為の対象、もしくは目標は、〝尊重する〟は「伝統と文化」であり、〝愛する〟は「我が国と郷土」であり、〝養う〟は「国際社会の平和と発展に寄与する態度」であって、「愛する」の対象に「態度」は入っていない。「愛する〝態度〟とともに」とは言っていない。

 いわば小坂前文部科学大臣が「態度を評価する」とするなら、「国際社会の平和と発展に寄与する態度」を評価対象とすべきで、大いに結構、「郷土の偉人とか郷土の歴史とか、我が国の歴史とか」を「図書館で調べているようなことをやったりですね、そして自分から発表するような、積極的な態度があったかとか、その偉人の名前を覚えているとかあるいは我が国の歴史についてどういうことがあったという、今までの歴史のテストみたいなものなんですね、そういうことを総合的に評価して、そういう態度を評価することになります」は脱線した拡大解釈以外の何ものでもない。

 拡大解釈としないためには、「我が国と郷土を愛する〝態度〟と共に」・・・「国際社会の平和と発展に寄与する態度を養う」と並列行為としなければならないはずである。前者から〝態度〟なる文言を抜いたのは、やはり〝愛国心〟への執着が優っていたからだろうか。「愛する」に〝態度〟を入れたとしたら、「愛する」が直接的でなくなり、その意志行為を相当に弱めてしまうことになる。

 例えば「彼女を愛する」と「彼女を愛する態度を養う」では、その直接性に格段の差が出てくる。私などはいつも女性から「あなたは先ず女性を愛する態度を養うところから始めるべきだ」と注意される。直接的に愛するなどというのはまだ早すぎる、その資格はないというわけなのだろう。だから今以て独身を続けていなければならないのかもしれない。

 自民党は「愛国心」を重視する手前、「愛する」と直接的に表現しなければならなかった。但し、「愛国心」強要の非難を避けるために「他国を尊重し、国際社会の平和と発展に寄与する態度を養うこと」の「態度」を「我が国と郷土を愛する」にもダブらせて、それを「評価する」とカモフラージュさせたのだろう。

 小坂大物議員も、自らの解説で「伝統と文化を尊重し、それらを育んできた我が国と郷土を、と言ってるんですね」と、条文にはある次の「愛する」という文言を抜かざるを得なかった。条文どおりに「愛する」とまで付け加えて、「そういうことを総合的に評価して、そういう態度を評価することになります」とすると前後の脈絡を自ら破ることになる。「愛する」とまで言って、それを「態度を評価する」ことだと誤魔化すためには、あくまでも後続の「国際社会の平和と発展に寄与する態度を養うこと」まで言う必要があり、そこまで続けなければならない。その部分の解説は不要で省くとなると、「愛する」まで省かざるを得なくなる。

 次に理念問題。

 条文にある「伝統と文化を尊重し、それらを育んできた我が国と郷土を愛する」理念の裏づけが「郷土の偉人とか郷土の歴史とか、我が国の歴史とか、そういったもの」の学習と、そこから日本が「素晴しい国」であることと「偉人に対して」憧れと尊敬を持つことを学び、「国を大切にし、自分の郷土を大切にし」、それらを「愛する」心情の育みへとつなげていくことだとするのは自分の足元だけを見ているちっぽけな国のちっぽけな一国主義ふうで目標が小さ過ぎて、それを理念とするのは大風呂敷もどきで、後半の「他国を尊重し、国際社会の平和と発展に寄与する態度を養うこと」とする世界に向けた理念と非常にバランスが悪い。

 尤も後半の理念も他国の偉人とか歴史とかを学び、他の国々を素晴しい国であることと他国の偉人に対して憧れと尊敬を持ち、他国を大切にし、愛するようになるとするなら、バランスは取れ、「国際社会の平和と発展に寄与する」理念に合致するが、条文自体が前後で同じ意図を繰返す二重構造となる。「日本を含めた世界の国々の伝統と文化を尊重し、それらを育んできた日本を含めた世界の国々とそれぞれの郷土を愛する」とすれば、二重構造を犯さないで済む。但し、日本民族優越主義に立った国家主義者たちにとっては日本を前面から引っ込めて世界と同等の位置に立たせ、同等の価値を与える条文改正は自らの主義主張に反して誠に都合が悪く、認めがたいだろう。後半は単なる取って付けに過ぎないことになるが。

