「家庭の教育力」なるもの
自民党小坂憲次郎前文科相出演のフジテレビ番組「とくダネ!」(06・11・17金曜日)/「与党が単独採決・・・教育基本法〝素朴な疑問〟に大物議員が生回答」の「家庭教育」編
(家庭教育)
第10条 父母その他の保護者は、子の教育について第一義的責任を有するものであって、生活のための必要な習慣を身に付けさせるとともに、自立心を育成し、心身の調和の取れた発達を図るよう努めるものとする
2 国及び地方公共団体は家庭教育の自主性を尊重しつつ、保護者に対する学習の機会及び情報の提供その他の家庭教育を支援するために必要な施策を講ずるよう務めなければならない
番組は上記条文の「責任は家庭」としつつ、そこへの国と行政の関与を問題提起し、教育評論家の小宮山博仁の文字で表した批判を紹介する。「国や行政の家庭教育に介入する可能性があり、家庭内にプレッシャーをかけることになる」
取材アナウンサーの解説「自分の家庭で今まで教えていたこと、国に対する価値観、親から子に伝えていたこと、それが国や行政が介入してしまったら、親はどうしていいか分からなくなってしまうといった懸念をお持ちです、ということなんですね。先生の間にも愛国心の教育を受けていない方が殆どですから、そういう部分を、じゃあ、今後どうしていくんだろうかといった問題も孕んでいます」
大物小坂議員の「生回答」は「家庭の教育力が低下していることは皆さんは認めていらっしゃいます。そいう中で子育ての悩みとかですね、そういうのが一杯あるわけです。例えば幼稚園ですね、子育てのような相談の機能を持たせる。小学校にもそういったカウンセリングの機能を持たす。そういうことですね、家庭を支援していくことが必要になってまいります。あの、そういった相談のための施設をですね、地方自治体もつくって、家庭を支援していきなさいということが理念として心掛けられてきましたので、各自治体の創意工夫の中で、そういう家庭をそういった意味で支援するようなですね、施設をつくっていただく。例えば訪ねてきたときは電話でも教育相談に応じますとか、あるいは家庭の子育ての悩みに電話で応じますとか、そういったことを積極的にやっていくことが一つの理念としてですね、掲げられておりますので、そういった意味で家庭の教育に内心とか、家庭のプライバシーに踏み込んでいくということでは決してないわけです。待ちの姿勢でみなさんが相談にいらっしゃる所の、そういうお答えをしましょうという施設を充実させるということが私どもの期待するところなのです」
司会者小倉「今子供たちの間でいじめが原因の自殺がとかあります。この辺には重要に関わっていることだと思うんですが、例えば教育委員会のあり方であるとか、家庭の在り方、学校の責任の取り方の問題。大変難しい問題ですよね」
藤村民主党文部科学担当「今の家庭教育ということで、そもそもじゃあ、子供の教育、責任は誰にあるんでしょうかということをやっぱ整理すると、我々の、実は政府案とほぼ似たことでありますけど、また家庭というのはやっぱ子供の養育に責任を一番持つというのはごく普通のことだと思います。これは理念として掲げた。そしてまあ、小坂前大臣おっしゃったようなこと以外に国とか地方公共団体が、まあ、運動として早寝早起き・朝ごはん運動とかいうのがありますね。こういうのは我々は支持しているわけですね。つまり、そういうことを側面から支援しながら、やっぱ家庭の中で子供をきちんと育てて頂きたい。そして保護者はやっぱ一番の責任があるんですよと言うことは自覚していただきたいというのが理念で、まあ、これは政府案と我々と殆ど一緒でございます。で且つ、今いじめとかおっしゃいましたが、本当に責任はどこにあるとか言うのが、今回の法案で与党と我々の案と偉く違うところでは、我々は責任の所在は割りと基本法ではっきりとさせた。つまり一つは最終的に国が責任を持つと。ナショナルスタンダードであるとか、おカネをきちんと担保することとか、法律をきちんとつくること。しかしその他のことは殆ど学校にですね、現場に、それも校長さん一人ではなしに、学校の、地域の方、保護者の方、教育の専門家の方などが学校を、理事会つくってですね、そこできちんとつくってやってください、一番子供に近いところで、大方の責任を持ち、運用してください。そういうとこが今回の政府案と大きな違いではないかと思っております」
小坂大物「我々は違いとは思っていないんです」
