女性議員に対する「結婚した方がいいんじゃないか」、「産めないのか」のヤジに見る都議会先生方の民度

2014-06-20 03:51:09 | Weblog

  


      生活の党PR

       《村上史好生活の党国対委員長代理、死因究明等推進基本法案衆議院与野党共同提出』》

       《6月13日(金)鈴木克昌代表代行・幹事長定例記者会見要旨》

      【質疑要旨】
      ・国民投票法改正案成立を受けて
      ・集団的自衛権について

 6月18日の東京都議会の一般質問でみんなの党の塩村文夏(あやか)女性議員(35)の質問中、男性議員から女性蔑視のヤジが飛んだと多くのマスコミが伝えている。ヤジが飛んだ時の質問テーマは妊娠や出産等に関する子育て支援策について都の取り組み。

 先ずはあのお固いNHKの記事から。尤も最近はかなり軟派化している。と言っても、人それぞれに好みがあるから、一概には拒絶はできない。

 《都議会で女性議員にセクハラやじ》NHK NEWS WEB/2014年6月19日 18時05分)

 「自分が早く結婚したほうがいいんじゃないか」

 「産めないのか」――

 記事解説。〈塩村議員は18日夜、ツイッターで「政策に対してのやじは受けるが、悩んでいる女性に言っていいことではない」などと反発し、「リツイー ト」と呼ばれる引用が19日正午までに1万件を超えるなど波紋が広がっています。〉――

 6月19日午後、報道各社の取材に応じる。

 塩村文夏議員ヤジに同調する議員が複数いたことが残念だ。人格を否定するようなヤジや政策と全く関係のないヤジはするべきではなく、誹謗中傷になる。質問に立つ議員を尊重してほしい」(下線箇所は解説文を会話体に直す。)

 ヤジは自民党の議席方向から発せられたとしている。

 吉原修都 議会自民党幹事長「どういう状況だったのかよく分からないが、誰が言ったのか特定することは難しい。それぞれの会派が品格のない発言は慎むようにすべきだ」――

 「誰が言ったのか特定することは難しい」と言っているが、自民党議員全員に対して、「誰が言ったのか、正直に手を上げて貰いたい」と聞くべきだろう。誰も手を上げなかったなら、「自民党議員は不正直だ」と、複数のヤジった自民党議員以外も不正直の汚名をなすりつけられることになるし、ヤジった張本人たちは誰がヤジったかは自分が一番良く知っていることだから、少なくとも不正直を働いた屈辱を自覚しなければならないことになる。

 要するに特定した場合、自民党議員に対する評判に影響するから、早々に特定不可能のゴマカシを持ち出したといったところなのだろう。

 「ヤジに同調する議員が複数いた」と言うことは、最初のヤジの尻馬に乗って似たような女性蔑視のヤジを飛ばしたと言うことなのか、ヤジを面白がって笑うことで、ヤジが意味するところに同調したということなのか、記事だけからでは分からない。

 塩村議員が6月18日夜のツイッターが具体的にどう書いてあるのか覗いてみた。

 〈6月18日

 都議会での初の一般質問。妊娠、出産に関わる不妊など女性の悩みについて質問中に「お前が結婚しろ!」「産めないのか?」など、大変に女性として残念なヤジが飛びました。心ない野次の連続に涙目に。政策に対してのヤジは受けますが、悩んでる女性に対して言っていいとは思えないです。〉――

 これでは、「ヤジに同調する議員が複数いた」と言うことがどういうことなのか、実際のところが見えてこない。

 ネットで色々と記事を探っていると、次の記事が同調の笑いが起きたことを伝えていた。《「セクハラヤジ」飛ばした都議はだれ? 塩村文夏議員 「『結婚しろ』と言った議員ほぼ分かる」》J-CASTニュース/2014/6/19 20:1)  

 〈ヤジが飛んだのは、塩村議員が用意した原稿を読んでいたときだ。「厚生委員会でこの件についての充実をお願いしてきました」と読み終える前から、男性議員からとみられるヤジが飛び、塩村議員は驚いた様子で顔を上げた。「はー」と言いながらも下を向いて少し笑い、議場からも「ワハハ…」と笑い声が起きていた。

その後、塩村議員は、悔しいと思ったのか表情が強張るようになり、目に涙も浮かべ 。議席に戻った後も、涙をぬぐう仕草をみせていた。

報道によると、「あいつ不倫してるんだぜ」といったヤジもあったという。確かに、一部週刊誌が4月に塩村議員の不倫疑惑を報じているが、塩村議員は、ツイッターなどで「事実無根」だと強く否定している。

