菅首相の言いたいことを言わせて終わらないインターネット動画「日本ビデオニュース」出演(2)

2011-01-13 11:27:59 | Weblog


 宮台「何が分かりにくいと言うことはね、僕なりに噛み砕いて申しますね。あのー、例えば、そのー、土地におカネを、おカネを土地に代える、持つとか。あるいは預金担保融資という形でおカネを借りて使うとかっていうのは、例えば、これはロンダリングではないか。出所を隠すために、あるいは綺麗なカネにするための仕組みじゃないか、みたいなね、疑問というのは、それは、それが合法であれ何であれ、存在することは事実です。

 で、先ずそういう問題、先ずどういうことかって言うと、あのー、おカネを使って人々を動かすっていうのを、遣り方がね、狡いのか、公正なのかっていう、違いが先ずありますよね。これをどう評価するのかという問題があります。

 それとは別におカネの本当の出所ですね。これが例えば個人献金のようなものによって、例えばオバマさんの一人大体10ドル以下ね、募金みたいな形で集めるのがいいのか、あるいはまあ、簡単に言えば、後援会というのか、要するに企業、あるいは自分たち企業から見たら自分たちにとって得になるような政策を遂行してくれると期待して、出す。政治献金というものはそういうものに決まっているわけですね、大体が。企業が出す場合はですね。

 おカネを帳簿にちゃんとつけないで、帳簿につけないから、つまり人があとから検証できないような形で、不透明に使うからいけないのか、あの、どこがいけないのか。

 あるいは何が許されるのか、例えば今申し上げた話で言えば、個人献金を使っていて、帳簿を簡単につけていて、情報公開ですべてのおカネの流れがはっきりしている。あるいは団体からおカネを貰っていたとしても、全部帳簿の流れが分かるので、団体の利益になる質問をしたのかどうかって言う活動のチェックも国民からちゃんとできる、みたいなことがあれば、おカネをいくら使ってもいいんだって考えていいのか。

 それとも政治家の本意って言うのはおカネは二の次で、本当は政策で勝負すべきだというふうに考えるべきなのか、その辺ね、『政治とカネ』って言うときの、最終目標、先程のアリストテレスの話じゃないですけどね、それがよく分からないんですよ」

 よく分からないのは当たり前で、クリーンでオープンと位置づけた自分を小沢氏はそうでないと印象づける対比へと誘導するための詭弁、不正に選挙を行っている悪者と見せかける詐術を働かせているのであって、これは小沢排除で自身の支持率を上げたのと同じ手法を用いた言葉の数々に過ぎない。

 菅首相「基本は透明性でしょうね。まあ、あの、私はかつてコモンコーズという、アメリカの、政治団体、そういうものをチェックする、あの、市民団体も、もう30年前に行ったことがありますけれども、やはり、あのー、先程言ったように、あのー、政治参加とは、ボランティアで応援に行くのも、あるいはそれこそ20ドル出すのもですね、一つの政治参加ですから、私は、それは大いにあっていいと思うんです。

 で、そのときに、えー、それが、そのどういう形でですね、あのー、影響するのか、まあ、特にアメリカの場合はクロスボートでしたから、それによってですね、どういう団体から、どういう人がどういうおカネを貰って投票したということを、ま、例えばライフル協会からおカネを貰うとかですね、そういうふうにオープンにすることによって、まあ、そのー、そういう影響力に対しての、まあ、ある種の、何て言うんでしょうかね、おー、バランスというか、カウントパワーを、オー、生み出して、逆に今度はそういうのを反対するグループからは、そういうところの、オー、対して批判するとか。

 ですから、それ、全体のプロセスは一つの民主的なプロセスですから、そのこと自体は大いにあっても私はいいと思っています」

 献金という名のカネの流れをチェックする団体があると言うことは不正なカネの不正な流れの存在を逆に証明する。チェックとは良し悪しの判別が目的であろう。だが、小沢氏の問題は検察がチェックして不起訴処分とした。それを不服として、検察審査会が強制起訴したということなら、強制裁判のチェックを待つしかないはずだが、菅首相は小沢氏がさも汚いカネで選挙をしているかのような印象づけの方に力を入れているに過ぎない。

 宮台社会学者「菅総理、それ大事な発言でね。あの、日本人の実は多くのマスコミを含めてね、政治家がおカネを使って何かをすることがいけないかのような勘違いをする。で、今言ったコモンコーズ的な図式はそうではなくて、アメリカって、アソシエーショニズム結社の社会だから、結社が自分たちにとって利益になる政治にカネを出すのは当たり前なんですね。

 それがアメリカの政治文化だから、企業団体献金、オッケーに決まってるわけです。だから、帳簿に書いて、国民がチェックできるようにして、どういう団体の影響が彼らのどういうふうに及んでいるのか、国民がチェックした上で、投票のときに参考にできるようにする。

 ところがヨーロッパは全く違って、伝統で、ヨーロッパはアソシエーショニズムではない。ですから、基本的には、あの、まあ、分かりやすくいえば、その方がむしろ日本に近いから、知らないところがある。自分の頭で考えて、自分の背後にいるのがアソシエーションよりも地域社会だったり、家族だったり、するんですね。

 で、自分たちの家族、自分たちの地域のために遣ってくれているかなあって思った個人が献金をする。それ以外の企業っていうのは、家族とも共同体とも関係のない、別の原理で動く生きものだから、その企業に献金をさせるってことになると、政治家が地域や家族を守ることじゃない活動をしてしまう。

 これはヨーロッパの発想ですよね。今のコモンコーズ的な発想というのは前者の発想ですから、これは重要な発想なんだけど、日本人は何かカネがいけないみたいな、やっぱり考えているみたいなところがありますよね」

 それを利用して菅首相は小沢氏を一生懸命に悪者に仕立てようとしている。

 神保代表「献金というものは2年3年以内に禁止するということに民主党としてはっきり決めているのですか」

 菅首相「法律を変えて、経過期間として3年ということは決めています」

 神保代表「だから、企業献金はやめると」

 菅首相「この議論もですね、実は、あのー、おー、かなり私も、その最初の頃に、市民運動やっていた頃に、あの色々議論しました。で、真っ白と真っ黒じゃないんですね。例えば、その女性のですね、えー、社会参加のために、えー、活動をしている、ウー、女性の政治家に献金をする。それは広く言えば、女性の、おー、まあ、あのー、プラスになるような。

 それが狭くなるとですね。ある団体の活動にと、なると、それがまさに企業になるとですね、今度は必ずしもそういう広い意味の社会的な、えー、目標ではなくて、中には義理的な目標になる。

 ですから、色んな要素があるわけですよ。ですから、それは一定のルールの元に、それをオープンにして、あまり、そのルールのですね、そのー、ま、例えば、えー、ですから、例えば、よく労働組合を企業のことも言われますが、若干性格が違うわけですよ、企業というのは利益を上げるための組織体で、労働組合というのはある意味で、その組合員のいろいろな意味のですね、この、おー、福利厚生であり、あるいは発言力を組織をつくることによって、影響力を高めようとする、ま、ある意味で組合員の組織なわけで、そういう意味では若干違うんです。

 市民運動も違います。色んな性格が違うわけです。そういうものが勿論、あのー、混在して社会を構成しているわけですから、そこは一定のルールと透明性ということで、エー、そういうことの中でやってきているし、私は日本も30年前に比べると、ずっとよくなっていますから、ですから、それは、あの、もうその問題をあのー、議論しなくても、大丈夫というところまで、もうすぐ行くんじゃないでしょうか」

 企業であろうと労働組合であろうと市民団体であろうと中身は違っても、何らかの経済的・物理的利益を目的とした組織体であることに変わりはない。その利益には労働環境や生活環境、あるいは地位の向上を通して金銭に還元される場合もある。

 菅首相は「一定のルールと透明性」を言うことによって、ここでも反意味的に小沢氏を「一定のルールと透明性」を体現していない存在とする誘導を密かに行っている。指導力がない割には、指導力を埋め合わせる形であろう、そういった人を陥れようとする陰謀に長けているところがあるようだ。

 神保代表「でも、これだけ透明になっていても、例えば、そのー、まあ、民主党のね、元代表である小沢さんがやはり出てきて、『政治とカネ』について、何か釈明しなくちゃいけない状況なんですか?そこでこれだけオープンになっているにも関わらず」

 菅首相「まあ、少し全体のシステムの問題とですね、あの今の個別の問題と、あのー、ありますけれども、やはり多くの場合は、イー、国会議員は、えー、そういうことに対して、説明を求められるわけですから、国会の場で説明をするという、いうふうにご本人がいわれたわけですから、それはやはり果たされるべきじゃないでしょうか」

 神保代表「やっぱ本人がやったかどうか別にして、やっぱり説明すべきことがある、というお考えですか。菅さんとしては小沢さんのの『政治とカネ』の問題というのが厳然たる問題としてあるという考え方ってことしぃうか」

 食い下がる、食い下がる。

 菅首相「それはあると思いますね」

 離党、あるいは議員辞職に追いつめるまで誘導しようとしているのだから、当然の答え。

 神保代表「『政治とカネ』の問題はある?」
 
 菅首相「問題があると言っても、その問題があるということを断定的に言っているのじゃなくて、説明される、説明すべき問題は、あのー、あると思いますけど」

 菅首相はシーソーで有利な立場に自分を立たせている。小沢氏がシーソーの片方に座って地面につくことによってもう片方に座っている菅首相は身体を上昇させることができる。

 神保代表「つまり、不透明な問題はあるという意味ですね。そうすると――」

 宮台社会学者「じゃあ、噛み砕いて申しますとね、検察が今まで2回不起訴にした問題について、やっぱり疑念があるっていうことで、透明な説明を要求していらっしゃるのか、あるいは93年当時の自由党を解党するときの、そのおカネをですね、例えば、どう使ったのかみたいな問題であるとか、あるいは党の活動費、これは幹事長の権限で使えるおカネを、その権限を使って、恰も自分から売った恩であるかのようにね、おカネを配ったりした、疑惑がないのかどうかみたいなね。

 そうした、つまり、政治手法のあり方、政策で人を誘導するのではなくて、カネで恩を売って誘導するような遣り方じゃないかみたいなね、ことについての疑惑があるのか、何の疑惑かっていうことが結構大事なことなんですね?」

 菅首相「私が予算委員会に出ると、私に質問されるわけですよ。あの、多くの野党。しかしこの種の問題は、これがその子ども手当とかですね、あるいは場合によったら税制とか、ま、一つの党ですから、一定の合意がありますから、それは当然私が答える、あるいは財務大臣が答えるわけです。

 しかし、あのー、個人の『政治とカネ』の問題というのは他の人は答えようがないんです。どういう疑問であるかを越えてですね。ですから、そこはご本人が、あの、国会で答えるというふうに約束されたんですから、それは当然、約束は守られるのは、あのー、当然の筋だろうと。それをですね、それを代りに、それを答えることできません」

 検察が不起訴としたのだから、例え検察審査会が強制起訴に持っていったとしても私は検察の不起訴処分を信じます。政倫審出席も証人喚問も必要としません。そう言えば済んだことを一度『政治とカネ』の問題で自身の支持率上昇を企んだばかりに、その陰謀から抜け出ることができなくなって、野党の追及を執拗なものとし、却って自分で自分の首を絞めることとなった。バカな男だ。

 仮に、万が一そうはならないとは思うが、強制裁判で有罪となったとしても、具体的なことは知りようがないのだから、検察の取調べを信じるのは当然だと言えば済む。

 要はそうするだけの度量がなかった。逆に一時は仲間とした人間を陥れて逆に自分の助けとしようとした。

 神保代表「その手法の問題っていうのは、菅さんはどう思われますか。つまり、ロッキード事件出されたけれども、ロッキードの話をされたけれども、田中角栄氏以降の、ある種手法としての、やっぱり物凄いたくさんの政治資金力というものを持って、それをいろいろな形で政治力の源泉として来る、源泉としてきたっていう政治スタイルっていうのは、まちがいなくあるわけですよね。

 で、ある種、小沢さんがそれを引き継いできたというところは勿論議論はあるでしょうけども、おカネの遣い方としては、勿論政治活動そのものもおカネがかかるけども、やっぱ、例えば、子分という言い方が悪いかどうか分からないけど、色々な議員をおカネで援助して助けることによって、その人が自分の派閥を形成するような、手法っていうのは自民党時代からずっとあったわけですよね。それについて手法の問題ってあるのかどうか、どうですか」

 菅首相「ですから、先程来申し上げているように、そういう形でなくてもですね、若くて能力があって、志のある人が、国政にも出ていけるようなということで、制度をつくってきたんです。で、それに添って今の民主党の大半の若い候補者は、あのー、党の支援でですね、えー、当選してきているんです。

 ですから、私もそれはそういう新しい仕組みの中で、あのー、やっていくべきだと、またやっていくことは可能だと、今の民主党そのものの存在がそうです。ですから、ですから、私にとっては民主党というのは少なくとも、長い間自民党との対比で自分のことも見てきましたから、自民党のそういう古いですね、どちらかと言えば、それは親分・子分であったり、ある程度はおカネの関係もあったりするのは、その、いいとか悪いとかってことは超えて、やはり一つの古いスタイルの政治で、それに対して民主党というのは、もっと一般の人が参加して、えー、選挙にも当選可能性があるということですね。

 そういう新しいオープンの政治だと。で、こういう新しいオープンな、クリーンでオープンな政治を、その民主党がやっていくいくべきだというのは、私の考えです」

 「クリーンでオープンな政治」は結構だが、政策構築能力、内閣、あるいは党を率いて構築した政策を実現する指導力と実現可能能力がなければ、「クリーンでオープンな政治」は意味を失う。「長い間自民党との対比で自分のことも見てきましたから」と言うなら、自民党歴代首相の政策構築能力、指導力と政策実現可能能力も見てきたはずだ。だが、菅首相のいずれの能力の欠如は自身が掲げる「クリーンでオープンな政治」とは滑稽な逆説となっている。

 神保代表(宮台氏に)「『政治とカネ』の問題でまだあります?」

 宮台社会学者「最後に纏めておくとね、あの一言で簡単に言うと、お役人と言うのは人事と予算が最大の関心事(「かんしんごと」と言った)。彼らにとって最大の武器は法律・条令、なんですね。それに対して政治家っていうのは、何が最大の武器かって言うと、ま、一つは理念。ポピュリズム的なものですけど。理念とやっぱ権益の配分なんですね。

 権益の配分で、それが必ずしもおカネっていうことであるとは限らない。地域をもっと良くするってことを含めて。例えば他の地域でなくて、その地域であれば権益の配分になるってことがあるんですよ。

 なので、実は行政官僚がおカネに関わる法律や条令使って自由自在に政治家を恣意的に追い落としたりする可能性が出てくるので、それは先ず気をつけなければならない面である」

 菅首相「ですから、これはあのー、例えば、色んな法律が色んなところから出てきておりますけども、そのー、ある時期からですね、あのー、電話かけるアルバイト、というのが、その運動員買収という言葉で、逮捕者が出て、で、資格が剥奪される。あるいは中にはビラを配るということもですね、その作業員としてならいいけど、何かその菅をよろしく何て言うとですね、それがアルバイト扱いだとダメだとか、あの、私割と詳しい方ですけど。予想を超えてですね、あの、そういう、何と言うんでしょうか、あの、ま、ある意味で政治家をやめなければいけない、厳罰ですから、そういうことになっている例があります。

 ですから、私などは、そのー、そういったですね、アルバイトとボランティアで、これはしていいけど、これはしちゃあいけないという区分が非常に曖昧な法律に選挙はなっていますから、そこはやはりきちんと、はっきりするように、という理屈で、これはいけなくて、どういう理屈でこれはいいか、はっきりした方がいいと思います。そういうことは気をつけなければいけないことはたくさんあります」

 宮台氏は内心呆れ返って菅首相の言葉を聞いていたのではないだろうか。宮台氏は『政治とカネ』の問題を論じる中で、「行政官僚がおカネに関わる法律や条令使って自由自在に政治家を恣意的に追い落としたりする可能性」を言ったのであり、アルバイトやボランティアが犯す些細な選挙違反に関連した政治家への影響ではなく、選挙での買収、政治資金規正法や収賄罪等の大きな網を利用した違法献金や贈収賄、利益誘導等の摘発を指していたはずだ。

 それを『政治とカネ』の問題から外れてアルバイトやボランティアを持ち出して、たいしたことのない選挙違反を念頭に合理的判断能力を働かすこともできずに、「私割と詳しい方です」と自慢する感覚は話にならない単細胞としか言いようがない。

 政策構築能力、内閣、あるいは党を率いて構築した政策を実現する指導力と実現可能能力を全く欠いていることが納得できる一連の発言となっている。欠いているからこそ、自己存在性を高めるために小沢氏の『政治とカネ』の問題を餌とする必要が生じたのだろう。消費税発言で国民の支持を失うと、鳩山前首相と小沢幹事長の辞任をキッカケに民主党の支持率V字回復を思い出して、利用することを思い立った。

 だが、支持率は下がるばかりで、『政治とカネ』の問題が有効に作用してくれない。そこで躍起となって、なおさら『政治とカネ』の問題にしがみつくことになっている。必要なことは『政治とカネ』の問題で自身の支持率を上げることではなく、指導力、政策実現可能能力だということに気づいていない。その自縄自縛にかかっていることに。

 話はマニフェストの問題に移った。次の機会に譲ることにしたい。


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菅首相インターネット動画出演/宮台社会学者の田中角栄擁護論は小沢一郎擁護論の言い替えか

2011-01-11 09:37:00 | Weblog



 昨日の記事、宮台氏と菅首相との遣り取りの続き――

 宮台社会学者「先程、この話(菅政権三つの柱)とね、連動する、もっと大きな話で、例えば先程神保さん、あるいは菅さんが最初にこの番組に出ていただいたときにおっしゃられた政治主導ならざる国民主導がなぜ必要なのかって言うのはね、ちょっとまたアリストテレスに戻りますとね、人々が尊敬されるような生き方をする社会はいい社会なんですよね。

 じゃあ、人々が尊敬されるような生き方とはどう生き方なんかっていうときに、アリストテレスは政治への参加っていうのを言うんです。

 じゃ、どうしてかって言うと、自分がいいことをするだけじゃなくてね、自分よりもいいことをする人間が他にもたくさん出てくるようにするにはどうしたらいいんだろう、どういう教育が、どういう仕組みが必要なんだろう。

 つまり本当にいいことを、自己満足でなく、多くの人々にやってもらいたいと人々が思うんであれば、必ず政治に関心を持つ。つまり彼の場合、公共的善っていう言い方をするんですけどもね、まあ、言葉はどうでもいいです。

 要は人々の、なぜ地域主権や市民参加や、国民の声を上げることが大事なのかって言うと、つまりそれがまさに自分さえ良ければいいじゃなくって、自分さえ救ってくれればいいんじゃなくって、この国をいい社会にしたいって国民たちが思ってるんだったら、政治に関心を持たなければいけないし、持つべきだっていうふうに言ってるんですよね。

 その辺も実は、あの、日本国民に対するメッセージとしては、必要なことなのかなーって気がします。と言うのは、みんな苦しんですよ、苦しいと緊急避難的にね、こういう手当をつけてくれとか、苦しいから、児童虐待が増えているから、その苦しさを何とかしてくれとか、生活保護を拡充してくれとか、つまり緊急避難としての行政の役割に対する期待の上がるのは当然なんだけれど、ただその政治思想的に言っても、あるいはこの30年間の政治学的な流れから言っても、それはあくまでも緊急避難的であってね、やっぱり国民が自分たちで自分たちのことをよく知ろうと、強く願うがゆえに政治に参加し、自分たちで政治を引き受けるというふうな、流れの中に、ここの平成の開国?最小不幸社会、えー、不条理を正すことが入る。

 そうしないと、お任せしている政治家さんたちがよりちゃんと振舞えばいいんですよねっていうことになってしまいがちで、そこは小さ過ぎますよね」

 宮台社会学者は国民が政治に参加する、あるいは関心を持ち、政治家側が国民に政治への参加の機会を設ける、あるいは政治への関心を持たせた中で「平成の開国」、「最小不幸社会」、「不条理を正す」政治の展開があって然るべきではないかと言った。

 それが「お任せしている政治家さんたちがよりちゃんと振舞えばいいんですよねっていう」ことにならない政治だとしている。
 
 このような双方向型の政治参加を成立させるには先ずは国民が国家レベルで、あるいは社会レベルで求めるあるべき姿を政治側が汲み取って政策化し、政策化した各政策に対するより具体的、かつ懇切丁寧な説明責任が主たる条件となるはずだ。また説明責任をより完璧に果たすためにはそれぞれの政策(三つの柱)を具体化させておかなければ、満足に説明できないことになる。

 具体化させた政策を説明することによって、国民が求めたあるべき姿に合致しているか否かの妥当性が判明し、不足分については国民の意見・主張を聞き、取り入れるべきは取り入れて政策をよりよい内容につくり上げていくことが双方向型の政治参加が成立へ向かう。

 政治家側が自らの声を国民に向けて発信し、国民も自分たちの声を政治家側に発信して融通無碍な、あるいは自由自在な情報発信の双方向性を持たせることを双方向型政治参加と言うこともできる。

 こういったことを言ったのだと思う。この問いかけに菅首相は次のように自説を展開する。

 菅首相「宮台さんが言われたこととの関係で、まあ、言うとですね、私が最初に衆議院に出たのは、1976年のロッキード選挙と言われた年です。で、まあ、私は小さな市民運動をやっていたんですが、あー、そのとき何を感じたかと言うと、結局、カネの力で政治が左右されると。とても普通のですね、そのー、私はサラリーマンの息子ですが、30歳の男がですね、多少仲間がいるからといって、何を、このー、言ってもですね、政治なんかにはとっても届かないというのが、当時でもそんな感覚があったんですが、そうじゃないだろうと、やっぱり言ってみようよと、いうところが私の最初の、最初の私の立候補のキッカケなんですね。

 ですから、私にとっては国民というか、市民というかですね、その人たちが、あるいは私たちがと言ってもいいんですが、声を出して、そしてその変えていくと、その変えることが、まあ、まさに政治で、その変える中身がですね、ここ(三つの柱)にあるわけです。変え方と、あるいは中身が。ですから、そういう意味では私にとって、政治に国民が参加するというか、そのことが私自身の、まさに原点そのものなんですね」

 宮台社会主義者が言っている国民の政治参加と菅首相が言っている政治参加は似て非なるものであることに菅首相は頭が悪いから気づかない。大体が三つの柱はこういう政策だと具体的な説明を果たしていないのだから、市民・国民の声を反映させた政策なのか判断しようがなく、そのこと自体が片方向の政治参加となっている証拠であろう。いわば首相が言っている政治参加は政治家になって直接政治にタッチすることを言っているのであって、国民の側から政治家側に移動したことを指して政治に参加したとしているに過ぎない。すべての国民が菅首相が言っている政治参加ができるわけではない。
 
 「何を、このー、言ってもですね、政治なんかにはとっても届かない」ことがキッカケとなって政治家になったと言うなら、政治家になって自分の声だけ政治に届かせれば済むわけではないのだから、そのキッカケを生かして今度は国民の声を届かせる、政治の側から言うと、国民の声を聞き、また政治側からも国民に対して説明責任の発信を十分に果たすことのできる政治体制をせめて自身だけでも構築してこそ、初めて双方向型の政治参加を実践していますと、宮台氏の主張に対する答となるのだが、「原点」など聞いているわけではないのに、「私にとって、政治に国民が参加するというか、そのことが私自身の、まさに原点そのものなんですね」と自慢の結論で終わっている。

 昨日の記事で神保代表が番組が始まる前に視聴者から声をいただいた、大きく分けると、「何がやりたいのか分からない」、「理念・哲学がはっきりしない」、「ちゃんと説明しない」と、いわば説明責任不足を指摘する視聴者の声を菅首相に伝えたことを書いたが、このことは双方向型政治参加となっていないことの指摘でもあろう。

 神保代表を仲介して伝えられた視聴者の声と宮台氏の主張を踏まえたなら、双方向型政治参加に留意した自説を展開してもよさそうだが、理解能力に欠けるから、そういった答となっていなかった。

 ここで宮台氏は意外な主張を展開する。実際には意外でも何でもなく、私が初めて聞くから意外に思えただけなのかもしれない。

 宮台氏「ちょうどね、ロッキード事件の話が出たので、ちょっとそれに関わる、ちょっと本質的な話をさせていただきたいんですが、実はそのマックスウエーバーと言う政治学者が50年前ぐらいに活躍をして、実は彼はこういうことを言っているんですね。その、近代国家に於ける最大の対立は統治権力、即ち国家と国民の間にあるのではなくて、政治家と行政官僚の間にあるって言ってるんですね。

 で、政治家と行政官僚が国民を味方につけようと闘争している。政治家はポピュリズムを使う。行政官僚は疑獄を使うんですね。簡単に言うと、行政官僚は、まあ、政治家とは違った課題を持ってますよね。従来の枠組みの中で最適化を図るのが行政官僚。政治家っていうのはむしろ、環境の変化に対応して、行政官僚がルーティン化(手順化?)しているゲームを変えてしまうかもしれないようなね、ゲームのプラットホーム(土台?)を変えるような役目を負っているわけですよね」

 神保代表「そこに意義があるのですよね」

  宮台氏「そうですよね。

 ところが、そういうふうにされてしまうと、行政官僚にとっては自分たちの最適化ゲームができなくなるから、政治家をウザイと思うようになるわけですよね。だから、ウザイと思う政治家については疑獄によってですね、あるいは場合によっては日本的な意味でのサボタージュによってですね、足を引っ張ろうとするということが言われているんです。

 で、僕が申し上げたかったのはこういうことです。私が言ったのではなく、私のお師匠である小室直樹っていう人が言ったことなんですけどもね、田中角栄さんていう方は日本で初めて戦後、官僚を完全に服従させることができた天才的な政治家である。それは数字を暗記する力に於いてもですね、あるいは数字の背後にあるコンテキストを読む力に於いても官僚を遥かに凌駕していたので、実は田中角栄に対してだけは頭が上がらないという状態になっていた。

 で、ちょっと極端な話ですけどね、小室直樹さんこういうことを言っている。あのロッキード裁判はアメリカ発の、アメリカのゲームで、我々は実は反論権さえですね、田中角栄に関する反論権、反対尋問さえ確保できなかった。あるいはあのコーチャンの嘱託尋問調書、これも免責特権とかいう制度を使っていますから、日本にはそれに相当する制度がないので、免責特権でやられた証言の法廷に於ける価値も分からないんですね。

 しかし、それを証拠申請し、検察たちが、特捜がね、証拠採用したのはおかしいじゃないのかということを一方で言いながら、しかしそれは小さなことであると言うんですね。大きなことは田中角栄が本当にバッチイ政治家だったとしようと、しかしそれでも必ずしも田中角栄がいけないとは言えないって言ったんですね。

 何故ならば、政治家はマックスウエーバーによれば、場合によっては市民の法を踏み越えることがあったとしても、そうした政治共同体、つまり日本なら日本の国民、乃至国家の運命を切り拓くことが政治家の課題であると、田中角栄はまさにそれをやろうとしていたと、彼の話なんですね。ま、小室直樹先生のね、

 しかし、要するにアメリカからすると、行政官僚の言うとおりに振舞わない政治家っていうのはコントロールできないので困る、っていうことがあったのかもしれない。小室先生おっしゃっているけれども、要はですね、政治家っていうのは綺麗でありさえすればいいのか、違うじゃないかって言うのが、マックスウエーバーが認識したことですね」

 田中角栄擁護論にかこつけて小沢一郎擁護論を展開しているように聞こえた。だが、官僚にコントロールされるだけ、政治家としての本質はまるきり改革者ではなく、単なる解説者に過ぎないために「日本の国民、乃至国家の運命を切り拓く」力などさらさら持ち合わせていない菅首相にしたら、理解し難い田中角栄擁護論=小沢一郎擁護論であるに違いない。

 ここで菅首相は反論する。

 菅首相「ただ私が言いたかったのは、当時私は30歳でしたが、えー、まあ、市川(房江)さんの選挙をやったときに、25,6歳です。つまりは普通の意味で言えば、全く無名で、全く色々な権限もない。別に官僚でもない。そういう大きな組織を背にしているわけでもない。そういう人間が、何らかを発信していく。

 で、人の選挙を手伝ったり、ま、仲間が一緒になって、自分で選挙に出たりした。そのことを言っているんです。ですから、そのことによって政治が変わるのか変わらないのか。今宮台さんが言われているのは、今の私ならですね、それはおっしゃることは逆に言えば、総理大臣という立場で、それは場合によってはですね、ある意味で国民のためには、多少のことは仕方がないっていうようなことは、それはその通りかもしれません。

 しかし、私の30年前、30数年前の立場で言えば、今の若者もそうでしょうが、つまり自分たちの声が届く政治なのかどうかという問題意識なんです。で、私にとって、政治とカネの問題は、カネそのものじゃなくて、自分たちがそういうものに阻まれているのか阻まれていないのかと言うことなんです。

 ある意味では官僚にも阻まれていました。それから政治家にも阻まれていました。ですから、その阻まれているものを超えていこうというときに、一つぶっつかったのがちょうどロッキード選挙だったわけです。しかしそれを超えたからといって、当然そのときは知りませんでしたが、次には確かに官僚の壁がありました。色んな壁があります。で、総理大臣になってみても、また壁はあります。ですから、そういう意味では壁を超えてもですね、自分たちの市民の、国民の声が政治を動かすことができるかどうか、という観点から、私はこの政治というものに対して、私の原点だといっているんです」

 相変わらずトンチンカンなことを言っている。カネによって政治が不正な方向に曲げられたなら、確かに壁と言える。官僚によって阻まれる、政治家に阻まれるはカネが原因ではなく、自身の指導力が原因の阻害要件である。前日のブログで国民の支持を力とすれば反対する官僚に対しても政治家に対しても対抗し得る大いなる原動力となると書いたが、その支持さえ壁となっている。

 国民の支持が壁となって立ちはだかっているということはマイナスの発信しかできていないということであろう。

 宮台氏が言ったのは、例えカネを使って政治を動かそうと、それがよりよく「日本の国民、乃至国家の運命を切り拓く」方向に向かうなら、許されるのではないかという菅首相に対する問題提起だった。それを指導力不足から生じる壁と不正なカネの不正な使用によって生じる壁とを混同して、相変わらずロッキード事件のときに選挙に出たことをウリにして、原点だとすることに拘り、そこから一歩も出ていない。

 問題は菅首相の「原点」の指摘ではなく、原点とさせた政治状況の解消にあるはずである。

 市民の立場、国民の立場からの声が政治に届くかどうかの問題意識を出発点としながら、「今の若者もそうでしょうが」と言うことはできても、それを可能とする政治体制の実現を政治家としてライフワークとしているわけでもない。これは菅首相が市民、国民の立場を離れて、政治家の立場に完璧に立って、情報発信にしろ何にしろ自己中心となっているからだろう。だから、30年前と同じく、「今の若者もそうでしょうが」という同じ閉塞状況に立たされていることになる。

 判断能力不足、理解能力不足から、その矛盾に気づきもしない。

 菅首相の言う国民主導、国民参加の政治が口先だけの提唱に過ぎないことを物語っている。

 宮台社会学者「おっしゃることは分かります。ただね、あの、マックスウエーバーはこうも言っているんです。マックスウエーバーって、ビスマルクドイツ帝国時代の学者さんで、ビスマルクの独裁的な政治を支持したんですね。というか、彼は最終的には止揚、アウフヘーベンされて、市民社会、つまり菅さんがおっしゃるように市民が政治をするような社会になるべきだとはっきり言っている。

 ただ、まだ19世紀末のドイツは、まだ人々の民度が、あるいは国民の教育の度合いが、国民教育の度合いっていうのは実は彼が使っている言葉ですけども、まあ、十分ではないから、基本的には何がよい政治なのかっていうことを指し示すためにもね、場合によってはビスマルクのような強い政治化の存在が必要だというふうに言ってるんですね。

 で、これと少し別の角度から言うと、こういうことなんですよ。国民は経済さえよくなれば社会はよくなるというふうに思って、自分たちが参加した政治をしようとしているふうな場合ではね、これは例えば、今日で言えば完全に政治の道を誤ります。何故ならば、先進各国は少なくとも80年代に社会は市場に依存しすぎても危ない。市場は不安定だから。で、さらに行政官僚制下で国家に依存しすぎても危ない。何故ならば国家もやはり不安定だからですよ。

 特にグローバル化が進むと、市場に依存し過ぎることの怖さ、行政官僚制に依存しすぎることの怖さは、みなさん、日本人であっても最近やっと分かるようになってきた。だから、80年代の先進各国はマドゴロス運動(?調べたが不明)とか、メディアリテラシー運動とかアンチ素材マーケット運動とか。全部含めて、今おっしゃった市民がやる政治、その目標が市場が例えパンクしても、例えパンクしても自分たちの共同体が自分たちがちゃんとするぞ、ちゃんとまわすぞ、ていうふうなね、つまりそういう成約なんですよね」

 ここではビスマルク論が小沢一郎論に聞こえる。

 宮台氏は「国民は経済さえよくなれば社会はよくなるというふうに思って、自分たちが参加した政治をしようとしているふうな場合ではね、これは例えば、今日で言えば完全に政治の道を誤ります」と言っているが、それでも基本は経済である。国家の財源にしても、最終的には経済に負っているのだから、国の経済が確固としてしていること、その経済が国民一人ひとりの経済により公平に分配・反映されること。この基本を失うと、社会は疲弊することになる。現在の日本がまさしくそういった状況にあるはずである。

 菅首相「それがね、つまり、それが出番と居場所がある社会の中でも、ある時期からですね、かなりズタズタになってきていると、まあ、今、鳩山前総理がですね、新しい公共ということを、特に、強く言われて、私もそれを引き継いで、えー、色々な、そういう、まあ、例えばNPOに対する寄付控除とか、そういう若干の、そのインフラ整備やってますが、ですから、そういう、その、貨幣経済で全部うまくいくかというと、うまくいかない。

 では、国が全部やれば済むかというと、いかない。そこに社会があり、地域があり、家族があり、そういう人間関係がきちっと成り立っていることがですね、私はまさに最小不幸社会の、条件だと思っているんです」

 菅首相は満足げに自分で小さく頷いた。

 最後までトンチンカンな自説の展開となっている。確かに経済の発展が著しい時代には、その経済に支えられて国民は社会的な「出番と居場所」を確保できたかもしれない。だが、政治的な「出番と居場所」は政治家に任せっきりで、双方向型の政治参加という認識は育たず、そのような姿勢が自民党一党支配を可能とさせた。政治側は一党支配をいいことに政治を私物化し、利益誘導政治を跋扈させることとなって国家財政の悪化を進行させることとなり、現在末期症状に至っている。

 政権交代によって自民党一党支配を終焉させたものの、経済の破綻が多くの国民の社会的な「出番と居場所」を奪っているばかりか、菅首相は「国民主導の政治」、あるいは「国民参加の政治」を掲げて政治的な「出番と居場所」を国民に約束しながら、自らは双方向型の政治参加・双方向型の情報発信に意を置かず、意を置かないから当然政治的な「出番と居場所」は実現の兆しさせ見せず、専らウリにしているロッキード事件が政治家転身の原点だとの宣伝に終始し、あるいは自らが掲げた三つの柱だとしている政策を具体像を構築するところまで進んでいないからだろう、どういった政策なのか具体的に説明する責任を果たさず、政策の名称だけを振り回して、さも希望ある社会の実現が約束されるようなことを言っている。

 これが改革者ではない、単に解説者で終わっている菅首相の姿である。


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菅首相のインターネット動画出演で分かったこと/改革者ではなく、解説者だということ(2)

2011-01-10 09:49:08 | Weblog


 前日の菅首相インターネット動画出演記事で迂闊にも出演タイトルを書き忘れてしまったが、「第508回 菅首相生出演 総理の言葉はネット届くのかに」であった。

 果して届いたのかどうなのか。届いたとしても、マイナスイメージで届気、マイナスイメージでがっちりと受け止められる場合もある。その割合が問題となる。発言した内容の殆んどが今まで言ってきたことの繰返しで、目新しいこと、いわば視聴している者の目を見張らしめるようなことは何も言っていないことからすると、世論調査支持率に応じた反応といったところかもしれない。

 前日記事で取り上げた応答の続きになるが、「プレスクラブ - ビデオニュース・ドットコム」の神保哲生代表が菅首相出演に対して視聴者から前以て要望の声が届いていた言って手書きした画帳を示した。

 神保代表「インターネットテレビはある意味双方向で、番組が進行しながら、ツイッターなどで色んなことが言われていると思うが、番組の前にこういうことを聞いてくれ、これはおかしいじゃないかという声が来た。大きく言うと、二つが徹底的に不満、怒りに似たような声としてあったように思う」

 そう言ってマジックで手書きした画帳を目の前に差し出した。
 

 怒りの中身

 1 何がやりたいのか分からない   理念・哲学
 2 ちゃんと説明しない       説明責任・哲学

  神保代表は菅政権が全体としてどのようなビジョン・哲学に基づいて政治を行おうとしているのかいま一つ見えてこない、後者の例としてはマニフェストについての説明不足、さらに小沢問題の「政治とカネ」の本質的な問題は何なのかの説明不足等を挙げた。

 神保代表が「今日は小沢さんの問題は政局的にはやりたくない、なぜ政倫審の説明が必要なのか、『政治とカネの』の本質的な問題についてまだ菅さんから十分な説明がないのではないのかという声がかなり多かった」と言ったところで何となく親小沢の匂いを嗅ぎ取ったが。

 ここで宮台社会学者が「ちょっと補足するとね」と話を引き取った。

 宮台社会学者「僕が出ているラジオ番組の正月の放送でリスナーが決めるニュースランキング、3ガ日以降のベスト4以内に政治のことが一個も入っていない。

 これは年頭としては非常に珍しいことで、政治、あるいは菅政権からの発信に対する無関心化がある程度進んでいると思われるんですね。おとといの『報道ステーション』の視聴率が6%台だった。これは歴代首相が出る日としては低い。

 菅政権からの発信に国民として関心を持たなくなってしまったのかという背景に、ある程度の諦め、怒りだったらまだしも、怒りのあとにある種の退却状態が起こっている可能性さえ、データーから見る限りありそうなんですね。

 なんで、何とか巻き返していただかないと、それこそ国民の声によって政治をするという、菅さんが総理になる遥か前からおっしゃっていたことが実現しなくなってしまいますので、危惧しておりますね」

 宮台氏はここで大いなる勘違いをしている。「国民の声によって政治をする」という菅理念は最初から破綻していることに気づいていない。私自身は菅直人なる人間が市民派を名乗る手前、単に掲げていた薄っぺらな看板に過ぎなかったと思っている。理念・思想・哲学として菅直人の血肉となっていなかった。だから野党時代に、何度も同じ例を持ち出して恐縮だが、沖縄に米海兵隊は要らない、米本土に帰ってもらうと言っていながら、首相になると簡単に反故にすることができた。このこと自体が「国民の声によって政治をする」とする理念の破綻を既に証拠立てている。

 菅首相「私が何をやりたいのかということをよく質問受けるんですね。そのときに私が個人的にやりたいこと、例えば植物系のバイオマスエネルギーのをつくるとか、ま、こういうことはやりたいし、実は森のこともかなりやっているんです。それは総理になる前から、ある種の自分のテーマとして、えー…やってきたし、やりたいこともあります。

 ただ、今、私は総理大臣という立場でして、2011年1月7日というこの時点にいて、何がやりたいと言うよりも、何がやらなければならないのかということを考えているんです。

 つまり、その、先程言った臨時国会のときもそうなんですが、つまり、年が明けて2011年の段階で、今の日本がどうなっているのか、この間の『報道ステーション』でも、例えば、社会保障にかかる費用がですね、えー、高齢者の分だけでも、消費税の国の分約7兆に対して17兆かかっていると。差額は結果として、えー、何らかの赤字国債で埋めている。

 そういう状況が現実にあるわけです。それは私が総理であろうが、他の人が総理であろうが、現実にあるわけです。じゃあこの問題を放置して、もう1年、もう2年、もう3年、同じように借金で維持していって、大丈夫なのか。そういう課題がいくつかあります。

 それで今年の4日のですね、年初の記者会見で、その基本的な考え方を3点、理念として申し上げたんです。その一つが平成の開国元年、もう一つが最小不幸社会の実現――」

 神保代表がパネルを前に出した。
 
 菅政権三つの柱

   平成の開国

   最小不幸社会

   不条理を正す

 菅首相「そしてもう一つが不条理を正す政治の実現で、この三つの中にですね、私が今、総理大臣として、やらなければならない、その優先度を、この中に盛り込んだつもりです」

 なぜ質問に対してもっと直截、的確に、いわば打てば響くように答を発信できないのだろうか。政権を担った首相としてどのような政治を行うのか、その理念・哲学を聞いたのである。それを野党時代にテーマにしていたという、個別的政策でしかないバイオマスエネルギーを例に挙げるところから答に入る。何か自己宣伝しないではいられない自己顕示欲旺盛型の人間に出来上がっているとしたら、その分合理的判断能力を欠いていることの証明となって、人の上に立つ資格から遠ざかることになる。
 
 「平成の開国」、あるいは「平成の開国元年」と体裁のいいキャッチフレーズを用いているが、貿易自由化問題は常に古くて新しい問題であって、今始まったわけではない。EPA(経済連携協定)やFTA(自由貿易協定)といった貿易自由化協定が既に存在し、日本は国内農業保護がネックとなって多くの国との締結が立ち往生するか、農業分野の自由化は例外規定を設けて真の自由化とはなっていない協定で終わっているものもある。WTO農業交渉で日本のコメの関税率が778%となっているのはその好例であろう。

 因みに財務省のHPにEPAとFTAについて次のように書いてある。

 〈経済連携協定(EPA:Economic Partnership Agreement)とは、2以上の国(又は地域)の間で、自由貿易協定(FTA:Free Trade Agreement)の要素(物品及びサービス貿易の自由化)に加え、貿易以外の分野、例えば人の移動や投資、政府調達、二国間協力等を含めて締結される包括的な協定。〉

 菅首相が「平成の開国」と名付けて、その主柱としているTPP(環太平洋戦略的経済連携協定)は2006年5月にシンガポール、ニュージーランド、チリ、ブルネイの4カ国間で2006年5月発効に始まった新しい部類に入る自由貿易協定で、次いでTPP加盟交渉国が米国、オーストラリア、ペルー、ベトナム、マレーシアの5ヵ国、コロンビア、カナダなどが参加の意向ということから、太平洋に位置する日本としても参加に遅れるわけにはいかない、仲間外れは困るということからの参加意向ということだろうが、どのような枠組みの貿易自由化であっても、その参加には農業が伝統的にネックとなっていたのである。

 当然、民主党としても政権獲得を目指し、「民主党政策集INDEX2009」に、「自由で多角的な貿易体制を目指す世界貿易機関(WTO)の多角的通商交渉(ドーハ・ラウンド)の早期妥結を目指します」、「食の安全・安定供給、食料自給率の向上なども念頭に置きながら、積極的に推進します」とEPA、FTA参加を掲げていたのだから、野党時代から農業が自由化のネックとなることは自明の理としてチームをつくって対策を練っていたはずだが、昨年11月に主要貿易国との間で貿易の自由化などを行う経済連携を積極的に進めるとした基本方針を閣議決定し、その対策として国内農業の体質強化に向けた「食と農林漁業の再生実現会議」を設置したはいいが、今年の6月を目途に必要な対策を基本方針として纏める予定だというから、遅過ぎる動きとなっている。(この問題に関してはいずれ改めてブログ記事にしたいと思う。)

 野党時代というのは政権交代に備えて各政策を練り、構築する助走期間であるはずだ。車で言えば慣らし運転の期間だったはずである。なぜなら、与党の政策よりも優越的でなければ、政権交代する資格を有することにならないからだ。勿論、与党以上に優越的であると自分たちだけで思っていては意味はない。国民に納得させる説明を行わなければならない。その結果の政権交代であったはずである。

 マニフェストに掲げた貿易自由化に関しては自民党に優る貿易自由化案、それを可能とするための農業政策をこれまでの自民党政策を参考とし、あるいは反面教師として構築していなければならなかった。そして民主党政権発足と同時に野党時代に助走させてきた自民党政策よりも優越させた各政策を本格スタートさせたはずだ。

 まさか政策を掲げただけ、政策に関する言葉を並べただけ、それ以外は何も準備してこなかったというわけではあるまい。野党時代が政権交代に備えて各政策を練り、構築する助走期間であるはずであり、そうでなければならいなら、「政権が発足してからの半年間は、仮免許の期間」とした菅首相の発言は、既にブログに書いたが、薄汚い自己免罪に過ぎない。

 このことはプロ野球の2軍選手を例に取ると理解できる。2軍選手はいつ1軍に呼び出されてもいいように体力づくりと技術向上に励む。また1軍で通用する体力と技術を備えなければ、1軍に呼び出されることはない。1軍に呼び出されたなら、直ちに1軍選手に遜色ないプレーを示さなければ、2軍に戻される。2軍に上がったばかりだからといって猶予も甘えも許してはくれない。厳しい勝負の世界であり、各選手はそのことを深く認識しているはずだ。

 厳しい認識を持たない人間だけが、「政権が発足してからの半年間は、仮免許の期間」だったと自己免罪の誤魔化しを働く。

 菅首相はいずれにしても農業をどう保護するか、農業の自立をどう図るかその道筋を示す前にTPP参加を表明した。「政権が発足してからの半年間は、仮免許の期間」だったと半年の無策を許し、さらに政策構築の助走期間だったはずの野党時代までも空白化させて、道筋はこれからだとしている。このことは国民側からしたら、不条理そのものであろう。野党の民主党時代を幹部議員として過ごした菅直人という政治家の怠慢・不作為と言われても仕方がない。

 勿論野党時代、自身が直接農業政策に関わらなくても(実際には「民主党農林漁業再生運動本部」本部長として関わっていた。)、首相就任と同時に貿易自由化と農業政策に関わったチームを指揮して本格稼動させなければならなかったはずだ。

 「不条理を正す政治の実現」と言いながら、菅首相自身が不条理を備えた存在となっている。野党時代の沖縄米軍海兵隊不要論を首相になると米軍撤退ではなく自身の発言を完全撤退させたことも不条理な政治行為と言える。

 菅首相のこのような姿も日本はどうあるべきかの単なる解説者に過ぎず、改革者足り得ていないことを示している。

 宮台「日本のGDPは世界で個人位当たり23位ぐらい。幸福度調査では日本のランクは75位から90位の間なんですね。日本の国よりも貧しい国は遥かあるのに、その国々の大半はむしろ日本よりも上なんですよ。と言うことはよき社会、あるいは社会にとって、よきことって言うのは単なる経済の問題でもなければ、犯罪の問題でもなくって、人間がリスペクト(尊敬)されるような生き方ができるかどうかということだと思うんです。

 その辺についての価値を先ず発信していただいた上で、その価値から見たときに先ず僕たちの社会がどういう問題を抱えているかということははっきりとさせ、次にそういった問題を抱えてしまった経緯がどういうものであるかっていうことをはっきりさせて、その上で、じゃあ、それを巻き直すためにはね、処方箋はこういうものであるに違いないというふうにプレゼンテーションする中でね、その三つの柱、平成の開国、不条理の廃止、云々かんぬんというのにね、入っていくのであれば、非常に、えー、最小不幸社会って僕も使っていた言葉で、ちょっと言いにくい言葉なんだけどね、リチャード・ロウっていう、残酷の回避と言われているものと同じでね、何が良きことかについては色々な人の色々な価値観があるけれども、病気は厭だ、犯罪は厭だ、孤独は厭だ、寂しいのは厭だ、苦しいのは厭だっていうのは大体同じだろうっていうことからきた概念ですけどね、この辺の全体の最終目標の中に(三つの柱を)位置づけておくと――」

 神保代表が宮台社会学者の言葉がいつまで経っても止まらないと見たのだろう、遮って、三つの柱にどんなものが入るのかと菅首相に聞く。

 菅首相「私は昭和21年生まれですけど、ま、ある意味、この64年間ですね、割と前向きに生きることができる時代を、ま、団塊の世代としては走ってきたように思うんです。

 ただ、最近ですね、やはり自殺が少し減りましたが3万人を超えている。あるいは孤独死が増えている。さらには家族とか地域のつながりがなくて、あの、結婚しない人が増えている。

 つまり、居場所と出番がない人というのがですね、非常に増えてきている。これはやはり人間は人と人との関係の中で基本的には生きているわけですから、その関係性が断たれてですね、えー、孤独死しているというのは、私は非常に大きな不幸の要素だと思うんです。

 ですから、ここの三つのことを掲げましたけども、一つの社会のあり方として、それぞれの人がですね、若者も、お年寄りもですね、自分の居場所があると、自分の出番があると、実は私は89歳の母親と住んでるんですが、あの、家で何もしていないとですね、何となく機嫌が悪いんです。

 で、この暮れにですね、あの、国会の近くに私の家内が散歩に連れて行ったらですね、あの、銀杏の実が落ちていたんですね。それ以来毎日ですね、散歩に出て、銀杏の実を取ってきてですね、そして、こう洗ってですね、ま、これでお正月はこれで食べられるね、と。

 ですから、それぞれの人にとっての居場所と出番ということが、このつくられている、その存在している社会というのは、私は非所に重要じゃないかと思っているんです」

 改革者ではなく、解説者としての面目躍如の発言となっている。菅首相がここで言った「居場所と出番」とは各個人のそれぞれの人生のそれぞれの途上に於ける社会と関わった立ち位置のことで、それを母親が銀杏の実を拾いにいくといったごく個人的な時間潰しを例に挙げて説明する判断能力は一国の首相にふさわしくなく素晴らしい。

 例えば男女とも結婚を保証可能としてくれる職業と収入を確保して、20歳から30歳、遅くても40歳までに結婚して社会と関わっていく立ち位置を得て初めて、社会の生きものとしての「居場所と出番」に恵まれたと言える。だが、そういった社会となっていない。

 だから自殺や孤独死、未婚者の例を挙げたのだろうが、こういったことと一切関係のない母親の例を挙げて説明する判断能力からすると、社会現象を単に表面的に把えて表面的に解説しているに過ぎない。いわば解説者の役目を演じているに過ぎないということになる。

 大体が年間自殺者3万人超は13年連続である。野党時代、民主党は自殺対策を練り上げていただろうし、練り上げていなければならなかった。「民主党政策集2009」には民主党主導で2006年に自殺対策基本法を成立させた、「今後も国と自治体一体で自殺予防対策推進を取り組んでいきます」などと書いてある。

 だが、昨年9月に「自殺対策タスクフォース」を設置、自殺者数の減少を目指して啓発活動などを強化したものの、9月と10月は減少したが、11月には再び増加に転じ、年明け早々に新たに「自殺対策プロジェクトチーム(PT)」を民主党内に設置、明後日の1月12日に初会合の予定、3月頃を目途に対策強化の提言をまとめて政府に働きかけると今後の課題としていることからすると、政策構築の助走期間だった野党時代は何をして過ごしたていたのだろうか。単に対策ばかり立てる対策の屋上屋を架しているようにさえ見える。

 自民党政権最後の首相麻生太郎が学生主催イベント「ちょっと聞いていい会」に出席、学生の「結婚資金が確保できない若者が多く、結婚の遅れが少子化につながっているのではないか」の質問に、 「金がないのに結婚はしない方がいい。オレは金がない方ではなかったが、43で結婚した。稼ぎが全然なくて(結婚相手として)尊敬の対象になるかというと、なかなか難しい感じがする」と答えて物議を醸したのは2009年8月23日自民党歴史的大敗の総選挙約1週間前である。民主党も政権交代につなげるために散々に批判した。

 その当時派遣で食いつなぐのがやっとで、結婚資金を蓄えることができずに結婚を諦める者の存在が話題となっていた。以前ブログに取り上げ、この記事の最後にそのブログ題名を記しておくが、年収と結婚率の関係は以下の通りとなっている。

 年収を加えた結婚率は、20歳~24歳男性年収150~199万円が7%に対して年収900万~999万は62%。

 25歳~29歳男性年収150~199万円が17.47%に対して年収900万~999万は42.3%。

 30~34歳になると年収150~199万円でも約倍近い34.0%となるが、対して30~34歳・年収900万~999万は65.1%。(以上)「しんぶん赤旗」から)

 如何に収入と結婚が関係しているかが分かる。当然、菅首相が言う、自殺や孤独死、未婚等を決定づける社会的な立ち位置としての「居場所と出番」の不在は全部が全部でないにしても、それでも深く収入の問題が関与していると言える。

 宮台氏は日本の幸福度が低いのは、「経済の問題でもなければ、犯罪の問題でもなくって、人間がリスペクト(尊敬)されるような生き方ができるかどうか」だと言っているが、日本人の幸福度が低いのは国としては経済大国だとしても、その経済が多くの国民の個人的経済につながっていない、個人の経済の問題=収入が決定している幸福度の低さであり、不幸度の高さであろう。

 「人間がリスペクト(尊敬)される」にしても、それなりの職業・収入(=経済)と結婚の二つを通して社会的に「居場所と出番」を確保する、即ち社会的立ち位置の獲得がなければ困難な姿となる。

 となれば、自殺も孤独死も未婚も、それらの問題は経済大国を形成している企業や富裕層の経済・利潤が国民一人ひとりの経済(=収入)に配分される社会の形成、あるいはそういった社会の形成につながる景気回復策に帰結させるべきであって、それらを単に並べ立てて、「居場所と出番」が必要だと言うだけでは、単なる解説で終わるだけのことで、何ら解決策となる改革に向かわない。

 勿論経済の問題ではない自殺や孤独死、未婚は存在するが、それらの問題は個々に扱うしかないだろう。

 以上、菅首相の発言が改革者としての発言ではなく、解説者の発言に如何に終始していたかを取り上げた。

 参考までに――

 《麻生の「カネがねえなら、結婚しない方がいい」発言に見る“若者理解度” - 『ニッポン情報解読』by手代木恕之》


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菅首相のインターネット動画出演で分かったこと/改革者ではなく、解説者だということ(1)

2011-01-09 10:04:56 | Weblog


 この記事内容は題名と離れているが、おいおいその姿を提示したいと思う。

 昨日のブログに1昨日7日(2011年1月)に菅首相が「プレスクラブ - ビデオニュース・ドットコム インターネット放送局」の動画に出演したことを新聞記事をソース元に書いたが、改めて動画にアクセスしてみた。1時間24分50秒の長さに亘る全部を文字化する根気=集中力を年齢の関係か、既に失せているので、部分的に切り取って理解できたことを記事にしてみたいと思う。

 日を改めて視聴するつもりでいるが、全部視聴し終えていないために、視聴した範囲の発言に対する解釈に違いが生じる場合があったときは、これも日を改めて訂正させてもらうことにする。

 出演者は菅首相に「プレスクラブ - ビデオニュース・ドットコム」の神保哲生代表、それに社会学者の宮台真司氏の3人。

 菅首相が主客ではなく、宮台氏が主客で、アリストテレスやマックスウエーバーを持ち出して、政治とはこうあるべきだと滔々と菅首相に説教を垂れていて、どちらかというと宮台氏の独壇場の観があった。但しその多くは割愛し、焦点を影薄い菅首相に当てることにした。

 日本の総理大臣がインターネット動画に出演するのは初めてのことだそうだ、この出演は菅首相のほうから持ちかけたものと分かる。

 最初に神保氏が内閣総理大臣がインターネット動画に出ることの重大さを認識されているかと尋ねると、野党時代の代表のときや一議員のときも出演しているし、総理大臣になったからといって、特に自分の気持は変わらない、「多少動きにくいということは、そういう意味じゃありますが、SPさんがつくとか、色々なことがありますが、気持はあんまり変わらないですね」と相変わらず聞いてもいないことをニコニコしながら答えていた。

 活字情報が滅びることはないにしても、殆んど場所を選ばずに手軽にアクセス可能なインターネットが活字情報に取って代わって優勢な位置を占めるのではないかと言われているこの時代状況下に時の総理大臣が、例えたいしたことのペイペイの総理大臣ではあっても、日本初となる出演はある意味歴史的な出来事であり、どう受け止めるのか聞いた。

 菅首相は後で言っているように一般的なマスコミが菅首相が望まない一部分を切り取って情報発信すると常に批判しているが、自宅にいないとなかなか見ることができない記者会見のテレビ中継を除いて(最近では国会質疑をインターネット動画で同時中継しているが)、新聞やテレビ報道等のマスコミを仲介させて情報を授受するのではなく、携帯電話を持ち、電波の届く範囲なら、いつどこでも簡単にアクセス可能となる、あるいは勤務先のパソコンを通じて都合のよい時間にアクセス可能となり、国民自身がマスコミに代ってより手軽に直接的に情報に触れ、自分自身の判断と解釈で自らの情報とする機会を持つことになっているのである。

 当然、ただでさえ総理大臣と野党の代表、あるいは一議員とでは発言の責任の重みが違い、重みに応じて反響も違ってくるのだから、インターネットを介した国民の直接的な情報授受に与える影響にそのまま連動することになる。

 このようなことを考えた場合、野党の代表として、あるいは一議員として出たときと変わらない、SPがついている分「多少動きにくい」と答えることが果して合理的な判断に基づいた答と言えるだろうか。

 この一事を以てしても、的確な判断能力に欠ける政治家だと分かる。

 次に菅首相は神保代表が言ったインターネット放送に引っ掛けて、新聞・テレビのマスコミが首相自身が望まない形で部分的に切り取って情報発信する不公平さを批判している。

 菅首相「インターネット放送と言うよりも、この間、特に国会開会中はかなりタイトな時間で、自分で発信することはなかなかできないですよね。ま、確かに、あの、私自身は映ったりしてるんですが、かなり自分の中でギャップがあったんです。

 つまり、自分としてはここが重要だから、例えば本会議場でこういうことを言っているとか、委員会でこう言ってるとか、という思いがあるのですが、その部分は殆んど放送されないで、まあ、言葉は激しいけれども、それ程内容的には重要と思われないようなところを、特に政局と絡むようなところをですね、エー、どんどん流れていくと、エー、なかなか自分の思いが伝わらないという、そういう感じが強かったんです。

 それで昨年の11月頃から、あの、カンフルTV とか、カンフルブログというものをつくって、まあ、自ら始めたんですが、あの、一般のテレビ番組にでもですね、あの、少し出ようと、そして、あの、インターネットのこの番組にも出してもらって、あのー、出来るだけ、私として何を考えて、また、私として何をやっているのか、あの、生の私の姿をですね、もっと伝えたいと、ま、そう思って、今日出させて貰いました」

 国会開会中は姿は映っても、「自分で発信することはなかなかできない」と自分に都合がいいだけの自分勝手なことを言っている。例えそれが政局絡みの論争であっても、単純に写真として菅首相の姿が映るのではなく、菅首相自身の答弁を通して誠実か不誠実かといった人柄、的確か不的確かの判断能力まで映し出され、国民がインターネット動画を携帯電話やパソコンを通して、あるいはNHKの中継を通じて、あるいは新聞・テレビを通じて情報として受け止め、自らの解釈を通して自らの情報としている。

 そのことが理解できずにマスコミを批判するのは責任転嫁以外の何ものでもないというだけではなく、この程度の判断能力、この程度の責任意識で一国の総理大臣を務めている滑稽な事実を問題としなければならなくなる。

 ここで神保代表は、メディアだけの問題なのか、政権側が必要なことを発信してきたのかと政権側の発信能力を問題とするが、自分の姿は映っているが、自分が望む情報発信をマスコミは応えていないと責任転嫁するような男だから、聞く耳は持たずの判断能力を欠いた自説を押し通す。

 大体がカンフルTV やカンフルブログが発する情報すべてが正しい情報だ、国民が受け入れてくれると価値づけ、国民によっては諾否が分かれると考えない性善説は合理的判断能力を激しく疑わせる。

 菅首相「例えば臨時国会の冒頭のあの所信表明で、私はこの20年間ですね、本来やらなければいけないことで先送りされてきた問題が、大きく言って五つ政策課題があると。それは経済の成長が止まっている。あるいは財政が非常に厳しくなっている。社会保障が収支(?)の安定が危なくなっている。それに加えて、地方主権の問題と、外交の問題と、五つの問題を所信表明で言ったんです。できればそれを中心に与野党に議論をしてもらいたいとも言ったんですが、残念ながら国会の場では、そういう私の問題提起を、まあ、野党のみなさんもなかなか乗ってくれなかったし、そういう問題提起していること自体が殆んど報道としてはならなかった。

 ですから、勿論、こちらの発信力の弱さというか、そういう問題はありますけども、そういうことは必ずしも本会議、委員会で言っているからといっても、あの、それを選択するのはメディアのみなさんなんです。

 ま、敢えて言えば、あの、私に反省があるとすればですね、やはりもっとこの、時間をですね、非常に拘束のない(ママ)委員会が多かったんですが、もっと時間を自分で使えるようにして、で、色んな場所に出て行って、そして現場の人間と話をするとか、ということを通してですね、もっと積極的に、あの、発信する。それをやることが必要だなと、まあ、あの、12月の3日に国会を終わってからはかなり、それに務めているところです」

 神保代表からメディアだけの問題なのかと指摘されながら、自らを省みる自省心を働かせもせず、自身の情報発信能力欠如のマスメディア責任転嫁論が固定観念化しているのだろう、頑強に守り続けた。
  
 そして「できればそれを中心に与野党に議論をしてもらいたいとも言ったんですが、残念ながら国会の場では、そういう私の問題提起を、まあ、野党のみなさんもなかなか乗ってくれなかったし、そういう問題提起していること自体が殆んど報道としてはならなかった」と言っているが、これはマスコミの問題でも何でもなく菅首相自身の指導力の問題である。問題提起は誰でもできる。提起した問題を自らの指導力によって具体化し、望んだとおりの議論を展開させることができたなら、報道もそれに従う。展開したとおりの議論を報ずるしかない。

 また、マスコミを味方につけるには先ず国民を味方につけければならない。国民の支持があれば、例えねじれ国会という不利な状況下にあったとしても、問題提起は実現に有利な条件を獲得するはずである。

 このことは公明党の民主党に示している態度を見ればわかる。支持率が高かったなら、民主党と連立を組む姿勢だったが、あまりにも支持率が低いために、共倒れとなる恐れから、あるいは支持者から批判を受ける恐れから、結果として距離を置いて対決する姿勢を取っている。

 こういった状況分析すらできないから、マスコミ責任転嫁論を恋々と繰り広げることになっている。自分には何も悪いところはないとばかりに妄信して。大体が責任転嫁者であること自体が既に改革者の姿を失っていることを示す。

 菅首相は一応は「こちらの発信力の弱さというか、そういう問題はありますけども」と言っているが、ここで実際に問題となっていることは自身の指導力欠如が生み出している問題提起の非実現であって、発信力とは関係ないことなのだから、神保代表が政権側の発信力にも問題があるのではないかと指摘した手前の口先だけ言った体裁に過ぎないだろう。全体の文脈はあくまでもマスコミ責任転嫁論となっている。

 このことは次の発言も証明している。「私に反省があるとすればですね」と反省の対象を自身の発信力の程度、発信能力に置くのではなく、それとは無関係の、野党の追及を受けることのない外の世界に出て自身の発言と態度を発信する機会を増やすことに置いている。

 外の世界からの情報発信だとしても、これとて一般的にはマスコミを通じた情報提供となるのだから、菅首相の望みどおりとなる保証はない。朝鮮有事の際に拉致被害者救出に自衛隊機が出て行って、韓国を通って行動できないか韓国と取り決めたいなどと何の準備も議論もなく、その場の雰囲気で不用意に発言したことがマスコミばかりか、インターネットやツイッターで叩かれた例もある。

 こういったことまで広く考えることができずに色んな場所に出ていって発言すればすべてうまくいくと思っている楽観主義にしても、やはり一国の指導者にはふさわしくない極めて合理的判断能力に関係することであり、色んな場所の一つとして菅首相はインターネット動画に出演することによって多くの国民に自らの判断能力の程度、その劣りをマスコミを通して間接的にだけではなく、直接的にも情報伝達したのである。

 当然、インターネット動画に出演することが総理大臣と代表、一議員の場合と変わりはない、SPがつくから多少窮屈になるなどとノー天気なことは言ってはいられないし、また自身の支持率の低さをマスコミ報道に責任転嫁などしていられないのだが、現実の菅首相の姿は情けないながら一国の首相でありながら、そうはなっていない。

 指導力にしても政権担当能力にして合理的判断能力なくして成り立たない。あらゆる状況に対して合理的な判断ができなければ、間違った行動を取り、間違った発言を繰返すことになる。指導力など生れようがないし、政権担当能力に結びつきようがない。さらにそのような人間に解説者の姿を演じることはできても、改革者の姿は取りようがない。それが現在の菅首相の姿である。


 菅首相インターネット動画出演記事は何篇か続く予定。
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 菅首相の「発信力」の正体に気づいていないことが既に首相としての資格がないことの証明となっている

2011-01-08 09:56:57 | Weblog


 菅首相が新しい年を迎えたせいか、やけに張り切っている。5日(2011年1月)にはテレビ朝日「報道ステーション」に出演し、昨7日は「プレスクラブ - ビデオニュース・ドットコム インターネット放送局」に出演した。この張りきりが自らのスタミナを弁えてペース配分することができずにスタートから闇雲に走り出してすぐさま息を切らしてペースダウンし、レース開始早々に脱落してしまう痩せ馬の先っ走りで終わるのか終わらないのか、多くは前者と見ているに違いない。

 いくら張り切ったとしても、国民の多くは菅首相の人となりを既に承知しているからだ。もし菅首相が国民の多くを惹きつける政治家としての魅力ある人気を備えていたなら、その人気は菅首相自身の人格的且つ政治的発信力の成果・賜物なのだから、両機会とも同じ発信力を発揮する期待から、人気お笑い芸人や人気テレビタレントに劣らない多くの視聴者を掻き集めたに違いない。当然、目には見えないがテレビやパソコンにかじりついた多くの国民の存在を確信して、両機会とも菅首相の独壇場となったはずだ。何か言葉を発するたびに国民がパチパチと手を叩く姿さえ想像できたに違いない。

 だが、そうはなっていなかったようだ。《菅首相ナマ出演でテレ朝「報ステ」撃沈!視聴率急低下》ZAKZAK/2011.01.07)が題名で既に菅首相の人気――いわば国民の受け止め・評価がどの程度か教えている。

 「報道ステーション」前4週平均視聴率14・7%に対して菅首相出演は平均視聴率6・9%の半分以下で、〈テレ朝関係者は「菅首相が画面に登場した瞬間、ガクッと視聴率が落ちた」と話しており、改めて不人気ぶりが裏付けられた格好だ。〉と記事は国民の受け止め・評価を明快端的に解説している。一刀両断に切り捨てたとも表現できる。

 菅首相のこの新年早々のメディア登場は自身の墜落寸前の支持率低空飛行が発信力不足から来ていると勘違いしていることからの支持率挽回を狙った動きなのは誰の目にも明らかなのだが、少なくとも「報道ステーション」出演に限っては思惑通りの成果を獲得できなかった。

 既に一度ブログに書いたが、自身の支持率低迷と発信力について昨年12月4日に千葉県の農業組合法人の施設等を視察したとき、次のように話している。

 菅首相「(就任以来)なかなかにぎやかな6か月だったが、私としては、かなりいろいろなことが前に進んだと考えている。日本とアメリカの間でいわゆるオープンスカイ協定が結ばれたし、インドやペルーとの間でEPA=経済連携協定の締結で合意できた。さらには、ベトナムでの原子力発電所の建設を受注し、レアアースの共同開発も合意した。待機児童ゼロに向けた取り組みもかなりのことが進んでいると思う」

 菅首相「ただ、現在進んでいることや、進める準備をしていることを国民の皆さんに伝える発信力が足りなかったかなと考えている。『もう少し肉声で語れ』などといろいろと言われているので、今後は、いろいろな機会に国民の皆さんに積極的に私の考え方を伝えていきたい」(以上NHK記事

 私の政治は「かなりいろいろなことが前に進んだと考えている」が、その進み具合に反した低支持率はおかしい。その原因は「国民の皆さんに伝える発信力が足りなかった」ことにあると言っている。

 ブログに、〈だが、首相の発信を受けた国民の首相に対する現在の評価は内閣支持率で30%を切っている。それは発信力が単に国民の目に見える場所に立って目に見える形で発言することではなく、政策や諸問題に対する的確・迅速な対応こそが有効・有力な発信力となり得るからであって、的確・迅速な対応が全般的に国民の目に届いていないことの反映値としてある現在の内閣支持率であるはずである。

 特に国民は尖閣諸島沖の中国漁船衝突事件での領土問題とそれ以後の対中外交姿勢、さらにメドベージェフロシア大統領の国後島訪問に端を発した対ロ外交姿勢に関して的確・迅速な対応を自らの発信力とし得なかったことが響いた世論調査の結果値であろう。〉と書いたが、菅首相が進行していると挙げた「オープンスカイ協定」、「インドやペルーとの間でEPA=経済連携協定の締結合意」、「ベトナムでの原子力発電所建設受注とレアアース共同開発合意」、「待機児童ゼロに向けた取り組み」等は菅首相自身の人格的且つ政治的発信力は直接的には殆んど関係しない政策であって、ブログに例として挙げた閣諸島沖の中国漁船衝突事件とそのことに関連した対中外交、さらにメドベージェフ大統領国後島訪問に対する姿勢こそが人格的且つ政治的発信力を直接的に発揮することになる政治行為であり、そのような発信を国民が受信し、判断した評価が支持率となって現れる国民世論なのだから、菅首相自身の人格的且つ政治的発信力そのものを改めないことには支持率は回復は期待できないことになる。

 何度でも繰返している端的な例を挙げて説明すると、野党時代に沖縄には米軍海兵隊は要らない、アメリカ本土に帰ってもらうと言っていながら、首相になると国の安全保障上、海兵隊は沖縄に必要だと言い換える無節操・不誠実な、菅首相が言っている「有言実行内閣」と言っている言葉を借りるなら、有言不実行な態度こそが菅首相の人格的且つ政治的発信力となっているということであろう。

 参院選大敗の原因となった消費税発言にしても、与党でありながら、自身の立場を忘れて増税率を具体的な根拠と将来的な見通しを挙げて説明するのではなく、そういった懇切丁寧な説明は一切なしに自民党の10%を参考にするとした安易な態度が菅首相の人格的且つ政治的発信力となって現れた。

 そしてその後選挙戦中に年収別増税分還付方式を打ち出したはいいが、遊説の場所場所で言う年収が異なる人格的且つ政治的発信が国民にその発信力を菅首相自身の人格と共に疑わせた。

 にも関わらず、問題点がどこにあるのか理解できずにインターネットを含めたマスメディアに頻繁に登場して政策や行動を語れば発信力が増し、理解可能な言葉となって国民に伝わると勘違いしている。市原悦子の家政婦以上に国民は菅首相の人格的且つ政治的発信を見ているのであり、そのような菅首相の人格的且つ政治的発信力から伝わるものがあるとするなら、既に世論調査に現れている否定的評価、あるいは否定的判断のみであろう。

 要は発信力とはテレビ番組やインターネット動画に出演して言葉を単に発信することではなく、言葉が基本的には自身の人格や思想、あるいは創造性の表現手段となっている関係から、言葉以前に誠実さや人間性等の人格や優れた政治的な思想や優れた政策的な創造性を自らの血肉として持っているかどうかが問題となる能力を言うはずである。血肉としていたなら、自然と言葉に現れて、優れた人格的且つ政治的発信力となるということである。
 
 この関係からして菅首相に発信力がないと言うことは、菅首相が特に見るべき人格や思想、創造性を自らの血肉としていないためにどう発言しようと優れた人格的且つ政治的発信としての表現ができない、受信する国民の側から言うと、人格や思想、創造性を感じ取ることができないということになる。

 その例を「プレスクラブ - ビデオニュース・ドットコム」の動画出演を扱ったインターネット記事から取り上げてみる。《首相、衆院選公約の見直し表明 「全部達成は困難」》47NEWS/2011/01/07 21:45 【共同通信】)

 菅首相(マニフェストについて)「パーフェクトに全部できるかというと、なかなか難しい。どこまでやれるか、もう一度見直さないといけない」

 修正の結果を国民に示す考えを明言したと記事は書いている。

 だが、マニフェストとは政権公約である。民主党の政策の優位性を数々書き連ねた政権公約を掲げて選挙を戦い、国民はその選挙公約に信を置いて投票し、政権選択を経て国民との契約となった。国民がマニフェスト、政権公約を政権選択の基準としている以上、それを修正すると言うなら、修正したマニフェスト、政権公約を改めて掲げて政権選択を国民に問うのが国民に対する誠実な態度というものであろう。

 そのくらいの厳しさがなければ、一国の政治を担うことはできないはずだ。

 だが、実現不可能だからと言って修正は言うものの、改めて民意は問うことはせずに政権獲得の正統性を得ないままに政権に居座る。いわばこの発言のどこにも菅首相の誠意ある人格や思想、創造性を感じることはできない。自己都合なだけの空虚な人格的且つ政治的発信力となっているということである。

 もう一つの例。《「気持ちが萎えるんです」 菅首相が見つけた「総理が辞める理由」》ガジェット通信/2011.01.07 22:38:19)  

 司会者神保哲生氏(ビデオニュース・ドットコム代表)「総理というのは、菅さんが総理になる前に思っていたことと比べてどうですか? 『総理というのは思ったよりこうだった』というのを一言でいうと何になりますか?」

 〈菅首相は11秒間、上を向いて沈黙。そのあと、ようやくこう答えたのだ。〉

 菅首相「過去の総理には小泉さんのように長くやった人と比較的短くて辞めた人がいますが、その辞める原因というのが、なんとなくわかるんですよね」

 神保哲生氏「辞める原因というのは?」

 菅首相「俺はこんなにやっているのになんで分かってくれないんだ?俺はこんなに頑張っているのになんで評価されないんだと、いろんな思いが伝らないことで、どこかで『これ以上やってもダメだ』と気持ちが萎えるんです」

 記事解説。〈もしかしたら、今の菅首相は支持率の低下で「気持ちが萎えている」状態なのかもしれない。そう思わせる発言だったが、続いて出たのは力強い言葉だった。〉

  菅首相「私のような”変わり種”がなった総理大臣ですから、徹底的にやってみようと思う。つまり、自分の気持ちが萎えることで『やーめた』ということはしない」

  締め括りの解説。(「『やーめた』ということはしない」という)〈この言葉が本心から出たものなのか、単なる虚勢にすぎないのか。その解が分かるのは、菅氏が首相を辞めるとき、ということになりそうだ。(亀松 太郎)〉・・・・

 「俺はこんなにやっているのになんで分かってくれないんだ?俺はこんなに頑張っているのになんで評価されないんだ」という思いに駆られる経験をしたからこそ言える言葉であり、確かに気持を萎えさせるに十分な内閣低支持率であり、簡単には各政策を前進させてくれないねじれ国会ではある。

 だが、元はすべて自分が招いた場面である。ねじれ国会をつくることになった参院選敗北の主たる原因の消費税発言にしても、国会で追求されることになった、過去の言動と異なる沖縄基地に関する姿勢にしても、尖閣事件に端を発した対中外交姿勢、そのことと関係した中国首脳との会談姿勢にしても、ロシア大統領国後島訪問以後の対ソ外交と日ロ首脳会談に於ける姿勢にしてもすべて自らの人格的且つ政治的発信力が成さしめた、国民の多くがノーと言うこととなった成果なのである。

 自分が作り出した成果、身から出たサビだと理解することもできずに、「俺はこんなにやっているのになんで分かってくれないんだ?俺はこんなに頑張っているのになんで評価されないんだ」とその不当性を言い立てる。

 劣っているとしか言いようのない、このような理解能力自体が既に菅首相の人格的且つ政治的発信力として国民にマイナスの評価を与えることとなっているが、そのことにも気づいていない。

 先ずはメディアに頻繁に露出して発言をすれば発信力が増すと考える勘違いな程度の低い理解能力がそもそもからの問題であり、この種の理解能力自体が既に菅首相の人格的且つ政治的発信力の程度を証明しているばかりか、一国の首相にふさわしい発信力を備えていないことによって首相としての資格を失っている証明ともなっていると断言できる。

 参考までに――

 《首相が言う「発信力が足りなかった」は偉大にして愚かな勘違い- 『ニッポン情報解読』by手代木恕之》


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仙谷官房長官の「衆院で圧倒的な信任を得ている」は直近の民意民主党参院選敗北が否定している

2011-01-07 07:51:53 | Weblog


 野党の自公が参院で問責決議を受けた仙谷官房長官と馬淵国交相の辞任がなければ国会審議に応じることはできないとしている姿勢を仙谷官房長官が1月5日(2011年)午前の記者会見で激しく批判している。《官房長官 野党側の姿勢を批判》NHK/2011年1月5日 12時5分)

 仙谷官房長官「日本の今の状況では、政策や制度の議論をそっちのけにして敵だ味方だと、スケジュール闘争や審議拒否で政治を動かしていくという幻想を持つべきではない」

 かつて一度もそういった「政策議論をそっちのけにして敵だ味方だと、スケジュール闘争、審議拒否」を行使したことのない政党に所属する人間が言っている主張に聞こえる。だが、歴史は確実に繰返している。

 この仙谷官房長官の記者会見の前日、1月4日の年頭記者会見で菅首相は過去の「スケジュール闘争、審議拒否」を次のように口先だけで反省している。

 菅首相「今、振り返ってみますと、(野党時代)政局中心になり過ぎて、必ずしもそうした政策的な議論が十分でなかった場面も党としてあるいは私としてあったのかなと思っております」

 「あったのかな」ではなく、事実“あった”のであり、“存在”したのである。「あったのかな」の「かな」は不確実な可能性、“かもしれない”を表す言葉で、そこに誤魔化しがある。誤魔化してばかりいる菅首相としたら、極々自然に出てきた誤魔化しかもしれないが、口先だけの反省だから、「かな」と内心で首を傾げながら言うことになったのだろう。 

 国民の審判・選択を前提として政権を獲り、自分たちの政治を行うことを野党の存在意義としている以上、ときには政局中心の行動であっても私自身は反対しないが、野党時代の自分たちが政局中心の動きをしていながら、与党になると野党の政局中心の行動を批判するのは自己都合に過ぎる。

 菅首相にしても仙谷官房長官にしてもご都合主義なばかりの人間となっている。

 仙谷官房長官「審議拒否で解散に追い込もうというのは、すべての国民の望むところではない。菅内閣は、少なくとも、国会の二院制の中で参議院よりも優越している衆議院からは圧倒的に信任されている。私と馬淵大臣に対する参議院での問責決議を盾に、国会全体の審議に応じないという、党利党略や政略を自己目的化したような戦術をとれば、国民の国会に対する期待と信頼を失ってしまう」

 仙谷官房長官は「菅内閣は、少なくとも、国会の二院制の中で参議院よりも優越している衆議院からは圧倒的に信任されている」から、いくら参議院で野党が多数を占めていたとしても、そこでの問責決議を以ってして審議拒否することは不当で、国民の期待と信頼を失うとしている。

 だが、2007年7月の参議院選挙では野党民主党は大勝、与党自民党歴史的大敗で参議院第一党となった。自民党が衆議院の優位性を言い立てたとき、民主党は参議院の結果こそ直近の民意だと主張、その主張を梃子にして政権奪取の攻勢をかけ、ときには審議拒否等を交えた政局中心の行動で自公政権を追いつめていった。

 2008年1月の与党多数の衆院を通過させたテロ特措法案を参議院は野党多数で否決、衆議院が再議決して成立させたが、野党民主党は直近の民意は参議院にあるとして、その否決の正当性を主張、与党の再議決を不当だと批判している。

 だが、自民党は民主党の参議院“直近の民意論”に対して衆議院の優位性を楯に譲らなかった。「衆議院は自民党支持が民意」とまで言っている。あるいは、「参議院も民意、衆議院も民意」(伊吹文明)だと言って、同じ民意としながら、衆議院の優位性を背景に衆議院の民意を上に置いた。

 それぞれが我が党に民意ありの自己正当性を訴えたのだが、民主党側は、当然と言えば当然の理屈だが、自分たちで一度は直近の選挙結果、そこでの国民の審判を以って“直近の民意”だと自らの原則・ルールとしたのである。

 当然のこと、直近の選挙で民意の選択を受けて参院選で敗北したからと言って、一度原則・ルールとしたことを無視していい訳はない。参議院で多数を握っている間の原則・ルールでしかなかったことになり、ご都合主義な無節操・無節度の謗りを受けることになる。

 一度は自分たちの原則・ルールとした“直近の民意論”に準じるとしたら、仙谷官房長官の「国会の二院制の中で参議院よりも優越している」の主張は破綻し、故なき主張となる。

 だが、仙谷官房長官はこの事実を無視し、かつての自民党と同じ姿を取って衆議院の優位性を大上段に掲げ、かつての与党自民党が野党民主党を批判したように、与党民主党が野党自民党、公明党を批判する歴史を繰返している。あまりにもご都合主義に過ぎないのではないだろうか。

 また、菅内閣は「衆議院からは圧倒的に信任されている」にしても、当初の信任は鳩山前内閣に対するものであって、その信任を受けた現在の民主党の議席数であり、現在の菅内閣は世論調査からすると、参議院選挙での直近の民意を反映して「圧倒的に信任されている」どころか、圧倒的な不信任の状況にある。

 とすると、やはり直近の選挙に現れた民意こそが“直近の民意”と言うことができる。

 仙谷官房長官のご都合主義な発言は他にも例に挙げることができる。《2011年初閣議 菅首相の民主・小沢元代表に対する強硬姿勢を仙谷官房長官が支持》FNN/10/01/05 11:46)

 仙谷官房長官(内閣改造について)「予算を通すために、全民主党議員がエネルギーを注ぐべきだ。首相がじっくりと国会開会前にお考えになると思っている」

 「予算を通すために、全民主党議員がエネルギーを注ぐべきだ」と言っているが、党を二分したのは仙谷・前原連合主導の、菅首相引きずられの、いわゆる「脱小沢」の動きであり、党と内閣の主要人事からの小沢派排除である。挙党態勢を壊して党を二分しておきながら、「全民主党議員がエネルギーを注ぐべきだ」と挙党態勢を言う矛盾に気づかない鈍感さ、ご都合主義は見事である。

 東大出の元豪腕弁護士だか何だか知らないが、合理的判断に立つのではなく、クロをシロと言いくるめるような自己都合優先一辺倒のご都合主義がこの男の正体ではないだろうか。果して閣僚としての資格があるのだろうか。

 参考までに――

 《自民党幹事長・伊吹文明の合理的判断能力なき自己都合な「民意論」-『ニッポン情報解読』by手代木恕之》



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菅首相が言った参院選大敗「天の配剤」が招いている民主党マニフェスト変貌

2011-01-06 06:45:01 | Weblog


 民主党がマニフェストに掲げていた新年金制度の公約の撤回を示唆したと「asahi.com」が伝え、一方、「毎日jp」記事が撤回ではなく、棚上げの動きと書いている。原因は国会の“ねじれ”だとしている。参議院の頭数与野党逆転状況が民主党菅政権のマニフェストにまで影響してねじれさせているといった状況に見舞われているといったところなのだろう。

 だが、このことは民主党が昨年7月の参院選で大敗し、参議院与野党逆転したときに理解できていたことだった。一人菅首相のみが理解できていなかった。この一事を以ってして、菅首相が如何に理解能力に欠けるかが分かる。状況・情報を満足に理解できない人間に指導力など期待できようがない。的確な状況判断なくして、あるいは的確な情報判断なくして的確な指導は成り立たないからだ。

 先ずは「asahi.com」記事から見てみる。《新年金制度の公約撤回示唆 厚労相「協議が難しい」》(2011年1月5日17時54分)

 昨1月5日閣議後記者会見。

 細川厚労相「新しい年金というマニフェストにこだわれば、協議そのものが難しい。マニフェストを前提とせずに話し合いを始めたらいい」

 「マニフェストを前提とせずに」とはマニフェスト放棄を意味するはずである。記事は、〈民主党がマニフェストで掲げる新年金制度の撤回を示唆したものだ。〉と解説している。

 さらに解説を進めている。〈新年金制度は、国民年金や厚生年金、共済年金の現行制度を一元化したうえで、全額税方式の最低保障年金を設けることなどが柱。菅氏が代表だった2003年衆院選のマニフェストから掲げている民主党の主要政策の一つだ。〉云々。

 2003年から7年間掲げてきた政策を撤回する。政策そのものは撤回であっても、マニフェストに書いたことは基準としないということになるから、マニフェスト放棄となる。

 〈菅内閣は6月までに、年金制度も含めた社会保障と税制の具体的な改革案をまとめる方針で、これを与野党協議の材料と位置づけている。ただ、自民、公明両党は民主党の新年金制度案に強く反対しており、現状では与野党が協議できる状況にはない。

 このため、細川厚労相は「政府で案をまとめて協議に入るのではなく、どういう形で協議に入るのかを含め、まず話し合いを」とも言及。政府・与党が具体案を示す前に、与野党で協議を始めるべきだという考えも示した。協議入りには民主党側の譲歩が不可欠で、マニフェストの撤回は避けられない見通しだ。〉・・・・

 与野党協議を必要とされることも、協議入りが民主党の譲歩を条件とすることも、すべて参議院に於いての少数与党が障壁となっているというわけである。

 「毎日jp」記事――《年金改革:政府内に棚上げの動き 野党との隔たり大きく》(2011年1月5日 20時21分)

 記事は冒頭次のように書いている。〈政府内で、民主党が09年衆院選マニフェスト(政権公約)に盛り込んだ新年金制度案を棚上げする動きが強まっている。自民、公明など野党各党の主張と隔たりが大きすぎ、協議の糸口がつかめないためだ。〉
 
 菅首相はねじれ国会乗り切り法として“熟議”を掲げた。熟議を通して法案をよりよいものにしていくと。だが、現在、“熟議”を経ずに自らの政策を曲げようとしている。

 同5日の会見。

 細川厚労相「(年金制度は)民主党のマニフェストにこだわると協議そのものが難しいのではないか。マニフェストを前提とせずに話し合いを始めたらいい」

 記事はこの発言を、〈公約にこだわらない姿勢を示すことで、野党側を協議に引き込みたい考えだ。〉と解説。

 与野党の年金制度の違い。

 民主党案――

 (1)職業で三つに分かれている現行制度を一元化
 (2)消費税を財源とする「最低保障年金」を創設

 自民、公案――
 
 現行制度の修正が基本

 「毎日jp」記事が「撤回」だとしていない理由は、年金制度は民主党の目玉公約だけに「撤回」とするにはハードルが高過ぎるからだとしている。

 では、どういった方針でいくのかと言うと、〈厚労省が4月中にまとめる社会保障改革案では、民主党案に必要な財源規模を示す一方、詳細な制度設計には立ち入らず、野党側との協議の余地を残す方針だ。〉としている。

 いくら与野党協議だ熟議だと言っても、ねじれをチャンスとして優越的立場に立っている野党が自分たちに得点とならない政策内容とするはずはない。自分たちの政策の優越性をあくまでも主張して、可能な限り自分たちの政策を呑み込ませようと迫り、呑みこませた範囲を以って支持者に示す自らの手柄とするだろう。

 こうなると衆議院で3分の2以上の数を確保していない限り、3分の2以下での数の優越性はかなり意味を失う。参議院で数を確保していないことが如何に重大なことか、菅首相は当初理解できなかった。

 それは2010年9月14日民主党代表選投開票前の9月1日と9月2日の代表選共同記者会見での菅首相の発言が証明している。このことは以前ブログで一度取り上げたが、今回は参議院の数がどういう結果を招いているか、その一つを例示するためにブログに取り上げてみた。

 9月1日民主党代表選、菅・小沢共同記者会見

 ――読売新聞の東(吾妻?)です。参院選での大敗をどう総括され、その結果生じたねじれ国会をどう克服されていかれるおつもりなのか、具体的には政権の枠組みを変えるおつもりであるのかを含めてお願いします。

 小沢候補「選挙というのは、主権者たる国民が意思表示する唯一最大の場でございます。ですから、その意味に於いて、民主主義社会に於いては、選挙の結果というのは、大変、国民の意思として、意思表示として、重大に受け止めなければならないと思います。

 3年前の参議院選挙で、野党合わせてでありますけれども、過半数を国民みなさんからいただきました。これが今回、大きく議席を失ったということは大変な大きな問題として、トップリーダーから、われわれ一兵卒に至るまで考えなくてはならないことだと把えております。

 国会については、私は今度の代表選の審判を受けた後に考えればいいことだと思っておりますけれども、いわゆるみなさんがおっしゃる政界の再編といいますか、そういう類のことで国会運営を乗り切っていこうというふうな考えを持っているわけではありません。我々が国民のための政策を実行するということであれば、野党も賛成せざるを得ないだろうと思っておりますし、そういう意味で私たちがきちんと筋道の通った主張と政策を参議院に於いても示していくということが大事だと思っております」

 菅候補「参議院の結果については私自身の責任論も含め、反省をしてまいりました。その上で、ねじれという状況になったことについて、私は一般的には厳しい状況でありまけれども、ある意味では天の配剤ではないかとも同時に思っております。

 つまり今の日本の大変深刻な、例えば成長が20年間止まっている、あるいは1千兆にも近い財政赤字が蓄積している。あるいは少子化、高齢化が急速に進んでいる。こういう問題を二大政党であったとしても、1つの党だけでなかなか超えていけない状況がこの10年、あるいは20年続いてきたわけでございます。そういう意味ではねじれという状況は、逆に言えば、そうした与党、野党が同意しなければ物事が進まない。逆に言えば合意をしたものだけが法律として成立をするわけすから、そういうより難しい問題も合意すれば超えていけると、そういう可能性が出てきたと言えるわけであります。

 私の経験では確か1988年でしたか、金融国会というものがありまして、長銀、日債銀の破綻寸前になったときに当時の野党でありました民主党、そして自由党、公明党で、金融再生法というものを出しました。色んな経緯がありましたけれども、最終的には当時の自民党がそれを丸呑みをされた。私は政局しないと申し上げて、小沢さんから少し批判をされましたけども、しかしあそこで政局にしていた場合は、私は日本発の金融恐慌が世界に広がった危険性が高かったと思っておりますので、そういう意味では、そういう真摯な気持を持って臨めば、野党のみなさんも合意できるところはあって、これまで超えられなかった問題も超えていくチャンスだと把えて努力してまいりたいと思っております」

 9月2日日本記者クラブ公開討論会MSN産経

 【政権運営、ねじれ国会への対応】

 --小沢氏からお願いします。

 小沢氏「国会運営ですか?」

 --えー。

 小沢氏「はい。あのー、この間の選挙で44議席という、参院大敗を喫してしまいました。従って、何を、政策を法律化して通そうと思っても、数だけでは到底できません。そして今、野党各党とも、菅政権にいろいろな政策で協力するということはできないという趣旨の話を各党ともしております。それがまあ、現実だと思います。そうしますと、衆院で圧倒的な多数で、言うまでもないですが、参院の国会運営、自分たちの主張を通すためにはやはり野党の賛同を得なければならないと思っておりますけども、野党のみなさんがそういう趣旨の政治スタンスをとっていることについて、菅総理としてどのようにこれを打開していかれるのか、お聞きしたいと思います」

 菅氏「私はですね、先の参院選で大きく議席を減らし、敗退したことについて、その責任を痛感いたしております。しかし、このことで、何かもうこれで政治が進まなくなったとはこのように思ってはおりません。ある意味では、新しい局面が生まれる可能性がある。つまり、自民党が参院が少数でねじれた時期もありました。今回逆の時期もあります。つまりは、自民党もあるいは他の野党も、自分たちが全部反対すれば法案は通らない。しかし、本当に国民のためにどうすればいいかということをですね、考えたときに、私は謙虚に話し合いをすれば、大きい問題であればあるほど、共に責任を感じて何らかの合意形成を目指すということはありうると思っております。

 私が例に出しますあの金融国会の時、当時自民党が過半数割れを起こして野党、私が代表する民主党、そして小沢さんが代表された自由党、公明党で金融再生法案を出しました。この法案が通らなければ長銀、日債銀が破綻(はたん)して金融恐慌になるのではないか。そういう中でありましたので、私は徹底的な議論をいたしまして、わが党、野党の案に自民党が全面的に賛成されるのならば、それを政局としては扱わないで、政策合意をしてもいいと申し上げましたが、100%野党案を賛成するという形で成立をし、金融恐慌を避けることができました。

 それについて、小沢さんからは政局にしないなんていうこと言うのはおかしいと言われましたけども、私は今でも日本のため、世界のためにはその選択は間違っていなかったと思います。これからの政権運営においても、そういう真摯(しんし)な姿勢で臨めば野党のみなさんも必ず応えてくださると、このように考えております」

 小沢氏「あのもちろん、今、総理がおっしゃったように私どもが本当に国民のための政策だ、法律案だということでもって、野党の皆さんと合意することができるものもたくさんあると思います。ただ、今、お話があったように、あのときも野党案を丸飲みしたというのが現実でありました。本当の危機的な状況の中ではそういうことも、当然、お互いにあり得ることではございますけれども、自分の政策、主張を野党とは違う基本的に考え方の違う政策、主張というのは現実的にはできなくなってしまうわけでございますので、その意味についての国会運営というのは大変厳しいものではないかと思っております。

 もちろん、ぼくは選挙の結果のいかんにかかわらず、一兵卒として協力することは党員として当然ではありますが、なかなかわが党が野党で、過半数をもっておったときの自民党政権下でわが党がもっておったときの、国会の状況をみてもおわかりの通りだと思いまして、そういう意味では私はここがリーダーとしての手腕が問われるところであって、本当に真摯(しんし)に一生懸命、野党に対して話をすれば、一定限度の理解はえられるということは、そう思いますけれども、本当に主張、政治的な考え方の違う問題についてはまったく動かないということになりますので、そういう意味で大変、厳しい国会運営になっていくのではないかということを心配しておりまして、このリーダーとしては打開策をきちんと考えておかなくてはならないだろうというふうに思っておりますものですから、そういう質問をさせていただきました」

 菅氏「私は先ほど申しあげましたようにですね、今の日本の行き詰まりはこの1年、2年の行き詰まりではありません。約20年間にわたる行き詰まりです。それは景気対策をやっても一義的にはよくなっても成長には戻りませんでした。あるいは社会保障についても少子高齢化がなかなか止まらなくて不安感が高まってます。財政の状況はいろいろな見方はありますけども、いずれにしても膨大な借金が積み上がっていることが事実であります。こういう大きな課題、金融国会の金融破綻(はたん)に匹敵する課題、あるいはそれをこえる課題であるからこそ、私はたとえば二大政党の一方が多少力を持っていても、それをこえてこれなかったために、それが今日のこの行き詰まりがあると私は思っております。

 ですから、この大きな行き詰まりをこえるためにはある意味では、党をこえた合意形成、国民の合意形成が必要になる。熟議の民主主義といってまいりましたけれども、この間、私どもが野党でねじれ国会のときにはやや率直に申しあげて政権交代を目指すという政治的な目的のためにかなり行動したことも事実でありますから、そういう意味ではそれぞれがそういう行動をとった上で今日の状況をむかえて、ある意味の新しい局面にきたわけですから。そういうより大きな課題こそが、私は天の配剤だと申しあげているんですけれども、こういう中で合意形成ができると、私も30年間、国会におりますので、自社さ政権、いろいろな政権、ご一緒した方もあります」

 たとえば、子供手当ては公明党が賛成いただいて、現在の法案もできているということもありますし、やはり財政健全化についても自民党も中期目標などではわが党と一致をした意見を出させていただいておりますので、もちろん、簡単だとは思っておりませんけれども、まさに真摯(しんし)に政局ではなくて、国民のことを考えて話し合おうという、その呼びかけをきちっと。既に多少の努力はしておりますけれども、させていただいたときには他の野党の皆さんもですね、国民の皆さんのことを考えて、そういう話し合いに参加をしていただけるものと思っています」

 小沢氏「国会運営についてこれ以上は何もありません。ただ、今、繰り返しますが自分たちが国民に約束した主張を実行していくためにはやはり参議院でも過半数を有するということは本当に大事なことだと思っております。このままですと、仮に民主党政権が続くとしても、もう、最低でも6年、とても6年じゃ無理だとは思いますが、9年、12年の歳月をかけないと過半数というのはなかなか難しいという結果が現実だと思っておりますし、また、われわれが政権をめざしておったからというお話がありましたが、今、自民党は政権の奪還を目指して頑張っていることだと思いますので、状況は立場は変わりましたけれども、同じことだと思います」

 小沢元代表は“ねじれ”がどのような状況を招くか知っていた。

 だが、菅首相は1998年に「100%野党案を賛成するという形で成立」させた金融再生法案を丸呑みさせた例を出して、熟議を凝らせば、ねじれを乗り切れるとした。

 言ってみれば、丸呑みされられる側にまわったことを考えることもできずに丸呑みさせた例を引き合いに出したのである。しかも参院選大敗を「天の配剤」だとまで言って。 

 首相という立場にありながら、この優劣の逆転現象を明確に理解できなかったトンチンカンな判断能力は如何ともし難い。その程度の頭でしかなかった。如何にノー天気だったか分かろうというものである。

 参議院問責決議にしても、数の優劣が決定させた問題である。問責決議を受けた閣僚の更迭にまで進まなければならない状況に追い込まれている。現在菅内閣が置かれている状況の殆んどが「天の配剤」だとした参議院与野党逆転現象がもたらした窮状である。

 果して「天の配剤」だなどと言えただろうか。言えもしないことを「天の配剤」だと言った。その小賢しさは測り知れない。一国の首相にあってはならない測り知れない小賢しさである。

 現在菅内閣を取り巻いている状況が「天の配剤」だと言えるとしたなら、悪い方の「天の配剤」である。

 昨日のTwitterに次のように書いた。
 
 〈菅内閣、政権の魂(=マニフェスト)まで売って野党に媚び、延命を図ろうとしている。ボロ雑巾と化したマニフェスト。〉――

 すべては菅首相の愚かしい判断能力が招いている今ある民主党の姿、今ある菅内閣のみすぼらしい姿であろう。

 参考までに――

  《菅首相の衆参ねじれ国会対策に1998年の「金融再生法案」を持ち出すバカさ加減》

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菅首相1月4日年頭記者会見を実現可能能力から判断する(1)

2011-01-05 10:35:31 | Weblog


  いくら美しい言葉を並べ立てて立派なことを言ったとしても、実現可能能力を備えていなければ、絵に描いたモチで終わる。実現可能能力は深くリーダーシップに関係していく

 昨1月4日(2011年)の菅首相の年頭記者会見を首相官邸HPから採録、思ったことを書いてみようと思う。菅内閣のキーワードなる単語は太字にしておいた。文字数の関係から、記者との質疑で何ら解釈を施さない箇所は削除することにした。

 菅内閣総理大臣年頭記者会見

 【菅総理冒頭発言】

 明けまして、おめでとうございます。今年が、皆さんにとってすばらしい年になることを、まず心から祈念をいたしたいと思います。

 年頭に当たって、私が目指す国の在り方について、3つの理念を申し上げます。

まず、平成23年を平成の開国元年としたい、最小不幸社会を目指す。そして、不条理を正す政治、この3点であります。今、世界の多くの国が日本に追いつけ追い越せと成長を続けています。そういう国々のリーダーと話をすると、自分たちは日本を目標にして、モデルにして頑張ってきたんだと口々に言われます。そうです。これまで多くの国に財政的な援助や技術的な援助をしてきた兄貴分が我が国日本だと言えます。私はこれからも、そうした国々の成長を支援する。同時にそれらの国々のエネルギーを逆に我が国のエネルギーとして、日本の成長につなげていくことが今、必要だと考えております。

 そのためには、貿易の自由化の促進。そして一方では、若者が参加をできる農業の再生。この2つをやり遂げなければなりません。平成23年を、そうしたヒト・モノ・カネばかりではなくて、明治維新や戦後に続く、日本人全体が世界に向かってはばたいていくという、そうした開国を進めていく元年としたい。そしてこの開国を進めるためには、貧困あるいは失業といった不幸になる要素を最小化することが何よりも必要です。社会保障について、今後の不安が広がっております。昨年の参議院選挙では、やや唐突に消費税に触れたために、十分な理解を得ることができませんでしたが、今、社会保障の在り方と、それに必要な財源を、消費税を含む税制改革を議論しなければならないという、そのことは誰の目にも明らかであります。幸いにして、自由民主党も公明党も、そうした姿勢を示されております。今がまさにそのときだと思います。しっかりした社会保障を確立していくために、財源問題を含めた超党派の議論を開始をしたい。野党の皆さんにも参加を呼びかけます。
 
 そして、アジア太平洋をめぐる安全保障についても、我が国のためだけではなく、この地域全体の安全・安定を考えた行動が必要です。日米同盟の深化は、そうしたアジア太平洋地域の安定のためにこそ必要だと、こういう観点で推し進めてまいります。
 
 このような開国を進めていくに当たって、もう一つ考えておかなければならないことがあります。それは、国民の皆さんがおかしいなと思っていることに対してしっかりと取り組んで行くことであります。
 
 私は、東京都に所在する硫黄島で多くの遺骨が残されていることを知ったときに、なぜこんなことになっているんだろうと不思議に思いました。総理になって、特命チームをつくって、アメリカの公文書館で調査をして、大きな埋葬地を見つけることができました。先日、私も出かけた追悼の式典を行いました。お遺骨を家族の元に返すことは国の責任です。

 また、若い人が学校を卒業しても仕事がない。子どもを産んでも預かる場所がない。あるいはいろいろな難病について十分な手当がなされていない。こういった問題についてもしっかりと取り組んでいきたい。私自身、特命チームをつくり取り組んでおりますが、これからもこうした不条理と思われる問題で、直接私が取り組むことがふさわしい問題については、しっかりと新たな特命チームをつくって進めてまいりたい、このように考えております。

 そして、もう一つ不条理ということに関して言えば、政治とカネの問題があります。私が初めて衆議院選挙に立候補したのは、ロッキード選挙と呼ばれたその選挙であります。政治とカネを何とかしなければ、日本の民主主義がおかしくなってしまうという思いから、30歳のときに初めて立候補いたしました。

 今、なお、政治とカネのことが国民の皆さんから不信の念を持って見られている。これでは、これから多くの改革を進める上で、国民の皆さんにも痛みを分かち合っていただくことがとてもできません。今年をそういった政治とカネの問題にけじめをしっかりつける年にしたい。小沢元代表にも、自らの問題について国会できちんと説明をしていただきたいと考えております。

 最後に、国会について申し上げます。私も野党の議員が長く、そのときどきの政府を厳しく批判してまいりました。そのことを通して、国民の皆さんに時の政権の政策の矛盾などを示していきたいと考えたからであります。

 しかし、今、振り返ってみますと、政局中心になり過ぎて、必ずしもそうした政策的な議論が十分でなかった場面も党としてあるいは私としてあったのかなと思っております。今、政権交代が繰り返される中で、ほとんどすべての党が与党、野党を経験いたしました。その国会が残念ながら必ずしも政策的な議論よりも、とにかく政局的に解散を求めるあるいは総辞職を求めるといったことに議論が集中しているのは、必ずしも国民の皆さんの期待に応えていることにはならないと思います。私たちも反省をします。同時に、与党、野党を超えて、国民の目から、皆さんの目から見て、国会がしっかりと国民のために政策を決定しているんだと、こういう姿を与野党を超えてつくり上げていきたい。野党の皆さんにもご協力をお願いします。

 その中で、特に2点について具体的にお願いしたいと思います。1つは、国会での質疑のその質問要旨を、質問をされるせめて24時間前には提示をいただきたいということであります。先の臨時国会で予算委員会などでは、前の日のその質疑を翌朝5時に起きて、そして、それを見て頭に入れるのが精一杯という時間の拘束がありました。これでは本当の意味での議論ができません。イギリスでは、3日前までに質問要旨を出すというのが慣例になっておりますけれども、せめて24時間前にそうした質問要旨を出すということを、与野党を超えての合意と是非していただきたいと思います。

 また、国際会議などが大変重要になっております。トップセールスという言い方も強くされております。そういう閣僚が海外に出ることについて、国益にかなうことであれば、与野党を超えて、国会の日程も工夫をして送り出す。このような慣例も是非、生み出していただきたい。

 そして、このことは国会自身の役割であると同時に、国民の皆さん、あるいはメディアの皆さんの目から見て、もっとそうした国会の在り方についてこうあるべきでだ。そのことを是非、第三者的な目からも積極的に発言をいただければと、このように考えております。

 以上、年頭に当たっての私の考え方を申し上げさせていただきました。あとは皆さん方からのご質問をいただきたいと思います。

 ご清聴ありがとうございました。


【質疑応答】

(内閣広報官)

 それでは、次の方、お願いします。それでは、山下さん、お願いします。

(記者)

 北海道新聞の山下です。

 民主党の小沢一郎元代表の国会招致問題についてお聞きします。小沢氏は、国会の状況次第で通常国会冒頭や予算成立後に政倫審に出席するという姿勢を示しておりますけれども、総理はあくまで無条件での通常国会前の出席を求める姿勢を貫かれるのでしょうか。小沢氏がこうした条件付きの出席の姿勢を崩さない場合は、どう対応するおつもりでしょうか。政倫審での議決や、さらには証人喚問なども想定されているんでしょうか。また、小沢氏が強制起訴となった場合、民主党代表として総理が小沢氏の離党勧告もしくは除名を言い渡すことも考えられているのでしょうか。お聞かせください。

(菅総理)

 小沢元代表は、自ら国会で説明するということを言われているわけですから、その言葉どおりの行動を取っていただきたいと思います。また、起訴が実際に行われたときには、やはり政治家としての出処進退を明らかにして、裁判に専念されるのであればそうされるべきだと考えています。

(内閣広報官)

 それでは、次の方。それでは、松浦さん、お願いします。

(記者)

 共同通信の松浦です。

 ねじれ国会で予算関連法案がどうにも通らないという状況になった場合は、衆議院解散総選挙というのも選択肢に入ってくるのでしょうか。

(菅総理)

 私の念頭には、解散のかの字もありません。

(内閣広報官)

 それでは、次に外国プレスの方。廣川さん、お願いします。

(記者)

 ブルームバーグの廣川と申します。

 TTPの問題についてお聞きします。この問題は、総理の掲げる平成の開国に対する本気度をはかる試金石とも思える問題かと思いますけれども、仙谷官房長官は農業改革の基本方針がまとまる6月前後に交渉参加の是非を判断するのが望ましいという考えを示されています。総理はこの問題、交渉参加の是非をいつごろまでに判断しようと考えていらっしゃるのか。また、大きな影響を受ける農家の方々の理解を得るために、どう説明し、どう対策を打っていくお考えなのか。こちらを教えてください。

(菅総理)

 現在、TPPに参加する場合に必要となる農業対策の具体策を検討している状況であります。そういう議論を踏まえながら、最終的な判断を6月頃というのが一つの目途だと思います。できるだけ早い時期にそうした状況が生まれればいいと考えております。

(内閣広報官)

 それでは、次の方、お願いします。それでは、山口さん、お願いします。

(記者)

 NHKの山口です。

 総理は先の臨時国会で、熟慮の国会ということで話し合いを求めていかれましたけれども、今回の通常国会も引き続きそういう姿勢で臨むのかどうかということと、それから自民党は対決姿勢を強めていまして、冒頭から審議拒否も辞さずということなんですが、そうなった場合には対決型になっていくのか。その辺のところをお聞かせください。

(菅総理)

 基本的には先ほど冒頭も申し上げましたように、国会という場がある程度、政党ですから政権を争うという側面があっても、それは致し方ないところでありますけれども、やはり先進国で政権交代を繰り返されているところの国を見ると、例えばイギリスなどでは新たに政権交代が行われれば、次の選挙は大体5年先ということで、議論は行われるけれども、すぐに辞めろとか辞めるなという議論はあまり行われておりません。多くの国がある一定期間は政権交代が行われれば、そちらの党が政権を担うと。何年かやってみて、次の選挙の機会にそのことを国民に問うと。これが政権交代の建設的な運営の仕方ではないかとこのように思っております。そういう意味で、基本的にはしっかりと政策を議論していきたいという姿勢は、変わりありません。

(内閣広報官)

 それでは、次の方。五十嵐さん、どうぞ。

(記者)

 読売新聞の五十嵐です。

 総理は先ほど、小沢元代表の問題について、起訴された場合は、政治家としての出処進退を明らかにして裁判に専念されるのであれば、そうされるべきだとおっしゃいましたけれども、これは議員を辞職すべきだというお考えを示したということでよろしいんでしょうか。

 それと、不条理を正すということであれば総理は取組むというふうにおっしゃいましたけれども、小沢さんの問題について、総理はどういう働きをされたいと思っていらっしゃるのでしょうか。

(菅総理)

 私が初めて当選した1980年当時、田中元首相が闇将軍と呼ばれておりました。やはり、そういう姿を見て、私は日本の政治を変えなければならないという思いを一層強くしたことを今でも記憶いたしております。

 そういった意味で、どなたが何をということを超えて、もうこういった問題は、日本の政治の社会で、カネの問題が何か議論をしなければならないという状態そのものを脱却したいというのが私の思いです。そういった意味で、小沢元代表に関して起訴がなされたときには、ご本人が自らそうしたことも考えられて、自らの出処進退を決められることが望ましいということを申し上げたところです。

 (内閣広報官)

 それでは、次の方。上杉さん、どうぞ。

(記者)

フリーランスの上杉隆です。

  開国元年という言葉は、非常にいいなと心に響きましたが、総理は野党時代から、情報公開、そして今、クリーンでオープンということで訴えていますが、是非そこで伺いたいのが、情報公開の観点から、官房機密費の公開、さらには官房長官会見の創設、そしてこの記者会見のフェアなオープン化ということをお約束されましたが、これを守っていただく時期がそろそろ来たのではないかと思います。

 先ほど小沢さんに、言ったことは守っていただきたいと総理自らおっしゃいましたが、総理御自身、この件に関してやるかやらないか、この場でお聞かせいただけますでしょうか。

(菅総理)

 会見の在り方について、何度かこの場でご質問といいますか、提案をいただきまして、私もできるだけオープン化すべきだという姿勢で、私自身の会見は臨んでおります。また、閣議あるいは閣僚懇の席でも、各閣僚にできるだけそういう姿勢で臨むようにということを申し上げているところです。

 官房機密費の問題は、いろいろな経緯、いろいろな判断がありますので、官房長官と十分考え方を合わせて対応していきたいと思っております。

(内閣広報官)

 それでは、次の方お願いします。後藤さん、どうぞ。

(記者)

 時事通信の後藤です。2011年度の予算案についてお伺いします。

 年末の段階で、仙谷官房長官と岡田幹事長は、修正の可能性に言及されました。それについては、総理もお考えを共有されているのでしょうか。

(菅総理)

 予算をつくった立場からすれば、最も国民の皆さんにとってふさわしい予算ということで、閣議決定をしたわけです。と同時に、国会の場で多くの政党の皆さんにも理解をいただき、できればより多くの皆さんに賛成をいただきたいというのも、もう一つの大きな要素であります。そういうことを、両方のことを考えながら、対応を決めていきたいと思っています。

(内閣広報官)

 それでは、次の方。坂尻さん、どうぞ。

(記者)

 朝日新聞の坂尻といいます。野党との連携についてお伺いします。

 昨年の末に、たちあがれ日本との連立話というのが浮上しましたが、これはたちあがれ側が連立は拒否するということを確認して終わっています。今回は、この件をもって、なかなか野党との連携は端緒をつかむのは難しいと思われますが、総理としては、連立ということはもう断念して、政策ごとの部分連合という道を目指されるのか、あるいはなお引き続き連係できる野党と連立政権を組むという道を目指されるのか、どちらを目指されるお考えなんでしょうか。お聞かせください。

(菅総理)

 昨年のいろいろな動きも、政策的に一緒にやっていけないかということの話を基本として進めてきたと理解しています。その姿勢は、どの党に対してもこの国会でも変わりません。

(内閣広報官)

 それでは、次の方。青山さん、どうぞ。

(記者)

 日本テレビの青山です。

 先ほど内閣改造について、総理は具体的なことはこれからさらに熟慮したいとおっしゃいましたけれども、実際、具体的に仙谷官房長官の問責決議というのは既に可決しているわけです。ただ、問責決議はこのままの状態だとこの通常国会でも何本も出てきて何本も可決する可能性だって勿論あるわけです。現段階でそれこそ本予算を審議する通常国会を前にして、問責決議に対するどのような菅政権としてスタンスで臨んでいくのかというのは非常に大事な観点かと思うんですが、現在の菅総理のお考えをお聞かせください。

(菅総理)

 いろいろな識者の皆さんからいろいろな考え方を私に参考になるのではないかということで示していただいているケースもあります。1つの例を申し上げますと、衆議院ではいわゆる内閣不信任案というものがあって、それが可決すれば総辞職をするか、それとも一方では衆議院を解散することができるという規定は勿論皆さんご存じのとおりであります。しかし、参議院の問責については、例えばそれが内閣に対するものが成立したとしても、総辞職をするか解散をするという形にはなっておりません。つまり、参議院に対しての解散ということは憲法上規定されておりません。

 ということは、もし参議院が問責をしたときに、それが即辞任をしなければならないということになるとすれば、それは衆議院よりもより大きな権限を持つことになるのではないか。これは今の憲法の構造からして、必ずしもそういうことを今の憲法は予定していないのではないかという、こういう意見もいただいております。いずれにしても、こういったいろいろな意見をやはり党の方あるいは国会の方で議論していただく場面もあっていいのではないかと思っております。

 菅首相1月4日年頭記者会見を実現可能能力から判断する(2)》に続く

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首相1月4日年頭記者会見を実現可能能力から判断する(2)

2011-01-05 10:21:17 | Weblog



(内閣広報官)

 それでは、次の方、どうぞ。一番奥の方、そちらの方。

(記者)

 専門誌の酪農経済通信の斎藤と申します。

 先ほど総理は開国という言葉をお使いになられましたが、開国と農業の再生の両立を図るという観点でいえば、今後、国内対策と国民負担等も含めて多額の財政措置も必要になるという考えも出てくるかもしれないんですが、そうした点も今後推進本部や実現会議で議論になりまして、先ほど6月に予定されているという話もありましたが、基本方針の策定の中で税制改正等も含めて議論になっていくということで考えてよろしいのでしょうか。

(菅総理)

 日本の農業を再生するという目標に向かって、あらゆるそれに関わることを議論する必要があると思っています。と同時に、先ほど申し上げましたが、現在、日本の農業が抱えている問題は、例えば就業している人の平均年齢が66歳という若い人が農業に従事したくてもなかなかする機会を持ちにくい、そういった問題もあります。

 また同時に、6次産業化と言われるような経営の在り方についても、もっと推し進めなければなりません。そういった意味で、いろいろな財政的な問題も勿論、議論としてあるいは必要となる場面はあり得ますけれども、ただそれで物事が進むというよりも、根本的な農業の構造をどのようにすれば世界に開かれたものになっていくのか。私、本当に感じるのは、多くの外国の人がやってきて、日本の料理ほどおいしいものはないと。日本の食べ物ほど安心しておいしいものはないということを口々に言われます。そういう意味では、農業も開かれた農業にしていくことが、私は可能だと考えています。

(内閣広報官)

 それでは、時間が過ぎておりますので、最後の質問とさせていただきます。そちらの方、どうぞ。

(記者)

 琉球新報の稲福といいます。

 先ほど総理は不条理を取り除きたいという話をされていましたが、沖縄に米軍基地が集中することも不条理なことだと思います。これは5月の日米合意どおり辺野古に移設されたとしても、沖縄に集中するという状況は変わりません。総理はこのことについて不条理だと考えますでしょうか。

 あと1点、日本全体で受け止め、できる限りの負担軽減をという話もありましたが、もう少し具体的にどのようなことに取り組めば負担軽減になるのか、総理の考えをお聞かせください。

(菅総理)

 私も多少ではありますけれども、沖縄の歴史などに触れた書物も拝見をさせていただきました。戦後に限って見ても、日本へ復帰された後においても本土における、つまり沖縄以外の米軍基地が大きく削減された中で、沖縄の基地が余り減らされなかったというこのことは、私にとっても政治家の一員として大変慙愧に堪えない思いをいたしておりまして、そのことは沖縄でも申し上げたところです。そういう意味で不条理という言葉で言い尽くせるかどうかわかりませんが、その1つだと考えております。

 そういう思いをしっかり私自身持ちながら、それでは具体的にどのようにしていくかということで、先だって沖縄で私なりの考え方を申し上げさせていただきました。何としても全体としては沖縄の基地負担を引き下げる方向で、できることをできるだけ迅速に進めていきたいというのが基本的な姿勢です。

(内閣広報官)

 それでは、これをもちまして記者会見を終了いたします。ご協力大変ありがとうございました。


 先ず最初に貿易の自由化の促進=平成の開国と若者が参加をできる農業の再生について。

 菅首相は質疑で、「日本の農業を再生するという目標に向かって、あらゆるそれに関わることを議論する必要があると思っています」と言い、「根本的な農業の構造をどのようにすれば世界に開かれたものになっていくのか」と議論の必要性を説き、今後の議論次第の課題だと位置づけている。

 だが、必要だとしている議論を経ずに、平成の開国を謳い、貿易の自由化と農業再生の両立は可能だと言っている。これは順序が逆ではないだろうか。広く議論を求め、議論を積み重ねて、両立は可能だとする成算、成功する見通しを得てから、初めて国民に向けて貿易の自由化と農業再生の両立を謳うべきではなかったろうか。

 議論を経ずに両立は可能だと言い立てるのは不利益を蒙るとしている農業従事者の不安を煽るだけである。実際にもTPP参加反対のデモが起きている。地方選挙の投票行動にも悪影響を与えているに違いない。

 菅首相は消費税問題でも順序を逆とする過ちを犯し、貿易の自由化と農業再生の問題でその轍を踏んでいる。増税率の不可避性を議論してから国民にその不可避性と何パーセントの必要性を丁寧に説明すべきを、議論も経ずにいきなり自民党の10%を参考にすると打ち出した。

 いわば実現可能性を見極めてから態度を決定すべきを見極めもせずに実現可能性を言い立てるという過ちを繰返している。実現可能能力(=実現を可能とする能力)を欠いていることからの愚かしい過ちの繰返しであろう。実現可能能力は指導力、リーダーシップに深く関わっていく。

 また、「開国を進めるためには、貧困あるいは失業といった不幸になる要素を最小化することが何よりも必要です」と言って、不幸要素最小化を開国(=貿易自由化)の前提としているが、これも逆の発想となっている。開国(=貿易自由化)が不幸要素最小化につながる、いわば開国(=貿易自由化)が不幸要素最小化の大きな導因となると位置づけた政策でなければならないはずで、そういった前提のもと、その具体的な実現可能性の説明を国民に果たさなければならないはずだ。
 
 開国(=貿易自由化)が不幸要素最小化の大きな導因となって、ゆくゆくは日本経済の力強い回復と継続的な発展を約束すると。

 だが、そういう発想となっていないこと自体にも菅首相の実現可能能力の疑いが出てくる。

 菅首相は特命チームをつくって硫黄島で遺骨収集したことを自身の大きな手柄としている。そして、「不条理と思われる問題で、直接私が取り組むことがふさわしい問題については、しっかりと新たな特命チームをつくって進めてまいりたい」と力強く約束している。

 しかし、誰が取り組むのが「ふさわしい」かは問題ではない。政治が解決しなけければならない課題であるなら、時の政府が取り組むべき問題であり、誰が取り組んでもいいことなのだから、それを「私が取り組むことがふさわしい問題」に限って特命チームをつくるとするのは自己宣伝以外の何ものでもないばかりか、問題の矮小化となる。

 硫黄島で遺骨を集めて追悼の式典を行っている。戦前の国家が最早戦争を継続する力を残していないと分かっていながら、国家のメンツを守るためにずるずると戦争を続けて兵士の生命(いのち)を犬死同然に扱った。その国家に戦後の時代に連なる一人として亡くなった兵士の家族に済まなさと哀悼をいくら表現しても表現しきれないはずであるにも関わらず、「お遺骨を家族の元に返すことは国の責任です」と、遺骨に「お」をつけてまでして「お遺骨」と敬虔な気持を表すなら、「家族」に「ご」をつけて「ご家族の元に」とバランスを取るべきを「家族」に対しては敬虔な気持を払わずじまいとしている。

 このアンバランスは「お遺骨」の「お」が形式的な敬語、丁寧語の類だからだろう。この形式的な態度は遺骨に対して軍手をはねたまま手を合わせている姿に現れている。

 要するに支持率獲得を狙って首相の姿をマスメディアに露出させるための遺骨収集であり、特命チームをつくって云々の手柄話だったのだろう。 

 このような形式をエサに国民の人気を取ろうとする首相に指導力、リーダーシップは期待できようがなく、当然、実現可能能力など求めようがない。
 
 この記者会見で菅首相は何度も「不条理」という言葉を口にしている。いわば自身を「不条理」を正す人間に位置づけている。そして国民にアピールできるほどの政策・指導力を持ち合わせていないインスタントな存在であるためにマスコミが取り上げることを狙ってウリにしている「政治とカネ」の問題を不条理の一つとして取り上げ、「政治とカネを何とかしなければ、日本の民主主義がおかしくなってしまうという思いから、30歳のときに初めて立候補いたしました」と言い、「小沢元代表にも、自らの問題について国会できちんと説明をしていただきたいと考えております」と付け加えている。

 一見立派なことを言っているように聞こえるが、「政治とカネ」の「カネ」を政治家個人の私的なカネとのみ把え、認識能力を欠いているためにイコール予算と把えるだけの発想を持っていない。

 先進国で唯一最悪状態にある日本の財政悪化、巨額の赤字国債、国の借金は必要でもない公共事業やその他の事業に過大な予算(=カネ)をムダに付け、それを以て地元利害誘導としてきた日本の政治の伝統が原因となった予算(=カネ)の問題であって、首相の立場にある以上、そのことをこそ最優先にケジメをつけなければならない「政治とカネ(=予算)」の問題であるはずである。

 内閣を率いる責任者としてそのことを何よりも率先して取り組まなければならない問題だと国民に訴え、解決に向けて実現可能能力を力の限り発揮していくべきだが、そのことに向ける熱意よりも近々に強制裁判でクロシロが明確に決着がつく小沢問題に裁判に任せることができずに熱意を注いでいる。

 意味もない指導力、リーダーシップとなることは目に見えている。このような首相にどのような言葉を発したとしても、実現可能能力を見出すことはできない。

 小沢氏が起訴された場合は自らの「出処進退を明らかにして、裁判に専念されるのであればそうされるべきだと考えています」と言っているが、出処進退とは辞めることだけを言うのではなく、とどまることをも言う。自身で決めるということなら、議員としてとどまることも許される選択肢であろう。

 無能な政治家を首相にとどめておく出処進退よりも小沢氏を議員としてとどめておく出処進退の選択の方が日本の国益に適う出処進退と言える。

 菅首相は「不条理」を口にしながら、自身の「不条理」には気づいていない。自らを省みる自省心を欠いているゆえの自分の「不条理」を棚に上げた他人の「不条理」のみの取り上げなのだろう。自省心を欠いた政治家に指導力、リーダーシップの類は期待できない。当然、実現可能能力も備えていないことになる。

 菅首相はねじれ国会乗り切りのために次のように訴えている。

 「最後に、国会について申し上げます。私も野党の議員が長く、そのときどきの政府を厳しく批判してまいりました。そのことを通して、国民の皆さんに時の政権の政策の矛盾などを示していきたいと考えたからであります。

 しかし、今、振り返ってみますと、政局中心になり過ぎて、必ずしもそうした政策的な議論が十分でなかった場面も党としてあるいは私としてあったのかなと思っております。今、政権交代が繰り返される中で、ほとんどすべての党が与党、野党を経験いたしました。その国会が残念ながら必ずしも政策的な議論よりも、とにかく政局的に解散を求めるあるいは総辞職を求めるといったことに議論が集中しているのは、必ずしも国民の皆さんの期待に応えていることにはならないと思います。私たちも反省をします。同時に、与党、野党を超えて、国民の目から、皆さんの目から見て、国会がしっかりと国民のために政策を決定しているんだと、こういう姿を与野党を超えてつくり上げていきたい。野党の皆さんにもご協力をお願いします」

 自身が有利な場面で散々に反則を犯しておきながら、有利な場面が相手に移り、それを利用して反則に出ると、反則はやめよう、フェアに戦おうと提案するようなご都合主義しか窺うことができない。

 元々ご都合主義者の菅首相なのだから、無理もない当然のご都合主義とも言える。

 「時の政権の政策の矛盾」の批判・追及は野党たる自党の政策の優越性の裏打ち、前提があっての批判でなければならない。それを政策の優越性からではなく、数の優越性を振り回した「政局中心」の動きだった。だからこの期に及んでマニフェストに掲げた政策の変更を余儀なくされているということなのだろう。

 だが、自分たちが「政局中心」の動きをしておきながら、逆に数の劣勢に立たされてそれをやめようと言うのは一方的な自己都合の主張となる。自分たちがそうであったなら、相手も同じ手に出ることを覚悟すべきだろう。例え同じ手に出たとしても、それを乗り切る方法を講じるべきで、それが正々堂々であって、そうはせずに休戦協定を求めるのは狡いばかりか、卑怯である。

 菅首相は「政局中心になり過ぎて、政策的な議論が十分でなかった」と言っているが、実際には子ども手当にしろ、高速道路無料化にしろ、提示された政策を自民党なら自民党内で議論し、賛否を決定した態度で与党との間でそれぞれの政策のあるべき姿を議論し合っているのである。尖閣問題でも、メドベージェフロシア大統領の国後島訪問に端を発した北方四島問題でも、外交のあるべき姿の議論を闘わせているのである。

 そして多くの国民は菅内閣の態度よりも野党の態度に支持を与えた。

 その延長上に野党は「政局的に解散を求める、あるいは総辞職を求める」動きに出ているのであって、政策や外交のあるべき姿の議論が全然なくしてそのような動きに出ているわけではない。そのような動きなくして、さも「政局中心」で求めているかのように言うのは、「仮免許」発言と同じく自身のあるべき姿を認識する力を持たない、参院ねじれ国会で自分に不利というだけの理由で、それを乗り切るために自分に都合のいいだけの解釈によって成り立たせた主張に過ぎない。総辞職も解散もしたくない自身にとっては虫のいい要求に過ぎない。

 菅首相が盛んに唱える「熟慮の国会」も同次元の虫のいい提案であろう。  

 虫のいい話は「質問要旨」に関する提案にも現れている。

 「国会での質疑のその質問要旨を、質問をされるせめて24時間前には提示をいただきたいということであります。先の臨時国会で予算委員会などでは、前の日のその質疑を翌朝5時に起きて、そして、それを見て頭に入れるのが精一杯という時間の拘束がありました。これでは本当の意味での議論ができません。イギリスでは、3日前までに質問要旨を出すというのが慣例になっておりますけれども、せめて24時間前にそうした質問要旨を出すということを、与野党を超えての合意と是非していただきたいと思います。」

 日常普段から政策勉強に励むか、現代の便利な利器パソコンがある。各政策ごとに分類した情報収集に励み、それをノート化して日常普段から目を通し、頭に入れていたなら、答弁に左程窮することはないはずである。窮するのは日常普段の勉強と情報収集に怠りがあるからだろう。

 情報収集の怠りを証明する発言がある。

 菅首相「首相官邸は情報過疎地帯だ。役所で取りまとめたものしか上がってこない。とにかく、皆さんの情報や意見を遠慮なく私のところに寄せてほしい」(YOMIURI ONLINE

 政府関係者「菅首相に事前の説明をしていると、何度も怒鳴られる。官僚は怒鳴り散らされるから、だんだん寄りつかなくなる」(毎日jp

 自身の情報収集能力の欠如を証明して有り余る出来事となっている。

 ここから窺えることは国会答弁を野党議員が提出する質問要旨に頼っている菅首相の姿である。普段収集し、自ら読み解いた情報と質問要旨とを付き合わせる姿は浮かんでこない。質問要旨を受け取ってから、周囲に指示して答弁に必要な情報を収集しているのではないだろうか。当然の指導力、リーダーシップとなる。当然の実現可能能力ということになる。

 最後に菅首相自身の「不条理」を棚に上げた姿。

 稲福琉球新報記者「先ほど総理は不条理を取り除きたいという話をされていましたが、沖縄に米軍基地が集中することも不条理なことだと思います。これは5月の日米合意どおり辺野古に移設されたとしても、沖縄に集中するという状況は変わりません。総理はこのことについて不条理だと考えますでしょうか。

 あと1点、日本全体で受け止め、できる限りの負担軽減をという話もありましたが、もう少し具体的にどのようなことに取り組めば負担軽減になるのか、総理の考えをお聞かせください」

 菅首相「私も多少ではありますけれども、沖縄の歴史などに触れた書物も拝見をさせていただきました。戦後に限って見ても、日本へ復帰された後においても本土における、つまり沖縄以外の米軍基地が大きく削減された中で、沖縄の基地が余り減らされなかったというこのことは、私にとっても政治家の一員として大変慙愧に堪えない思いをいたしておりまして、そのことは沖縄でも申し上げたところです。そういう意味で不条理という言葉で言い尽くせるかどうかわかりませんが、その1つだと考えております。

 そういう思いをしっかり私自身持ちながら、それでは具体的にどのようにしていくかということで、先だって沖縄で私なりの考え方を申し上げさせていただきました。何としても全体としては沖縄の基地負担を引き下げる方向で、できることをできるだけ迅速に進めていきたいというのが基本的な姿勢です」

 米軍基地が沖縄に集中していることは不条理の「1つだと考えております」と言っている。だが、その不条理解消を集中している基地そのものの沖縄からの県外・国外への移動によってではなく、そのことは棚に上げて基地集中の状況は変えずに、訓練の一部移転等の危険の除去、基地負担の軽減を以ってして代える「不条理」を平気で主張している。

 だが、何よりも菅首相が犯している「不条理」は野党時代と現在とは異なる言行不一致であろう。

 2001年7月21日。7月29日投開票の参議院選の応援で沖縄を訪れて記者会見したときの沖縄県の米軍基地問題についての発言。毎日新聞(2001年7月22日付)より引用だという。

 菅首相「海兵隊はいろんな軍事情勢、極東情勢を勘案してみて、沖縄に存在しなくても日本の安全保障に大きな支障はない。(海兵隊は)アメリカ領域内に戻ってもらうことを外交的に提起すべきだ」

 『マスコミ市民』2006年7月号より引用(2006年6月1日の講演)

 菅首相「よく、あそこから海兵隊がいなくなると抑止力が落ちるという人がいますが、海兵隊は守る部隊ではありません。地球の裏側まで飛んでいって、攻める部隊なのです。たしかに来たら戦うかも知れませんが、そのための部隊では全くありません。そういう意味で海兵隊は、ラムズフェルドの言うように、良い悪いは別にして、先制攻撃的な体制を考えた時には、沖縄にいようがグアムにいようが大差はないわけです。私は、沖縄の負担軽減ということで言えば、海兵隊全部をグアムでも、あるいはハワイ州では是非来てくれといっていたのですから、そっちに戻っていって貰えばいいと思っています。

 沖縄に海兵隊がいるかいないかは、日本にとっての抑止力とあまり関係がないことなのです」

 以上、菅首相の沖縄 - 病んだ日本を救うために、間違った常識を捨てよう からの引用。

 野党時代とは違って、立場と責任の違いと東アジアの状況の変化を口実に現在と過去の言動不一致を何ら恥じることなく許す「不条理」は凄い。ご都合主義者の面目躍如と言ったところだろう。

 自身の「不条理」は棚に上げて、不条理を正すとしている。虫のいいご都合主義ではないか。こんな政治家が一国の首相を務めていて、「私の念頭には、解散のかの字もありません」と言っている。

 こんな人間から実現可能能力を想像できる者が一人としているだろうか。一人としていまい。


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権威主義性の男女差別観の視点を欠いた菅首相の幼保一体化と仙谷官房長官の専業主婦論

2011-01-04 10:05:38 | Weblog


 〈待機児童の問題の解決に向け、菅総理大臣は、幼稚園と保育所を本格的に一体運営するため、必要な法案をことしの通常国会に提出する方針を固め〉たと、《首相 幼保一体化法案を提出へ》NHK/2011年1月2日 16時53分)が伝えている。

 これは政権が優先課題として取り組んでいる出産後女性の労働持続可能社会の実現(NHK記事は〈女性が子どもを産んでも働き続けることのできる社会の実現〉と表現している。)の具体策の一つで、待機児童問題の解決策として保育の担い手を増やすための200億円の予算確保に続いた措置だという。

 民主党政権誕生以前から幼保一体化の動きはあった。記事は〈定員割れが多い幼稚園と慢性的に数が足りない保育所を一体運営するため、必要な法案を通常国会に提出する方針を固め〉たと書いているが、要するに定員過剰で保育園に入れず待機児童化している幼児を定員不足の幼稚園に回して、その分待機児童を減らす方策とするということなのだろう。

 この幼保一体化政策に対して記事は二つの問題点を挙げている。一つは、〈教育機関である幼稚園と児童福祉施設である保育所では、目的や役割が違うという理由から根強い慎重意見があり、厚生労働大臣を務めた尾辻参議院副議長は、一体化に反対する60万人分の署名を携えて政府に方針の撤回を申し入れ〉たこと。

 二つ目は「ねじれ国会」の問題。関係団体や野党、さらに国民の理解がカギとなると書いている。

 だが、記事が書いていない問題点がある。親の負担である。一般的に保育所はゼロ歳児から預かるから、共働きを続けなければ生活を維持できない、いわば中低所得層の親にとっては好都合だが、幼稚園の場合は一般的には満3歳児からが入所資格となっている。場所によってはその年度に3歳になる2歳児が年度当初から入園可能となるらしい。

 働く女性が子供を幼稚園に預ける場合、3歳になるまで保育園、あるいは私立の認可保育所に預けるか、3歳まで仕事を休んで自宅で専業主婦をしながら子育てするかいずれかの選択が必要となる。

 高額な保育費が必要な私立の認可保育所に預けてから、あるいは専業主婦しながら子育てしてから幼稚園に預ける家庭は所得に余裕のある女性に限られるはずだ。

 いわば定員割れが多い幼稚園と慢性的に数が足りない保育所という構図は社会的な収入格差を反映している現象であると同時に所得非余裕層が所得余裕層を上回っていることを示してもいるはずである。

 ここで浮上する新たな問題は保育園に預けることしかできない所得非余裕層の幼保一体化した場合の経済的な負担である。《こども園、負担軽減で新たに公費3100億円必要と試算》asahi.com/2010年12月29日12時33分)が幼稚園と保育所を統合して設ける「こども園」の親の負担と政府の負担を12月28日(2010年)発表の内閣府の試算として紹介している。

 現行の保育所や幼稚園より利用者負担を軽減した場合、毎年3100億円の公費が新たに必要。こども園以外の負担軽減策も合わせると、追加公費は年間4400億円。

 記事は解説している。〈保育所を利用する保護者の負担は保育費総額の4割分。幼稚園の負担は5割になる。こども園を長時間利用した場合、3割負担にすれば2400億円の公費増。

 短時間利用者は4割負担を検討しており、追加公費は700億円。2013年度のこども園補助費は現状なら1兆6400億円だが、負担を軽減すると1兆9500億円になる。〉・・・・

 保育園利用者の負担は保育費総額の4割、幼稚園利用者の負担は育児費総額の5割と書いているが、保育園の場合親の収入に応じて軽減されるから、1割の差であっても双方の総額自体の違いに比例して負担額に1割以上の差は出ているはずである。

 当然、所得非余裕層の利用がより多い保育園利用者の負担額をそのままスライドさせたこども園の負担であるなら問題は生じないだろうが、より多くの負担の要請は所得非余裕層の生活をより狭めることになって、こども園創設の意味を相当減ずることになる。そのための公費負担であり、現状維持なら1兆6400億円、負担軽減の場合は1兆9500億円ということなのだろう。

 このような政府の負担はともかく、こども園創設によって待機児童問題を解消できたなら、希望する親は誰もが平等にゼロ歳児から預けることができ、出産後女性の労働持続可能社会の実現に向けて大きく一歩を踏み出すことになる。

 しかし、これで女性の労働問題がすべて解決するわけではないはずだ。日本人の男性側の精神に未だ残っている男女差別意識である。これは日本人が家柄や学歴、地位、収入等の上下に応じて人間を上下に価値づけ、上が下を従わせ、下が上に従う人間関係をメカニズムとした権威主義性を行動様式・思考様式としていることからの、同じく男性を女性の上に置き、女性を男性の下に置いて男女を上下に価値づけて女性を男性に従わせようとする権威主義性の反映としてある男女差別であろう。

 戦前までは男女を上下に価値づけるこの権威主義性は男尊女卑の形を取って色濃く現れていた。戦後も戦前の男尊女卑を色濃く引き継いで女性の社会進出・社会参加の阻害要件となっていたが、1986年4月施行の「男女雇用機会均等法」が1997年の全面改正、2007年の再改正と改正を重ねなければならなかったのは現在もなお、男女雇用機会均等の非実現=男女差別の存続を証拠立てている。

 いわば男性を女性の上に置き、女性を男性の下に置いて男女を上下に価値づけて女性を男性に従わせようとする権威主義性が日本社会に現在も残存していることの証明である。

 男女差別を反映させた雇用機会不均等の具体例は男女賃金格差、男女地位格差となって現れている。女性が一つの企業に長く勤めてある程度の地位を獲得したとしても、結婚・出産・子育てで数年職を離れると、元に地位に戻れず、多くがパート等の仕事に就かざるを得ないことも男女差別の一つの現象としてある具体的事例であろう。

 菅首相のこの幼保一体化は日本人が行動様式・思考様式としている権威主義性からの古くは男尊女卑の価値観、今なお残っている男女差意識への視点を兼ね持った政策なのだろうか。

 菅首相は幼保一体化と男女差別意識は別問題だと言うかもしれない。だが、幼保一体化自体が出産後女性の労働持続可能社会の実現を目的としている以上、男女賃金格差と男女地位格差の是正、いわば雇用機会不均等の是正を相互に関連付けた政策でなければ、男女差別を負ったままの偏頗な出産後女性の労働持続可能社会の実現となる。

 偏頗な実現としないためには政策は別であっても、視点は常に相互に関連付けていなければ、包括的な解決策となる政策足り得ないはずだ。

 女性の雇用問題に関して男女差別の権威主義性に視点を置いていない一つの例として仙谷官房長官の発言を挙げることができる。《仙谷氏「専業主婦は病気」と問題発言か 本人は「記憶にない」と釈明》MSN産経/2010.12.27 13:18 )

 4月26日(2010年)の全国私立保育園連盟主催の「子供・子育てシンポジウム」の講演での発言だそうで、記事は、〈「専業主婦は病気」と発言していたことが27日、分かった。〉と書いている。

 発言は幼稚園情報センターのHPからの引用で、そのときの官房長官の発言を次のように紹介している。

 仙谷官房長官専業主婦は戦後50年ほどに現れた特異な現象。(戦後は女性が)働きながら子育てする環境が充実されないままになった。もうそんな時代は終わったのに気付かず、専業主婦という『病気』を引きずっていることが大問題だ」

 同27日の記者会見。

 仙谷官房長官「そんな表現をした記憶はない。男性中心社会の固定観念が病気であると、絶えず申しあげてきた」

 記事の発言と仙谷官房長官の記者会見の発言、さらに「子供・子育てシンポジウム」に関する講演であることを併せ考えると専業主婦と働く女性の子育てに主眼を置いた講演だったことがわかる。

 政府の主要閣僚の一員である以上、このことは出産後女性の労働持続可能社会の実現と深く関わったテーマとしていなければならないはずである。そうでなければ、専業主婦と働く女性の子育てに限った狭いテーマで終わることになるばかりか、官房長官という地位・役目上からして不釣り合いな講演となる。

 この「MSN産経」記事を池田信夫氏が批判している。参考までに全文を引用してみる。
 

 保守の劣化(池田blog/2010年12月29日 13:57)
  
今年はいろんなものが終わった年だが、もう終わったのに死にきれないのがマスコミだ。特に、けさ話題になっている産経の記事は、あまりにも拙劣なでっち上げである。

見出しには「仙谷氏『専業主婦は病気』と問題発言か」とあるが、記事の本文で仙谷氏は「専業主婦に家庭の運営を任せておけばいいという構図を変えなかったことが、日本の病気として残っている」と発言している。病気なのは専業主婦ではなく日本であり、彼の発言は常識的なものだ。本文と矛盾する見出しをつける産経の整理部は、頭がおかしいのではないか。

最後に「雑誌『正論』2月号で高崎経済大の八木秀次教授が指摘した」と書いてあるので検索してみると、便利なことにその記事をコピペしたブログ記事があった。それによれば、八木氏は「『こども園』は羊の皮をかぶった共産主義政策だ」という記事でこう書いているそうだ。
この(仙谷氏の)認識の下では現状の保育時間は短く、主として専業主婦の子供たちが通う幼稚園は邪魔以外の何ものではない、幼稚園は消滅させなければならない存在だ。[・・・]この認識にはマルクス主義の労働価値説やエンゲルスの『家族・私有財産・国家の起源』の思想が影響を与えていることは間違いない。

八木氏は、明らかに『家族・私有財産・国家の起源』を読んでいない。この本にはこんなことは書いてない。誰も読んでいない本を引き合いに出して「共産主義政策」というレッテルを貼れば否定できると思い込んでいる彼や産経のような右翼こそ病気である。

鈴木亘氏も指摘するように、「こども園」は実質的な幼稚園の保育所化であり、幼児教育を全面的に国有化する(八木氏とは違う意味の)「共産主義政策」である。それが間違っているのは専業主婦を排除するからではなく、待機児童の問題を解決できないからだ。人口減少時代に貴重な女性労働力を確保することは最重要の政策であり、働く女性を「変則的な存在」とみて配偶者控除さえやめられない民主党政権がおかしいのだ。

ところが八木氏のような家父長主義者にとっては、男に従属する専業主婦が日本の美しい伝統とみえているらしい。元の講演で仙谷氏もいうようにそんな話は幻想であり、「専業主婦というのは、日本の戦後の一時期、約50年ほどの間に現れた特異な現象」である。右翼の特徴は明治時代を「日本の伝統」と同一視することだが、江戸時代に専業主婦がいたかどうか考えれば、それが伝統かどうかわかるだろう。

「派遣労働を禁止しろ」と主張する朝日新聞のようなレガシー左翼も困ったものだが、こんなナンセンスな論評を孫引きして「専業主婦は病気」という失言問題に仕立てようという産経の卑しさは末期的である。経営も崖っぷちだから、品質管理に手を抜いているのだろう。三橋某の「インフレになったら労働者の給料が上がる」という話を載せたのも産経だ。

日本の政党にまともな政策の対立軸ができないのは、左翼がだめになる一方で、保守もこのように劣化して「武士道」やら「大東亜戦争」などという老人の子守歌ばかり繰り返しているからだ。しかしそういう世代も80を超えて、市場は先細りである。まず最初に消えゆくべきなのは、産経や八木氏のようなレガシー右翼だろう。

 池田信夫氏は仙谷官房長官の発言に組みして「専業主婦は戦後50年ほどに現れた特異な現象」だとし、その証拠として、「江戸時代に専業主婦がいたかどうか考えれば、それが伝統かどうかわかるだろう」と解説しているが、江戸時代の武士階級では下級武士の間では内職に励まざるを得ない例も多々あっただろうが、上級武士の奥方は専業主婦であったろうし、明治時代以降も公爵だ伯爵だといった貴族、上級官僚、国会議員等々の裕福な家庭では専業主婦だったろうし、文豪夏目漱石の妻鏡子は専業主婦だった。

 いわば一般的には専業主婦は生活余裕層の伝統として戦後も受け継がれ、今尚受け継がれている慣習であろう。

 このことを裏返すと、共働きの家庭、結婚後も働く女性は生活非余裕層の伝統として存在したが、戦後の欧風化の経過と共に生活余裕層の中でも働く女性が増えてきたということであろう。

 女は結婚したら家で家庭を守るべきだと頑強に主張する男と結婚したのでなければ、そのような主張は自分一人の収入で生活を維持できる生活余裕層に属する夫に限るが、女性は現在では自分の選択で仕事に就くことのできる社会に生きているのだから、専業主婦か働く女性かの選択は男性中心社会の影響は受けていても、生活非余裕層に関してはより経済的理由に影響された慣習的選択であり、生活余裕層に関してはより社会進出に影響を受けた、未だ慣習とまでいかないにしても選択と言える。

 出産後の働く女性が保育園を選ぶか幼稚園を選ぶかも男性中心社会の影響ではなく、経済的理由に影響を受けた慣習的選択であろう。

 だが、仙谷官房長官は「男性中心社会の固定観念が病気」だという表現で、そこに問題点を置いている。さらに仙谷官房長官が事実「専業主婦は戦後50年ほどに現れた特異な現象」だと言ったとしたら、男性中心社会も専業主婦の出現に合わせた出現となって、男女賃金格差も男女地位格差も戦後の産物となる。

 実際には戦後50年どころの「特異な現象」などではなく、専業主婦であっても妻を夫に従う存在と看做して家事・育児一切を妻に強いる今尚残る男性中心も困りものだとしても、この男性中心社会の由って来る原因が既に触れたように男女を上下に価値づけ、女性を男性の下に置いて男性に従わせる男女差別の権威主義性を日本人が民族性として歴史的に受け継いできた伝統的行動様式・伝統的思考様式であり、それを社会の文化としていることを以て「病気」だとする視点を持って日本人の男女合わせた意識の変革を迫ることろまでいかないと、どのような制度改革も意識の変革を迫る内容を伴わないこととなり、男女賃金格差・男女地位格差等の雇用機会不均等の問題は長く引きずることになるように思えてならない。

 参考までに、《江戸時代の妻からの離縁状は「女性の地位」の見直しを迫る資料なのだろうか》


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