藤村議員「実はわれわれと政府案の決定的に違うのは教育委員会の存在ですね。これは小学校のお母さんがうちの子に実は弁当を持っていかせたいと言った。で、先生に相談した。先生は、それは自分では決められない。校長に相談した。校長は自分でも決められない。市教育委員会に相談した。市教育委員会はそれは偉いことだと、県教育委員会に相談した。県教育委員会はそれはなかなか重要なことだと文科省に相談した。文科省はそれはみなさんで決めてください。文科省は指導と助言しかできません――というたらい回しが起こっている。この中間的な教育委員会は我々はなくそうと言うのが、ここが決定的な仕組みの面でも実は違うところですね」
小坂「教育委員会はですね、やはり中立的な立場としてですね、いわゆる市長、、組長さんと呼ばれる知事(暴力団の組長に擬えているとしたら、見事なまでの比喩である)、そして市町村長さん、そういった人の意向に従って教育が左右されないように第三者機関としての委員会というのは必要だと思います。ただ、教育機関の在り方という、たとえばスポーツとか文化も今教育委員会の担当になっていますが、こういったものは知事さんとか市町村長さんに委ねても私はいいと思っております。ですから、教育の根幹に関わるもの、やはり教育というのは国でちゃんとしっかり責任を持つべきだという意見は私ども一緒です。そういう意味で、それとちゃんと中間的にですね評価して、その地域に於いてちゃんと見守っていく機関は置いておくべきだと思っております」
小倉司会者「エー、ハイ、まあ時間がないんで、それはそうですね、国会の審議が100時間以上やったものを我々がここで(前回記事の愛国心問題議論も含めて)35分でやるのは無理に決まってるわけで。(テレビの前の視聴者に向かって)みなさん、分かりました?分かりました、みなさん、争点って?これでもまだよく分からないでしょ?恐らく政府案をじっくり見ても、前の(現行教育基本法)と比べてみても、案外微妙なニュアンスしか伝わってこない。そこが難しいとこなんですね・・・・」――
瑣末なことを回りくどく言い合うばかりだから、35分あれば十分に議論できることを不可能にしてしまう。
教育基本法は理念法だと言う。「国及び地方公共団体は家庭教育の自主性を尊重しつつ、保護者に対する学習の機会及び情報の提供その他の家庭教育を支援するために必要な施策を講ずるよう務めなければならない」は日本の教育に付け加えなけらばならない理念の一つだと言うのだろうか。〝理念〟とは追い求めるべき理想の形を言うはずである。
「必要な施策」とはその具体的内容を小坂大物は、幼稚園や小学校に子育ての悩み相談の機能を持たせる、電話でも受付ける、そういった施設(電話相談部門)を併せ持たすことだと。「例えば訪ねてきたときは電話でも教育相談に応じますとか、あるいは家庭の子育ての悩みに電話で応じますとか、そういったことを積極的にやっていくことが一つの理念としてですね、掲げられておりますので」とは言っているが、単にそういったことの実現を日本の教育が目指すべき理念だとでも言うのだろうか。言えるとしたら、何とまあ次元の低い理念かということになる。学校教育法とかで定めるべき方策の類であろう。それを教育基本法に設けるのは国及び地方公共団体の関与を一応押さえておきたいからではないだろうか。
「父母その他の保護者は、子の教育について第一義的責任を有する」
確かにその通り。但し「父母その他の保護者」は家庭社会と、それと接する一般社会に於ける生活態度や規範に関わる「子の教育について第一義的責任を有する」のであって、学校社会に於ける生徒の教育及び生活態度については学校・教師が「第一義的責任を有する」ものとし、それぞれの責任・役割分担を明確に区別しなければならない。第十三条の学校は「教育におけるそれぞれの役割と責任を自覚する」だけでは不足であろう。
なぜなら、家庭社会と学校社会とではある意味別個の集団社会だからである。当然「生活のための必要な習慣」も違ってくる。一段進んだ学校社会という現実の場で新たに学ばなければならない生活習慣、規範といったものがあるはずである。学校・教師が単に暗記学力の植え付けにのみに専念して、生徒の学力向上を自己の評価とする生徒管理・教育を行うばかりで、新たな集団社会生活に必要な生活態度・規範を学ばせることができなければ、学校・教師は第一義的責任を果たさず、逆に放棄していると言える。いわば、学校社会に於ける生徒の生活態度の乱れの責任を家庭にのみ押し付けることはできない。
例えば、家庭では親のしつけを守り、早寝早起きは勿論、挨拶をしっかりとすることも知っていて、勉強もし、小中高と成績だけではなく、生活態度も立派で、有名大学に進学して卒業後何々省といった国の中央行政機関に勤務し、何年か後に地位を利用して予算の一部を私的に流用する。それをそもそもの家庭の教育が悪かったからだと責任を全面的に押し付けることができるだろうか。省庁職員の一般化した犯罪・コジキ行為の蔓延からすると、中央行政機関社会の規律や規範意識、職務習慣が強く影響していたことも考えられることで、本人の責任ではあるが、行政機関長あるいは上層部の管理・監督により重要な責任を置くべきだろう。
このことを学校社会に準えると、遅寝遅起きを習慣としていて学校に遅刻するようなら、学校社会には学校社会のルールがあること、集団生活で成り立っている社会であることを教え、守らせるだけの教育力・管理能力を学校・教師は持たなければならない。いわば家庭内での遅寝遅起き習慣と学校での遅刻とは別問題としなければならない。「君は家でどんなに遅く寝ようと、どんなに遅く起きようと自由だ。しかし、学校の登校時間は守らなければならない。守れなければ、学校社会の一員としての資格を失う」
と言うことは、早寝早起き運動・朝ごはん運動など瑣末な問題となる。
大体が親にしろ教師にしろ、それぞれの活動空間を〝社会〟だと把える認識を有していないのではないか。それぞれの社会はその社会に特有の成員と成員間で決めたその社会を機能させるためのルールによって成り立っている。と同時にそれぞれの社会同士は何らかの形で関わっていて、その関わりに於いてもそれぞれが支障なく関わっていくための特有のルールが存在する。いわば決められているルールを守ることによって、社会を機能させることができる。遅刻はいけないという校則は学校社会を機能させるためのルールの一つであって、遅刻者一人の問題ではない――。
小学校に入ったときから、すべての生徒に、一人一人は単なる学校の生徒ではなく、それぞれが学校社会を構成する成員の一人であり、成員同士が学校社会のルールに則って集団をつくり、学校社会を成り立たせていく責任を有している。一人でも、そのルールを侵すことは許されない――といったことを機会あるごとに伝えていかなければならない。そう伝えて理解できる年齢に達していなくても説き聞かす習慣をつけることによって、理解できないなりに集団、その一員、ルールとかの核心を成すキーワードが自然と記憶に沁みついていき、時間の経過と共にその記憶は理解の形を取っていくはずだからである。
大物小坂議員は「家庭の教育力が低下していることは皆さんは認めていらっしゃいます」と言っているが、だとしたら、学校の教育力も低下しているとしなければならない。学校社会が学校社会で自らの社会に必要なルール(規範・規律)を学ばせることができるなら、いわば学校の教育力が低下していなければ、家庭の教育力の低下をそれなりに補って、それなりの秩序を保つことができ、家庭の教育力の低下を問題としなくて済むからである。
特にいじめ問題では責任逃ればかりで学校の危機管理が機能しない醜態は学校の生徒管理能力だけではなく、教育力の低下をも如実に物語るものだろう。学校社会に於いては生徒管理も教育も、その二つに亘って人間形成を育むための同じ教育行為だからである。
当然、教育力の低下という点に関しても、家庭だけの問題とすることはできなくなる。家庭社会の機能が低下し、学校社会の機能も低下しているということだろう。家庭が「子の教育について第一義的責任を有する」だけとするのは学校側からの家庭への責任転嫁に過ぎない。あるいは文科省等の教育行政の責任を家庭に転嫁するものだろう。
果して家庭の教育力は低下したのだろうか。確かに夜更かしとか、その結果としての遅起き、朝食抜きといった家庭社会の変化を認めることができる。その原因が家庭の教育力の低下によるものなのだろうか。現在と現在以前との最も大きな変化は親が恐い存在ではなくなったという権威主義性の低下であろう。勿論この低下は親だけを対象としたものではなく、学校の教師についても言えることで、教師は怖い存在でなくなった。現在子供・生徒にとって親や教師が怖い存在なのは精々小学生の間ぐらいのものだろう。勿論社会の大人も恐い存在ではなくなった。中学生高学年の女子生徒や女子高生に何か注意しようものなら、「うっせい」とか「うざったいんだよ」と罵り返されかねない。そういった光景が不思議でもない大人の威嚇を失った時代となっている。
もし家庭の教育力が低下したと言うのが事実なら、それは権威主義性の低下と連動した変化と言える。例えば子供が年齢の低い間は親の言うことを聞くルール厳守が親の教育力の効果だとすると、中学・高校生になって言うことを聞かなくなるルール状況の変化は今までは機能した教育力の低下、もしくは喪失では説明不可能となる。家庭の教育力はしつけの基本を構成するもので、年齢にはさして関係ない。教育力がカギではなく、年齢が機能変化の要因と言うことだろう。親の権威主義性が子供の年齢の変化を受けて、言うことを聞かすだけの力を失ったと考えるのが最も妥当な答のはずである。
ということは、家庭の教育力と把えていた親の能力は幻想で、上位権威者が持つ下を従わせる権威主義性に過ぎなかったということではないか。「生活のための必要な習慣を身に付けさせるとともに、自立心を育成し、心身の調和の取れた発達を図る」子供へのしつけは親の教育力が成否のカギを握っていたのではなく、権威主義性が有効かどうかが決定要因となっていたと言うことだろう。
いわば子供をしつけていた力学は教育力に裏打ちされた権威主義性ではなく、権威主義性に裏打ちされた教育力であった。教育力に裏打ちされた権威主義性であったなら、権威主義性が時代の影響を受けて弱体化しても、本質部分は時代の影響を受けない構造の教育力は残るはずだからである。
時代によって起床時間に違いはあっても(陽が昇ると同時に働き、陽が沈むと仕事を終了するという時代もあった)、仕事の時間に間に合うように起床するという原則的なルールは時代によって変化はないはずだし、起床して親と顔を合わせたとき正座して三つ指を突いたり、畳に額がつく程に深々と頭を下げておはようの挨拶をするといった時代や階級に応じたスタイルは時代の変化を受けたとしても、何らかの声をかけて朝の挨拶をするという本質部分のルールに変化はないはずである。それが顔を合わせても、ウンともスンとも言わない。「ご飯は」と声をかけても、黙って2階に上がってしまう。そういった本質部分のルールが機能不全に陥っているのは明らかに教育力が権威主義性におんぶして機能していたことの証明であり、権威主義性の低下を受けて教育力が機能不全と化した現象であろう。
もし家庭の教育力が低下したとされる状況が日本社会全般に亘る現象であるなら、家庭の教育力と言える程の教育力は日本の家庭社会全般に亘って存在していなかったことになる。あったのは確かな権威主義性で、子供は親の発動する権威主義に親が恐い存在であると言う唯一その理由によって無条件に従った。
そう、単に従った。自律的選択ではなかった。今自民党政府は国民に改正憲法や改正教育基本法で国民を従わせようとするかつての権威主義性を復権させようとしている。
権威主義性がしつけの決定要因だとすると、いくら教育基本法に「父母その他の保護者は、子の教育について第一義的責任を有する」と謳ったとしても、それを理念とすべきだと言おうが言わないが、さして効果はないことになる。自分たち国家権力だけが権威主義性を復権させるのではなく、親が恐いとする封建的な強権性の権威主義をも名誉回復させ、それとの抱き合わせでなければ、日本の家庭の教育力は力を発揮できないからである。
日本人は家庭社会で子供の規範意識、ルール意識をただの鉄板に金メッキするように権威主義に頼って従わせる形式の植えつけを行ってきた。第10条「家庭教育」は「自立心を育成し」と謳っているが、以前から日本人は「自立なき国民」と言われている。このことも日本の家庭社会が子供のしつけ・規範を権威主義に依存して行ってきたばかりではなく、学校社会にしても会社社会にしても同じパターンの繰返ししかできなかったことの証明でしかない。権威主義は従うこと(=従属)を教えても、どのような自立(自律)も教えないからだ。権威主義の磁場に於いては、従属は自立(自律)を敵対価値観として排除する。
日本の大人が今まで所持していた強権的な権威主義性を失うに伴って、教育に関して家庭社会は機能しなくなり、学校社会も機能不全の状態に陥っている。民主党の藤村修文科担当は弁当のエピソードを用いて「中間的な教育委員会」の組織的な機能不全を言い、教育委員会の廃止を訴えているが、そのような教育委員会の機能不全は家庭社会における子供の教育に関する機能不全、学校社会に於けるいじめに代表される人間形成に関わる機能不全、あるいは2002年実施の総合学習とその前身である「ゆとり教育」の導入の際、それを具体化する教科書がないためにどのような内容の授業をしていいのか判断に迷って学校側が弁当問題と同じく文部省に指示を仰ぎ、文部省がサンプルまで示して授業内容を指示するといった教育に於ける主体性の致命的な機能不全と対応し合う現象であって、機能不全を理由に教育委員会を廃止すべしとすると、家庭も学校も廃止しなければ公平を欠くことになる。
児童相談所に於ける児童虐待(死)に機能しない状況も、同質同根の問題であろう。あるいは中央行政機関や地方公共団体に於ける談合・裏ガネ・怠慢・非効率・職務違反・不正・コジキ行為等々に見る組織的機能不全にしても子供時代の家庭や学校でのしつけ・規範教育、あるいは人間形成教育が自律的選択による獲得物ではなく、単に従属によって獲ち取った金メッキであったことの証明であり、自律的行動性の欠如という点で他と同じ線上の名誉ある機能不全であって、何も教育委員会に限った現象ではない。多分、日本全体の問題ではないだろうか。
となれば、それぞれの社会・組織に巣食う非自律性・権威主義的従属性を解決しないことには、民主党が言うように教育委員会を廃止して、「地域の方、保護者の方、教育の専門家の方などが学校を、理事会つくってですね、そこできちんとつくってやってください、一番子供に近いところで、大方の責任を持ち、運用してください」といった組織を新たにつくったとしても、同じく機能しない第二の教育委員会となりかねない危険性を抱えることになる。
当然、教育委員会の廃止の有無といった問題ではなく、権威主義的従属性の排除と自律性の獲得を先決問題としなければならないが、存在もしなかった「家庭の教育力の低下」といった方向違いな論理矛盾を犯して何ら疑問を感じない、政治家も含めて多くの日本人に見られる客観的認識性の欠如も問題としなければならないのではないだろうか。
例えばテレビで昔はタバコの吸殻のポイ捨てはなかった、街はきれいなものだったとさも今の人間の規範意識が低下しているような小賢しいばかりの発言をしていたテレビタレントがいたが、今のようなストレス社会ではなかった時代は一般的に吸うタバコの本数が少なく、当然吸う時間の間隔が長かったこと、また人間の移動が少なく、吸う空間が限られたこと(江戸時代を例に取るなら、一般的には休日は盆暮れしかなかったから、吸う機会は殆ど家と職場かその往復の移動空間に限られただろうし、一人前になるまで住み込みが社会慣習となっていたから、なおさら外で吸う機会は少なかったろう。今の時代は労働時間も短くなり、休日も増えているから、その分外で吸う機会が多くなっている)、さらに二昔か三昔前頃までは女性の喫煙者がいわゆる水商売の女性にほぼ限られていたこと、それも現在のように歩きながら吸う習慣はなかったこと、親を含めた大人の権威主義が効いていて、未成年の喫煙者が少なかったこと(敗戦直後は親兄弟、家を失った小中学生に当たる浮浪児が食べ物を満足に手に入れることができない口寂しさを紛らわすためか、いっぱしの大人並みにタバコをふかしている光景が例外的に一般化していた。彼らは世の中を斜めに見ていたことだろうから、決して吸殻入れに吸殻を捨てるような丁寧なことはしなかったろう)、そういった社会の事情の上に道路上やその他の場所で見かけることがなかっただけのことで、吸殻入れを持ち歩いて、そこに捨てたり、あるいは吸殻入れが置いてある限られた場所まで捨てに行ったりしていたわけではない。もしそうしていたなら、花見といった物見遊山や催事が終わった跡に紙くずや弁当かす、座布団代わりに使った新聞紙が山のように捨てられている江戸時代やさらにその昔から現在まで続く光景は同じ規範意識の働きによってマウスをなぞるようにいとも簡単に削除されていたことだろう。また散歩中の犬の糞の始末の習慣化は最近ではなく、遥か昔に実現させていたに違いない。いわばポイ捨てされた吸殻が目立たなかっただけのことで、規範意識に関してその低さは時代の影響をさして受けていない。単に本人の客観的認識能力が欠如しているだけの話で、そのことに気づいていないから、昔は――といった話になる。