ヤジについては、自民党会派の方向から出ており、複数の男性議員からだったと報じられている。塩村議員は、公の場でセクハラ発言を受けたと反発し、都議会みんなの党の両角穣幹事長が、自民党に抗議する事態になった。〉――

 塩村女史が事実不倫していたとしても、都議会でヤジってもいい事柄ではない。

 記事はみんなの党都議会幹事長の発言を伝えている。

 両角みんなの党幹事長「古い人が言っているみたいで、考え方がズレていると思います。それを言ってしまえば、終わりなのではないでしょうか」――

 いや、終わりとするわけにはいかない。古い人間に投票した多くの都民が背後から支えている支持の構図は支持の対象が変わっても延々と続くだろう。

 塩村議員はヤジを受けて、驚いた様子で 顔を上げ、「はー」と言いながらも下を向いて少し笑ったのは、それが悪口であっても、相手の意を迎えてついつい笑みを浮かべてしまう日本人の同調性から出た態度であろう。

 だが、ヤジに同調して「ワハハ…」と笑いが起きたのは、同じ同調でも、ヤジで表した女性蔑視のゲスな偏見に同調したということであって、相手の意を迎える同調とは明らかに異なる。いわばゲスな偏見の持ち主はヤジった数人だけではなく、同調して笑った人数分、存在することになる。

 日本の首都、国際都市東京の議会でありながら、政治的創造性や職務の熱心さといった公平な対抗条件を持ち出して競うべきを、結婚していないとか子どもを産んが経験がないとかを対抗条件として、その条件をクリアしている自身を上の価値の人間と見做し、クリアしていない相手を下の価値の人間と看做して貶める(= 劣った者として軽蔑する)ことは公平性の感覚を持たない、あるいは人権意識を欠いたゲスな人間でなければできない。

 
 サッカーW杯ブラジル大会6月15日の日本対コートジボ ワール戦で試合後日本チーム・サポーターがゴミ拾いしたことが評判になって、「民度の高い国は尊敬に値する」という賛辞を受けた。実際にはゴミを捨てない国民となって初めて民度の高い国と言うことができるのだが、都議会の先生方の民度という点から考えると、彼らの中に少なくない数の女性蔑視のゲスな偏見の持ち主が存在するという事実は決して民度は高いとは言うことができなくなる。

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石原環境相「カネ目」発言と対野党の動きは安倍内閣の「被災者の心に寄り添う」を基準に判断されるべき

2014-06-19 07:11:30 | Weblog




      生活の党PR

      《6月16日(火)村上国対委員長代理、死因究明等推進基本法案衆議院与野党5党共提出 》

      《6月13日(金) 鈴木克昌代表代行・幹事長 定例記者会見要旨 》

      『改正国民投票法成立、解釈でなく改正を主張すべき』

      【質疑要旨】
      ・国民投票法改正案成立を受けて
      ・集団的自衛権について

 2012年12月26日、第2次安倍内閣が発足した。発足に当って、同日、安倍内閣の基本方針を閣議決定している。

 基本方針(首相官邸HP) 

 〈政権交代が実現した。本日、「新しい日本」に向けた国づくりをスタートするに当たり、まずは、今回の選挙で示された、日本の現状に対する国民の強い危機感を共有し、内閣全体が緊張感を持って政権運営に当たることが必要である。

 まず何よりも、「閣僚全員が復興大臣である」との意識を共有し、東日本大震災からの復興を加速する。国自身が被災地の現場に出て、単なる「最低限の生活再建」にとどまることなく、創造と可能性の地としての「新しい東北」をつくりあげる。

 特に、福島の再生を、国が前面に立ち、国の責任において実現する。東京電力福島第一原子力発電所事故による被災者の心に寄り添い、福島原発事故再生総括担当大臣を中心に各閣僚が連携して、福島の再生に全力を挙げる。〉云々――

 安倍内閣は特に福島の「被災者の心に寄り添う」を内閣としての心の誓いとした。まさか口先だけのキャッチフレーズとしたわけではあるまい。

 口先だけのキャッチフレーズを基本方針の冒頭に持っていったとすると、滑稽な倒錯となる。

 要するに被災者の心に寄り添った福島の再生に全力を挙げることを安倍内閣の最大使命とした。

 だからこそ、安倍晋三は折に触れて「福島の再生なくして日本の再生なし」と自身の口に言わしめることとなった。

 「被災者の心に寄り添う」を安倍内閣の最大使命とした以上、首相以下、如何なる閣僚も違うことは許されない。

 環境省が放射性廃棄物の中間貯蔵施設建設を巡って建設候補地の福島県双葉町と大熊町の住民等を対象に説明会を継続的に開き、直近では6月15日に開催した。それまでに土地や建物の買い取りに伴う補償額が具体的に示されないことに対して住民の間から不満が出ていたという。

 《石原伸晃環境相「最後は金目でしょ」 中間貯蔵施設の建設めぐり》朝日新聞デジタル/2014年06月17日 07時33分)

 翌6月16日午後、石原環境相は首相官邸で菅官房長官に今後の事業日程などを報告し、その後記者の問いかけに答えた。

 石原環境相「説明会が終わったから今後の日程について(長官に)話をした。最後はカネ目でしょ。(長官は)こちらが提示した(住民への補償の)金額については特に何も言っていなかった」
 
 記事解説。〈中間貯蔵施設建設では、地元への交付金額や地権者に対する補償額が焦点になっている。石原氏の発言は、政府が地元との交渉をカネで解決する意図だと取られかねない。〉

 「カネ目」発言が問題となったからだろう、同6月16日夕方、急遽記者団を集めたと記事は書いている。

 石原環境相「住民説明会ではお金(補償)の話が多く出た。最後はお金の話だが、それは今は(金額を)お示しすることができないという意味で話した。お金で解決するとは一度も言ったことはないし、解決できる話ではない」――

 両方の発言をつなぎ合わせると、6月15日の住民説明会では金額提示を行わなかったが、翌6月16日午後の菅官房長官に対する報告の中では金額を提示したということになる。提示に対して長官は「特に何も言っていなかった」。

 被災者にしても生活がかかっている。中間貯蔵施設建設以降、周辺の土地の価値が下がらない保証はない。建設地内にしか土地を持っていなければ、国に売ってお仕舞いとすることができるが、建設地外にも土地を持っている場合、予想される値下がりに対して相殺したい気持も働くはずだ。一概に地域エゴとばかりに片付けるわけにはいかない。

 大体が原発事故で散々に迷惑かけておいて、中間貯蔵施設を福島県内に建設する方がおかしい。東京都が福島第1原発発電電力の最大消費地と言うことなら、東京都内に中間貯蔵施設から最終処分施設までを建設すべきだろう。

 それを東京都内に持っていかない理由が2020年に東京オリンピックを開催する都合上の政治エゴだとしたら、より問題となる。

 福島県外に持っていく配慮も、住民それぞれが生活がかかっていることの配慮もせずに、「最後はお金の話だが」と、決め手は金額にあるといった意味を持たせて金額提示を後回しにする。しかも6月15日の住民説明会では金額提示をしなかったにも関わらず、翌6月16日午後には官房長官に金額を提示した。

 果たして「被災者の心に寄り添う」石原官房長官の態度であり、発言であったかである。

 新聞記事で知って、環境省のサイトで調べたことだが、石原環境省は発言を撤回しなかった。環境省第1会議室での6月17日午前の記者会見。

 森日本テレビ記者「日本テレビの森です。『最後はカネ目でしょ』という言い方そのものに不快感を示される方も当然いると思うのですが、これに関して改めてお尋ねしますが、撤回する意思は無いということでしょうか」

 石原環境相「撤回するとかそういう話ではなくて、どういう言い方で、何を聞かれたから言ったかということも正確には覚えていませんが、そういう不快な思いをされた方々に対しては心からお詫びを申し上げたいということです」――

 不快な思いをした方には謝るが、「撤回するとかそういう話ではない」と、撤回する程ではないとする文脈で自身の発言を正当化している。

 この正当化自体も、「被災者の心に寄り添う」安倍内閣としての心の誓いに添う発言と見ることができるかどうかである。

 野党が石原環境相の「カネ目」発言を問題視して、石原環境相に対する不信任決議案を衆議院に、問責決議案を参議院に提出する動きを見せた。

 この動きに対して自民・公明両党の幹事長と国会対策委員長が6月18日の午前、東京都内で会談。「本人は既に釈明し、反省している」として両決議案を一致して否決する方針を確認したと、「NHK NEWS WEB」が伝えている。

 安倍内閣は安倍晋三自身が音頭を取って、「被災者の心に寄り添う」を内閣としての心の誓いとした。被災者の心に寄り添った福島の再生に全力を挙げることを安倍内閣の最大使命とした。

 自公は石原環境相の「カネ目」発言を「被災者の心に寄り添う」安倍内閣としての心の誓いに反しない発言と認めたことになる。

 そのように認めたこと自体が「被災者の心に寄り添う」心の誓いに反しない決定とすることができるかどうかである。

 もし反していたなら、石原発言と野党が提出した場合の不信任・問責両決議案与党否決は安倍晋三の 「被災者の心に寄り添う」心の誓いをウソにすることになる。

 国民自身がどう判断するかである。

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W杯日本チーム・サポーターのゴミ拾い絶賛評価はゴミを捨てないことで受けて初めて正当性を得る

2014-06-18 07:54:58 | Weblog

 


      生活の党PR

       衆議院・参議院各法案共同提案の案内

       《社会保険労務士法改正案・衆議院提出》
   
      【共同提案】生活の党、自民党、公明党、日本維新の会、みんなの党、結いの党

      《インターネット役務適正課税法案・参議院提出 》

      【共同提案】民主党・日本維新の会・結いの党・みんなの党・生活の党    

      《犯罪被害者給付金支給法改正案 ・参議院提出 》

      【共同提案】みんなの党・民主党・日本維新の会・結いの党・共産党・社民党・新党改革・生活の党

      《国民監査請求法案 ・参議院提出 》

      【共同提案】 みんなの党・民主党・日本維新の会・結いの党・社民党・新党改革・生活の党    

      《歳入庁設置法案 ・参議院提出 》

      【共同提案】みんなの党・民主党・生活の党

 反発を受けることを覚悟して、ひねくれた国賊日本人として敢えてケチをつけようと思う。

 今回のサッ カーW杯ブラジル大会6月15日の日本対コートジボ ワール戦、日本は1対2の逆転負けを喫したが、試合後、日本チームのサポーターたち数百人がゴミ拾いを行い、その場面をその場に居合わせたブラジル人が撮影し、動画投稿サイト・ユーチューブに投稿、世界中でたちまち評判になったと各マスコミが伝えている。

 ゴミ袋は日本チームのユニフォームと同じ揃いの青色。試合中、それを膨らませる形にして左右に振るなりして応援していたから、試合後のゴミ拾いを前以て予定していたのだろう。

 世界のマスコミが伝えた絶賛の数々。

 「試合には負けたが、礼儀正しさで高得点を挙げた」

 「日本は初戦を失ったが礼儀正しさの面では、多くのポイントを獲得した。日本人サポーターの行為はインターネット上で大いに称賛されている」

 「日本のサポーターは、試合後の礼儀正しさを示した」

 「市民の模範」

 「日本のサポーターは雨のなか、ゴミ拾いをして気品を示した」

 「尊敬に値する素晴らしいマナーだ」

 「敗北したが、日本の応援団のカリスマ性はブラジル人の心を掴んだ」

 「民度の高い国は尊敬に値する」等々――

 彼らは日本チーム・サポーターが陣取った観客席だけではなく、他の観客席のゴミまで拾ったのだろうか。とても拾うことのできる広さではない。それぞれの記事を纏めてみると、ゴール裏に数百人の日本チーム・サポーターが陣取って、彼らが率先してゴミ拾いを開始したといったニュアンスで伝えているから、記事付きの写真には外国人観客も少しは混じっていたものの、自分たちが陣取った観客席のゴミを拾ったのだろう。

 いわばその殆どが日本人観客、あるいはサポーターが捨てたゴミを日本人チーム・サポーターが拾ったということになる。しかもゴミが捨てられることを予定してゴミ袋を前以て用意しておいて、予定していたとおりに日本人観客、あるいはサポーターが棄てたゴミを試合後のゴール裏の観客席の床から拾い集めた。

 以上の経緯からすると、捨てるのと拾うのを同じ日本人が演じたわけではないはずだが、同じ日本人がそれぞれを演じたことと捨てるのを予定していたゴミ拾いである点から、何となく日本人同士が行った自作自演の変形といった臭いがしないでもない。

 少なくとも日本人がその殆どを捨てたゴミを日本人が拾うというゴミの循環、あるいは日本人同士のその一連性は一種滑稽ですらある。

 ゴミ拾いのマナーで世界から絶賛を受けた日本チーム・サポーターは日常生活の中で公園に遊びに行くときも、他人がゴミを捨てることを予定してゴミ袋を前以て用意しておいて、他人が捨てたゴミを拾ってから帰るのだろうか。