 このような齟齬は条文の前半自体が自国のみに拘る自国中心主義によって成り立たせている関係から、当然でもあり、止むを得なくもある起承転結なのだろう。

 自国中心主義だとするのは、小坂大物が解説しているように「伝統と文化を尊重し、それらを育んできた我が国と郷土を愛する」目標が「日本て素晴しい国なんだなって」学び知ることだとしているからである。日本の、あるいは郷土の「偉人」を学ぶ目的も、同じく「日本て素晴しい国なんだなって」知ることへの材料に過ぎない。そしてその先に国と郷土を「大切にし」「愛する」心情を求めている。

 日本という国の教育基本法なのだから、日本の国と歴史を学ぶよう仕向けてどこが悪いとする反論があるだろうが、日本史の教科が日本の全体・歴史の全体を学ぶものとすると、「愛国心」教育は「日本は素晴しい」と結論できる、その方向に限定した日本と歴史を学ぶ形式を取っている違いがある。そこに自国中心がある。

「日本は素晴しい」という結論を最初から目指した教育が自国中心主義でなくて、他に何と形容すべきだろうか。他の形容を求めるとしたら、イコールの意味を持つ自民族優越主義なる言葉以外にない。

 歴史・伝統・文化、郷土の素晴しい点だけを教える。素晴しい点だけを吹き込む。このように「日本は素晴しい」で視野を固定すべく意図するのは、客観的認識能力の育みを阻害する方向に向かう。認識や思考に関わる視野の固定は次は必然的に認識的視野狭窄、あるいは思考上の視野狭窄を転移症状とする。

 子供たちを「日本は素晴しい」とする一つの型・一つの認識にはめ込む。そのような誘導に素直に従うことができた生徒は評価の対象となる。「態度を評価する」ということはそういうことだろう。国家的に目論んでいる一つの型にはまらない生徒は低い評価しか獲得することができない。

 但しこのような「日本は素晴しい」〝自国優越教育〟は自民党が教育基本法の改正案で初めて目論んだ国家主義姿勢ではなく、既に学校現場で行われていて、既定路線の法案化に過ぎない。そのことは当ブログの記事「愚かしいばかりの〝愛国心〟教育」(2006-06-22 20:09:00)に書いているが、学習指導要領の「主として集団や社会とのかかわりに関すること」とする項目の「郷土や我が国の文化と伝統を大切にし、先人の努力を知り、郷土や国を愛する心をもつ」との定めに従って、学校によって頻度が異なるらしいが、既に年に数回行われている。

 そして授業は小坂大物生出演議員が解説したのとまったく同じ線上の、「日本は素晴しい」と結論づけるための物の見事なまでに〝日本のよさ〟発見の場となっている。〝日本のよさ〟発見も年に数度の授業なら捌ききれるだろうが、定期化して授業日数が増えた場合、歴史に関しては戦前の侵略時代は〝日本のよさ〟はどこにも転がっていないだろうから避けなければならず、学校はネタ探しに苦労するのではないだろうか。高校では暫く前に履修無視の問題が起きたが、戦前日本の新聞が国民の愛国心を高めるために軍国美談を捏造したように、ネタ枯れから偉人物語の捏造に走らなければいいがと余計な心配までしたくなる。

 避けなければならない歴史事実を存在させること自体が、偉人探しでも伝統に関しても同じ結果を生むだけのことだが、生徒の客観的認識能力の芽を刈り取る作業を同時進行させることに他ならない。

 自民党が教育基本法改正案に隠している愛国心教育の正体とその弊害が如何に危険な要素を含んでいるか、心してかからなければならない。

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする