甲状腺検査/36万人の子どもたちが被曝による甲状腺の異常を心配して生涯を送る恐ろしさ

2011-10-10 10:49:58 | Weblog

 子どもの甲状腺検査が始まった。検査して異常なしと判明したからと言って安心できる検査ではないことを伝えている記事がある。

 《子どもの健康観察 長期間必要に》NHK NEWS WEB/2011年10月9日 14時21分)

 この検査は原発事故放出の放射性ヨウ素が特に子どもの甲状腺に蓄積してガンを引き起こす性質があり、チェルノブイリ原発事故では主に牛乳や乳製品などを通じて放射性ヨウ素を取り込んだとされる周辺地域の子どもたちのうち6000人が甲状腺ガンになり、2006年までに15人が死亡したとする国連の専門委員会の報告省を参考に実施されるものらしい。

 死亡率は低くても、6000人もの子どもが甲状腺ガンにかかったということは周辺地域の子どもたち全員ばかりか、その親たちにガンの不安を与えたことを意味し、恐ろしい状況を呈したことが分かる。

 但しチェルノブイリ周辺での子どもの甲状腺ガンの発生時期が事故の4年後からであることと、放射線の影響でガンになるまでには少なくとも数年はかかることが通例であることから、例え今回の検査で甲状腺に異常が見つかったとしても、事故の影響とは考えにくいが、4年後以降の異常発生の危険性を見据えて直ちに検査を始め、長期に亘る健康観察が必要だということらしい。

 専門家「放射線の影響が出るとは考えにくい現在の段階で、もともとどれくらい甲状腺に異常のある子どもがいるのか調べ、異常が出れば早期に対応するといった支援が必要だ」

 日本では子どもに発症する甲状腺がんが毎年5人程度で、成人の発症割合は20万人に1人という極めて稀な病気だと書いてあるが、この確率を利用して4年後か、それ以降か、将来的に放射線被曝が原因の発症なのか、被曝以前に甲状腺に異常があり、それが被曝によってどう影響されるか調査していくということなのだろう。

 放射線の人体への影響に詳しい広島大学原爆放射線医科学研究所の田代聡教授の発言がこのことを裏付けている。

 田代聡教授「放射線の影響が出るとは考えにくい現在の段階で、もともとどれくらい甲状腺に異常のある子どもがいるのか、調べておく必要がある。健康への不安を解消するためには、検査を継続し、異常が出れば早期に対応するといった支援が必要だ」

 ではどういった手順で検査を行うのか、《福島 子どもの甲状腺検査開始》NHK NEWS WEB/2011年10月9日 11時53分)が伝えている。

 ●検査対象は震災当日に0~18歳だった福島県民で、県外避難者も含む36万人。昨日(2011年10月9
  日)から検査開始。
 ●1回目の検査を平成26年を目途に終了。その後は20歳までは2年に1回、それ以降は5年に1回のペース
  で続行し、生涯にわたって検査。
 ●検査は首に超音波を当てて、甲状腺にしこりなどの異常がないかを調べる。
 ●検査結果はおよそ1か月後に郵送で通知。

 子どもや親にとって結果が異常なしと判明したからと言って安心できない、恐ろしい検査となる。しかもその恐ろしさが生涯続く。

 被験者は、放射線被曝とか甲状腺ガンとかがまだ理解できない幼い子供を除いて先ず検査を受けてから1カ月間、心配と不安で検査結果の報告を待つことになる。

 被験者の親、特に母親はより強い心配と不安感で1ヶ月間、審査結果を待たされることになるに違いない。

 現在、放射線被曝とか甲状腺ガンとかがまだ理解できない幼い子供にしても、既に理解できていた年齢の子どもと同様に理解できるようになった時点から、検査結果が異常なしであったとしても、喉の奥の甲状腺がある辺りを意識して、中で何かが起きていないか、何とはなしの不安に駆られるといった場面が何回とはなしに生じるはずだ。

 あるいは突然異常が発生して、がん治療を受けることになりはしないかと。

 このことは親にしても同じ不安の連鎖に絡め取られることになるに違いない。日本では子どもに発症する甲状腺がんが毎年5人程度で、成人の発症割合は20万人に1人という元々心配する病気ではなかったことに反して病気発症への懸念を常に抱えて生きていかなければならない。

 それはいつ切れるかも分からない細い紐でどっちつかずの宙ぶらりんな状態で吊るされたような不安定な心細さ、頼りなさを何かにつけての精神状態とするということであろう。

 勿論、運動や音楽、その他の何かに打ち込むことによってその不安を掻き消そうと努めるだろうが、しかし完全には打ち消すことができずに、何かの拍子に頭をもたげ、喉の奥の辺りを意識させるに違いない。

 その宙ぶらりんな精神状態は最悪の場合、死刑囚が死刑執行の日がいつなのか分からないままにその瞬間を待たされている間の不安に近づかない保証はない。

 精神的な不安は喜怒哀楽の感情を抑圧するばかりではなく、発育や行動を抑制する働きを担う。精神的な抑圧と共に子どもたちの、生命の外に向かおうとする活動エネルギーを抑えつけ、溌剌とした躍動を奪う。

 今回の検査前から、被曝の甲状腺への影響が心配されていた。そして今回検査がスタートした結果、36万人の子どもたちが被曝による甲状腺の異常を心配して生涯を送らざるを得ない状況に置かれることを知ることとなった。子どもたち一人ひとりが不安や恐怖に掴まえられて生涯を送ることを考えると、例え部外者の立場にあっても、途轍もなく空恐ろしいことだと思わされてしまう。

 政治や原子力事業者の危機管理不作為が事故誘因の一つとなった一つの原発事故が36万人の子どもたちの人生に一生付き纏う不安の影を落とす。

 記事には書いてなかったが、既に準備しているならいいが、不安や恐怖を和らげ、心のケアを行うカウンセリングが必要になるのではないだろうか。

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野田首相の災害復旧事業全額国費負担は動機不純な震災復興ポピュリズムが正体に見えるが?

2011-10-09 11:52:34 | Weblog

 野田首相は10月6日の参院東日本大震災復興特別委員会で佐藤正久自民党議員の質問に答えて、震災の復旧・復興にかかる財政負担は地方負担分も併せて国が全額負担する考えを示したと言う。《野田首相:災害復旧事業は全額国費の方針…参院特別委》毎日jp/2011年10月6日 21時55分)

 野田首相「自治体の財政力が弱いところもある。事実上、地元負担がなくなるよう取り組みたい」

 記事が、〈平野達男復興担当相も、各自治体が地方債を発行して国が後で一定の割合を普通交付税で補填(ほてん)する従来のやり方ではなく、国が特別交付税で全額措置する考えを示した。〉と伝えているから、「一定の割合」を「全額」に振り替えるということなのだろう。

 この野田首相の発言は「NHK NEWS WEB」記事では次のようになっている。

 野田首相「今回は、被害の規模が大きく、自治体の財政力はもともと弱いところがあるため、できるだけ国が負担を担う取り組みを行ってきた。もっと工夫して、事実上、地方負担がなくなるような努力をしたい」

 被災者の集団移転費についても1戸当り1655万円規定の移転費限度額を撤廃、全額国費負担とする方針だという。これは全額国費負担とした災害復旧事業の中に集団移転事業も含めているということなのだろうか。

 《東日本大震災:支援枠組み 固まるも復興には高いハードル》毎日jp/2011年10月8日 1時13分)には次のような解説がある。

 高台移転は「防災集団移転促進事業」の活用によって事業費の94%は国からの補助金や地方交付税で賄われることになっていた。

 但し〈集団移転事業の計画を決めた自治体はまだ一つもない。震災、原発事故で税収減に見舞われる自治体にとって、6%と言えども事業費負担は重く、「現行制度のままでは復興事業でできた借金の返済に数百年かかる」(宮城県南三陸町)〉からで、このような気の遠くなるような重しが足枷となっている進展の停滞だと分かる。

 被災者個人の負担は、〈仙台市の試算では、沿岸部の住民が内陸に移転する場合、移転元の土地評価額が下がるため、移転に伴う被災者の自己負担は約3000万円に達する〉と解説している。

 自治体の財政力が弱いということは弱い分、国の支援を求めているということであり、背中合わせの状況としてある各自治体の姿と言えるはずだ。そこへ持ってきて、個人負担が「約3000万円」。自治体は「借金の返済に数百年かかる」負担。当然の国費全額負担であり、結果としての自治体の負担軽減が被災者各個人の負担軽減という次ぎの結果へと向かうことになる。

 記事題名の「復興には高いハードル」とは、復興計画の実施段階での集団移転への住民の同意や津波で被災した土地をいくらで買い取るかの問題を言っている。

 土地の買取り価格があまりに低いと、その分個人負担が増える。今の場所を離れたくないと言う住人もいるに違いない。

 当然の国費全額負担だと書いたが、高台移転は菅前首相が4月1日(2011年)の首相記者会見で、「復興は従来に戻すという復旧を超えて、素晴らしい東北を、素晴らしい日本をつくっていく。そういう大きな夢を持った復興計画を進めてまいりたいと思っております」と言い、その一例として、「例えばこれからは山を削って高台に住むところを置き、そして海岸沿いに水産業、漁港などまでは通勤する。更には地域で植物、バイオマスを使った地域暖房を完備したエコタウンをつくる。そこで福祉都市としての性格も持たせる。そうした世界で1つのモデルになるような新たな町づくりを是非、目指してまいりたいと思っております」と言い出した高台移転である。

 菅前首相が言及した時点前後から検討が始まっていてもいいはずの全体の復旧・復興と相互関連させた自治体経費負担問題をも含めた高台移転の政策デザインであっていいはずだが、それから半年が経過して決めた全額国費負担である。しかも菅政権から野田政権に代って、やっと国費全額負担を言い出した。

 市町村の財政規模も震災による打撃分(歳入減等)を差引いてどの程度の規模か既知の事実・既知の情報としていたはずだ。今更ながらに分かった「被害の規模が大きく、自治体の財政力はもともと弱いところがある」といった自治体の懐事情と言うわけであるまい。

 今更ながらに理解できた自治体情報だと言うなら、その理解能力・認識能力を疑わざるを得なくなる。

 このあまりに遅い決定が「集団移転事業の計画を決めた自治体はまだ一つもない」という状況を招いていた大きな理由の一つでもあるはずだ。

 野田内閣が発足して1カ月経過。災害復旧事業の全額国費負担は菅前内閣が予定していなかった方針で、それを覆す決定だとしても、1カ月という時間の経過を必要とした遅過ぎる決定であることと、これまでの復旧・復興に関わる野田首相の姿勢から見て、どうしても動機不純な震災復興ポピュリズムが正体ではないかと疑ってしまう。

 自己保身のためのポピュリズム、1日でも野田内閣を延命させる目的のポピュリズムではないかと。

 先ずは騒がれた朝霞公務員宿舎建設問題での迷走。

 先に当ブログ記事に取り上げたことと一部重なるが、2009年11月に行政刷新会議の事業仕分けでムダ削除の対象となって建設凍結が決定した朝霞公務員宿舎が2010年12月に当時の野田財務大臣によって建設凍結を解除、9月1日に(2011年)から建設着工の運びとなった。

 だが、野党が「復興のために巨額の財源が必要な中で新たな公務員宿舎を建設することは税金のムダ遣い」と批判、9月26日の衆院予算委員会で塩崎泰久自民党議員が「G7の先進国で、公務員や国会議員宿舎があるのは日本だけ。いますぐストップし、復興資金に回すべきだ」、「やめるべきじゃないということを、もしそう思うなら、はっきりとおっしゃってください」と追及されると、野田首相は次のように答弁している。

 野田首相「全体的な公務員宿舎の事情とか、含めての判断をしたということでございますので、特段変更するつもりはありません」

 要するにこの答弁を行った時点までは105億の建設費を復興財源にまわして活用するという認識はさらさら持っていなかった。

 このことは既知の事実・既知の情報としていなければならない「被害の規模が大きく、自治体の財政力はもともと弱いところがある」という自治体の懐事情に対する認識と結びつけることができなかったことの反映としてもある公務員宿舎建設続行の認識だったとも言える。

 批判を受けた時点で結びつけることができていたなら、野党の国会での追及を経ずとも自分から建設中止を決定していたはずだ。テレビでは早くから批判が飛び交っていた。

 9月26日時点では朝霞公務員宿舎建設続行の意思を持っていた野田首相は4日後の9月30日首相記者会見で、その意思に変化を見せる。
 
野田首相「朝霞の公務員住宅についてのご指摘は、私としても真摯に受け止め、近々実際に現場に行って、自分なりの考えをまとめた上で、最終的な判断をすることとしたいというふうに考えております」

 10月3日に現地を視察。

 野田首相「去年12月に街づくりにも資するという総合判断で着工を判断したが、3月11日の東日本大震災からの復旧・復興に向けて、今、予算案を作り、財源確保をしようというなかで、いろいろとご批判がある。とにかく、きょうは現場の進捗状況を自分の目で見たいということで来た。

 私なりには、今、説明を聞いて、現場を見て、自分のなかの腹は固めたつもりなので、戻ったら安住財務大臣を呼んで指示したい」

 結果、向こう5年間の建設再凍結となった。

 事業仕分けで一旦凍結した朝霞公務員宿舎建設を決定、着工したものの震災が発生、財源確保が喫緊の課題となり、建設費を復興財源に組み入れることを決定した。

 だが、批判・国会追及という幾段階か経なければ到達できなかった復興財源への転用だった。あるいは最初から機転を利かせてストレートに復興財源に向けることができなかった迷走と言える。

 勿論、この時点で「被害の規模が大きく、自治体の財政力はもともと弱いところがある」という自治体の懐事情を既知の事情・既知の情報として頭に置き、そのような弱い財政力の自治体を全面支援して復旧・復興を加速させるために災害復旧事業全額国費負担を決めていたかどうかは分からない。あるいは考えていたかどうかは分からない。

 但し除染費用負担に関しては9月末の時点で国が全面的に負担する方針を示している。

 尤もこのことも最初からストレートに国負担を決めたわけではない。9月28日、内閣府と環境省が福島市内で開いた福島県内の自治体への説明会で年間被爆線量5ミリシーベルト未満の地域については局所的に線量が高い側溝などを除いて財政支援は行わないとする方針を伝えたものの、自治体からの批判と反対の姿勢を受けて、翌9月29日には方針転換して、5ミリシーベルト未満でも国で負担すること明らかにしている。

 この例も財政力が弱い自治体が多く存在するにも関わらず、あるいは財政力のある自治体であったとしても、被害規模の大きさと対応した負担規模の大きさから財政力を相対的に弱めている自治体も存在するにも関わらず、全面的に国が費用負担するという方向に最初から向かった方針ではなかった。

 高台移転費用の国費全面負担、除染経費の国費全面負担、朝霞公務員宿舎建設凍結による建設費復興財源転用等、批判を受けると巧妙にするりとかわして初めて被災地と被災者、あるいは多くの国民の希望に適う政策を打ち出す。

 こういった野田内閣の復旧・復興に関わる前例・前科を見ると、被災自治体・被災住民のことを直接的に思い遣って最初からこれだと計算し、デザインした政策ではなく、その都度その都度変えていく一貫性のない姿勢であることから、どうしても自己保身、1日でも長く政権を維持するための批判かわしが目的の動機不純な震災復興ポピュリズムに見えてくる。

 尤も動機は不純であっても構わない。「政治は結果責任」。復旧・復興が誰もが満足するような形で成し遂げられることが唯一絶対条件となることは断るまでもない。

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野田内閣の汚染廃棄物排出地で処理の不合理

2011-10-08 11:27:51 | Weblog

 野田政権は東電福島第1原発放射性物質放出によって高濃度に汚染された土壌及び瓦礫等の廃棄物は原則として排出都道府県内の処理を義務づける基本方針を策定予定だと、《汚染廃棄物は発生地で処理 政府基本方針案》沖縄タイムズ/2011年10月6日 16時40分)が「共同通信」の報道として伝えていた。

 記事内容は以下のとおり。

 ●方針は来年1月全面施行の放射性物質汚染対処特別措置法に基づき策定。
 ●政府のこれまでの処理方針や8月策定の除染に関する緊急実施方針をほぼ引き継ぐ内容。
 ●政府内や地元との調整を経て、11月上旬にも閣議決定の予定。

 記事の解説。〈汚染廃棄物の移動を最小限に抑え処理を円滑に進める狙いだが、住民の反発で行き場のない汚染廃棄物が日々増えているのが実態で、安全性に対する国の説明が求められる。〉・・・

 この方針策定の背景には放射性物質の除染で発生する土などを一時的に保管する仮置き場が満足に決まっていないばかりか、菅前首相が退陣間近の8月27日に福島県を訪問、二次保管場所とするための放射性廃棄物の中間貯蔵施設を福島県内に設置したいと自らの意向を伝えたものの、それすら明確な形を取ることができないでいることから、排出都道府県内処理の義務付けという半強制の形を取ることによって処理を促進させたい思惑があるに違いない。

 尤も高濃度放射能汚染廃棄物を発生都道府県に義務づけたとしても、政府自身が県外に設置すると公約した最終処分場の設置場所は未だ姿形さえ見えてこない。

 自治体の困難に対応した国の困難であろうが、放射能被曝と被曝不安、避難生活、作物や土壌等の放射能汚染、風評被害、産業活動の停滞等々は自らがもたらしたものではない自己責任外の被害と負担であって、福島原発事故は国も重大な責任を負っている以上、自己責任内の被害と負担であり、同じ困難であっても自ずからそこに不合理性が生じる。

 菅前首相が掲げていた「不条理を正す政治」にまさしく矛盾する不条理である。

 いわば自己責任外の被害と負担でありながら、このことに反して土壌や瓦礫等の高濃度の放射能汚染廃棄物に関しては排出都道府県内の処理を義務づけられて自己責任内の被害と負担としなければならない。

 暴漢に襲われて重傷を負った人間に暴漢が治療費は自分で持てと宣告する不合理さ、あるいは不条理に等しい。
 
 勿論、処理に伴う費用は国が負担するだろうが、自己責任外の被害の処理施設を排出都道府県内に設置して自己責任内の負担とする不合理性を言っている。

 国の責任はブログに何度も書いてきたが、改めて触れると、1990年、原子力安全委員会が策定した「発電用原子炉施設に関する安全設計審査指針」は全電源喪失に対する備えを必要ないとしていた。「長期間にわたる全交流動力電源喪失は、送電線の復旧又(また)は非常用交流電源設備の修復が期待できるので考慮する必要はない」

 しかも当時の寺坂信昭原子力安全・保安院長は昨年(2010年)5月の衆院経済産業委員会で、「(電源喪失は)あり得ないだろうというぐらいまでの安全設計はしている」と答弁、原子炉事故否定の「原発安全神話」を表明している。

 結果、東日本大震災の津波によって海水をかぶり、東電第一福島原発は全電源を喪失、一応準備しておいたといった程度の備えだったに違いない、補助電源も被害を受けて停止、原子炉の自動冷却装置が機能しなくなり、メルトダウン、その他の重大事故を引き起こすことになった。

 いわば国から見た場合、原発事故は東電の自己責任内の事故であると同時に国の自己責任内の事故と位置づけなければならない。

 国の責任はこのことばかりではない。東電は事故に対する賠償額が巨額に上ることが予想されることから、巨大な自然災害などの場合に電力会社の賠償を免責する原子力損害賠償法(原賠法)の例外規定の適用を内々に望んだ。

 だが、当時の枝野官房長官は3月25日の記者会見で、適用は「社会状況からあり得ない」と否定している。

 「原子力損害の賠償に関する法律」の賠償に関する例外規定の項目を見てみる。

  第二章 原子力損害賠償責任

 (過失責任、責任の集中等)

第3条  原子炉の運転等の際、当該原子炉の運転等により原子力損害を与えたときは、当該原子炉の運転等に係る原子力事業者がその損害を賠償する責めに任ずる。ただし、その損害が異常に巨大な天災地変又は社会的動乱によつて生じたものであるときは、この限りでない。

 「異常に巨大な天災地変又は社会的動乱」とは具体的にどのようなものを指すか、「Wikipedia」の記事に導かれてインターネットで調べてみた。

 1998年9月11日、内閣府原子力委員会内に設置された原子力損害賠償制度専門部会が議論し、会議録を残している。
 
 〈(5)免責事由(異常に巨大な天災地変)について

 事務局より資料3-6に基づき、説明があった後、主に次の質疑応答があった。

 村上専門委員「結論は賛成だが、関東大震災の三倍以上とは、何が三倍ということか。また、社会的動乱と異常に巨大な天災地変との関係はどういうものか」

下山専門委員「一般的には、震度・マグニチュード・加速度であろうが、三倍といったときには、おそらく加速度をいったものであろう。関東大震災がコンマ2くらいなので、コンマ6程度のものか。発生した損害の規模でなく、原因、主に地震の規模であろう」

事務局「社会的動乱とは戦争、内乱等をいい、異常に巨大な天災地変とは別概念である」〉・・・・・

 「関東大震災の三倍以上」とは「おそらく加速度をいったものであろう」とは何と曖昧な取扱いとなっていることか。

 このことに関して、「Wikipedia」には次のような記述がある。

 〈第三条但書「異常に巨大な天災地変又は社会的動乱」について、地震であれば関東大震災の3倍以上の加速度をもつものをいうと解されているが、政府は隕石の落下や戦争などを想定したもの(文部科学省幹部より)として福島第一原子力発電所事故には適用されないとの方針を示している。〉・・・・・

 東日本大震災の最大化速度は宮城県栗原市の2,933ガル。関東大震災は330ガルと推定されているという。東日本大震災は関東大震災の約9倍近くに相当するが、福島第一原発での加速度は南北方向、東西方向上、上下方向と計測するそうだが、いずれも550ガル以下で、関東大震災の約1.5倍で、「三倍以上」には遥かに達していない。

 要するに「関東大震災の3倍以上の加速度をもつ」地震か隕石の落下といった「巨大な天災地変」か、戦争といった「社会的動乱」以外のケースは免責事由とはならない。従って福島原発事故のケースは免責の適用外となるということである。

 だが、「原子力損害の賠償に関する法律」の「第二章 原子力損害賠償責任」が免責事由と規定している、「異常に巨大な天災地変又は社会的動乱」にしても、原子力損害賠償制度専門部会が議論した、「関東大震災の3倍以上の加速度を持つ地震」、あるいは「隕石の落下や戦争」にしても、裏を返すと、こういった極端な要因以外では原発は過酷な事故(シビアアクシデント)を起こすことはないと想定し、線引きしていたということになる。

 原子力事業者がこれらの重大事態が発生しない限り賠償可能を想定していたということは、そういうことであろう。

 この線引きが「原子力安全神話」構築の原動力の一つともなっていたはずだ。

 「原子力損害の賠償に関する法律」は津波の被害を想定した言及は一つもないことに関してもそうだが、原発が事故を起こした場合の賠償に関わる国の自己責任を滅多に起こらないことに置くことで限りなく関与外としているが、このことは1990年原子力安全委員会策定の「発電用原子炉施設に関する安全設計審査指針」が全電源喪失を想定外として事故拡大につながり、結果的に国は被害を東電と共に自己責任内の問題としたことと矛盾する自己責任外の措置となっている。

 例え福島原発の事故の原因と事故拡大の原因が「関東大震災の3倍以上の加速度を持つ地震」、あるいは「隕石の落下や戦争」といった「異常に巨大な天災地変又は社会的動乱」ではなかったとしても、国は東電と共々それらを自己責任内とする責任を負い、その賠償だけではなく、被害処理に於いてもすべて自己責任内としなければ、自治体が自己責任外の被害と負担を自己責任ないとしなければならない不合理性は解決しないはずだ。

 東電福島第1原発放射性物質放出によって高濃度に汚染された土壌及び瓦礫等の廃棄物は原則として排出都道府県内の処理を義務づけるのではなく、東電第一福島原発敷地内の処理を義務付けることによって、国は東電と共に原発事故に関わる処理を自己責任外の自治体に押し付けるのではなく、自己責任内とすることができる。

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小沢氏証人喚問問題、司法判断は国会判断に優る

2011-10-07 10:35:34 | Weblog

 勿論、司法判断が絶対だとは言えない。このことは冤罪の存在が何よりも証明している。

 最近では女児殺害の足利事件を冤罪の象徴的な例として誰もが挙げるに違いない。1990年5月12日、栃木県足利市のパチンコ店駐車場から4歳の女児が行方不明になり、翌朝、近くの河川敷で遺体となって発見された。

 翌年の12月に足利市内に住む菅谷利和氏が殺人容疑で逮捕される。自白は強要、DNA鑑定は確率の低い初期型の鑑定方法で、結果として血液型の一致のみを以って逮捕、起訴に持ち込み、1審、無期懲役の判決。2審、控訴棄却、最高裁が「DNA型鑑定の証拠能力を認める」と初判断し、2000年7月、第一審の無期懲役判決が確定。

 菅谷氏は再審を請求するが、地裁は請求棄却。東京高裁に即時抗告。東京高裁は2008年12月にDNA型の再鑑定実施を決定。再鑑定の結果、女児下着付着の体液とDNA型不一致の判定。

 2009年6月再審開始を決定。2010年3月、宇都宮地裁が無罪判決。

 警察が言う直感が実際は科学的な根拠のない、犯人に違いないという印象でしかなかったにも関わらず、それを思い込みにまで高めてすべてに優先させ、自分たちの頭の中に前以て描いたシナリオどおりの犯人としての自白を強要することになり、シナリオどおりの虚偽の自白を菅谷氏に誘導させることになった。

 このような犯人に違いないという思い込み・固定観念化が当時としては精度が低いDNA型鑑定であったことに留意しなければならない低確率性の科学的根拠を無視させるに至った。

 2009年に自称障害者団体「凛の会」に偽の障害者団体証明書を発行し、不正に郵便料金を安くダイレクトメールを発送させたとして逮捕され、裁判を受けた厚労省職員村木厚子氏のケースは裁判で無罪になったからよかったものの、起訴されたのは検察が犯人にデッチ上げるために証拠を改竄したからだった。

 以上のことは司法も絶対ではない、検察捜査も絶対ではないことを物語っている。

 だとしても、司法の判断は国会の判断よりも優先されるべきであろう。

 なぜなら、国会は自ら調べ上げた具体的な証拠も具体的な事実も何ら持たず、殆んどを新聞報道に頼っている。にも関わらず、不正の存在を前以て決めてかかった単なる印象と思い込みに基づいて追及する。証人が追及事実を否定したとしても、証拠を論拠とせず、不正の存在を固定観念とした印象と思い込みのみを論拠としているため、ウソをついている、事実を話していないと感情的、あるいは情緒的判断に流される。

 司法の判断を国会の判断よりも優先させる理由がもう一つある。

 2010年2月、検察は小沢氏の資金管理団体政治資金規正法違反事件で小沢氏自身を取調べ、不起訴決定をしている。

 だが、不起訴不当とする申し立てが東京第5検察察審査会に対して行われ、検察審査会は審査員11人の全会一致で「起訴相当」を議決。検察は再度小沢氏を取り調べ、再度不起訴処分とした。

 このニ度の不起訴処分は小沢氏の国会で説明する責任を免除したはずだ。

 しかし不起訴処分不当とする申し立てが再度行われ、2010年10月、検察審査会も再度起訴相当と議決。2011年1月に小沢氏は強制起訴されることになった。

 この時点で小沢氏は国会の判断よりも優先されるべき司法の判断に委ねられることになった。司法が国会と同様に印象と思い込みで不正の存在を前提に足利事件で演じたと同様の根拠のない判断を下したのでは困るが、何よりも先ずは小沢氏の証言(=説明)を交えた検察や弁護側の証言に立った司法の判断を待つべきだろう。

 小沢氏は初公判後の午後5時半からの国会内の記者会見で次のように発言している。

 小沢氏「裁判所は最終の法と証拠に基づいて判断するところだ。いろいろな力や干渉によって結果が左右されてはいけない。司法は独立している」(NHK NEWS WEB

 「裁判所は最終の法と証拠に基づいて判断するところだ」――

 いわば憲法62条の「議院の国政調査権」とこの規定を受けて具体化法として制定された「議院証言法」を以てしても、国会は「最終の法と証拠に基づいて判断するところ」ではないと談じている。

 小沢氏が優先されるべき司法の判断を待つ身でないなら、国会が「最終の法と証拠に基づいて判断する」場ではないばかりか、自らが調べ上げた具体的な証拠も具体的な事実も持たなかったとしても、不正の存在を前提とした印象と思い込みで所属政党を追いつめることを目的として追及するのも一つの手だが、小沢氏は既に優先されるべき司法の判断に委ねる身となっている。
 
 この理を無視するのは小沢氏自身を追い詰めるというよりも民主党を追いつめ、失点、ダメージを与えて、その失点、ダメージを与えることを以って自らの得点とすることが真の目的となっているからだろう。

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野田首相がモットーとしている「安全運転」と指導力の関係

2011-10-06 10:27:01 | Weblog

 2011年9月2日就任の野田首相は徹底的に安全運転を心がけている。9月30日(2010年)の野田首相記者会見。

 七尾ニコニコ動画記者「ニコニコ動画の七尾です。どうぞよろしくお願いします。

 今国会では、印象としまして安全運転に終始した感がございますが、その分国民にしてみれば、総理がどのような理念をもって政権を運営されていくのかわかりにくかった印象もぬぐえません。冒頭、アクセルを踏むとのご発言がございましたが、総理は今後どのような具体的な理念やイメージを持って政権運営を加速していくお考えでしょうか」

 野田首相「あの、私なりの理念は、たとえば所信表明演説などでも述べましたけれども、やっぱり中間層の厚みが今、薄くなってきて、しかも下にこぼれてしまったというか、まあ言い方ちょっと気を付けなければいけませんが、戻ることができなくなっている人たちが多くなっているという状況を打開をしていくと、中間層の厚みをもった国にすることが底力のある国であるというのが基本的な理念で、そういう国にしたときに、この日本に生まれてよかったと思える国の基本ができると思いますし、その先にはもっとプライドをもってこの国に来て良かったなと、そういう国にしていきたいという理念があるんです。

 その理念と、よくこれは国会でも聞かれましたが、個別の政策のちょっと中長期的なことを聞かれました。それは何をやりたいかの世界なんですね。何をやりたいかの前に何をやるべきか、やらなければならないことが今あるじゃないですか。我が政権の最大かつ最優先の課題は何と言っても、震災からの復旧・復興と原発事故の収束と経済の立て直し等、これを申し上げました。このことを中心に言っていたので、安全運転という評価なのかもしれませんが、政権当初から乱暴なスピード違反はできません。どんなスピード、加速しても安全運転はやっていきたいというふうに思います」・・・・

 記者は安全運転に終始するあまり、理念が分かりにくいと言い、対して野田首相は「中間層の厚みをもった国にすることが底力のある国であるというのが基本的な理念」であって、政権当初からスピード違反はできないが、「どんなスピード、加速しても安全運転はやっていきたい」と徹底して安全運転をモットーとすることを宣言している。

 記者が言う、安全運転だから理念が分かりにくいという論理は理解できない。安全運転では自らが掲げた理念を満足に実現できるのかという論理なら理解できる。

 誰でも政策理念、あるいは国家経営の理念は掲げる。その理念を実現できるかどうかで指導者として有能であったかどうかの評価が分かれることになる。

 政策を実現する上での障害を避けずに常に正面突破を心がける姿勢、前面に出て闘う姿勢であるなら、安全運転とは言えない。その逆の姿勢を安全運転と言うはずである。

 安全運転を心がけるあまり、政策実現上の障害(いわば反対意見や官僚の抵抗)を避けて運転した場合、望みの運転結果(=理念の実現)は得にくいことになる。妥協や取引、最悪対立政策への乗り換え・屈服が安全運転を保証する方法として取り残されることになる。

 政策遂行に関わるこのような安全運転の構図は指導力の在りようと深く関係しているはずだ。強い指導力は障害に立ち向かう。立ち向かうことによって、それを乗り超える方法を創造することも可能となる。

 安全運転を心がけて障害を避けたなら、それを乗り超える方法の創造などとても思い叶うことはない。

 いわば安全運転と指導力は相反関係にあると言える。

 断っておくが、障害を避けるために支払う妥協と傷害を乗り超えるために支払う妥協とは自ずと異なる。

 野田首相は9月30日の午後5時からの首相記者会見に先立って、同日午後に開催した民主党両院議員総会での挨拶でも同じ安全運転宣言をしている。《心に「大忍」の文字=安全運転批判に釈明-野田首相》時事ドットコム/2011/09/30-20:08)

 野田首相「(衆参予算委員会での国会質疑に関して)「心の中に大忍という文字を書いて、冷静に対応するように努めさせていただいた。

 (慎重な答弁に徹したことについて)結果的に安全運転と指摘されているが、政権が発足して今、ローギアを入れたところ。当然、これからギアチェンジをして、セカンド、サード、トップと入れていく。加速をしながらも安全運転は続けていかなければいけない」

 両院議員総会では「加速をしながらも安全運転は続けていかなければいけない」と言い、首相記者会見では「どんなスピード、加速しても安全運転はやっていきたい」と言っている。

 「安全運転」への思いは相当に野田首相の頭にインプットされているようだ。強い指導力を自らの資質としていたなら、あるいは強い指導力発揮の思いを色濃く持っていたなら、安全運転への思いは回避されるだろうから、その思いを頭に深くインプットしていて離れないということは指導力を元々欠いているからこそ可能とすることができる姿勢であり、そういった姿勢だからこそ、指導力発揮の思いよりも安全運転への思いに重点を置くことを可能としていると言える。

 このことは財務省の言いなりという評価と一致する。

 要するに任期のみに軸足を置いた姿勢と言える。安全運転を心がけて、政権をより長期間延命させようという自己保身の心がけがそう仕向けている姿勢に違いない。

 菅前首相は元々指導力を欠いていたから、「政治は結果責任」意識を欠くことになっていたが、野田首相の指導力欠如は安全運転に向かっているというわけである。

 一度当ブログに取上げた野田首相の9月14日「官邸ブログ【官邸かわら版】」

 野田首相「演説で申し上げたとおり、野田政権が取り組むべき課題は、明らかです。東日本大震災と世界的経済危機という『二つの危機の克服』。そして、『誇りと希望ある日本の再生』。一言で言えば、『国家の信用』の回復です。あとは『実行』により、全力で『結果』につなげます」・・・・・

 「あとは『実行』により、全力で『結果』につなげます」と指導力発揮を謳っているが、この言葉は「安全運転」に反する物言いであろう。特に「全力」なる姿勢表現の単語は「安全運転」と相容れない姿勢と言わざるを得ない。「全力で安全運転に徹します」と言ったとしたら、実際の車の運転ではないのだから、滑稽となる。

 マスコミも取り上げているが、野田首相がぶら下がり取材を避けて、記者会見方式の情報発信とする方針を決めたところに「安全運転」が象徴的に現れている。《野田首相「会見方式で説明」 ぶら下がり取材取りやめ》asahi.com/2011年10月3日11時37分)

 記事は、〈首相は就任以来、定例のぶら下がり取材には応じていない。〉と書いている。

 9月28日の参院予算委員会。

 野田首相「時間を取って、丁寧に受け答えするやり方をある程度の頻度でやっていきたい」

 10月3日朝霞市視察先で記者団に。

 野田首相「政府が説明責任を果たしていくことは大事だ。『ぶら下がり』という形ではなく、記者会見方式でじっくりと質問に答えていくのをある程度の頻度でやっていきたい」

 ぶら下がり取材では予期しない質問や不快な質問をぶつけられる可能性があり、前以て心の準備ができているわけではない不十分な態勢で不十分な発言、あるいは感情的な発言を返さざるを得ない場面が生じないとも限らない。それらを避けるために即座の返答ができずに間が空く姿をテレビカメラに捉えられるのも都合が悪い。

 要するに「安全運転」に反する姿勢を要求されかねない危険性(野田首相にとっては爆弾?)を抱えることになる。

 その点、記者会見は自身が発言した範囲の質問にほぼ限られる。いわば質問を前以て制限する形を取ることになって、かなりの部分予測可能とすることができ、前以て質問に対する答が用意可能となる。

 「安全運転」には即した情報発信方式だということなのだろう。

 だが、指導者に何よりも必要とされる資質は物事に常に的確且つ迅速に対応できる臨機応変の合理的判断能力である。この能力には当然のこと、発言能力、情報発信能力も含まれる。如何なる場合に遭遇しても合理的判断能力が可能としてくれる発言内容の的確性であり、情報発信内容の的確性であるはずだ。

 発言に於いても安全運転を心がけるあまり、無難な発言に終始したり、官僚等の他人の主張をなぞった発言であったり、閣議で誰かが先に判断してくれるのも待っていたなら、指導力は発揮できない。指導力は期待されなくもなる。

 要はぶら下がりだとか、記者会見だといった報発信の方法論の問題ではない。指導力にも通じることになる、自身の言葉を如何に的確・迅速に情報発信するかの臨機応変の合理的判断能力にかかっていると言うことである。

 毎度言っていることだが、合理的判断能力を欠けば、指導力も欠いていることになる。

 最後に野田首相は「中間層の厚みをもった国にすること」を基本理念としていると言っているが、中小企業が大企業に従属しているように中間層は上層に従属している。それぞれが個別に存在しているわけではないし、個別に経済活動を行っているわけではない。

 いわば「中間層の厚み」をもたらすには、上層を「中間層の厚み」以上の厚みで以って底上げしないと、「中間層の厚み」は実現できない。

 支配と従属の関係から言って、順序はあくまでも上から下に向かうからだ。野田首相が俺の基本的理念だと、「中間層の厚み」の実現のみに努めたなら、逆に日本全体を壊すことになるだろう。

 このことについては、前々から準備しているが、『現実直視からの格差二極拡大化社会のススメ』(仮題)と題して民主党の経済政策が決定したところで改めて記事にするつもりでいる。

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枝野の経産省幹部子息の東電就職“親子別人格論”の正当性を問う

2011-10-05 12:15:56 | Weblog

 山崎雅男東電副社長が9月26日の衆院予算委員会で、東電には51人の天下りがいると発言。その内訳は〈「天下り」公務員OBは、8月末で51人。顧問3人中、国土交通省出身が2人、警察庁1人。嘱託48人の内訳は、都道府県警出身31人、海上保安庁7人、地方自治体5人、林野庁2人、気象庁2人、消防庁1人。電力業界所管の経産省からはゼロ〉(ZAKZAK)とのこと。

 この件について枝野経産相が答弁している。

 枝野「事実関係を調べた上で国会にも報告し、適切に対処したい」(毎日jp

 そして昨日(2011年10月4日)の閣議後の記者会見。

 枝野「少なくとも自分の経産大臣の在職中に再就職することがないよう強く求めたい」

 この発言は東電がOB在籍官公庁の官僚とつながりを持つことによって両者間に癒着発生の危険性が考えられることからの、その回避を図る狙いを込めていたはずだ。

 だが、努力義務の提示であって、禁止するとは言っていない。

 民主党政府は省庁斡旋ではない場合は天下りには当たらないとする見解を示している。例えば経産省の次官などが直接東電に出向き、「色々と面倒を見てやったはずだ。今度退官することになるから、東電でそれ相応の地位で雇ってくれないか」と自分から売り込んで採用された場合、省庁斡旋ではないから天下りではないということになる。

 省庁斡旋ではなくても、在職中の権限が圧力として働いた再就職であるなら、仲介採用と自力採用の違いがあるのみで、権限行使という点で天下り採用と本質的には何ら変わりはない。

 こういった方法が抜け道として利用されることは決してないと誰も信じていないだろうから、民主党の省庁斡旋ではない場合は天下りには当たらないとする政府見解で示している再就職ルールは天下りの抜け道をつくるためのルールとしか言いようがない。

 省庁斡旋ではないから天下りに当らないとしていた象徴的なケースとして、退職後2年間は所管業界に再就職してはならないとする自民党政権時代に作られたルールに反して経産省資源エネルギー庁元長官石田徹が2011年1月、東電顧問に就任している。副社長昇任込みの就職だと言われている。

 だが、経産省関連の省庁からの東電への天下りであり、チェック体制への悪影響批判を受けて、省庁斡旋ではないから天下りではないとしていた自分たちの政府見解に反して枝野官房長官(当時)が自主的辞任を要請、4月に辞任している。

 東電のつながりは官僚との間だけではない。東電は1974年企業献金の自粛を決めているにも関わらず、2009年までの数年間にわたり、自民党を中心とした50人以上の国会議員のパーティー券などを少なくとも年間計5千万円以上購入していたという。《東電、年5千万円パーティー券 献金自粛の一方で購入》asahi.com/2011年10月2日3時10分)

 記事の主なところを拾ってみる。

 ●パーティー券の購入予算枠を確保しており、毎年50人以上の議員に配分。
 ●原子力政策に於ける各議員の重要度や、電力施策への協力度を査定してランク付けを行い、購入額を決
  定。
 ●1回当りの購入額を政治資金収支報告書に記載義務がない20万円以下に抑え、表面化しないようにしてい
  た。
 ●査定が高い議員は上限の20万円を複数回購入。東電との関係が浅い議員は券2枚を計4万円で購入した
  り、依頼を断ったりしていた。
 ●東電の原発が立地・建設中の青森、福島、新潟の3県から選出された議員や、電力会社を所管する経済産
  業省の大臣、副大臣、政務官の経験者などは、購入額が高い議員にランク付けされていた。
 ●09年の政権交代までは自民党議員と民主党議員の購入金額の割合は約10対1で、自民党側が中心だった
  が、交代後の10年も券購入を続け、民主党議員の購入額を増やした。

 東電元役員「東電の施設がある県の選出議員かどうかや、電力施策や電力業界にどのくらい理解があるかを考慮した。関連企業に割り当て分を購入してもらうこともあった。

 (収支報告書記載非義務の20万円以下にに抑えたことについて)政治家と公的な企業につながりがあるというだけで、良からぬ見方をされる。表にならないに越したことはない」

 どのような理由があろうと、国民に隠す形で行っていた事実は消えない。

 東電広報部「社会通念上のお付き合い程度で行っているが、具体的な購入内容は公表を控える。飲食への支払いで、対価を伴っているので、政治献金ではない。(企業献金の自粛とは)矛盾していない」

 薄汚い狡猾なばかりの詭弁だ。「飲食への支払いで、対価を伴っている」と言っているが、パーティー券と飲食代は決して「対価」とはなっていない。常にそこに差額を設けて、その利益を政治家は政治資金とする。パーティー券を購入してパーティーに出席する側もそのことを承知して購入・出席(購入のみで出席しないケースもあるが)しているはずだ。

 いわばパーティー券購入の段階で、購入代金の相当額が政治資金に回ることを納得していたはずだ。

 「対価」とは「他人に財産や労力等を提供した報酬として受け取る財産上の利益」を言うのであって、それが釣り合わない場合は対価とは言えない。非正規社員が正規社員と同一の労働を行いながら、給与が正規社員よりも安いことを問題とするのは提供する労働が同一でありながら、報酬に於けるお互いの対価に違いがあるからだろう。

 「対価」の「対」と言う言葉には「つりあう。等しい」という意味がある。

 国会議員のパーティー券購入に年間計5千万円以上も支出していながら、「政治献金ではない」と言い切る。 
 
 このように詭弁を用いて政治献金ではないと誤魔化したり、1回当りの購入額を政治資金収支報告書に記載義務がない20万円以下に抑え、意図して表面化しないよう謀っていた確信犯的行為と言い、政治家に金銭的な便宜を与える見返りとしての何らかの便宜を必要に応じて求める意思を持たせたパーティー券購入ということであり、そういった趣旨でなければならなかったはずだ。

 利潤追求の企業が何らの利潤も見込めない投資をするはずはない。最低限、自企業の宣伝を図る。

 東電のこのパーティー券購入問題でも所管大臣の枝野経産相が批判発言している。

 b>《東電、年5千万円パーティー券 献金自粛の一方で購入》

 昨日(2011年9月4日)の閣議後の記者会見。

 枝野「少なくとも今後、購入しないのが当然だ。政治献金と同様の性質を帯びると受け止められても止むを得ない」

 常識的な発言を展開しているに過ぎない。地域独占という特権を与えられていて、国民からの電気料金で経営を成り立たせている電力会社が国民にこそ値下げという形で奉仕すべき年間計5千万円以上ものカネをパーティー券購入を介した政治献金という形の奉仕を行わなければならないのはなぜなのかという強い怒りを持った視点、国民に損害を与えているという視点を欠いている。

 この強い怒りを欠いた姿勢は次ぎの発言が決定的に証明することになる。 

 枝野(経産省幹部の子息が東電に就職するケースが指摘されていることについて)「親子は別の人格で、一律にルールで対応できない。疑念を持たれることのないような努力は必要だ」

 枝野は「親子は別の人格」だとすることで、経産省幹部子息の東電採用を無条件に認めている。東電側は親子は別人格を口実にいくらでも縁故採用することができることになる。

 また、枝野のこの無条件の認知は縁故採用なる人事が現実に存在することを無視して、その事実の否定ばかりか、その存在そのものの否定となる。

 縁故採用を疑う怒りさえ欠いていることからの“親子別人各論”であり、このことのみを以ってして、枝野の経産省幹部子息の東電就職“別人格論”は正当性を失う。

 確かに親子は別人格と言える。だが、親の名前や職業、地位が子どもの存在やその存在に対する周囲の受け止めように影響を与える権威主義的な力学(強い上の者に弱い下の者が無条件に、あるいは無条件的に従う上下の人間関係力学)の存在は決して否定できない社会となっている。

 この権威主義的な人間関係力学は親子を別人格でありながら、同一同然の人格と扱うことによって成り立つ。例え後になって親とは異なる無能力を子どもに発見したとしても、少なくとも初期的には同一同然の人格と看做して扱う。親の官庁在職中の権限が圧力として働くからであり、この圧力の効力こそが権威主義の人間関係そのものをつくり出す。

 権威主義の力学が働いて一旦縁故採用すると、子どもが無能でも親の存在自体が圧力となって子どもに対して満足に注意もできない状況が生じる。子どもの方は自身の無能を誤魔化すためにやたらと親の力を笠に着て威張り散らすといったことが往々にして起こる。 

 経産省幹部の子息の採用が親の権限が圧力として働いた縁故採用であったとしても、それを第三者の目で識別することは難しい。正式に試験を受けて、合格点に達していたから採用したと言われればそれまでである。

 だが、「親子は別の人格」だとか、「疑念を持たれることのないような努力は必要だ」と事勿れな注意で済ますのではなく、この世に縁故採用という名の不公平な人事が存在しないわけではなく、よくある現象として、「経産省幹部だからという理由で縁故採用することは癒着の原因にもなることだから、縁故採用はあってはならない」と強い調子で警告を発すべきだったろう。

 だが、そういった発言とはなっていなかった。既に触れたように「親子は別の人格」だとすることで、経産省幹部子息の東電採用を無条件に認めた。東電は「親子は別の人格」だとすることでいくらでも縁故採用できることになった。

 これは省庁斡旋ではない場合は天下りには当たらないとする政府見解が抜け道を前以て用意していたも同然の天下りルールとなっているように縁故採用の抜け道を前以て用意する詭弁家ならではの“親子別人各論”とも言える。


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朝霞公務員宿舎建設再凍結に公務員宿舎部屋代値上げに優る合理的理由は存在するのか

2011-10-04 10:03:48 | Weblog

 2009年11月に行政刷新会議の事業仕分けで建設凍結とした朝霞公務員宿舎を2010年12月に当時の野田財務大臣が凍結解除の判を押し、先月(2011年9月)1日建設着工。と言っても、テレビニュースの画面から窺った限りでは樹木の撤去や土台穴の掘削程度の進行で済んでいるようだ。

 震災復興にカネがかかる今この時期に一旦凍結した工事を再開するのかと国会で追及を受け、元々豪華・贅沢公務員宿舎格安家賃に批判が多かっただけにマスコミも大々的に取上げ、形勢不利と見たのか、支持率低下に影響することを恐れたのか、10月3日に現地を視察、野田首相は5年間の建設凍結を安住財務大臣に指示した。

 10月3日午前、15分間の視察のあと、記者団に次ぎの発言を行っている。《朝霞公務員宿舎 計画凍結指示へ》NHK NEWS WEB/2011年10月3日 11時59分)

 野田首相「去年12月に街づくりにも資するという総合判断で着工を判断したが、3月11日の東日本大震災からの復旧・復興に向けて、今、予算案を作り、財源確保をしようというなかで、いろいろとご批判がある。とにかく、きょうは現場の進捗状況を自分の目で見たいということで来た。

 私なりには、今、説明を聞いて、現場を見て、自分のなかの腹は固めたつもりなので、戻ったら安住財務大臣を呼んで指示したい」

 その答が向こう5年間の建設再凍結というわけである。

 首相のこの意向に関しての官房長官の発言。

 藤村官房長官「先週月曜日からの予算委員会で、野党を中心に、大変いろいろな意見が出されたことが一つある。3月11日以降をどう考えるかというところで、再考するということになったのではないか」

 事業仕分けで建設凍結と決めた朝霞公務員宿舎を当時の野田財務大臣が「去年12月に街づくりにも資するという総合判断で着工を判断した」と凍結解除の理由を述べている。

 「街づくりにも資する」ということは国益にも適う正当な理由づけに基づいた凍結解除だとの言明となる。当然、完成後の850戸という部屋数に応じた人口増加が朝霞市に与える市民税等の歳入、消費活動が貢献することになる経済効果等の経済活性化と将来的継続性をも含めてどの程度の相乗効果を見込むことができるか数値化していたはずで、それをゼロにして、いわば犠牲にして建設費の105億円を復興財源に回すということなら、差引き復興にどの程度の貢献となるか、やはり数値で示して、復興の国益が格段上回ることの証明の説明が必要となるのではないだろうか。

 復興を優先させるあまり、他都市の「街づくり」を阻害してもいいという理由はないはずだ。少なくとも一旦は「街づくり」(=市の活性化)を計算して工事凍結解除の判を押した。また、建設費の105億円を復興にまわさなくても、新たに生み出すことができない金額と言うわけではあるまい。

 野田首相は9月15日の衆院代表質問で渡辺喜美みんなの党代表と次のような質疑応答を行っている。

 渡辺喜美みんなの党代表「復興財源を捻出するためにも、朝霞住宅の工事を中止してもらいたい」

 野田首相「真に必要な宿舎として朝霞住宅の事業再開を決定している」(MSN産経

 「真に必要」と政策決定するためには合理的な理由がなけれならない。だが、他都市の「街づくり」を犠牲にして復興を優先させる納得させる合理的な理由の提示、具体的な説明が何らないままに建設費の105億円を復興に回すために向こう5年間の凍結解除となっている。

 「真に必要」だと合理的に理由づけした政策を合理的理由を提示しないままに変更する。

 政府はさらに東京都心の港区、中央区、千代田区の3区にある国家公務員宿舎を危機管理用のものを除いて廃止・売却することを決めたそうだ。これらもゆくゆくは復興財源にまわされることになるのだろう。

 どうも公務員は公務員宿舎で特別待遇を受けている、役人天国となっている、建設は税金のムダ遣いだ、被災地では被災者が困窮しているのだからといった情緒的な理由からのみ建設の是非が論じられているように見える。

 勿論、税金のムダ遣いだという批判は十分に理解できる。だが、「税金のムダ遣いだ」と言うなら、北朝鮮の高給軍人最優遇に通じる日本の国家公務員の報酬面の最優遇に加えた住居面に於ける最優遇、役人天国こそを税金のムダ遣いの対象とすべきであろう。

 民間相場では入居費が20万から30万するマンションの部屋と同等の宿舎の入居費が3万から5万、6万といった格安値段の提供、特別扱いこそが役人天国の一端をなしているはずである。

 なぜ豪華・豪勢な巨大タワーマンションを100億以上のカネをかけて建設して、5万円前後の安い部屋代で住まわせる特別扱いを国家公務員に提供しなければならないのか。多くの国民が生活苦に喘いでいるというのに役人天国という名の天国に住まわせなければならないのか。

 民主党は2009年マニフェストで国家公務員総人件費2割削減を謳い、現在、人件費8%を減額する法案を国会に提出している。「2割削減」を謳ったということは民間人件費よりも少なくとも「2割」優遇を受けていることを意味する。いわば「2割削減」を実現させて初めて、民間とほぼ同等となる。

 マニフェストは4年間を期限とした実現となっている。「国家公務員総人件費2割削減」の民主党公約は2009年9月から計算して4年以内の実現を待つしかないが、人件費のみの削減を以ってして、公務員宿舎の格安家賃の特別待遇を剥ぎ取らないことには一般国民との公平化が実現できるわけではない。

 民間マンション部屋代20万~30万と国家公務員宿舎部屋代の平均3万~6万の格差を可能な限り埋めて初めて、国家公務員の特別待遇・最優遇が剥奪可能となり、役人天国から国民感覚への引き摺り降ろしが実現することになる。

 現在、公務員宿舎は全国に約21万8000戸存在するそうだが、5万円ずつ値上しても、約22万戸として、22万戸×5万円=110億/1カ月。年にして1320億円の国の歳入となる。

 民間との公平化を可能な限り図るとすると、15万~20万円は値上が必要となる。15万円と見ても、22万戸×15万円=330億円/1カ月。年にして3960億円。すべて復興財源にまわすことができる。

 朝霞公務員宿舎に限って計算しても、建設の上住まわせて周囲の同等の部屋の相場に合わせた家賃を取るとこととして、例えば15万円~20万円の部屋代に設定して計算すると、部屋数は850戸ということだから、850戸×15万円~20万円=1億2750万円~1億7千万円/1カ月。年にして15億から16億のカネを復興財源として生み出すことができる。10年で建設105億円を上回る150億から160億の復興財源とすることも可能である。

 しかも地域の消費拡大や市の歳入増収まで担う街づくりに貢献したとしたら、建設を再凍結して建設費105億円を復興財源にまわすこととどちらに合理的理由があるか、一目瞭然である。

 ただ単に税金のムダ遣いだ、役人天国だの批判のみで建設の有無のみを論じるのではなく、役人天国という特別待遇を払拭する手立てを部屋代の民間相場までの値上に持ってきて、そことで生じたカネを復興財源にするなり、有効活用すべきだろう。

 部屋代が15万~20万では入り手がないというなら、宿舎自体の建設は中止すべきだろう。既設宿舎は民間に払い下げて、公務員は出て行って貰うしか、約人天国を排する手立てはない。

 いずれにしても、野田首相は建設再凍結して復興財源とすることの、「街づくり」に優先させる合理的理由の説明責任を果たさなければならないはずだ。


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野田内閣は増税なき復興予算可能を掲げる声が存在する以上、増税の是非をテーマの国会審議を行うべき

2011-10-03 10:09:03 | Weblog

 野田首相は9月30日の記者会見で、東日本大震災の復旧・復興に向けた政府の2011年度第3次補正予算案は総額で12兆円規模のものになると発言。その裏付けとなる財源に関して責任ある対応をしなければならない、歳出削減や税外収入の確保に取り組むものの、足らざる部分は時限的な税制措置を行うことで、「負担を次の世代に先送りをするのではなくて、今を生きる世代全体で連帯して分かち合うことを基本とする」考え方に則りたいと表明した。

 その時限的な税制措置の規模は11.2兆円。今朝のNHKニュースは政府・与党は復興増税は11.2円確保の法案を提出するものの、税金以外の収入を上積みして今後10年間の増税規模は9,2兆円に圧縮することなどで合意したと伝えていたから、11.2兆円のこの金額は今後変化するかもしれないが、現在のところ予算案総額12兆円規模のうち予定している復興増税額が11.2兆円。負担を次の世代に先送りしないぞという強い意志の表れを象徴しているのかもしれない。

 政府は民自公の3党協議を経て、10月開催の臨時国会に提出する方針だが、自民党は政府・与党案をまず閣議決定してから国民の前に明らかにするのが先決で、3党協議はそれからだとする態度を取っている。

 野田政府としては自公と相談し合って纏めた形を取ることで譲歩する姿を国民に隠す狙いがあるのに対して自民党は民主党の譲歩を誘って自らの案を可能な限り盛り込み、自の得点とする狙いからも閣議決定が先だとしている打算も含まれているのだろうが、政権担当の責任主体として先ず自らの予算案を国民に明らかにするのが当然の姿であって、自民党の要求は概ね尤もと言える。

 また、国会の審議を経ないうちの3党協議での決定は国会審議を省く形を取るため、谷垣自民党総裁も言っているように国会審議の形骸化につながる恐れが生じる。

 9月2日、NHK「日曜討論」

 谷垣自民党総裁「話し合いは当然だし、ねじれ国会だから工夫をしなければならないが、国会審議を無視して裏のほうでコソコソと3党だけでまとめるわけにはいかない。大事なのは国会で目に見える形で議論をしていくことだ。対案の用意はあるが、国会に出る前に3党で全部決めてしまっては、国会の議論が形骸化する」(NHK NEWS WEB

 「大事なのは国会で目に見える形で議論」することだと言っている。では、自民党はどのような対案を用意しているのだろうか。「対案の用意はある」とは言っているが、「対案を示しているのだから」とは言っていないのだから、まだ公にしていないことになる。自民党のHPを覗いてみても、記載ページを見つけることができなかった。ただ、新聞記事から窺うことができる。

 石原伸晃自民党幹事長「現役世代だけで復興費用を負担するべきなのか」(『朝日』社説/2011年9月29日)

 社説は解説している。〈再建する道路や港湾、防波堤などからは将来の世代も恩恵を受ける。60年かけて返済する通常の建設国債を発行して将来世代にも負担してもらえばよい、という考え方だ。〉――

 これが自民党の復興増税に関する正式の考え方だとすると、民主党のほぼ全面的現役世代負担に対する自民党の一部(ないし中程度部分?)将来世代負担の対立的構図を取ることになる。

 主張が対立的構図を取る以上、国会という場で徹底的に議論して、その妥当性の理解と判断を国民に仰ぐべきであろう。国会審議を国民の理解と判断に供する機会とし、場とするということである。

 一方、小政党ながら、みんなの党が「増税なき復興予算案」を纏めている。《みんなの党 増税のない予算案》NHK NEWS WEB/2011年10月2日 4時53分)

 その主な内容は――

 総額27兆5000億円規模。

 ▽岩手・宮城・福島の3県に一括交付金として5兆円ずつ交付し、二重ローン対策や生活再建の費用に充て
  る。
 ▽放射性物質を取り除く除染など、原発事故を受けた国の対策費として3兆9000億円を盛り込む。

 財源

 ▽復興国債を日銀が直接引き受けることで10兆円余。
 ▽国債を償還するための「国債整理基金特別会計」への繰り入れを1年間停止することで9兆8000億円確
  保。

 渡辺みんなの党代表「増税しなくても財源はいくらでもある。正々堂々と国会で議論すべきだ」――

 「正々堂々と国会で議論すべきだ」と言っている。

 みんなの党だけではない、金融や財政の専門家である多くの識者がテレビや活字メディアを通して増税なしの復興財源確保可能を主張している。

 果たしてどちらが正しいのだろうか。現在提示されている中で多くの国民にとって理解し得る選択肢は増税対非増税、あるいは増税対一部増税か、このことと対を成す現役世代負担か現役世代+将来世代負担か、みんなの党のように現役世代も将来世代も負担を限りなく小さくするのかといった、財源とその負担の大まかな全体像であって、中身の政策自体に関してはその是非を理解できる国民はそう多くはいないはずだ。

 マスコミの世論調査で示している国民の意思にしても同じ構造を取っているに違いない。

  9月1、2両日の共同通信の全国電話世論調査は、

 「総額12兆円規模の2011年度第3次補正予算案」

 「評価する」――63・2%
 「評価しない」――30・3%

 但し、

 「復興財源を賄うための総額11兆2千億円の臨時増税」

 「反対」――50・5%
 「賛成」――46・2%

 因みに野田内閣支持率

 「支持する」――63・2%(前回調査-8・2ポイント)

 同じく9月1、2両日の毎日新聞社の全国世論調査。

 「復旧・復興財源を賄う増税」

 「賛成」――39%
 「反対」――58%

 因みに野田内閣支持率

 「支持する」――50%(前回調査-6ポイント)
 「支持しない」――22%(前回調査+8ポイント)

 多分、増税政策、あるいは非増税政策を理解できないまま、主として生活感覚からの増税反対優勢であろう。少なくとも野田首相がスローガンとしている「負担を次の世代に先送りをするのではなくて、今を生きる世代全体で連帯して分かち合うことを基本とする」現役世代負担論は美しい言葉には聞こえるが、全体としては反対派が賛成派を上回っている。

 また復興増税反対=現役世代負担反対の優勢が響いた内閣支持率の低下でもあろう。 

 当然のこと野田内閣は復興増税を財源とする復興のための第3次補正予算案に関して国民の理解を得る一層の責任と義務を負っていることになる。自らの増税を財源とした復興のための第3次補正予算案が正しいということ、間違っていないということを国民に知らしめ、納得を得る責任と義務を果す努力の提示である。

 この責任と義務の提示は、勿論、国民に直接見えないところで行われる3党協議の場ではなく、国民に開かれている国会の場であるのは断るまでもない。

 国会議員だけではなくて、賛成・反対、いずれかの立場にある金融や財政の専門家である多くの識者を参考人として招致し、彼らを交えて議論を闘わせることを通して国民の賛意・納得を得るべきだろう。

 だが、野田内閣も民主党も正式な国会審議を経ずに3党協議で増税を決め、第三次補正予算案を纏めようとしている。このことが例え政治主導と言えたとしても(財務省主導に裏打ちされた政治主導の可能性が高いが)、国民に見えない場所での決着である以上、国民主導とは決して言えないはずだ。


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野田内閣の放射能汚染は国・東電が加害者であることを忘れた除染費用負担の迷走

2011-10-02 09:52:09 | Weblog

 野田内閣の迷走は朝霞公務員宿舎の建設凍結→凍結解除・建設再開→再凍結への動きだけではなかった。2009年11月行政刷新会議・事業仕分け朝霞公務員宿舎の建設凍結から2010年12月凍結解除、2011年9月1日105億円建設再開→野党猛反対→9月30日になって野田首相が現地視察、最終的な政治判断を下すとした再凍結示唆の一度で問題解決できない判断のブレを曝している。

 そして野田内閣は「緊急時避難準備区域」解除に伴って実施する放射能汚染の除染費用の負担問題でも迷走を演じている。

 9月28日、内閣府と環境省が福島市内で開いた福島県内の自治体への説明会で年間被爆線量5ミリシーベルト未満の地域については局所的に線量が高い側溝などを除いて財政支援は行わないとする方針を伝えた。

 いわば5ミリシーベルト以上の地域のみ、国がカネを出すと言うわけである。

 この方針を固めたのは1日前の9月27日だそうだ。

 その理由。《除染:被ばく年5ミリシーベルト超で対象に 環境省方針》毎日jp/2011年9月27日 23時34分)

 記事は、〈8月成立の除染や瓦礫処理に対処する特措法は著しい汚染地域を「除染特別地域」と環境相が指定、国が直轄で除染するとしているとしている。〉と書き、5ミリシーベルト以下は除外規定となることを伝えている。

 環境省「5ミリシーベルト以下なら、時間経過による減量や風雨による拡散で、政府目標の追加被ばく量の年間1ミリシーベルト以下になる」

 風は常に「5ミリシーベルト以下」の地域から発生して、「5ミリシーベルト以下」外の地域に向かって吹くと決めてかかっている。雨が降って流れるにしても、年間1ミリシーベルト以下の量に流れるまでの時間経過を待つ間、年間1ミリシーベルト以上の放射能に触れることになる。

 風は5ミリシーベルト以上の地域から「5ミリシーベルト以下」の地域に向かって決して吹かないと保証できるのだろうか。福島第一原発から放出された放射能物質は風に吹かれ、千葉県我孫子市にまで流れ流れて露地栽培のシイタケを国の暫定基準値を超す量の放射性セシウムで汚染しているし、神奈川県足柄地方にも辿り着き、同じく足柄茶を国の暫定基準値を超える汚染をもたらし、埼玉県の狭山茶も汚染、静岡の茶葉も汚染している。

 すべて風が仕業の汚染である。

 大体が福島原発事故は国の原子力安全委員会が1990年に策定した「発電用原子炉施設に関する安全設計審査指針」で、「長期間にわたる全交流動力電源喪失は、送電線の復旧又(また)は非常用交流電源設備の修復が期待できるので考慮する必要はない」と、その備えを必要としない方針としたことが災いして起きたメルトダウンであったり、水素爆発であった。

 また地震学者等が東電に対して貞観地震時発生の大津波クラスの津波が襲う危険性の指摘とその備えの要請に対して東電は正確な規模、正確な周期が不明との理由で想定の対象外とし、聞く耳を持たなかったことが誘発した事故の拡大であり、放射能物質の漏洩でもあった。
 
 いわば国と東電が共々関わった原子炉対策不作為が招いた加害行為だったのである。国と東電は共に加害者の位置にある。そして菅前内閣も国の責任を認めていた。当然、野田内閣も認めているはずである。

 加害者である以上、自らの加害行為によって生じた被害に対しては全面的に責任を負うとしなければならないはずだ。被害が大きいものについては責任を負うが、被害が小さいものについては責任を負わないという分類は許されない。

 当然、国も加害者であるという責任意識を忘れた、年間被爆線量5ミリシーベルト未満の地域については局所的に線量が高い側溝などを除いて財政支援は行わないとする方針ということになる。

 この加害者であることを忘れた国の除染方針に福島県市長会長が猛反発した。当然の動きだろう。。《【放射能漏れ事故】「除染費用支援なし」国方針に市長会抗議 福島、5ミリシーベルト未満地域》MSN産経/2011.9.29 21:34)

 〈福島県市長会長の瀬戸孝則・福島市長が9月29日、国の復興対策本部の吉田泉現地本部長を訪ね、「県民の心情を全く理解していない」と撤回を求める抗議文を手渡した。〉―― 
 
 瀬戸市長(吉田泉現地本部長に対して)「国の支援なくして各市の除染計画は進まない。とてものめるものではない。県内の除染費用は東京電力と国策で原発を推進してきた国が負担すべきだ」

 瀬戸市長(会談後、記者団に)「国と戦いたいという心情だ」

 吉田本部長「方針は除染の優先順位を示したものだと思う。国に伝えたい」

 要するに被曝線量の高い地域の除染を先ず優先させて、段階的に低い地域の除染に向かう方針であって、国の費用負担に変わりはないと言っているが、相手を宥(なだ)めるための事勿れな誤魔化しに過ぎない。

 なぜ市長会はもっと強い態度で、「国は東電と共に放射能事故の加害者であることを忘れないで貰いたい」と抗議しなかったのだろう。

 「被害の大小・多少に関わらず、国は東電共々、被害救済の全面賠償を行うべきだ」と。

 国も加害者であるとする強い意思表示を示さなかったとしても、市長会の抗議が効いたのか、同じ9月29日に1~5ミリシーベルト地域の除染費用の国負担を明らかにしている。

 《放射性物質除染:1~5ミリシーベルトでも国負担》毎日jp/2011年9月29日 22時34分)

 〈東京電力福島第1原発事故による放射性物質の除染について、細野豪志環境・原発事故担当相は29日、国が対象として指定しない場所についても、年間追加被ばく量が1~5ミリシーベルトの場所で自治体が除染を実施した場合は、国が予算を負担する考えを示した。〉

 記事は1~5ミリシーベルト地域の財政支援の方針を決めたのは9月27日で、9月29日に福島県市長会から、この方針撤回の抗議を受けた経緯を伝えた後で、さらに、〈同省(環境省)によると、局所的に線量が高い地域の除染費用は、政府が除染に使用することを決めた、11年度第2次補正予算の予備費から52億円を充てることを決めている。年1~5ミリシーベルトの場所は、11年度第3次補正予算で百数十億円を計上する予定だ。〉と書いている。

 要するに11年度第3次補正予算で年1~5ミリシーベルト地域の除染費用を計上する予定でいたのだから、国全額負担の方針に変わりはない、自治体に負担を肩代わりするようなことはしないということなのだろう。

 だが、これは誤魔化し以外の何ものでもない。これが誤魔化してある以上、細野が言っていることも誤魔化しとなる。
 
 細野環境・原発事故担当相「市町村が適切と思う形でやっていただき、なるべく要望に沿う形で予算を執行していきたい」

 地域の要望に沿う形で予算を執行していきますよ、国が全額負担ですよと言っている。

 局所的に線量が高い地域の除染費用は政府が除染に使用することを決めた11年度第2次補正予算の予備費から52億円を充てるとしている。この52億円を11年度第3次補正予算が国会を通過するまでに全部使い切るわけではあるまい。52億円を局所的に線量が高い地域の除染費用の充当と併行させて年1~5ミリシーベルト地域の除染費用に充ててもいいわけである。

 そして不足見込み額を11年度第3次補正予算に計上すれば、何も問題はないはずである。自治体が少ない予算の中から除染費用を捻出して、あとから国から支給されるという手間も省ける。

 手間の省けるこういった方法を採らずに2次補正予算と3次補正予算に分けたのは一旦は決めた年1~5ミリシーベルト地域の除染費用自治体負担を体裁よく撤回するための誤魔化し以外の何ものでもあるまい。

 国が東電共々加害者であることを忘れた、「被災者に寄り添う」のスローガンをウソとする除染費用負担の迷走としか思えない。


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蓮舫の朝霞公務員宿舎建設再開「私が了としている」の傲慢さと野田首相の凍結解除の説明責任

2011-10-01 11:20:49 | Weblog

 ――朝霞公務員宿舎建設再凍結し、跡地は米軍基地に戻して、普天間飛行場の移設先にすべき―― 

 一旦建設が凍結されたはずの朝霞公務員宿舎建設再開が国会で野党反対の追及を受け、昨30日(2011年9月)になって首相自ら現地を視察して最終判断を下すという運びとなった。

 建設費105億円、13階建て2棟、850室だそうだ。家賃は新築3LDK(75平方メートル)で約4万円、駐車場月額3262円と民間相場の3分の1以下の格安と「週間ポスト」は書いている。

 野党反対の理由は、〈復興のために巨額の財源が必要ななかで、新たな公務員宿舎を建設することは税金のムダ遣い〉(NHK NEWS WEB)となっている。勿論、建設中止を迫っている。

 これまでの経緯を各記事から見てみる。

 自民党政権下の2008年に埼玉県朝霞市の在日アメリカ軍朝霞キャンプ基地跡地に朝霞公務員宿舎は建設決定となった。だが、民主党政権となり、2009年11月に行政刷新会議の事業仕分けでムダ削除の対象となって建設凍結が決定。ところが2010年12月に建設凍結を解除、一転建設再開となり、今月(2011年9月)1日から建設着工の運びとなった。

 建設ゴーの判を押したのは当時の財務大臣野田佳彦、現在の首相である。

 9月26日の衆院予算委員会で、「建設のゴーサインを出したのはあなたですね」と追及されて、野田首相は次のように答弁している。

 野田首相「私を含め、政務三役で決めたのは事実です」

 政務三役とは大臣、副大臣、政務官の3人を言う。そのトップに位置しているのだから、最終責任者は野田財務大臣である。当然、最終決定権者は野田財務大臣だから、「政務三役で決めた」と言うのは責任回避意識を働かせた発言であろう。

 だが、自ら建設凍結解除を行っておきながら、反対の声が高まってきたのを受けてのことなのだろう、昨日(9月30日)になって現地を視察して最終判断を下すという姿勢に転じた。この現地視察は建設再凍結の儀式に過ぎないに違いない。

 建設の凍結解除に当っては行政刷新会議がムダ削除の対象として建設凍結の決定を下した以上、ムダではない、国益に利するとする理由があったはずだ。

 ムダ削除の対象としたということは国益に利することはないと看做したということと同じ意味を取る。

 この国益に利するとする理由は復興のために巨額の財源が必要だとする、同じ国益に利するための理由を以って簡単には排除できないはずだ。復興財源確保は朝霞公務員宿舎建設を再凍結させて浮く建設費を計算外に進められていたはずだし、宿舎建設の国益には公務員の労働意欲、効率的な職務、生産性向上等の期待要素が関与し、将来に亘っての国家運営に深く関係するはずだからだ。

 いわば単に宿舎を提供するだけでは終わらない、公務員の労働意欲、効率的な職務、生産性向上の確保といった国益の観点から建設凍結を解除したということであろう。

 家賃や駐車場料の超格安を補う入居公務員の労働意欲、効率的な職務、生産性向上等が動機づけとならなければならない。

 当然、朝霞公務員宿舎建設と復興財源確保は優劣つけ難く併行させて実現させなければならない国益に相当することになって、建設維持の姿勢を貫かなければならないはずだが、貫かずに現地視察をして最終判断を下すというのだから、建設再凍結へのステップと位置づけた儀式と看做さないわけにはいかない。

 問題は行政刷新会議がムダ削除の対象として建設凍結の決定を下した公務員宿舎建設の一つである朝霞公務員宿舎を野田財務大臣がどのようなムダではない、有益であるとする理由で凍結を解除、建設にゴーサインを出しかである。
 
 ここに興味ある記事がある。《蓮舫氏、批判噴出の公務員宿舎建設認める「私が了としている」》MSN産経/2011.9.30 12:12)

 9月30日午前の記者会見。

 蓮舫「(建設について)行政刷新担当相の私が了としている。説明責任は財務省にあるというのが基本的な考え方だ」
 
 要するに野田財務大臣が建設凍結解除、建設再開にゴーサインを出した決定を行政刷新会議のメンバーの一人として了承した。

 このことを裏返すと、野田財務大臣は蓮舫一人にではないだろう、民主党として一旦は事業仕分けで凍結を決定した手前、行政刷新会議の関係者はもとより、菅内閣の閣僚の了解を取ったことになる。

 だがである、「行政刷新担当相の私が了としている」から、建設再開には正当性がある、「説明責任は財務省にあるというのが基本的な考え方だ」とする態度は傲慢に過ぎないのではないだろうか。

 「私が了と」する以上、「了と」するだけの理由説明を受けていたはずである。当然、財務省から、あるいは当時財務大臣であった野田首相からこれこれの理由で建設を再開したいという説明があり、私なり、閣僚なりが了承したと発言するのが誠実にして懇切丁寧な説明責任となるはずだが、「説明責任は財務省にある」と説明責任を財務省に丸投げしている。

 いわば「了と」した自身の判断理由を述べなければならない説明責任があるにも関わらず、それを無視して説明責任を他に転嫁したばかりか、「私が了としている」からと説明責任抜きの自己判断を絶対とする態度が傲慢だと言うわけである。

 「私が正しいと言っているんだから、正しいんです」と言っているようなものである。

 尤も別の記事では理由を述べている。《舫行政刷新担当相、公務員宿舎建設批判に反論「宿舎集約で財源が生まれている」》FNN/2011/09/27 22:50)

 9月27日朝の記者会見。

 蓮舫「朝霞においても集約することによって、いらなくなった施設あるいは土地を売却して、財務省のあくまで試算ですけれど、10億(円)から20億(円)の余剰が生まれて、それが復興財源に回る。仕分けの結果を受けた集約、まとめをしなければこの財源は生まれていない」

 記事は、〈建設凍結を求めた仕分け結果と宿舎の建設開始は矛盾しないとの認識を示した。〉と書いている。

 だが、昨年12月に建設凍結を解除した時点ではまだ震災は起きていない。「10億(円)から20億(円)の余剰が生まれて、それが復興財源に回る」は後付けの理由説明であって、凍結解除の直接的な理由説明と看做すことはできない。

 大体が建設費105億円が建設を中止して復興財源にまわるとしたなら、「10億(円)から20億(円)の余剰」どころか、110億、120億以上の「余剰」が復興にまわることになる。そこまで考えない意味もないこじつけの発言に過ぎない。

 小賢しいばかりのこの程度の政治家だということを自ら暴露した。

 但し財務省から建設凍結解除の震災とは関係のない理由説明を受けて、蓮舫が「了と」した経緯を辿ったことは理解できる。だとしても、財務省の理由説明を受けて自身が「了と」するに至った自身の判断については後付けでしかない建設費だけ、あるいは財源だけの説明責任で済ませている。

 昨年12月の時点で「了と」した説明責任は無視したままである。

 もし建設費だけ、あるいは財源だけの理由で「了と」したとしたら、事業仕分けの際も国益に資する必要性の有無の問題を抜きに建設費だけ、財源だけの問題で建設を凍結したことになる。

 勿論、そういった選択肢もあるが、もし国益に資する必要性の問題も検討課題として凍結したと言うなら、凍結解除に於いても一旦は必要性を認めなかった国益理由を覆して改めて必要性を認めるに至った国益理由の説明責任を負ったことになるが、その点の説明はないことからすると、建設費だけの問題、財源だけの問題に矮小化した取扱いと見られても仕方がないだろう。

 安住財務相も蓮舫と同じく建設凍結解除の説明責任を果たさない発言を行っている。《公務員宿舎の着工批判に反論=朝霞への集約で復興財源捻出―安住財務相》The Wall Street Journal/
2011年 9月 26日 18:08)

 この記事は[時事通信社]の記事の転載扱い。

 9月26日の衆院予算委員会。

 安住「全国の宿舎の廃止・集約で15%削減する方向だ。朝霞宿舎の着工だけを見て、公務員は贅沢をしてけしからんという見方にはくみしない」
 
 15%削減の対象の一つとなった朝霞公務員宿舎建設凍結であり、その凍結解除の正当性ある説明責任を果たさずに、その説明を「公務員は贅沢をしてけしからん」の感情論にすり替えている。

 記事は同じ9月26日午後の衆院予算委での野田首相の国会答弁を伝えている。

 野田首相「特段変更するつもりはない」

 9月26日午後の時点では凍結解除、建設再開の正当性を主張していた。

 そして4日後の9月30日午後5時からの首相記者会見冒頭発言。

 野田首相「朝霞の公務員住宅についてのご指摘は、私としても真摯に受け止め、近々実際に現場に行って、自分なりの考えをまとめた上で、最終的な判断をすることとしたいというふうに考えております」 

 質疑――

 フジテレビ高田記者「フジテレビの高田ですが、先ほど冒頭の発言でもありました朝霞の公務員住宅について、視察をされるということでしたが、いつ頃どのような姿勢で臨むのかということと、あと確か国会答弁の中で、あれは震災前の判断だったということを言及していましたけれども、それを受けてまた審議の中で新たに感じたことがあって、また見直す可能性があるのか、もう一歩踏み込んだお話をお願いします」

  野田首相「判断をしたのは確か昨年の暮れだったと思います。その時は全体として公務員宿舎を15%減らすなどして、様々な財政的な貢献をしていこうという全体像の中で、朝霞については、これは行政刷新会議の事業仕分けで一応凍結をするという中で、政務三役が議論を進めて欲しいというそういう見直しだったと思います。

 それを踏まえて昨年12月決めました。その後に大きな震災があったわけで、そのことを踏まえて、被災者の感情とか国民感情を踏まえてこの国会で様々なご提起、ご示唆もいただきましたので、まずは9月1日から着工に向けての動きが始まったと思いますが、その進捗状況なんかを現場に見に行きながら最終的な政治判断を私がくだしたいというふうに思っております」――

 政務三役共同の主導だったとしても、自身が政務三役の一員としてトップに位置しているのだから、既に触れたように最終的決定権者は野田財務大臣自身であって、最終責任者も野田財務大臣であることに変わりはないにも関わらず、政務三役を第三者に位置づけて自身を関係ない場所に置いた表現で、「凍結見直しを進めて欲しいというそういう見直しだったと思います」と言い、その結果として昨年12月に決めたことだとしている責任回避意識は一国の首相が発揮してもいい態度ではないはずだ。

 このことも問題だが、もう一つの問題は最終的に「昨年12月に決めた」凍結解除の理由が首相の発言を以てしても不明であり、説明責任を果たしていないということである。

 もし2009年11月の行政刷新会議事業仕分けで労働意欲や生産性向上の動機づけといった国益からの観点は無視して、財源捻出の観点からのみムダだと判定して凍結としたなら、いわば贅沢だと看做す判断からの凍結だったとしたら、その凍結解除は国益とまでいかなくても、ムダや贅沢を上回る有益性の理由づけがなければならないことになるが、そういった理由からの凍結解除だったとすると、今度は野田首相が「その後に大きな震災があったわけで、そのことを踏まえて、被災者の感情とか国民感情を踏まえてこの国会で様々なご提起、ご示唆もいただきました」と言っている贅沢批判は説得して撤回させるべき批判となるが、受入れる姿勢は整合性不一致をきたす。

 ムダではない、贅沢でもない、それを上回る有益性を認めたから凍結解除したのだから、ムダ批判、贅沢批判は当りませんと反論して初めて整合性を得るということである。

 このように見てくると、安住財務相の「朝霞宿舎の着工だけを見て、公務員は贅沢をしてけしからんという見方にはくみしない」の発言はムダ・贅沢を上回る有益性があるとしたことからの凍結解除の示唆に見えてくる。

 野田首相は事業仕分けで一旦建設を凍結した朝霞公務員宿舎を財務大臣当時に建設再開としたのはムダや贅沢を上回る有益性があってのことだと国民に対する説明責任を、特に首相となった現在、「正心誠意」果すべき立場にあるはずだ。

 蓮舫が言っている「10億(円)から20億(円)の余剰が生まれて、それが復興財源に回る」は意味もないこじつけに過ぎないとした。単に財務省からムダや贅沢といった理由抜きに説得されて建設凍結解除を行ったであってはならない。

 最後に朝霞公務員宿舎建設用地を元の米軍基地に戻して、沖縄普天間基地の移設先に転用することを提案する。日本の安全保障上、首都防衛は最大の国益であるはずであり、首都地域がそれ相応に担うべき米軍基地負担であるはずだからだ。


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