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民主党山岡国対委員長に聞く ― 何回当選したなら、「政治家ヅラ」が許されるのか

2009-09-17 10:45:48 | Weblog

 《「政治家ヅラするな」チルドレンにガイダンス…民主》(2009年9月16日08時18分 YOMIURI ONLINE)――

 民主党が15日、国会近くのホテルの大広間を借り切って、菅直人代表代行や山岡賢次国対委員長、平野博文役員室担当ら党首脳を指南役に今回当選した新人と元議員195人を対象に議員心得のガイダンスを開いたという。時間は2時間20分に亘り、内容は特に注意すべきこととしてマスコミ対策。ヨイショするとなったら、徹底的にヨイショするが、叩くとなったならヨイショしたことも忘れて徹底的に叩くから気をつけるべしということなのだろう。

 一般社会の一般的慣習から外れていても自分では刺激的な恋愛の一つとしか思っていない男関係のスキャンダルが発覚することも面倒を誘うが、ちょっといいことをして持ち上げられ、何様気分にさせられていい気になる、いわば天狗にさせられて、その気になって不用意に行動すると思わぬことで足をすくわれ、今度は逆の扱いで叩かれて、その落差が大きい程負う傷も大きくなって、有権者の拒絶反応となって撥ね返ってくるといったこともあるから、マスコミの持ち上げ―― ヨイショには余程の注意が必要になる。

 出席者を上回る数百人もの報道陣が詰めかけたというから、特に「小沢チルドレン」と呼ばれている新人議員、その中でも若い女性議員がマスコミネタの格好の提供者として注目を集め、その一挙手一投足が鵜の目鷹の目で狙われることになる。

 「FNN」(フジテレビ)が動画で横粂勝仁新人議員を横須賀市内の事務所から新しく宛がわれた議員会館の自室、そこからタクシーを利用せずに徒歩で地図を片手に会場のホテルに時間に間に合わせるように小走りに走って時間ギリギリに到着する姿を途中途中を省きながらずっと追っかけていたのは小泉純一郎元首相の世襲候補小泉進次郎の対立候補として神奈川11区から民主党候補として立候補したが、ジバン・カンバン・カバン共雲泥の差があること、また小泉進次郎の政治家一家という由緒ある経歴と違って、父親はトラック運転手、本人は奨学金とアルバイトで東大法学部を卒業後弁護士となったこと、土地の祭りの中で握手しようと進次郎に手を差し伸べたが無視されて逆に知名度を上げたこと、小泉王国と言われる中で父親の純一郎が4年前の郵政選挙で獲得したこれまでトップだった19万7037票から4万6千票奪う、進次郎15万893票に対する9万6,631票も獲得したなかなかの健闘振りといった話題性が豊富にあったからだろう。マスコミは話題性の上に新たな話題性を創り上げて対象人物の注目度を高め、視聴者の目を惹きつけるが、マスコミのつくり上げたものでもある注目度を自身がすべてつくり上げたと錯覚する者が中にはいる。

 ガイダンスは冒頭の菅代表代行の挨拶のみが公開で、あとは非公開だったということだが、早くも秘密主義の発揮なのか。堂々と公開で最後まで遣り通せばいいと思うのだが、あくまでも身内の研修集会と言うことで非公開なのか。だとしても新人議員の場合(マスコミ側からしたら新人議員以外にさして興味はないのではないのか)、マスコミのどんな内容だったのかという質問に正直に答えないと、早くもお高く止まっていると非難されるのは目に見えているから、中身は自ずと知れて、準公開の様相を呈するのは目に見えている。

 実際に記事は出席議員に対する質問を武器に内容を炙り出している。

 山岡国対委員長「1回の選挙で当選したからと言って、政治家ヅラしちゃいけない」

 平野役員室担当「議員はメディアに狙われやすい。秘書も慎重に選ぶように。・・・・酒席の振る舞いも見られている。・・・・何かとマスコミの標的になりやすい。のぼせ上がってはいけない」

 その他過去の事件の反省から、勤務実態のない公設秘書を雇うような行為は厳しく慎むようにという指示が出たという。

 次いでガイダンスを受けた議員の声。

 江端貴子議員(東京10区で小池百合子元防衛相を破った。49歳)「内容が事細かで、与党になった責任を感じてもらいたいという党の姿勢が表れていた」

 小山展弘議員(静岡3区。33歳)は「国会の中には議員を尊大にさせたり、思い違いさせたりする強い空気があることがわかった。自分は目立たなくてもいいから、地元のために地道な活動をしていきたい」

 福田衣里子議員(長崎2区。28歳)「小沢ガールズなどと言われないように努力していきたい」

 相互に関わりのある行動態度としての「責任と節度」を求められたようだ。

 記事は最後に次のように書いている。

 〈石川2区で敗れ、比例復活した田中美絵子議員(33)は、立候補前の映画出演などの経歴が一部メディアで報道されたためか、無言のまま足早にエレベーターへ乗り込み、会場を後にした。〉――

 立候補前どころか議員後もヌードになって欲しい議員だと思うが、どんなものだろうか。

 4人の新人議員を取り上げているが、内男性議員は1人、女性議員が3人。どちらにより注目しているか、取り上げ方でも分かる。唯一男性の小山展弘議員は一人ぐらい男を入れないと女性議員ばかり取り上げてと批判を受けかねない、その予防のための単なるバランス要員ではないかと疑えないこともない。

 山岡国対委員長が「1回の選挙で当選したからと言って、政治家ヅラしちゃいけない」と言ったあと、どう続けたか詳しく知りたいが、詳しく伝えている記事は見当たらなかった。

 山岡国対委員長の感覚・常識からしたなら、何回当選したなら、「政治家ヅラ」が許されるとしているのだろうか。山岡賢次は衆議院4回、参議院2回の計6回当選しているということだが、6回も当選したなら、「政治家ヅラしてもいい」と言ったのだろうか。

 言ったとしたら、あの顔は「政治家ヅラ」の見本となる。政治家ヅラが許される程の当選回数を重ねていると自らを見ていることになる。

 「政治家ヅラをする」とは自身を何様の政治家に見立てている人間の態度を言うはずである。国民のことを何も考えていないことによって可能となる心理状況が何様の政治家ヅラといったところだろう。
 
 こう言うべきではなかったろうか。

 「何回当選しても、政治家ヅラしてはいけない。ましてや1回の選挙で当選したからと言って、政治家ヅラするのは以ての外だ。そんなことをしたら、2回目の当選につながらないだろう」

 1票を提供する国民と常に対等の位置に立つことが国民目線を意味するはずである。

 尤も選挙となったなら、「政治家ヅラ」の仮面を外して自宅金庫に後生大事にしまい込んでそのときだけ国民目線を言い立てたなら、よくある手で、2回目の当選をも約束することになるかも知れない。

 冒頭掲載写真は「国会正門が開門し、議事堂に一礼する新人議員ら=16日午前8時」と「東京新聞」インターネット記事は解説している。

 深々と余りにも深々と頭を下げている。謙虚さの表現であろうが、マスコミのカメラ・人目のある場所で見せる形式・儀式の類で済ませることのできる謙虚さでもある。謙虚な姿勢は政治活動を負託した背後に控える国民に向かってその負託に恥じないように日常普段の政治活動の中で陰日なたなく、いわばマスコミのカメラが待ち構えていようがいまいが、人目があろうがあるまいが見せるべき姿勢であって、その心構えがあったなら、いくら国会議事堂だからといって、建物に深々と頭を下げてもさして意味は生じまい。

 国会議員は背後に控えている国民との関係で活動を成り立たせ、そこに責任を置くという構図からしたら、国会議事堂に深々と頭を下げている姿勢は逆に背後に控えている国民に尻を向けた姿勢となる。

 高校の野球部員は対外試合でバッターボックスに入るとき、帽子を取って挨拶をする。それが高校生らしさ、スポーツマンらしさ、謙虚な若者を示す礼儀上の表現となっている。

 だが、今年の夏の甲子園に出場したあと、酒田南高野球部員の7人が寮で飲酒・発覚した事件はバッターボックスでの礼儀上の表現・謙虚さが形式・儀式の類でしかなかったことを証明している。観客の前では礼儀正しい姿を披露していた甲子園球児が後輩部員に体罰を振るった、万引きした、性犯罪を犯したといった話題も絶えない。

 国民が望むのは目に見える場所での態度以上に目に見えない場所での態度であろう。そこに肝心さを置いているはずである。目に見えない場所での態度は、それが不正・邪な態度の場合、目に見える場所での態度に自分から関連付けることは決してないからだ。いわば目に見える場所での態度はその態度だけでその人間の人格の証明にはならない。

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サダム・フセイン独裁権力支持者のみがブッシュに靴を投げつける資格を有する

2009-09-16 11:17:13 | Weblog

  
 昨年(08年)12月14日にバクダッを電撃訪問、イラクのマリキ首相らと会談、首相との共同記者会見に臨んだブッシュアメリカ大統領目掛けて、「これはイラク人からの別れのキスだ。犬め」(毎日jp)とアラビア語で叫んで靴を投げつけ、逮捕されて一躍アラブ世界の英雄となったイラク人記者ムンタゼル・ザイディ服役囚(29)が9月15日(09年)、バグダッドの刑務所から釈放されるという。

 当初禁固3年の判決を受けたが、その後、禁固1年に減刑。模範囚であることから、さらに早期釈放されることになったと「asahi.com」記事――《靴投げ記者釈放へ アラブの「英雄」に贈り物・求婚続々》(2009年9月14日21時9分)が伝えている。

 〈米国のイラク占領に抗議した「英雄」としてたたえるアラブ諸国では、釈放を前に祝賀ムードが漂っている。ザイディ氏の家族によると、本人が所属するテレビ局からは高級住宅、カタール首長からは純金の馬の彫像、リビアの最高指導者カダフィ大佐からは最高栄誉章を与えるとの約束があったほか、スポーツカーや資金提供の申し出、求婚も相次いでいる。

 イラクの複数の政党からは、来年1月の国民議会選挙への立候補を打診されている。本人は人権団体などで女性や孤児のために働くことを希望しているという。〉・・・・・

 そして記事どおりに15日に釈放された。釈放後の記者会見の模様を「asahi.com」記事――《「花ではなく靴を投げつけ、適切だった」イラク記者釈放》(asahi.com/2009年9月16日3時5分)が次のように書いている。

 「占領によって何百万人もの夫を失った女性や孤児を生み出した『戦犯』に花ではなく靴を投げつけたのは、適切な反応だった」

 (アラブ圏で英雄視され、政界入りも取り沙汰されていることに関して)「私は英雄などではない。政党には属さない。今後は孤児らのために働きたい」・・・・・

 ブッシュは「占領によって何百万人もの夫を失った女性や孤児を生み出した『戦犯』」だと言う。

 確かにブッシュのイラク戦争がサダム・フセインの独裁体制が恐怖と威嚇でつくり出していた国内秩序を砂壊し、イラク軍の残党による抵抗等で極度な治安の混乱をもたらした。その混乱を利用してアメリカ軍のイラク進出をアラブ世界に対する侮辱であり、侵略だと受け止めたイスラム原理主義者たちが引き起こしたテロ活動とその制圧に向けたアメリカ軍との間の戦闘が非戦闘員である多くのイラク国民の生命を奪った。

 いわばサダム・フセイン独裁体制の強圧的な国内秩序下では起こり得ない「何百万人もの」イラク国民の生命の喪失、犠牲であった。

 このことを裏返すと、イラク国民の生命は独裁体制を批判して、批判しなくても、批判したとの疑いをかけられたり密告されたりして逮捕され、政治犯として収容所にぶち込まれて拷問を受けたり死刑にされたりして命を奪われた一部の市民を除いて、サダム・フセイン独裁体制の強圧的治安、その国内秩序によって守られていたことを意味する。

 だが、その守られた生命とは人間が人間として存在するための基本的人権として認められ、与えられるべき思想・表現の自由、その他の自由を奪われ、どこで情報機関が目を光らせているか分からず、国家権力に監視されて息を潜めて日々を生きる生命だったはずである。

 応分の喜怒哀楽の感情は許され、生きてはいるが、人間として話したいことを話し、表現したいことを表現し、希望したいことを希望する十全な生命を保障された状態から程遠く、ある意味死んだ生命を生きてきたと言える。

 もしも「占領によって何百万人もの夫を失った女性や孤児を生み出した」のだと、それが唯一の事実だとしてブッシュのイラク戦争を否定するなら、靴投げ本人はそうなるとは決して思ってはいないだろうが、サダム・フセイン独裁体制の強圧的な国内秩序下では起こり得なかったこととして、サダム・フセイン独裁体制を肯定することになる。

 なぜなら、イラク国民は自らの力で独裁者サダム・フセインを倒したのではなく、結果はどうあれ、独裁者サダム・フセインを倒したのブッシュだからだ。イラク国民が自らの手で倒せなかったという事実は、そこにブッシュのサダム・フセイン打倒という事実が介在しなかったなら、次なる事実としてサダムは長男がウダイだか“ウザイ”だか、自国サッカーチームが対外試合で負けると選手に懲罰の暴力を振るうような凶悪な人間か、日本語の感覚からしたらいかがわしげな印象しか与えない弟のクサイのうち、どちらか1人に独裁権力を父子継承の形で受け継がせ、息子はさらにその息子に父子継承していくイラクの歴史を生み出していたことは確実で、そのような歴史を負うこととなるイラクはサダム時代と同様に一部の市民は独裁体制を批判して、批判しなくても、批判したとの疑いをかけられたり密告されたりして逮捕され、政治犯として収容所にぶち込まれて拷問を受けたり死刑にされたりして命を奪われることはあっても、「何百万人もの」といった命は奪われることなく、大方のイラク国民は人間が人間として存在するための基本的人権として認められ、与えられるべき思想・表現の自由、その他の自由を奪われ、どこで情報機関が目を光らせているか分からず、国家権力に監視されて息を潜めて日々を生きる生命でしかなくても、応分の喜怒哀楽の感情は許され、生きてはいるが、人間として話したいことを話し、表現したいことを表現し、希望したいことを希望する十全な生命を保障された状態から程遠い、ある意味死んだ生命を保障されることは確かである。

 ブッシュのイラク戦争の否定がそのことによってサダム・フセイン独裁体制が唯一イラクの選択として残されることとなり、それ故にその肯定となる以上、サダム・フセイン独裁権力支持者のみがブッシュに靴を投げつける(=否定する)資格を有することになる。

 また、「占領によって何百万人もの夫を失った女性や孤児を生み出した」国内治安の悪化はブッシュだけの責任ではなく、イスラム教を絶対無誤謬だとする、あるいはイスラムでも自分たちの宗派を絶対無誤謬だとする独善からの他宗教排除、他宗派排除の愚かしい敵意や反発がもたらした宗派間闘争――イスラム教スンニ派のイスラム教シー派に対する自爆テロ、爆弾テロ、あるいは逆のイスラム教シーア派のイスラム教スンニ派に対する自爆テロ、爆弾テロが加担した「何百万人もの夫を失った女性や孤児を生み出した」矛盾でもあるはずである。

 もしも靴投げ本人がブッシュのイラク戦争否定がサダム・フセイン独裁権力肯定を裏返しの事実としていることに気づいていないとしたら、その無知は「これはイラク人からの別れのキスだ。犬め」と投げつけた一足の靴がブッシュが咄嗟に頭を下げてよけたために当たらなかったことに象徴的に表れている。否定はかわされた
のである。

 ブッシュはよけたあと、「事実を得たいなら(投げられた靴の)サイズは10だ」(毎日jp)と冗談を飛ばしたそうだが、例えブッシュが「占領によって何百万人もの夫を失った女性や孤児を生み出した『戦犯』」だったとしても、何足靴を投げつけようと、サダム・フセインの独裁権力を倒したのはブッシュのイラク戦争であり、イラク国民自らの力ではないという事実、その歴史は残る。イラク国民のためにも残さなければならない。

 日本は戦後民主主義を手に入れるために戦争でイラク国民の犠牲とは比較にならない、日本の軍人・民間人併せて300万人とも言われる犠牲者を必要とし、アジアの国々に対しても1千万人以上の犠牲者を生贄とすることとなった。すべてが愚かしさから出発した事実であり、日本の歴史であろう。

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宇宙よりも足許の地球、その世界

2009-09-15 04:59:31 | Weblog


 〈1961年、アメリカ合衆国大統領ジョン・F・ケネディは、1960年代中に人間を月に到達させるとの声明を発表した。1969年7月20日、宇宙飛行士ニール・アームストロングおよびバズ・オルドリンがアポロ11号で月面に着陸したことにより、その公約は実現される。アポロ計画ではその後5回の月面着陸が行われ、1972年にすべての月飛行計画は終了した。〉(Wikipedia)――

 有人宇宙船アポロが月面着陸、人類史上初めて人間が月に降り立った瞬間、人類の偉業と持て囃された。

 現在国際的な宇宙開発事業として国際宇宙ステーション(ISS)の建設が進められている。 

 〈「国際宇宙ステーション(International Space Station、略称ISS)は、2010年の完成を目指して、アメリカ、ロシア、日本、カナダ、欧州宇宙機関(ESA)加盟11カ国が協力して建設を進めている宇宙ステーションである。

 地上から約400キロメートル離れた地球周回軌道(地球低軌道)上を一周約90分で周回しながら、地球および宇宙の観測、宇宙環境を利用したさまざまな研究や実験を行うための巨大な有人施設である。

 1999年から軌道上での組立が開始され、2010年4月に完成予定。2016年までの運用が予定されている。ISS計画において運用完了までに要する費用は1540億USドルと見積もられており、これまでの人類史上で最も高価なプロジェクトである。〉(Wikipedia)――

 「1540億USドル」――昨日の1ドル90円の為替計算でも、13兆8600億円。科学技術の高度な革新のためにはカネの計算はすべきではないのだろうか。

 だが、「1540億USドル」で終わらない。例え予算が削減されても、今後とも宇宙開発は続けられるだろうし、アメリカがこれまでに宇宙開発事業につぎ込んで来た予算にしても膨大な金額になるはずだ。

 11日未明(09年9月)、上空400キロの国際宇宙ステーションに食料や実験装置など4.5トンを積載・運搬する日本初の無人補給機「HTV」(全長約10メートル、直径約4.4メートルの円筒形)が国産最大のロケット「H2B」1号機で打ち上げられ、軌道に乗せることに成功した。1週間後、ステーションに到着予定だそうで、〈物資を移した後、廃棄物を積み込んで離脱し、大気圏に突入して大部分が燃え尽きるという。〉と「西日本新聞」インターネット記事――《H2BとHTV 日本の宇宙新時代を開け》が伝えている。

 記事は最後に次のように書いている。

 〈宇宙開発には巨額の経費がかかる。だから国際協力は欠かせない。そのなかで日本の宇宙新時代をどう切り開くのか。新政権も論議を急ぐべきだろう。〉――

 「YOMIURI ONLINE」記事――《シャトル代替に存在感…HTV初飛行》((2009年9月12日01時16分)は、〈HTVは、これまで米スペースシャトルでしか運搬できなかった機器を積める、唯一のシャトル代替手段。シャトルの退役が迫る中、ISSの維持に不可欠な輸送機として、日本の責任と存在感を増す役割も担っている。

 ――(中略)――

 飛行中のHTVは、18日にISSへ到着する。地球を秒速約7・7キロ・メートルで周回する軌道上での接近、結合を安全にこなせれば、「HTVを有人宇宙船に」という夢へ一歩近づく。〉と書いている。

 日本の宇宙新時代を開く「HTV」の可能性は大きなものがあるに違いない。可能性が大きければ、国民の期待も比例して大きく膨らむ。だが、目を宇宙から足許の地球、その世界を見たとき内戦、紛争、貧困、飢餓が絶えない。独裁国家が圧制を敷いて、国民の自由を奪い、苦しめている。

 イラクでは都市部からのアメリカ軍の撤退を機に宗派間闘争や外部テロ組織による自爆テロ、車爆弾テロ等が再び激化し、イラク国民の犠牲がとどまるところを知らない。

 アフガンではタリバンが勢力を盛り返し、イラク同様にテロが激化、アメリカも欧州もその制圧に多くの一般市民を巻き込んで死に至らしめ、治安回復が思うように進まないまま国内秩序は悪化の一途を辿り、泥沼化している。

 2003年に勃発、現在も進行中のアフリカ・スーダンのダルフール紛争。約20万人が死亡、200万人以上が難民化。そしてイスラエルとパレスチナの紛争は暴力の応酬と化し、イスラエルはレバノンとも紛争を抱えている。中国とチベット独立闘争、ウイグル独立闘争との間に繰返される軍事衝突と自由の抑圧。

 先進民主主義国家は紛争解決、独裁政治の撲滅を目指していながら、その目的を殆んど果たすことができないでいる。

 その他に飢餓。国連食糧農業機関(FAO)が今年の6月19日に十分な栄養が取れない状態にある飢餓人口が2009年には前年比で1億500万人増加し、過去最高の10億2,000万人になるとの予測を発表している(IBTimesから)。

 現在の世界人口が68億だそうだが、約7人に1人が飢餓に苦しんでいることになる。その多くが発展途上国に集中しているという。

 そして貧困。一日を一ドル未満の生活費で暮らす貧困生活者がインド、パキスタン、バングラディシュなどの南アジアに500万人以上、アフリカに300万人弱。

 世界は飢餓と貧困の撲滅を目指していながら、解決するだけの能力を発揮できずにいる。

 平和と言われている日本でも、年間自殺者は08年まで11年連続して3万人を超え、09年も1~7月で1万9859人(暫定値)に上り、統計開始以降最悪だった03年(3万4427人)に迫る(「毎日jp」ということだから、今年も3万人超えの記録を維持する名誉に与るに違いない。

 自殺問題一つとっても、有効な解決方法を見い出せずにいる。

 宇宙開発に多くの予算をつぎ込み、つぎ込んだ予算に見合う成果を挙げているに違いないアメリカにしても足許の国内では人種差別、貧困、凶悪犯罪、麻薬等々の矛盾や問題を抱え、満足な解決を見い出す創造力を発揮することができないでいる。

 オバマ政権は米国の公的医療保険制度が低所得者・高齢者・障害者のみを対象とし、民間保険会社の高額保険料を負担できない一般勤労世帯などの約4600万人の無保険者の救済に国民皆保険を可能とする新たな公的制度の法制化を連邦議会に求めているが、共和党が反対し、それぞれの立場から支持・反対を表明する国民の間に対立を生じせしめている(毎日jp参考)。

 そして地球温暖化問題。平均気温の上昇によって氷河が融け、また海水の膨張によって海面上昇をもたらして高潮や洪水の頻発、さらには海岸線の水没、後退の被害、あるいは気温上昇による砂漠化の問題にしても、新政権を担う民主党鳩山代表は2020年までの温室効果ガスの削減目標を90年比25%減を目指すとしたが、そのコストが負担となることを嫌って国内産業界や民主党支援の労働組合が反対、世界も先進国と発展途上国の間でそれぞれの利害から意見の一致点を見い出すことができずにる。

 人間は宇宙に目を向けるとき、足許の地球、その世界を視野の外に置く。足許の地球、その世界に視線を向けたとき、宇宙は視野に入ってこない。

 かくかように人間の視野はそれぞれに一つのことに集中する結果、諸問題間の連携や他とのバランスの維持を忘れる傾向にある。

 足許の地球、その世界の諸矛盾や様々な危機を人類が自らの力で解決できないまま、宇宙の問題に挑む正当性がどこにあるのだろうか。足許の地球、その世界の諸矛盾や様々な危機の克服と宇宙開発による宇宙の様々な問題の克服とどちらが真の人類の偉業と言えるのだろうか。

 なぜ足許の地球、その世界の貧困や飢餓、紛争、人種や民族の問題、独裁政治の問題等々の解決に向けて「人類史上で最も高価なプロジェクト」が組めないのだろうか。

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健全な財政運営を心がけてこなかった地方自治体には地方分権、財源移譲を言う資格はない

2009-09-13 13:55:08 | Weblog

 自治体「就学援助」制度の停滞から見る地方分権

 9月10日(09年)の「asahi.com」記事――《「就学援助」細る自治体 財政難で認定基準を厳格に》

 経済的困窮家庭の小中学生を対象に学用品、給食費、制服、修学旅行の積立金等々の自治体の補助制度「就学援助」の活用を自治体自らが抑えているという。

 子どもが公立に通っている保護者の負担額は1人平均で小学校は年間9万7500円、中学校では16万9700円。この負担に耐え得ない生活保護を受けている「要保護児童生徒」とそれに準じて生活が苦しい「準要保護児童生徒」を制度対象としている。

 「準要保護児童生徒」は各市町村教委が認定基準を定める。いわば各市町村教委の裁量に任せることとなっているから、そこにサジ加減が生じる。

 この制度は元来国の半額補助で成り立っていたという。国の半額補助による制度設計ということなら、活用しないことには国に向ける顔が立たない。国という上に従う権威主義的な強制を受けていることとなって、それなりに利用を広げて、有効な制度だと証拠づけなければならない。

 だが、〈小泉政権の「三位一体改革」の中で、地方に財源移譲する形で05年度に補助金を廃止。就学援助に使う「縛り」がなくなったため、折からの財政難と相まって、自治体にはできるだけ支出を絞ろうという動き〉(同asahi.com)が出てきたために方向転換した「就学援助」制度の利用抑制だという。

 いわば「就学援助」制度分の財源移譲を受けていながら、何に使えという名目を受けていないから、その分を別の財源にまわしているということであろう。

 文科省の06年の調査では87の自治体が認定要件を厳しくしていると記事は伝えている。認定基準を厳しくして、従来そこに向けていたカネを浮かして、別の用途に向ける。その結果の自治体自らの働きかけによる「就学援助」制度の利用抑制だと。

 記事は具体的に自治体名を挙げて、その抑制程度を伝えている。

 〈対象とする収入の基準を生活保護基準の「1.5倍未満」から「1.3倍未満」に見直した埼玉県鳩ケ谷市では、04年度には21.3%だった受給率が05年度には18.6に減少。さらに08年度は15.8%まで下がった。
 新潟市では支給額そのものを引き下げた。「準要保護者」の家庭を所得によって四つに分け、高い層から段階的に引き下げ幅を大きくする形をとった。比較的所得が高い層については、06年度の支給額は前年度の75%、07年度は50%、08年度は25%に。削減前の小学生の平均支給額は1人6万8千円だが、この見直しで1万7千円にまで減った。担当者は「不況で対象者が増え、財政負担が大きい。なんとか制度を維持するための苦肉の策だ」という。

 学習塾経営者の湯田伸一さん(52)が07年、全市区町村教委を対象に調査したところ、人口が15万人以下の自治体では就学援助制度の案内書を配布しなかったり、要項や手引がなかったりするところが目立った。案内書をすべての児童生徒に配布している自治体の就学援助の平均受給率は11.6%。一方、配布していない自治体は6.8%と大きな差があったという。湯田さんは「困っている家庭をもれなく支援するには、国が最低限の基準をつくって制度を構えるべきだ」と話す。 ・・・・〉――

 収入基準を下げる、支給額そのものを下げる、果ては就学援助制度の案内書を配布しないことで、そういうものがあるということを知らせない情報隠しまで行って、制度の利用抑制を図っている。

 この制度が国の半額補助を受けて名目化されていた当時は名目としての強制を受けてそれなりに利用を呼びかけていたが、その“強制”(記事が言う「縛り」)がなくなり、補助金が一括財源化したことによって利用抑制に走る経緯は低賃金を理由として離職者が多く人材難となっている介護職員(介護従事者の賃金月額は施設介護職員の男性22万5900円、女性20万4400円で、全産業平均の男性37万2400円、女性24万1700円を大きく下回る。「asahi.com」/2009年3月27日)の人材確保と離職防止のため介護職員一人当たりの賃金を月額1万5千円引き上げる目的で介護報酬を09年4月から3%引き上げることにしたが(自治体の準備が必要なため10月実施の予定「asahi.com」2009年4月8日8時12分)、名目はあくまでも介護報酬のアップであって、介護職員給与となっていないために、アップによる収入は介護施設に入ることとなり、これまでの2回の合計4.9%の介護報酬カットで経営困難と化した、あるいは赤字となった、そのことの補填に向けられて実質的には介護職員の収入アップにつながらないと言われている経緯とプロセスを同じくする。

 いわば国が名目をつける“強制”がなければ、当初必要とした対象に制度や補助が活用されない、必要とした対象に制度や補助の恩恵が届かないといった状況が生じることが十分に考えられる。

 「就学援助」制度の停滞は民主党が政権を獲得、その主たる政策の一つである義務教育終了時まで1人頭最初の2年間は月額半額(1万3千円)支給、その後に月額2万6千円全額を支給する2段階実施の「子ども手当」が生活保護世帯や準生活保護世帯を超えて補完してお釣りがくるくらいだが、殆んどの県レベル・市町村レベルの地方自治体が財政難にあることからすると、国からの財源移譲が十分に果たされたとしても、3%の介護報酬アップが介護士の給与アップにまわされずに介護施設の経営維持にまわされると予想されているように地方自治体が自由に使えることから地方自治体に於いても財政の手当てに回される可能性が高くなる。

 とすると、地方分権、財源移譲以前に各地方自治体が、都道府県レベルに於いても市町村レベルに於いても健全な財政運営を心がけることがなすべき絶対条件になるのではないだろうか。

 だが、会計検査院が任意に選んだ昨年の12道府県の国庫補助事業の調査対象中12道府県とも不正経理を行っていた100%確率通りに調査対象外だった千葉県も100の確率を受けて裏金づくり・私的流用の不正経理が見つかった事実は多くの都道府県レベルで健全な財政運営が行われていない重要な傍証となる。

 また、都道府県レベル、市町村レベルでの天下りの問題もある。8月29日(09年)の「毎日jp」記事――《名古屋市:外郭団体へ天下り28人増の78人 08年度》が市レベルの天下り状況を伝えている。

 名古屋市が公表した08年度に退職した課長級以上の職員252人のうちの再就職(天下り)は外郭団体への局長級20人を含む78人で、前年度比28人増だということだが、その他は市の非常勤職員83人、公益法人など公共団体31人、民間企業25人、33人は再就職なしなどとなっている。

 天下りは団体側の要請に基づき、市の人事課があっせんする慣例となっているということだが、この活発な天下り状況は幹部職員の天下りを事実上不可能にすると公約している河村たかし市長の出鼻を挫く見事な逆説となっている。

 このことは国のヒナ型を成す形で全国の地方自治体で行われていることで、当然、そういった天下り外郭団体への補助金の無駄遣いも健全な財政運営に反する慣習として存在することは十分に考えられる。国(中央省庁)がしていることを地方自治体が“上のなすところ、下これに倣う”で行っていないはずはないからである。

 こういったふうに見てくると、地方分権、財源移譲によって例え地方が自由にカネが使えることになったとしても、基本とすべき問題はやはり健全な財政運営が欠かせないことになる。

 酷なことを言うと、健全な財政運営を心がけてこなかった地方自治体には地方分権、財源移譲を言う資格はないということになるが、どんなものだろうか。

 資格云々を問題外としたとしても、国に於いと同様に地方自治体に於いても天下りの廃止、無駄遣いの根絶、不正行為の排除を自治体運営の土台に据えなければ、地方分権も財源移譲も意味を成さないと確実に言える。予算執行の効率性の問題だけにとどまらず、職務の効率性にも関わる問題でもあるからだ。

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地方分権の加速と財源移譲は不正経理と私的流用の裁量幅が増えるまたとないチャンス

2009-09-12 11:25:10 | Weblog

 千葉県が5年間で約30億円もの不正経理を行っていた。全庁的に行われ、県警も含まれていたという。〈県によると、平成19年度までの5年間の需用費のうち主に消耗品の支出約64億8700万円について調べたところ、県庁内の約96%の所属(課、室など)が不正を行い、推定値を含めた不正経理総額は約29億7900万円に上ったことが分かった。また、事務用品への架空発注などで業者に預けているプール金が約4億1800万円に上ることが判明した。〉(msn産経

 日本の省庁や自治体が、民間企業も自らの伝統・文化・歴史としているよくある「預け」という手法を千葉県も踏襲した。地方自治体が業者に物品購入をカラ発注する。業者側は物品を納入しないまま、県の会計にさも納品済みであるかのように発注書の写しと県の発注部署の受け取った印の判が押してある納品書を添えて請求書を送りつける。会計は請求書にある金額どおりのカネを業者の口座に振り込む。業者はそのカネをプールしておいて、発注部署の請求に応じて相手側の必要金額をバックする。

 現金をナマで受け取るのは公務員という立場上、業者に後ろめたいと感じることもあるのか、業者にプール金の中から金券やビール券を購入させて、それを県側に納品させ、県側で換金して飲み食い、その他の私的流用にまわす面倒もときに厭わない。

 勿論、業者側に目に見えるウマミを与えずに自分たちだけ県の予算(=県民の税金、国から補助金として回ってきた場合は国民の税金)を私的流用するウマミに与った場合ウマミの独り占めとなって都合が悪いし、告発された場合、虎の子のウマミを失うばかりか、折角築いていた身分まで失う恐れから、それ相応のウマミを与えて共犯者に抱き込み、それを以て口止め料とする配慮は欠かさない。

 その相場が1~2割から、2割5分。「asahi.com」記事では10万円分の金券に2万5千円の手数料が上乗せしてあったケースもあったという。10万円で2万5千円の利益とはこれ程効率のよい取引はそう滅多にはあるまい。

 かくして県と業者の不正な利益・ウマミを遣り取りする友情に満ちた持ちつ持たれつの確固たるナアナアの関係が出来上がる。

 “カラ”はカラ発注だけではない。カラ出張、カラ残業、カラ飲食。カラ飲食は飲み食いしないのに飲食店に請求書を送らせ、支払われた代金がプールされて、別の機会に飲食の用に費やされるか、別の用途に転用される。確か静岡県だったと思うが、ホテルで会議を開いたように見せかけて代金を請求させてその金をプールさせ、私的流用にまわしていたケースもあった。

 せっせとプールさせて有効活用にまわした用途は将棋盤や卓球台、ゲーム機、冷蔵庫や電子レンジ、ホットカーペット、プレイステーション2、そのゲームソフト等々の購入、さらに家族や愛人の生活費、コンパニオンを呼んでの高級料亭での遊興費と多岐・多様に亘る。

 その多岐・多様性から見えてくるシーンは不正経理と不正利用に如何にエネルギーを注ぎ、如何に活躍していたか、「約96%」の所属部署に亘る県職員たちの日々のその姿である。

 他人のカネで、それが県民・国民の税金であっても、自分の懐を痛めないという理由で娯楽を得ること程、楽しいことはない。後々までカネの心配をしないで済むという点で、これ程安心を与えるものはない。

 ましてや他人のカネで飲んだり食ったりすること程、心置きなく飲んだり食ったりできることはなく、カネの心配をする必要がないから、気持が大きくなり、この上ない愉快を保証してくれることとなる。

 他人のカネなのだから、自分の懐をケチケチと計算する必要もなく、誰に気兼ねすることも一切なく、大人物になったように仲間に気前よくもっと飲め、もっと食えと勧めることができ、これ程の活躍の機会を与えてくれることはない。日常の仕事では与えてくれない活躍感であろう。

 一旦、他人のカネに味を占めると、自分のカネが減るわけではない、その計算をする必要がない、自分の懐具合をあれこれと気にかける必要がないという理由でそれが県民の税金であろうと国民の税金であろうと、その味から抜け出れなくなって、底なし沼の深みにはまり込んでいく。

 他人のカネ程、自由を与えてくれるものはない。様々な活躍を与えてくれるものはない。女に使う場合、相手がバー、クラブの女であっても、コンパニオンであっても、いくらでも気前よくなれる。カネ離れがいい、気前がよいと女に持て、愛人になってもいいと名乗り出てくる女もいるだろう。上記「愛人の生活費」という用途は他人のカネで手に入れた気前のよさ、カネ離れで転がり込んできた「愛人」ということもある。その生活費まで他人のカネで賄う。

 何という素晴らしさだろう。こういったことも含めて味を占めた諸々の積み重ねが5年間で約30億円ということなのだろう。
 だが、物事にはプラスマイナスがある。自分のカネを減らさずに他人のカネで手に入れる消費の自由、自由な自己活躍は心の卑しさを背中合わせに蓄積していく。

 本人は気づいていないだろう。他人のカネに味を占めること自体が卑しい心の発揮なくしてできない振る舞いであろう。その卑しさがあって、不正経理を行ってまで飲み食いに私的流用する、あるいは家族や女にいい顔をする私的流用が可能となる。

 2008年10月18日の「47NEWS」記事――《12道府県で不正経理 架空発注し裏金をプール》が冒頭で次のように書いている。

 〈各地で発覚した自治体の裏金問題を受け、会計検査院が任意に選んだ12道府県の国庫補助事業を調査した結果、全道府県で裏金づくりなどの不正経理が見つかったことが18日、分かった。〉――

 12道府県を検査したところ、一つ残らずのすべての道府県で不正経理が行われていた。いわば調べたすべての道府県で不正経理が洩れなく行われていた。見事なまでに足並みを揃えていた。

 洩れなくということは1都1道2府43県とも不正経理の可能性が考えられるということになる。

 地方分権、財源移譲が昨今姦しく言われている。自公政権から民主党政権に移行して、地方分権とそれに伴う財源移譲がより速いスピードで進むと受け止められている。日本全国すべての自治体で洩れなくの可能性からすると、地方分権の加速と国から地方への財源移譲は日本全国の地方自治体で以ってカラ発注やカラ出張、カラ残業、カラ飲食等々による不正経理と私的流用の裁量幅が増えるまたとないチャンスとなるに違いない。

 素晴らしきかなニッポン人――、その卑しき心。

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自民党の政策責任者(総裁)不在のまま、首相指名選挙で政策責任者でない者に投票するドタバタ

2009-09-10 06:22:44 | Weblog

 衆議院選挙大敗、政権与党からの脱落、野党化によって首相職の失職は決定的となり、それらの責任を取って16日召集特別国会の首相指名選挙直前に党総裁を辞任する意向を表明、自民党執行部は総裁選は時間を取る関係から9月18日告示、28日投開票と日程を決め、首相指名の9月16日召集予定の特別国会は麻生総裁のまま臨むこともあり得るという態勢を示していたが、首相指名選挙で誰の名を書くかで自民党内に騒動が起こった。

 自民党をこれ程までの惨敗に導いた麻生総裁の名前を書くことはできない、白紙投票もやむを得ない、あるいは白紙投票でいくべきだ、言ってみればもう麻生の顔も見たくない、名前を書くなんて以ての外(ほか)だといった極度な麻生アレルギーを示す意見が一方であるで、「そういうことを言っているから選挙に負けた」と石破農水相が反対する。

 石破「白紙はもっての外。麻生さんの名前を書くのも民意の否定」(asahi.com

 白票以外の対応策として、昨秋の総裁選2位の与謝野財務相や若林正俊両院議員総会長への投票を提案したという。

 なぜ「そういうことを言っているから選挙に負けた」のかの論理的な説明はない。「麻生さんの名前を書くのも民意の否定」というのは理解できる。国民がノーを突きつけた麻生の名前を書くこと自体が国民のその意志を蔑ろにすることなるからだ。

 だが、なぜ与謝野財務相や若林正俊両院議員総会長なのか、その具体的な説明もない。

 石破農水相は9月6日のフジテレビの「新報道2001」で白紙反対理由を次のように述べたという。

 「わたしは首班指名というのは、衆院議員にとってね、一番大事な仕事だと思います。白紙で入れるというのは、わたしはどんな理屈をつけても、国会議員としての職場放棄だと思います。憲政の常道に反する行為だと思います」(FNN

 「憲政の常道に反する行為」とはまた何と大袈裟な。

 大体が「首班指名というのは、衆院議員にとってね、一番大事な仕事だと思います」と言っているが、なぜ「一番大事」なのか、何ら論理的な説明がない。「白紙で入れるというのは、わたしはどんな理屈をつけても、国会議員としての職場放棄だと思います」も、なぜ白紙投票が「国会議員としての職場放棄」になるのか、その理由も伏せたままとなっている。

 石破という政治家は具体的な理由も論理的な説明もないまま、あれこれともっともらしい理屈をつける政治家のようだ。自民党の次期総裁の名前に上がっているというから、自民党にとっては心強い限りではないか。

 首相指名選挙(以前は「首班指名」と言っていた。)は改めて言うまでもなく与党と野党の立場では異なる意味を持つ。与党の場合は党として(連立政権の場合は連立与党として)投票すると決めた者が賛成多数で首相に決定するが、野党の場合は首相となる可能性がないまま一般的には各党の代表に投票する。

 いわば与党(あるいは連立与党)にとっては自分たちが首相候補として選んだ者を賛成多数で首相に決定させるための選挙であるが、首相指名の可能性のない野党にとっては与党の首相選出の場に形式的に立ち会い、各野党の首相候補に形式的に投票する選挙に過ぎない。

 野党にとって首相指名の可能性がないにも関わらず、首相候補とすること自体が形式そのものであろう。

 与党からしたら、例外的に余程の突発的な反乱要因が起きない限り首相指名は既定の事実であって、石破は「首班指名というのは、衆院議員にとってね、一番大事な仕事だ」と言っているが、首相指名選挙以前に誰を首相候補とするか、与党であった自民党で言えば党総裁を首相と目するから(自社さ連立のときは自民党総裁の河野洋平ではなく、社会党党首の村山富一を首相とする例外を演じている)、誰を総裁に選ぶかが基本的には「一番大事な仕事」ということになるはずである。

 このことは麻生を総裁に選出し、首相指名選挙で麻生に投票して首相とした事実が結果的に麻生内閣ばかりか、自民党自体の人気を奪って、この言い方が悪いと言うなら、小泉、安倍、福田が積み上げてきた自民党の不人気を麻生が修復することができなかったばかりか、不人気の足をさらに引っ張って結果的に衆議院選挙で民主党に大敗を喫した事実が証明している。

 どうしようもない総裁はどうしようもない総理につながるということである。安倍・福田もそのことを証明している。そもそもの総裁選びが首相指名よりも大事なのは誰でも理解できるはずである。

 と言うことなら、「憲政の常道に反する行為」といった大袈裟なことではなく、自民党は麻生を総裁に選出したこと自体が既に「職場放棄」同然の怠慢を犯していたということではないだろうか。

 こういったことから衆議院選敗北を受けて自民党内で起きた人気だけ、あるいは選挙の顔だけで総裁を選出してきたことの反省が成り立つ。

 首相指名選挙は与党にとっては首相選出の選挙であり、野党にとってはそのことに立ち会う場だと言ったが、唯一共通点がある。それは与野党共各党の政策責任者を立てる点である。政策責任者とは言ってみれば各“党の政策の顔”となる者であり、“政策の顔”そのものだということになる。

 このことは党のリーダーとして政策上、あるいは人事上のリーダーシップを取る立場に立つことからも言えることであろう。

 逆説するなら、首相指名選挙に立候補資格ある者は政策責任者となる者、“党の政策の顔”となり得る者に限られるということであろう。このことを以って常識としなければならないはずだ。「憲政の常道」といった大袈裟なものではなく、政治上の単なる“常識”に過ぎない。

 麻生自民党総裁が選挙敗北の責任を取って総裁辞任を表明した時点で、政策責任者であることから降りたことになる。“党の政策の顔”ではなくなったということであろう。自民党は次なる政策責任者、“党の政策の顔”選出を首相指名選挙が行われる9月16日召集予定の特別国会以降の9月18日告示、28日投開票に持っていった。

 その間、党の政策責任者、いわば“党の政策の顔”を不在とする。にも関わらず、石破のなぜそうなるのか、具体的理由を述べないまま「白紙で入れるというのは、わたしはどんな理屈をつけても、国会議員としての職場放棄だ」、「憲政の常道に反する行為だ」ともっともらしげな理屈で白紙投票に反対だ、甘利の白紙投票がなぜそうなるのか、「白票というのは権利放棄ではない。われわれがゼロから出直して、自民党に期待する人のありとあらゆる声を聞くという証しだ。白票はこれから立派な人を選ぶということを意味する」(時事ドットコム)だなどとすったもんだした挙句、白紙でもない、麻生でもない、なぜそうなるのか、どういった便宜からなのか意味不明だが、理解できる人間は理解できるのだろう、若林正俊両院議員総会長の名前を書くことに賛成多数で決めた。

 多分衆参両院とも、「若林正俊クン、何票」と各議長が読み上げたとき、与党に入れ替わった民主党や国民新党、社民党席からだけではなく野党自民党席からも失笑が起きるに違いない。

 野党の立場からしても党の政策責任者ではない、当然“党の政策の顔”足り得ないという点で首相指名とは何の関係もないからだ。

 このことは立候補資格を党の政策責任者、“党の政策の顔”を常識とすることに逸脱する決定と言える。

 自民党の政策責任者、“党の政策の顔”が不在である以上、白紙投票が立候補資格を政策責任者、“党の政策の顔”を常識とすることに対応する常識ではないだろうか。

 自民党は8月30日深夜の選挙敗北・政権放棄の開票結果を受けて麻生総裁辞任は当然の経緯と見て、次なる党の政策責任者、“党の政策の顔”選定に全党挙げてエネルギーを注がなければならなかったはずだが、民主党が小沢代表代行を党幹事長に決定する人事を行うと、やれ院政だ、二重権力だ、権力の二重構造だ、二元体制だと、自分の頭のハエを追うことを忘れて、他人の頭のハエにあれこれケチをつけることに躍起となるお節介に明け暮れ、挙句の果てに首相指名選挙に党の政策責任者でもない、当然“党の政策の顔”足り得ない若林某を立てるすったもんだの失笑ものの苦肉の策で凌ぐことになった。

 これで9月18日告示、28日投開票の総裁選でガタガタとなった自民党を纏めきる力を持たない政策責任者、“党の政策の顔”を選んだとなったら、首相指名選挙で若林と書いた意味を一時凌ぎであったことまで含めて全く失うことになる。

 2008年9月22日、当時の民主党代表小沢一郎が無投票3選されたとき、自民党は複数立候補による選挙を行わないのは開かれていない証拠だ、独裁的だと散々にケチをつけたが、その小沢一郎の選挙手腕もあって自民党が政権を放棄することになった経緯からすると、その散々のケチは何を意味したのだろうか。何らかの意義を有していたのだろうか。

 町村信孝(当時官房長官)「民主党にもう少し知恵があればね。(立候補者が)2、3人出た方が(よかった)」(日刊スポーツ

 同町村「国会対策しかない、選挙しかない、という、そういう発想の代表が無投票で、また、選出される。そういう民主党の、体質というものが、本当に国民の期待に添ったものなのかどうなのか、もう少し自由闊達な、政党で、あるのかなーと、思っていたんですけどもね、どうもそうじゃないのかもしれませんね」(NHK

 中川秀直元幹事長「(対抗馬を立てれば)冷や飯を食わされるとか、とんでもない締め付け政治だ。干されるのが嫌だったら政治家になるな」(時事ドットコム

 京都府連幹事長「民主党のように身内が足を引っ張り、代表選に出たくても出られない雰囲気はおかしい」(毎日jp

 麻生太郎(当時幹事長)「党首選挙をやらないのは開かれた政党とは言えない。・・・(候補者が)1人しかいないというのと、出たいのに出られないというのは意味が違う。党としての政策を堂々と戦わせるいい機会。小沢さんが政権をとったらどんな国にしたいのか、誰もが関心があったはず。(総裁選で)3回負けたが、党内で政治的に殺されることもなく、幹事長としてここにいる。少なくとも自民党は開かれた政党なんだと誇りに思う」(西日本新聞

 自分たちの党は開かれている、民主的な政党だ、民主党とは違うと言っていた自民党が選挙で負けた。何のためのケチだったのか、批判を批判として何ら生かすことができなかった。

 自民党の民主党批判が当時の民主党幹事長だった鳩山由紀夫に一撃を喰らっている。

 「麻生さんや古賀誠自民党選対委員長は『民主党は開かれていない』と批判するが、公明党だって(9月23日の党大会での)太田昭宏代表の続投を決めている。あの政党はこれまで(複数候補の党首)選挙をやったことがない。ご自身が連立を組んでいる相手に言ったらどうか」(msn産経

 そして公明党は今回の選挙敗北と自身の落選の責任を取って辞任した太田昭宏代表の後任に公明党の歴史・文化・伝統となっている選挙を経ない、自民党から言わせたなら、「開かれた政党とは言えない」、いわば独裁的な、そんな政党と9年5カ月も連立を組んできたのだが、中央幹事会という場での内々の選出方法で山口那津男政調会長の代表起用を内定、8日の全国代表者会議で正式決定し、新執行部を発足させている。

 自分の頭のハエを追うことを忘れて他人の頭のハエを追うことにかまけてばかりいる間に自分の頭のハエが始末に終えなくなって、そのしっぺ返しを喰らう。

 これは自分たちが真に為すべきことにエネルギーを集中できなくなっているときに陥る弊害だと思うが、それ以前の問題として日常普段から事に当たる誠実さを失っていることからのエネルギーのいたずらな分散ではないだろうか。

 麻生が選挙戦で自身の景気政策が効果を上げつつあり、「先行きの指標に明るいものが出てきたのは確かだが、生活の実感として、景気回復を肌で実感しているかと言われたら、まだまだではないか。・・・自民党は、景気最優先で『全治3年だ』と言ってきたが、今およそ10か月が経った。残りは2年だが、引き続き景気が回復したと実感できるよう経済政策を継続することが、われわれに与えられた責務だ」(NHK)といくら声をからして有権者に訴えても、日常不断から多くの問題で誠実な対応ができていないことから有権者に伝わらず、そのことが逆に民主党批判を不当化させて際立たせたことが得点とは反対の多くの失点を招いた原因でのように思えるがどうだろうか。

 自民党政治がつくり出した格差社会にしても基本のところで事細かい面に亘って誠実さを欠いていたことから生じた反動局面であろう。

 と言うことなら、民主党は自らがマニフェストに掲げた政策の実現に誠実に取り組む姿勢を忘れないことだろう。誠実さは時間が経つにつれて失われていく傾向にある。

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舛添が言う「解党的な出直し」に矛盾する旧式政治屋森喜朗への総裁選出処進退報告

2009-09-08 11:24:05 | Weblog

 

 9月2日の「asahi.com」記事――《舛添氏「総裁選出馬、自分は慎重」 惨敗の責任認識か》

 舛添厚生労働相が9月1日夜、東京都内で森元首相と会談。会談場所は書いてないが、専門としている上に政治屋としても似つかわしい赤坂辺りの高級料亭といったところか。綺麗どころを侍らせ、うまい酒と上等な料理に舌鼓(したづつみ)しつつ自慢話を招いた客に聞かせるというよりは女たちに聞かせて先ずは自己評価を自分から高めていい気分になり、女たちからしたら前に聞いた話でも感嘆・感動した顔を見せなければならないのは辛いところだが、自慢話が一段落ついて会うについての話の段になると、これから大事な話をしなければならんから、ちょっと席を外してくれないかと、たいした話でもないのに自分を偉く見せるために勿体振って女たちを遠ざけ、女たちに聞かせたなら、たいした話ではないと底が割れてしまうからでもあるが、そういった場面展開の末にだろう、舛添は9月28日投票の自民党総裁選出馬について自分の考えを次のように伝えたという。

 「いろいろな人からいろいろと言われるが、自分は慎重だ」

 記事は書いている。〈「ポスト麻生」として知名度の高い舛添氏が有力視されていただけに、不出馬となれば総裁選の行方は混沌(こんとん)としそうだ。〉――

 「ポスト麻生」としての知名度の高さは衆院選自民党敗北、民主党政権担当を受けて共同通信社が辞任する麻生太郎の「次の総裁にふさわしい人」全国緊急電話世論調査(8月31日・9月1日実施)で舛添要一厚生労働相が29・1%のトップを占めたことでも証明されている。

 2位が石原伸晃幹事長代理の12・2%、石破茂農相が3位の10・5%。以下、鳩山邦夫前総務相8・5%、谷垣禎一元財務相5・6%、加藤紘一元幹事長4・8%、後藤田正純衆院議員2・7%と続いたそうだ(スポニチ)。

 衆議院選大敗北で頭数を40人近く減らして衆参合わせて50人となったが(小池百合子が9月3日に退会届を出して49人?)、森政治屋が実質オーナとして実権をしっかりと握っている町村派の町村信孝の名前が本人は出馬のチャンスを窺っているようだが、挙がっていない。

 いわば最大派閥であったとしても、自派閥に期待できる有力な総裁候補が見当たらない。他派閥から総裁を選出となると、人事だけで持っている政治屋森としては新総裁に自己及び自派の影響力を行使するには前以て総裁人事で主導権を握る必要がある。

 麻生を「福田康夫首相の無味乾燥な話より、麻生さんのような面白い話が受けるに決まっている。我が党も麻生人気を大いに活用しないといけない。『次は麻生さんに』の気持ちは多いと思う。私も、勿論そう思っている」と強力に推し、最大派閥の頭数を利用して麻生総理・総裁選出に力を貸したように。そして今度は舛添だと、「麻生首相の口先だけが達者な話よりも舛添さんの国民人気の高い話が受けるに決まっている。我が党も舛添人気を大いに活用しないといけない。『次は桝添さんに』の気持ちは多いと思う。私も、勿論そう思っている」と言ったかどうかは分からないが、自民党最大派閥の実質的オーナーという立場を活用して人事だけで持っている政治屋体質の森がわざわざ会談という形で舛添と会ったということは、例え総裁選出馬に慎重な姿勢であることが伝えられたとしても、人事屋森にふさわしく森の方から舛添に総裁選出馬を促す話があったからだろう。あるいは会談の席で出馬を促した。次期総裁として最も人気があるが、総裁となるには不利な参議院議員である上に無派閥であるために20人の推薦人を集めるのも覚束ない舛添を担ぐに力を貸し、その恩を売り、後々にまで影響力を行使しようとする下心があって初めて人事屋・政治屋の名にふさわしい、そのことと整合性を持った行動形態ということができる。
 
 だが、舛添は慎重姿勢を示した。その理由について次のように述べたという。
  
 「総選挙に敗れたことに対する責任は、共同で負わなければならない」

 「日刊スポーツ」記事では次のようになっている。

 「安倍、福田、麻生の3内閣で厚労相を務めた。衆院選の敗北は内閣の一員として責任がある」

 なかなかかっこいいことを言う。

 対する「asahi.com」記事での森人事屋の反応。

 「いま自民党総裁になっても総理になれる道は100%ない。来年は参院選もあり、そこも配慮しなければならない」――

 この森政治屋の態度は舛添の慎重姿勢に納得する反応ではなく、出馬辞退に納得する反応となっている。出馬辞退があって初めて、「いま自民党総裁になっても総理になれる道は100%ない」の後付が整合性を得る。

 後付の認識ではなく、前付けの認識であった場合、「いま自民党総裁になっても総理になれる道は100%ない。来年は参院選もあり、そこも配慮しなければならない」を舛添に対する答とするには舛添の方から総裁選に出馬したい、つきましてはご協力を願いたいがと依頼する前以ての展開が必要となる。

 そのような展開に対して森の頭の中には自分自身が選びたい総裁に舛添を思い描いていなかった。そこで断念させる口実に、「あなたは総裁だけで終わる人材ではない。総理にまで是非なってもらいたい能力を持っている。だが、いま自民党総裁になっても総理になれる道は100%ない。それに来年は参院選もあるし、民主党を破ることができればいいが、衆院選の二の舞を演じでもしたら、総理の道はますます遠のく。そこも配慮しなければならない。あんたみたいに有能な政治家が総理の目がないまま総裁に就くのは日本の政治にとっては不幸なことだ。ここは総裁で終わってもいいコマを宛がっておいた方が無難じゃないか」といった記事に森の言葉として書いてあるような展開が導き出し可能となる。

 だが、この展開では上記「asahi.com」記事が描く展開とは逆転現象を引き起こすばかりか、最大派閥の影のオーナーとして自己と自派閥の影響力を国民を納得させる効率のよさで維持する成算を描けないことになる。

 麻生を総理・総裁に自身ばかりか派閥としても強力に推薦したのは麻生が国民の間に最も人気が高く、疑われずに影響力を行使できると考えたからだろう。逆に最も人気のない候補者を推したなら、数の力のゴリ押しと国民から疑われ、森自身が不利な立場に立たされる。

 人事屋にふさわしく森の方から舛添に総裁選出馬を促す話があったとした方が自然である。

 舛添は9月1日夜の森と会談後の一夜明けた2日午前の厚労省内の記者会見で自民党総裁選への不出馬を宣言している。一夜明けただけで慎重姿勢が不出馬に心決めたというのも急な展開で、森との会談で既に不出馬で話し合っていたということなら納得できるが、例え森との会談で出馬に慎重姿勢を示しただけのことであっても、舛添は自身の進退を国民に知らせる前に自民党旧体制に属する政治屋森喜朗に知らせたことになる。

 もしそこで、「いいでしょう。最初から出馬する予定でいました。町村派が派として推薦人集めに協力してくれて、投票してくれるということなら、総裁に決まったも同然です」と出馬にオーケーしたなら、他派閥としても国民に最も人気のある舛添を押さえられたなら、安倍や福田、麻生と同様に雪崩を打たないことには党人事や政権与党に返り咲いたときの閣僚人事に不利に立たされることは痛いほど知っているはずだから、密室で前以て総裁決定の談合をしたことになる。

 舛添から言わしたなら、腐っても鯛で49人に減らした自民党最大派閥だと言っても、それを率いて陰で糸を引く親分、他派閥もこれまで党人事や閣僚人事その他で色々と世話になって恩を受けているから、他派閥への影響力をも計算に入れると、出馬ということなら推薦人20人を確保するためには背に腹は代えられない協力を仰がねばならないことは理解できる。徒や疎かに扱うことができない存在であろう。

 だが、小渕元首相が脳梗塞で倒れたあと、その意識が定かであったかどうかも不明の状況を利用して森を加えた当時の自民党有力者5人が密室で談合して森総理・総裁に選んだと疑惑が持たれている過去を有し、2001年2月のハワイ沖でのアメリカ海軍の原子力潜水艦と衝突して沈没し練習生など9人が死亡した「えひめ丸沈没事件」ではゴルフのプレイのさなかに連絡を受けたにも関わらず、国民生命の安否よりもゴルフ続行を優先した命に対する想像力を持たない総理大臣という逆説性に満ちているうえに、自身が総理総裁を務めた後、自身の派閥から小泉を後継とし、2005年の小泉の郵政選挙で自民党最大派閥にのし上がると、その数の力を利用して小泉後、安倍、福田と自派閥から、他派閥から麻生を総理・総裁に輩出、派閥の数の論理を最も体現した政治家である。

 9月召集予定の特別国会での首相指名選挙で自民党が新しい総裁が決まっていない以上麻生と書くべきだ、いや選挙大敗という民意を受けた麻生太郎を首相の名前に書くのは民意に反する、白紙で臨むべきだと混乱していることに、白紙は降参の白旗の意味だと言えば済むものを舛添は次のように批判している。

 「これだけ選挙で苦労したのに、最高責任者の名前を書くのは感情的にしっくりいかないというのはよくわかるが、解党的な出直しをするにはどうすればいいのかが最大の目標であり、大事の前に小事はどうでもいいことだ」(NHK)

 「解党的な出直し」こそが「大事」であって、首相指名選挙で誰の名前を書こうが、「どうでもいい」「小事」に過ぎないと。

 だが、「解党的な出直し」を言うなら、派閥の力を利用して人事だけで政治力を発揮し、1年を持たない安倍、福田、麻生(2008年9月24日成立)と続けて総理・総裁輩出の影のスポンサーを演じ、これからも総裁人事に力を揮(ふる)おうとしている古い体質の政治屋森喜朗のその名にふさわしい政治屋一辺倒の政治力を殺いでこそ「解党的な出直し」が言えるのであって、記者会見で総裁選不出馬を国民に伝える前に都内某所で森と会い、例え出馬に慎重な姿勢を伝えるだけのことだったとしても、話し合いを持つことは人事に関わる森の活躍を少なくとも承認することとなり、「解党的な出直し」という言葉を裏切る行為であろう。

 「例え推薦人が20人集まらなくても、古い体質のあなたの力を借りるつもりはありません」と森を排除・否定してこそ、「解党的な出直し」なる言葉が単なる修辞語ではない正当性を得ることができる。

 だが、そうしなかった。森は影響力を行使できる次のターゲットに狙いをつけるべく虎視眈々としているに違いない。こうして自民党は古い体質を引きずっていく。舛添は「解党的な出直し」を言いながら、そのことに目をつぶった。

 舛添の不出馬は森が言っていた「いま自民党総裁になっても総理になれる道は100%ない」という総理就任に対する先行き全く不透明感が主たる理由なのだろう。舛添本人の口からそのことを言い、森がそれに呼応して同じ趣旨のことを言ったのでなければ、出馬辞退に納得する森の反応と言えなくなる。

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日本の戦争が人種平等の世界の実現を目的としたとする田母神が航空自衛隊トップであったことの怖ろしさ

2009-09-06 15:58:11 | Weblog

 09年8月15日靖国神社。終戦記念日の式典でも行っていたのか、田母神俊雄がマイクを握って挨拶に立った。場所はテントの中。

 田母神「ハイ、今日ー、靖国神社に来てみてですね、やはり、この日本人の心のふるさとと言うか、これほど盛り上がっていると、言うことですね、大変感動いたしました。

 で、我々今日(こんにち)、平和で、豊かな生活を営むことができると、いうのはやはり、この、世界史的に見てですね、白人国家の植民地、全世界植民地計画が完成する前に、起ち上がって、ですね、これを止めたことが、私は今日の人種平等の世界がくることに大いに役に立ったと、いうふうに思います。

 その、人によってですね、日本がなぜ負ける戦争をしたんだとか、言う人がいます。しかし、日本が好き好んで戦争をやったわけではないんですね。それは日本がどんどん戦争に追い込まれていって、止むを得ず起ち上がって戦争することになったんです。その結果として、戦争に敗れましたけれども、戦争開始当初、目の前で白人国家を次々に打倒して来た。フィリッピンでアメリカをやっつけました。ビルマやインドでイギリスをやっつけました。インドネシアでオランダをやっつけました。

 そういったことをアジアの人たちがみんな見てたと思います。そうしてみんな目覚めて、我々もできると、言うことで、独立運動が起ち上がって、その結果として今日の人種平等の世界がくることになったと、いうふうに思います。

 そういう意味で、世界史の中で日本がこの人種平等の世界がくる。これを人種平等の世界を早期にですね、実現するために、果たした世界史的な役割というのは、私は人類の歴史の中で大いに評価をされていいんではないかと、いうふうに思います。

 そう意味で、我々はこの、こういった世界をつくるために、えー、起ち上がって、日本のために命を捧げてくれた、あの日本の英霊のみなさんにですね、我々は心から感謝をする、する日がこの8月15日ではないかと、いうふうに思います。ありがとうございました」

 ここで歯切れよく語った田母神の至って高尚な、歴史に残る名演説は終わるが、動画は付録とも言うべき続きがある。先ずは田母神の歴史観から。

 田母神は「人種平等の世界」を早期に実現させるために立ち上がった日本の戦争だと言っている。

 この主義主張の合理性は「戦争開始当初、目の前で白人国家を次々に打倒して来た」という言葉が端的に証明している。「フィリッピンでアメリカをやっつけました。ビルマやインドでイギリスをやっつけました。インドネシアでオランダをやっつけました」

 日本はアメリカもイギリスもオランダも一度たりとも「やっつけ」たことはなかった。フィリッピンのアメリカ軍部隊やビルマのイギリス軍部隊、インドネシアのオランダ軍部隊を「やっつけ」はした。軍の一部である部隊を「やっつけ」たことが国を「やっつけ」たことになる針小棒大解釈の合理性――非事実を事実とする合理性は田母神やその一派に特有な精神としてあるものなのだろう。

 逆に大日本帝国が物の見事に「やっつけ」られ、見るも無残に「打倒」され、尚且つ1952年の対日講和条約発効によって独立するまで連合軍に占領され、その間日本は主権を失った。その“事実”を田母神の頭は把握できない。

 当時の日本人自身が人種平等の思想を精神としていなかったにも関わらず大日本帝国は「人種平等の世界」を早期に実現させるための戦争だったと言う。

 日本人は権威主義を行動様式・思考様式とした人種である。その権威主義は当然の勢いとして人種に対しても敷衍(ふえん)されていて、特に戦前の日本では日本民族を優越的位置に置いて他人種、特に日本民族以外の有色人種を下に置く優劣意識となって現れていた。

 このことは戦前の日本人の朝鮮人差別に象徴的に現れている。

 日本が韓国を日本の植民地として国名を朝鮮と改めたのは1910(明治43)8月。13年後の1923(大正12年)9月1日、死者約10万人、行方不明者約4万人強の関東大震災に見舞われる。

 1日夕刻から「朝鮮人投毒・放火」等の流言が広まり、自警団・軍隊・警察などによって数千人の朝鮮人が虐殺されたと物の本に書いてある。

 日本が朝鮮を植民地化したことにより、日本人の意識に朝鮮人を下等国民と見る意識が植えつけられ、その反映を受けた下等な人間だからと疑う心理が「朝鮮人投毒・放火」の流言を発生させ、その仕返しが情け容赦のない理不尽な集団殺人=虐殺となって現れたのだろうが、本質的には日本人が行動様式としていた人間を上下の価値観で計る権威主義を素地とした人種差別意識の発動による虐殺であったはずである。

 ブログやHPに引用したエピソードだが、呉林俊(オ・リムジュン)なる在日が著者となった『朝鮮人のなかの日本』(三省堂・昭和46年3月15日初版)の中に「横浜市震災史」から引用したという朝鮮人虐殺の場面が描かれている。

 〈ヒゲ面が出してくれた茶碗に水を汲んで、それにウイスキーを二、三滴たらして飲んだ。足が痛みだしてたまらない。俄に降りつのってきたこの雨が、いつまでもやまずにいてくれるといいとさえ思った。

 「旦那、朝鮮人はどうです。俺ア今日までに六人やりました」

 「そいつあ凄いな」

 「何てっても、身が守れねえ。天下晴れての人殺しだから、豪気なもんでさあ」

 雨はますますひどくなってきた。焼け跡から亜鉛の鉄板を拾って頭にかざして雨を防ぎながら、走りまわっている。ひどいヒゲの労働者は話し続ける。

 「この中村町なんかは一番鮮人(せんじん)騒ぎがひどかった・・・・」という。「電信柱へ、針金でしばりつけて、・・・・焼けちゃって縄なんかねえんだからネ・・・・。しかしあいつら、目からポロポロ涙を流して、助けてくれって拝むが、決して悲鳴を上げないのが不思議だ」という。・・・・「けさもやりましたよ。その川っぷちにごみ箱があるでしょう。その中に野郎一晩隠れていたらしい。腹は減るし、蚊に喰われるし、箱の中じゃ身動きが取れねえんだから、奴さんたまらなくなって、今朝のこのこと這い出した。それを見つけたから、みんなでつかまえようとしたんだ。・・・・」

 「奴、川へ飛び込んで、向う河岸へ泳いで逃げようとした。旦那、石ってやつはなかなか当たらねえもんですぜ。みんなで石を投げたが、一つも当たらねえ。で、とうとう舟を出した。ところが旦那、強え野郎じゃねえか。十分ぐらい水の中にもぐっていた。しばらくすると、息がつまったと見えて、舟のじきそばへ顔を出した。そこを舟にいた一人が、鳶でグサリと頭を引っかけて、ズルズルと舟へ引き寄せてしまった・・・・。まるで材木という形だあネ」という。

 「舟のそばへくれば、もう滅茶々々だ。鳶口一つで死んでいる奴を、刀で切る、竹槍で突くんだから・・・・」

 ああ、俺にはこの労働者を非難できない。何百というリンチが行われたであろう」(以上引用)――

 ブログその他に書いたことを再び繰返す。(少し手直しあり)

 「目からポロポロ涙を流して、助けてくれって拝むが、決して悲鳴を上げない」のも、「十分ぐらい水の中にもぐってい」れたのも、死の恐怖と生命を守ろうとする死に物狂いの必死さから出た力の振り絞りであろう。そのような恐怖心と必死さは生命の危機に際しては人種や国籍を越えて人間なら誰でも見せるものなのに、普段から理解する力を持ち合わせていなかったのだ。死の恐怖、生きようとする必死さを物理レベル・身体レベルの痛みにとどめてしまう感性・想像力が招いているものであるに違いない。

 太平洋戦争で日本軍兵士が各戦地で虐殺・虐待行動を繰り広げた素地は既に関東大震災時に芽吹かせていたということになる。戦争や地震といった騒動・災害によってパニックに陥ったというだけのことではないだろう。地震はただ単に導火線に火をつけるライターやマッチの類でしかないのだ。

 心のわだかまりとしている日常普段の朝鮮人に対する偏見・敵意・差別意識を地震による無秩序状態を絶好のチャンスに心おきなくおおっぴらに噴出させただけのことなのだ。

 単に「チョウセン」と罵るだけでは100%おさまらない軽蔑・憎悪・敵意を内心に抱え込んでいる、いわば慢性症状にあったところへ、朝鮮人が地震の混乱に乗じて日本人に復讐するために井戸に毒を投げ込み、暴動を起こしたという流言を引き金に、それまでは完璧には発散できないでいた悪意を最も残酷な形でストレートに噴出させ、虐殺を通して精神的浄化を得たのである。裏返せば、朝鮮人に対する日本人の軽蔑・憎悪・敵意が精神的浄化を得るためには残酷無比な虐殺を通さなければならないほどにその衝動を自分では気づかない深層心理下にヘドロのように抱え込んでいたということになる。

 何人殺したと手柄とする。日本人の自らの残虐さに気づかないこの残酷さよりも、朝鮮人が殺されて手柄とされる存在であったことの優劣の距離の方が際立って酷(むご)い。」――

 日本人は日本人の中にも人種平等に反する権威主義性の差別を抱えていた。等の否認差別、障害者差別、女性差別・・・。

 呉林俊氏は『朝鮮人のなかの日本』の中で『朝鮮出身兵ノ教育参考資料』(旧教育総監部)を部分的に取り上げて日本人が朝鮮人に対して如何に独善的な偏見に満ちていたかを紹介している。

 全体的な詳しい内容を知りたいと思ってインターネットを検索したが、見当たらなかったため、何年制作の資料か分からない。「『朝鮮出身兵取扱教育の参考資料送付に関する件陸軍一般へ通牒」なる文書は存在するようだが、呉林俊(オ・リムジュン)氏が著書の中で書いてあるのと違うように思えた。

 『朝鮮出身兵ノ教育参考資料』には「半島人の性格、能力」として7項目に分けて解説してあるという。

 1.「利己的性格」
 2.「策謀的性格」
 3.「阿強侮弱的性格」
 4.「模倣的性格」
 5.「儒教的性格」
 6.「耐乏的性格」
 7.「譚、諧謔、議論好ミ」に分類。

 3.「阿強侮弱的性格」は次のように書いてあるという。

 〈半島国家ガ対外的ニ事大(定見ナク勢力ノ強イ者に従フ)対内的ニハ誅求ヲ事トセシ如ク半島ノ個人ハ阿強(強者ニオモネル)侮弱的性格を有ス。強者ニ対シテ阿諛、迎合、詭弁、哀願等ノ手段ヲ尽クシ、弱者ニ対シテハ傲岸不遜、同情心薄ク冷酷ナリ。従ッテ人ノ情ヲ感ズルコト薄ク義侠ニ乏シ。報恩感謝ノ念亦薄シ」

  「多数ノ半島人ニ対シ施サレタル知能検査結果ニ依レバ、内地人ニ比シ稍(やや)劣レルガ如シ」

 「半島人ノ意志ハ概シテ強カラズ、一般ニ斃レテ後已ムノ気魄ニ乏シ。勿論意欲ノ対象ニモヨルコトニシテ目ニ見エタル利己的刺戟アラバ大イニ奮起ス」〉――

 「誅求」――税などを厳しく取り立てること。
 「侮弱」――弱者を侮る。
 「譚」――(タン)話すこと。
 「斃レテ後已ムノ気魄ニ乏シ」――斃れて終わりにしようという気魄が乏しい。玉砕精神の欠如を言っている。

 人間は劣る性格のみで人間を成り立たせているわけではなく、また逆に優れた性格のみで成り立たせているわけではない。時に応じ、状況に応じて優劣それぞれの性格を覗かせ、その性格に従って行動する。悪人か善人かはどちらの性格をより多く発揮するかにかかっている。このことは人種や国籍に関係しない。

 上記「阿強侮弱的性格」に言う内容は日本人についても言えないこともない。但しすべての日本人が同じだと言うことではない。人それぞれで、また性格の現れ方にも強弱がある。

 朝鮮人の性格に合理的な判断を持てないのは日本人を優越民族の位置に置く非合理性にそもそもから侵されていたから、その非合理性の支配を受けた対朝鮮人に向けた性格判断となっていたからだろう。

 だが、その優越意識が関東大震災時の日本人に衝動的な形で働き、朝鮮人に対する極端な侮蔑・敵意となって現れた。

 呉林俊(オ・リムジュン)氏は日本人の朝鮮人差別が日本人の子供にまで及んでいるエピソードを書いている。

 〈朝鮮人に向かって石を投げつけたことがあるという告白を聞く。あるとき、わたしはこの石についての話をKという女性の回想として受け取ったことがある。・・・・自分の住んでいる地域の坂下の道に朝鮮人集団居住地があった。Kは、その中にいる子供に、はじめは何の関心もなかった。それなのに四つか五つぐらいのとき、チョウセン、といいながら石を拾ってその焼けトタンのそり返った地帯めがけて投げつけたところ、狙いもしな
かったのに朝鮮人の子供の頭のどこかに命中した。その朝鮮人が坂道を駆け上がってくるのではないかと、Kはあわてふためいて自宅の部屋にかくれていたという。彼女は朝鮮人が追跡してくるものと合点したが、どうしたことかそうならなかった〉――

 以下は私自身の当たるも八卦、当たらぬも八卦の解説。 

 「はじめは何の関心もなかった」のは、似たような顔だち・身体恰好なため、日本人とは違う朝鮮人だという認識さえなかった。いわば無知からのものであったろう。あるいは既に両親か誰かからか、「朝鮮人だから、危ないから近づかないように」と注意されていたとしても、幼い頭には理解できなかった。

 ところが「四つか五つぐらい」に成長したとき、朝鮮人は劣る者・狡い存在だと認識するだけの能力に達したということなのである。だから、日本人が当時も現在も使う、「チョウセン」という罵り言葉=差別意識を集約させた言葉を口にすることができたのである。その罵声自体、親を含めた大人からの情報によって身につけたもので、例えそれが大人からの直接的な情報ではなく、同年齢の友達からの情報だとしても、子供が最初に作り出すはずはなく、その情報源を遡れば誰か大人に行き着くはずであり、単に間接的というだけで、差別の発信源が大人であり、大人の差別の反映を受けた子どもの差別であることに変わりはない。言い換えれば、大人が差別の情報を発信し続けることによって、大人から引き継ぐ形で子どもの差別が生じる。

 勿論本人は差別だと意識はしていない。「劣る」とか、「狡い」といった情報に踊らされて「石を投げつける」行為によって、劣る者・狡い存在に対する懲罰、あるいは懲らしめるための正義を行使するという意識だったのだろう。関東大震災時の朝鮮人虐殺でさえ、正義行為だったのである。

 親や大人が直接的に子どもに情報を吹き込まなくても、日常普段の何気ない会話や態度から大人の考え・行動(いわば内心の情報)を嗅ぎ取り、嗅ぎ取ることで大人の感情を自分の感情として蓄積していき、ある日突然意識の形を取って大人の考え・行動を自分のものとする。この大人から子供への取入れは何も差別にかぎったことではなく、子どもの性の低年齢化現象も、国内の買春だけではなく、韓国・タイ・台湾・フィリピンといった海外にまで出掛けて買春して性欲を満足させる、大人の性の無規制化の取入れ(反映)だと考えれば、当然の成り行きということになり、さして驚くことではなくなる。女子高生の援助交際にしても、大人の女がカネのある男の愛人、あるいは二号となって、せしめたカネで豪華なマンションに住み、ブランド物の服に身を包んで高級車を乗りまわす割りのいい肉体利用をただ単に情報にとどめておくだけでは一円の小遣いにもならず、馬鹿らしい上に勿体なくて、女子高生という付加価値をつけて自ら価値ある効率的な肉体利用に乗り出したと把えたなら、市場経済が発達した現代においては当然な現象でもある。援助交際する女子高生を売春で取締るなら、愛人・二号といった地位にいる世の中のすべての女を同じ売春で取締らないことには不公平になるだろう。」――

 田母神俊雄は現在の日本人も尾を引いている、特に戦前の日本人自身が人種平等の思想を精神としていなかったにも関わらず、大日本帝国は「人種平等の世界」を早期に実現させるために戦争に立ち上がったと言う。

 「人種平等」とは命を同じに扱うということを言うはずである。自身の命・存在性に優越性を持たせ、他の命・存在性を劣ると見ていながら、すべてを同じ命に扱うことは自身の優越性に対する裏切りであり、優越性のあり得ない否定となる。

 戦後にまで残った朝鮮人差別、その他の有色人種差別や障害者差別、民差別が証明しているように自身の優越性に対する裏切りや否定に何ら折り合いをつけないまま、不可能であるはずの「人種平等」を理想として掲げ、同じ命の取扱いを図ったとしている。

 不可能を可能とするには、フィクションを必要とする。

 問題はフィクションに過ぎない歴史事実を真正の事実と頭の中で妄信し、固定観念として誰彼なしに吹聴できる合理的な判断能力の欠如である。

 このような非合理性に満ちた思考硬直人間が日本の領土を守る航空自衛隊のトップに就いていたことだけを取っても恐ろしいことで、トップに就けた防衛省上層部の無責任は恐ろしい。その責任を誰も取らない組織の無責任体制に闇を感じる。

 田母神の恐ろしい程の非合理性は8月24日の「asahi.com」記事――《広島平和記念式「被爆者ほとんどいない」田母神氏が演説》からも窺うことができる。

 田母神元航空幕僚長は衆院選大阪17区に立候補している改革クラブ前職の応援演説を8月24日堺市で行い、8月6日の広島原爆の日に広島市で開かれた平和記念式の出席者に関して次のように述べたという。


 「被爆者も、被爆者の家族もほとんどいない」

 「並んでいるのは左翼」

 「左翼の大会なんです、あれは」

 「左翼」ではない一般市民も被爆者も参列していた事実を非事実とし、「左翼の大会」という非事実を自分の事実とする“フィクション”でのみ許される合理性の発揮、合理的判断能力の発揮をフィクションではない現実世界で見せる倒錯性は田母神ならではの独善的な硬直思考から発しているものであろう。

 但し一つだけ正しいことを言っている。麻生の式の挨拶についての批評である。

 「マンガです、ほとんど」(同asahi.com

 「一命をとりとめた方も、いやすことのできない傷跡(しょうせき)を残すこととなられました」も核廃絶の訴えも、「核兵器のない世界」もすべて口先だけだったのだから、「マンガです、ほとんど」と言える。

 だからと言って、田母神の非合理性が帳消しになるわけではない。本質を成す所にまで非合理性の程よい熱さの湯にどっぷりと浸かっているからだ。

 記事は最後に次のように書いている。

 〈6日の広島市での講演で田母神氏は、核廃絶に取り組むとした広島市長の平和宣言を「夢物語」と批判し、持論の核武装論を展開した。〉――

 最初に動画は付録とも言うべき続きがあると書いたが、その付録部分が日本人を如実に表現していて面白い。田母神が「ありがとうございました」と歴史に名が残る名演説を終えると、それを待っていたように穏やかに問いかける声が聞こえる。声の主は見えない。

 「すみません、一寸質問いいですか?ドイツ人でしたら、逮捕されます。どう思いますか?」

 田母神「えっ?」

 「ドイツだったら、あなたは逮捕されますね。憲法違反だから。どう思いますか?」(抑揚に日本人にはない特徴があるが、やはり穏やかな問いかけとなっている。)

 「何言ってんだ、お前」(いきなり大声に怒鳴って詰(なじ)る声が聞こえる。指差した手だけが写る)

 ここで40代見当の外国人男性の顔が写る。対して日本人の側から口々に怒鳴り詰る声が発せられる。
 
 「何で逮捕されるんだ、お前。どういうことだっ!」

 「ふざけるなよ、お前っ!」

 「何だ、おい。どういうことだ。何で逮捕されるんだっ!」

 外国人男性(気負いもせず当たり前に穏やかに問いかける声で)「質問していいですか?」

 「バカヤローっ!」

 外国人男性「質問していいですか?」

 「何で逮捕されるんだっ!」

 外個人男性「ドイツだったら、逮捕されます」

 「何でそういうことされるんだっ!」

 「何だ、ここは日本だっ!」

 外国人男性(通じないと言う意味で?)「分かんねえ・・・」

 口々に喚き詰る声。あまりの怒声に聞き取れない。

 外国人男性(相手をバカにして笑いを抑える表情を見せてから)「ハイ、分かりました。(頭をバカ丁寧に下げてから、からかい笑いを見せて)そういう日本は大丈夫ですか?」――

 「すみません、一寸質問いいですか?ドイツ人でしたら、逮捕されます。どう思いますか?」と穏やかに問いかけた外国人男性に対して、「なぜ逮捕されるのですか」と相手と同じく穏やかにその理由を聞き返すのではなく、いきなり「何言ってんだ、お前」、「何で逮捕されるんだ、お前。どういうことだっ!」、「ふざけるなよ、お前っ!」、「何だ、おい。どういうことだ。何で逮捕されるんだっ!」、「バカヤローっ!」、「何でそういうことされるんだっ!」、「何だ、ここは日本だっ!」と怒鳴るばかりで、相手の問い(=言い分)を頭から遮断する。

 これは相手の質問が例え間違った質問であっても、穏やかに聞いている合理に対して同じ合理で応えるのではなく、怒鳴り散らす非合理を以って対応したことを示していて、日本人の大人でありながら、大人気ないという意味で倒錯的且つ非常識な態度に終始したということであろう。日本人よりも外国人男性の方が遥かに大人であった。

 外国人男性の穏やかな質問態度は子供の頃から議論の訓練ができていて、コミュニケーション能力を自らの文化としているからだろう。だが日本人は権威主義の行動性に阻害されて、上の指示・命令に従うばかりで、議論する習慣に欠けコミュニケーション能力が育っていないから、痛いところを突かれるたりすると麻生ヒョットコではないが、目を飛び出させ、口を尖らして食って掛かったりすることしかできない。

 最近のブログで「日本の子供たちが活用力(応用力)・コミュニケーション能力を欠いているとよく言われるが、日本の大人が欠いていることの反映としてある能力欠如である」というようなことを書いたが、上記日本の大人たちの態度はコミュニケーション能力欠如の見本そのものであり、子供の欠如が大人の欠如を受けたその反映であることを否応もなく証明している。

 子どもの差別が大人の差別の反映を受けていることも同じ原理に立った心理機制であろう。

 コミュニケーション能力が合理性を育むが、田母神に関してはもはや手遅れである。

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裸の王様麻生太郎の「政局よりも政策を優先した判断」は間違っていないのインチキ

2009-09-05 00:02:17 | Weblog

 麻生太郎の首相メルマガ最終号に〈「政治は続く」と題し、惨敗した総選挙結果について「皆さんの期待に応えられず、申し訳ない結果となりました。政府与党への、ご不満、ご批判を真摯(しんし)に受けとめています」と陳謝〉したと9月3日「asahi.com」記事――《麻生首相のメルマガ最終号 総選挙「申し訳ない結果」》が伝えているが、「政府与党」と言うよりも麻生太郎という政治家の軽薄・不誠実に国民は不満があり、批判的ではなかったかと思うのだが、それを「政府与党」と一般化するのはさすが「責任力」を言うだけあって、あくまでも自分を外に置いた責任となっている。

 記事は続いて麻生の敗北分析の言葉を載せている。

 「社会の閉塞(へいそく)感、格差の問題など、さまざまな社会問題への不満に効果的に対応できていなかったのではないかなど、真剣に反省せねばならない」――

 小泉構造改革の負の面をあげつらうなら、その軌道修正の責任はあげつらう麻生が負わなければならないはずだが、「効果的に対応できていなかったのではないか」で片付けているだけではなく、その主語を最たるリーダーたる自身にではなく、あくまでも「政府与党」に置いた「反省」だから、「いなかったのではないかなど」と推測する形となっている。

 「政局よりも政策を優先した」云々は麻生自身が別の機会で言っている解散時期についての「判断は決して間違えていなかった」と同じことの言い替えであろう。

 敗北分析の後は反省と再出発の弁。

 「皆様方の声を真摯(しんし)に受けとめ、今後の再出発を期したい。さらなる精進を続け、皆さんのご期待にお応えできる政治を実現することをお誓い申し上げる」

 選挙に負けたと言うことは「皆さんのご期待にお応えできる政治」の実現が期待されなかったということだが、その具体的な分析を省いて、実現を「お誓い申し上げる」簡便な誓いの弁となっているところなどはさすがに麻生らしい。

 「政局よりも政策を優先した判断は国民生活のことを考えれば、決して間違ってはいなかった」をインチキだとする答は簡単。麻生太郎は8月17日の6党首討論会でも遊説の先々でも経済政策の継続を訴えている。

 8月17日の6党首討論会――

 麻生首相「昨年の10月、当時は政策より政局、経済対策より解散総選挙という声が大きかったと存じます。私は少なくとも今、経済対策、景気対策、雇用対策が優先される、少なくともアメリカ発の世界発の同時不況ということになりました。過去60年間でこんなことはありませんから。その意味でこれに集中するのは当然だということで、この10カ月余りで4回の予算編成をさせていただき、経済対策というものに集中させていただいたと存じます。結果として、今日の経済指標の発表をみても間違いなく1年3カ月ぶりに経済指標は上がった。プラス3%台まで乗ってきた。こういったのは、これまでの対策の成果だったと思っております」

 「また雇用、そういった所に非常に大きなしわが寄った事実は率直に認めたうえで、雇用調整助成金などで、少なくとも、確かあれは産経新聞でしたかな、あの雇用調整助成金がなかりせば失業率8.8%になっていたであろうと書いてあったと記憶している。少なくとも、そういう成果がやっと出てきた。しかし、これは数字の上の話であって、国民が肌でその景気回復を実感しているかというとそこまでには至っておりません。したがって、景気回復を最優先すると就任の時に申し上げましたが、全治3年とも申し上げた。まだ道半ばだと思っておりますので、引き続き、景気対策最優先でやっていかなければならないものだと思っております」(msn産経

 麻生首相「先行きの指標に明るいものが出てきたのは確かだが、生活の実感として、景気回復を肌で実感しているかと言われたら、まだまだではないか。・・・・自民党は、景気最優先で『全治3年だ』と言ってきたが、今およそ10か月がたった。残りは2年だが、引き続き景気が回復したと実感できるよう経済政策を継続することが、われわれに与えられた責務だ」(NHK

 全治3年。残りはまだ2年ある。「経済政策を継続することが、われわれに与えられた責務だ」とまで言っている。

 「残り2年」の「責務」を果たすためには衆議院の任期9月10日までに行われる総選挙で勝利して麻生内閣を維持することが絶対条件となる。麻生内閣が成立したのは08年9月24日、衆議院任期が09年9月10日。1年を2週間切っていた。当然、「政局よりも政策を優先した判断」の中に衆院選勝利も計算に入れておかなければならなかった。このことも「責務」としていたはずである。

 衆院選で敗れて政権を野党に渡すことになった場合、「残り2年」の「責務」を果たせなくなるし、「政局よりも政策を優先した判断」が敢無く頓挫することになる。

 頓挫するだけではなく、自ら「成果」だと誇っている麻生経済政策から選挙の遊説、その他で散々バラ撒きだ、財源が見えない、成長戦略がないと批判してきた民主党の経済政策に自分からバトンタッチして一国の政策とするオウンゴール並みのヘマを仕出かすことになる。

 逆説めくが、「政局よりも政策を優先した判断」を採ったとしても、と同時に“政策よりも政局を優先した判断”――いわば「政局」での生き残り(=総選挙での勝利)を絶対必要事項として計算に入れておかなければならなかった。

 「政局よりも政策を優先」して政局(=選挙)に負けて「政策」を失ったなら、意味を成さないのは誰の目にも明らかである。

 このことを言い換えるなら、政策は政局と共にあり、政局は政策と共にあるということだろう。政策で一歩誤ると、即内閣支持率に影響し、政局で不利に立たされる。閣僚や与党幹部がスキャンダルを起こすと、政策よりも政局が取り沙汰され、やはり支持率に影響してくる。

 政策も重要だが、政局も政権担当に関わる重要な条件であることに変わりはないということである。麻生も自民党も民主党を政局を優先させていると盛んに批判したが、その批判も今となっては虚しい。

 麻生は衆議院選挙で大敗を喫して、「残り2年」の「責務」を181の大量議席と共に放棄することとなり、カラ約束に変えてしまった。果して「政局よりも政策を優先した判断」が正しかったと言えるだろか。 

 「政局よりも政策を優先した判断は国民生活のことを考えれば、決して間違ってはいなかった」、選挙の敗北は仕方のないことだと自分を慰める自己正当化の口実にするだろうが、政権を担っていてこその一国の政策であるということからすると、その構図を裏切るインチキの自己正当化に過ぎない。

 麻生内閣は就任時の支持率は言われていた国民的人気とそれにプラスするご祝儀相場の両方を裏切って福田内閣成立時よりも低い50%弱しかなく、それ以来下降を続け、小沢民主党前代表の西松スキャンダルに助けられて少しは持ち直したものの、一時的現象に終わって、解散後の世論調査が320議席獲得する勢いだとする民主党圧勝の予測に有権者がその一人勝ちの予測に軌道修正を図ったからなのか、320議席獲得かが308議席で終わったが、『朝日』が8月15、16の両日実施した全国世論調査(電話)によると、3割とされる危険水域を11%も割って「麻生内閣の支持率は19%(前回8月1、2日実施調査では18%)、不支持率は65%(同63)」となっている。

 麻生は自民党総裁に選出された08年9月22日直後に書き始めて9月24日の首相就任前に書き上げ、10月10日発売の月刊誌「文藝春秋」に発表したタイトル「強い日本を! 私の国家再建計画」の手記で、「国会の冒頭、堂々と私とわが自民党の政策を小沢(民主党)代表にぶつけ、その賛否をただしたうえで国民に信を問おうと思う」と自らの手で解散して総選挙に打って出て国民の審判を仰ぐ予定でいることを堂々と宣言している(《冒頭解散考えてた 月刊誌に首相寄稿、情勢変わり修正》asahi.com/2008年10月9日23時37分)。

 そしてその戦いは「私と小沢氏のどちらがそれに足る国のトップリーダーなのかを国民に審判していただく戦い」だと勇ましく挑戦状を叩きつけている。

 記事はその時期を〈臨時国会の冒頭、所信表明演説と各党の代表質問が終わった時点〉だとしている。記事に出ている麻生のその他の言葉を拾ってみる。

  「私は決断した。・・・本来なら内政外交の諸課題にある程度目鼻を付け、政党間協議の努力も尽くした上で国民の信を問うべきかもしれない」

 が、「強い政治を取り戻す発射台として、まず国民の審判を仰ぐのが最初の使命だと思う」

 「堂々の戦いをしようではないか」

 「私は逃げない。勝負を途中で諦(あきら)めない。強く明るい日本を作るために」――

 記事は総選挙に打って出た場合のメリットについての麻生の判断を次のように解説している。

 〈選挙情勢については「自民党にとって、かつてない茨(いばら)の道」と厳しい認識を示したが、政権を維持できれば、たとえ衆院の3分の2以上の議席を失い、参院での与野党逆転が変わらなくても、「直近の民意を背景に政党間協議を主導」し、「不毛な対立に終止符を打てる」〉――

 これらの麻生の勇ましい主張は昨年11月28日の小沢対麻生党首討論で当時の小沢民主党代表が「 私は、今ね、こうして、来年に、補正予算を送るということならばですよ、今直ちに解散総選挙して、そして国民の審判を仰いでいいじゃないですか」、あるいは「この12月、期間があるんですから、総理が一次補正でも十分だとおっしゃるんならば、是非解散総選挙をやって、さっき申し上げたように総理だってやり易いでしょう。選挙で勝たれれば、それで強力に内閣ができるわけですから。それはどちらにとっても、選挙で勝つことで、国民の支援を背景にして、政策を実行すると、いうことでなければね、これは本当の強い強力な政策、思い切った政策は実行できないですよ」と指摘している趣旨と一致する。

 麻生は小沢氏の解散・総選挙要求に応じない理由として既にお馴染みとなっている100年に一度言われる金融危機を楯に政治空白をつくるわけにはいかないからだとしているが、上記時事は〈米議会下院の金融救済法案の否決を受けて、ニューヨーク株式市場が史上最大の暴落をしたのは9月29日の所信表明直後。政府・与党は当面の景気対策を盛り込んだ08年度補正予算案の今国会成立を最優先する方針を固め、解散は先送りされた。ただ、首相は論文でリーマン・ブラザーズの破綻(はたん)にも触れているため、世界経済が先行き不透明に転じても冒頭解散を考えていたことになる。 〉と麻生の「政治空白」理由に疑問を投げかけている。


 麻生の考えられる解散・総選挙忌避理由は国民の人気を当て込んでいた内閣支持率が、安倍晋三では選挙は戦えないに続く福田では選挙は戦えないとそれ以降辿った福田前内閣の発足時よりも低かったために生じた冒頭解散でも戦えるかどうかの保証の問題ではなかっただろうか。

 世論が麻生内閣の発足に対して出した答が福田前内閣の発足時に出した答と比較した場合の見劣りか福田では戦えないとなった事実を導火線として麻生でも戦えないとする爆弾を有権者に刷り込まないか、その恐れが冒頭解散・総選挙に二の足を踏ませたのではないかという疑いである。

 いずれにしても唯一はっきりしている事実はこの小沢・麻生党首会談を機に「次の首相に誰がふさわしいか」の世論調査で麻生の「政局よりも政策」の馬鹿の一つ覚えも虚しく、小沢一郎が麻生太郎を初めて逆転したという事実であろう。 

 上記「asahi.com」記事は手記に関する記者との遣り取りを伝えている。(参考引用)

 ――冒頭解散を考えていたのか。

 「いえ」

 ――論文を読むと(冒頭解散を)示唆する内容だが。

 「全然解釈が違う。(小沢氏から自民党の政策への賛否という)答えはいただいていない。いつ解散をやるなんてことは一切書いてない。意見の相違をきちんとさせたうえでと書いてある」

 ――小沢氏が意見を述べなかったので解散しなかったのか。

 「対立軸が出てきませんもんね。(補正)予算も何となく(民主党が賛成し、成立のメドが立った)。もう一つは経済情勢。(論文を書いた時とは)実物経済に与える影響が想像したよりはるかに大きくなってると思う」

 ――解散時期は当初構想より先延ばしになったのか。

 「総理大臣の頭の中には解散の時期がはなから決まっているという前提ですべて考えるから間違える。今の状況は、少なくとも政局よりは経済政策、景気対策。それが世論と思ってますけど」

 ――自民党の選挙情勢調査の結果が芳しくなかったことも理由なのでは。

 「あの調査は、私が考えたよりはよかった」 (以上)――

 解散しなかった理由をあくまでも「政局よりも政策」を優先させたことだとしている。

 民主党が予算に賛成したのは解散・総選挙の呼び水にするためであって、それ以外の理由はなかったはずである。だが麻生は補正予算を持ち出して、解散・総選挙をさらに引き伸ばしている。

 「国会の冒頭、堂々と私とわが自民党の政策を小沢(民主党)代表にぶつけ、その賛否をただしたうえで国民に信を問おうと思う」と、「賛否をただしたうえで」を条件づけた解散・総選挙としているが、大体からして野党の政策は全体的には与党の政策の反対、もしくは否定の上に立っている。すべての政策で一致した場合、野党の存在意義を失い、与党の御用政党に成り下がる。当然、与党が利害を代弁する層に野党も利害を代弁することになり、その層にのみ政治の恩恵が偏り、政治の恩恵から見放される層が多く出ることになる。

 野党の政策は全体的には与党の政策の反対、もしくは否定の上に立っているという前提に立つなら、例え参院での与野党逆転状況に変化はなくても、自身が言っているように「直近の民意を背景に政党間協議を主導」し、「不毛な対立に終止符を打」つべく果敢に解散・総選挙に打って出ることが唯一の選択肢ではなかったろうか。

 いわば「政策よりも政局」の優先である。

 少なくとも麻生内閣発足時の支持率は50%弱を占めていた。それが8月30日投開票直前の『朝日』の支持率は19%。

 世論調査に表れる有権者の意思も審判の一つである。その審判が間違った判断である場合もあるだろうが、有権者の意思の表れ、どう見ているかの一つの答であることに変わりはない。

 投開票直前の麻生内閣支持率19%が300議席から119議席への答だとすると、発足時の50%弱の支持率からすると、減らす議席はかなり緩和されることになる。

 この点からしても、「政局よりも政策を優先した判断」は間違っていなかったとするのは自己正当化の強弁のためにするインチキでしかないだろう。選挙での議席維持、あるいは議席増は最終的には自民党代表たる総裁の「責務」でもある。「責務」を果たさなかった場合、既に麻生がそうなったように辞任が待ち構えている。

 政策は政局と共にあり、政局は政策と共にある。その二つを勝ち抜いてこそ、政策展開を可能とする政権が保証される。麻生は政策、政局共に民主党に敗れたのである。

 麻生内閣発足冒頭の解散・総選挙の絶好の機会を逃し、支持率の下降と共に解散する機会を狭めていって、にっちもさっちもいかなくなって任期切れ1カ月前の解散となった。多くの見方となっているが、誰も指摘しないから、「政局よりも政策を優先した判断は国民生活のことを考えれば、決して間違ってはいなかった」を唯一の錦の御旗として自己正当化を図り通すことになる。

 結果的に麻生を裸の王様にする。裸の王様がどう再起を誓おうと、見せかけで終わる。帝国ホテル内の高級バーで高級ブランデーを味わいながら得意げに阿呆陀羅経(あほだらきょう)を唱えていたときから既に裸の王様だったに違いない。

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日の丸をひっちゃぶいた民主党が勝利し、日の丸を守る保守だと言った麻生自民党が大敗の皮肉

2009-09-03 03:58:10 | Weblog

 国家は国土を必要とするが、様々な生活を成り立たせるための国民の活動が国家を支えている。その活動は歴史・文化・伝統を背景とした国民性やその国の憲法、その他の法律、あるいは社会慣習等の影響、もしくは規制を受けるが、このような生活主体、あるいは活動主体である国民を国家は重要な中身としている

 いわば国家は中身の国民に対してハコモノを構成している。当然ハコモノの中身たる国民がどう存在しているか、その姿が意味を持たなければ、国家は国家としての意味、あるいは価値を失う。例えその国家が建国以来の長い歴史を経ていようとも、素晴らしい伝統・文化があると誇っても、国家の中身としての現在の国民が自らの存在に意味を見い出せなければ、国家は単なるハコモノと化す。歴史・伝統・文化も意味を失う。

 国民の自由を奪い、基本的人権を抑圧、多くを飢餓に陥れている現在の北朝鮮は民主主義国家ら見た場合、意味ある国家と言えるだろうか。多くの北朝鮮国民にとってはハコモノとしての意味しか持たない国家、有意義を見い出せない国家ということになるに違いない。

 国家の中身たる国民がその国に暮らして自らの存在に意味を持ててこそ、国家は意味ある国家となり得て、意味があるという点で中身の国民と国家は一致を見い出し、単なるハコモノのであることから脱することができる。

 障害者や高齢者、テレビで労働者5千万人のうち「ワーキングプアが1千万人もいると言われている」と言っていたが、ワーキングプアも含めた低所得者、経済が停滞した地方に取り残された高齢生活者等々の社会的弱者を切り捨て、あるいは年金不安、子育て不安を与える政策を取り続けてきた自民党統治の日本国家は彼らにとっては厳密には意味ある国家とは言えず、単なるハコモノの姿しか取ってこなかったはずである。

 以上のことは国家を象徴する国旗についても言える。国民を大事にしないために単なるハコモノと堕している国家を象徴する日の丸とは、見せ掛けの国旗でしかなく、あるいは形式以上の意味を持たない国旗でしかないということになる。

 言ってみれば、国民あっての国家であり、そのような国家を象徴してこそ、国旗としても意味ある国旗となる。 

 このことを言い換えるなら、国旗は国家を象徴しているが、そこに国家を映すのではなく、国民を映す対象とすべきであり、そうすることによって、国家をよりよく象徴することができるということではないだろうか。

 麻生は中身の国民を守らず、国家を単なるハコモノとし、日の丸を国旗として形式化させておきながら、日の丸をきちんと守っていく一つに挙げ、それが保守だと言う。

 国民を守ることを先に持ってくるべきを、切り捨てるようなことをして、日の丸を守ると言う。国旗に国家を象徴させること以外の意味を持たせていないからに違いないが、このような日の丸に対する姿勢一つを取っても、麻生が国民の姿を見ない国家観を自らの政治哲学としていることが分かる。 

 極端なことを言うと、政治家が真に国民のことを考えていたなら、いわば自らの国家観に国民の姿を常に映し出していたなら、国旗を守るの、守らないのといったことをわざわざ言う必要はなく、また例え日の丸を「ひっちゃぶいて、二つにくっつけてぇー、ええー?自分のとこの党旗にしてー、そして党のー、マニフェストの、の、載っているような、ホームページに、それを載せ」ようとも、さして騒ぎ立てることではないことになる。

 麻生も自民党も国民を守る実質性を備えないまま、日の丸を守ると言っているのである。

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