「国を愛する」よりも「国はどうあるべきか」

2006-11-16 02:07:20 | Weblog

 安倍首相は所信表明演説で「美しい国、日本」の意味について「文化、伝統、自然、歴史を大切にする国」だと言っている。改正教育基本法や改正憲法にも盛り込みたいとしている程にも「大切にする」だけの特別な価値があるということだろう。

 安倍首相だけではなく、自民党内の国家主義者たちは、あるいは国家主義の気のある国会議員たちは日本の「歴史・伝統・文化」の優越性を動機として「愛国心」を求めている。いわば「愛国心」と日本の「歴史・伝統・文化」は二本立ての体裁を成している。

 このことは自民党が改正憲法に盛り込むべく≪わが国の憲法として守るべき価値に関して≫の提案項目で、「新憲法は、国民主権・平和主義・基本的人権の尊重という三原則など現憲法の良いところ、すなわち人類普遍の価値を発展させつつ、現憲法の制定時に占領政策を優先した結果置き去りにされた歴史、伝統、文化に根ざしたわが国固有の価値(すなわち「国柄」)や、日本人が元来有してきた道徳心など健全な常識に基づいたものでなければならない。同時に、日本国、日本人のアイデンティティを憲法の中に見出すことができるものでなければならない。」と要求していることからも証明できる。

 日本の「歴史・伝統・文化に根ざしたわが国固有の価値(すなわち「国柄」)」が「憲法として守るべき価値」だと位置づけることができるのは、それを優越的と把えているからに他ならない。

 このような優越的観念からは当然のことだが、人間の矛盾と、人間の矛盾の先にある社会の矛盾、国家の矛盾に向けた冷静・平等な相対的・客観的な視点を些かも窺うことができない。

 そのことを裏返すなら、彼ら国家主義者たちとその同類たちは日本の「歴史・伝統・文化」に矛盾(負の歴史・伝統・文化)が存在することを些かも認めてはいない。これは日本という国と国家を優越的であることを超えて絶対化することであり、それらの絶対化は同時に国家の指導者(勿論天皇が第一番に入っている)を絶対化することでもあろう。彼らを国家主義者とする所以がここにある。安倍首相が東京裁判でA級戦犯として裁かれた戦前の日本の国家指導者を「国内法的には」との理由付けで犯罪人ではないとするのも、絶対化したい衝動が優っているからだろう。犯罪人だと認めたなら、日本の「歴史・伝統・文化」に瑕疵・欠陥があると認めることになって、「歴史・伝統・文化に根ざしたわが国固有の価値(すなわち「国柄」)」が「憲法として守るべき価値」だと無条件的に位置づけることは不可能となる。いわば彼らの論理自体が破綻を来すことになる。

 「歴史・伝統・文化」の絶対化は政治がもたらした生活格差といった現在の矛盾(=政治そのものの矛盾)を隠す役目をも果たす。「歴史・伝統・文化」の優越化・絶対化によって、そのように素晴しい日本の「歴史・伝統・文化」が矛盾をもたらすはずはなく、〝日本的なるもの〟以外に原因を求めることをするからである。それは「占領政策を優先した結果」であり、安倍首相の言う「戦後レジーム」であろう。

 自国の「歴史・伝統・文化」に優越的絶対性を持たせた「愛国心」は常に国家主義の危険を伴う。あるいは自民族優越意識の芽を内に忍ばせることになる。
 
 明治・大正・昭和、そして戦後も暫くの間は貧しい農民は人間としての扱いを受けてこなかったが、特に江戸時代とそれを遡る封建制度を国家体制とした時代に於いては最低の扱いを常識とする社会の矛盾を日本の「歴史・伝統・文化」は抱えてきた。百姓たちが年貢で痛めつけられ、大飢饉で何万何十万と餓死者が出たときでも、武士からは餓死者を出さなかったという、まさに自己自身のために存在したのではなく、武士を生かすために存在した矛盾は歴史の事実として存在する。このような歴史的実態も「日本人が元来有してきた道徳心」からの成果なのだろう。

 これらの矛盾を一切捨象して、「愛国心」意識と「歴史・伝統・文化」の優越的絶対性を相互に響かせようと企む。このことはまた日本という国の絶対化であり、自民族の優越化・絶対化以外の何ものでもない。

 安倍晋三や中川昭一のような国民それぞれの個人性に自信を持てない内容空疎な政治家・人間程、全体的な形式でしかない国家を絶対化したい衝動を抱える。人間性ではなく、個人的な形式でしかない家柄や血筋を誇るようにである。

 「歴史・伝統・文化」を誇り、国家を誇ることで日本人としての誇りと自信を持たせようとするのだが、例えそう仕向けることができたとしても、カラ威張りと同じく実質的な能力性を備えない空虚な誇りと自信しか生まれないだろう。カラ威張りやカラ元気は戦前の大日本帝国軍隊の天皇の兵士のように緒戦にのみ通用して長続きしない痩せ馬の先っ走りで終わるものと相場は決まっている。

 「歴史・伝統・文化」の実態を美化する空虚を侵すことよりも、「歴史・伝統・文化」の一長一短を正直に客観視して、学ぶべき点と改めるべき点をそれぞれ教訓とすべく相対化し、「国はどうあるべきか」の参考料としていくことの方が遥かに懸命な「歴史・伝統・文化」の受け止め方ではないだろうか。

 安倍晋三は「保守主義」について、「現在と未来は勿論、過去に生きた人々に対しても責任を負うもの」とした上で、「百年・千年、日本の長い歴史の中で生まれた伝統が、どのように守られてきたのかということに対して、いつも賢明な認識を持っていくこと」が「保守の精神」だと定義づけているそうだが、現在に生きる日本人が「過去に生きた人々に対しても責任を負うもの」とするなら、「百年・千年、日本の長い歴史の中で生まれた伝統が、どのように守られてきたのかということに対して、いつも賢明な認識を持っていくこと」よりも、「現在と未来」に向けて正負を含めた日本の「歴史・伝統・文化」を如何に生かしていくかの知恵を働かす(=「認識を持っていく」)ことのほうは遥かに「賢明」と言える。

 大体が戦前の歴史認識では中国・韓国に対しては、「過去よりも未来志向」と言いながら、国内的には日本の「歴史・伝統・文化」を掲げて〝過去志向〟(「どのように守られてきたのか」)を演ずる二重基準の矛盾を平気で犯している。

 「国はどうあるべきか」への思索は同時並行的に規範意識の育みにもつながっていく。〝国〟(国家)は社会とその成員たる人間を含むから、「国はどうあるべきか」は「社会はどうあるべきか」、「人間はどうあるべきか」に必然的につながっていき、そのようなありよう(=あるべき存在様式)への問いかけは否応もなしに規範意識につながらざるを得ないからである。

 日本の「歴史・伝統・文化」を誇り、「愛国心」を煽り立て、その上安倍首相が「自由な社会を基本とし、規律を知る凜とした国」といった具体性のないスローガンでしかない抽象論を念仏のようにいくら声高に唱えようとも、「規律」も何も生まれはしない。

 すべきことは過去の存在様式よりも、それを現在と未来に反射させて「国はどうあるべきか」の存在様式を問うことであり、常に問い続ける姿勢(=「認識を持っていく」こと)をこそを優先させるべきであろう。「愛国心」云々よりも、より価値のある課題であると思うのだが。

コメント (1)
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