 あるいは誰が見ていない場所でも棄てられているゴミに気づいたなら、拾うのだろうか。

 もしそれがサッカースタジアムに限定したゴミ拾いなら、自分たちをよく見せて評価を得ようとする意識が働いていない保証はない。

 ゴミの処理に関して確かに日本は民度の高い国である。家庭内で出たゴミは決められた手続きに従って処理する。但しその民度はそこまでである。外出時に出たゴミはその時々に応じて自身で処理の手続きを決めていかなければならないはずだが、多くがポイ捨てで処理する手続きを選択する。

 富士登山道周辺の集団で行うゴミ拾いは毎年の恒例行事のように行われていて、2トンダンプ何台と出る。捨てる日本人と拾う日本人、同じ日本人が捨てる処理と拾う処理を循環させている。
 
 ゴミを捨てる日本人が極々少数となって、初めてゴミ処理に関して民度の高い国と言うことができるはずだ。

 もし日本人サポーター、あるいは日本人観客に対する礼儀正しいとか、尊敬に値する素晴らしいマ ナーの持ち主だ、気品があるといった評価に正当性を与えるとしたら、日本人が陣取った観客席はゴミを拾う必要がないと試合後のゴミ処理の担当者に言わしめることであるはずだ。

 一番の肝心なことはゴミを拾うことではなく、棄てないことであることを忘れてはならない。

 2013年12月22日放送の「たかじんのそこまで言って委員会」でも、2012年7月~8月のロンドン・オリンピックで行われたサッカーの日本と韓国との3位決定戦で、日本が負けた試合後の観客席を日本人サポーターがゴミ拾いを行ったことを取り上げて、津川雅彦や竹田恒泰などのパネラーがそのマナーを絶賛していた。

 番組のテーマは「日本人の礼儀正しさ」であり、そのテーマに添って取り上げたゴミ拾いであった。パネラーたちはさも日本人全体の資質としてある美徳であるかのように絶賛した。津川雅彦などは日本人の礼儀正しさは「縄文から1万5千年の歴史を持つ」と、それが絶対的なものであるかのようにまで言い切った。

 だが、そのコーナーの最後の方になって、滑稽なことに番組のテーマをすっかり忘却、そこからそれて最近の若者のマナーを悪さを言い出し、それが中高年のマナーの悪さに対する批判にまで発展していった。

 最初は日本人の礼儀正しさを日本人全体の資質であるかのように主張し、最後に自らの主張を自ら否定する矛盾を犯しながら、犯した矛盾に誰も気づかない滑稽を曝した。

 このことは2013年12月23日当ブログ記事――《12月22日「たかじんのそこまで言って委員会」の日本人の礼儀正しさは日本人固有の全体的資質なのか - 『ニッポン情報解読』by手代木恕之》に書いた。

コメント (1)
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安倍晋三のアイヌと日本「民族共生の象徴となる空間」建設とアイヌ民族の権利回復に対する二重のゴマカシ

2014-06-17 09:17:10 | Weblog



 安倍政権は6月13日午前の閣議で、アイヌ民族の文化を伝承するため北海道白老町に整備する施設「民族共生の象徴となる空間」(仮称)の運営に関する基本方針を決定したと、次の記事――《アイヌ施設運営方針を決定=17年ぶり「大きな成果」-政府》時事ドットコム/2014/06/13-11:41)が伝えていた。

 「民族共生の象徴となる空間」とは何を目的とした施設なのだろうか。「民族共生」と謳っていたとしても、「民族共生」を目的としているとは限らない。但し、目的としているとは思っていることは間違いない。

 記事題名の「17年ぶり」というのは1997年成立のアイヌ文化振興法以来という意味の「17年ぶり」であって、菅官房長官は閣議後の会見で「大きな成果だ」と述べたと伝えている。

 しかもこの「象徴空間」、2020年の東京五輪・パラリンピックに合わせて一般公開する施設だというから、些か矛盾を感じざるを得ない。

 菅官房長官「アイヌの伝統や文化、その伝承や人材育成における厳しい状況を抜本的に打開したい。

 (アイヌの権利回復に向けた法整備について)憲法14条の平等原則の観点から慎重に検討する必要がある」――

 記事解説。〈生活格差対策が既に講じられており、アイヌに特権を与えることにつながりかねないとの懸念が念頭にあるとみられる。〉――

 菅官房長官は「アイヌの伝統や文化、その伝承や人材育成」に関して「厳しい状況」にあると言っている。

 要するに日本社会はアイヌ民族やアイヌ文化を受け入れる土壌を持たないということなのだろう。伝承はアイヌ民族の使命で、アイヌ民族によって行われるものだとしても、日本社会がアイヌなるものを受け入れる土壌を持たなければ、生き活動するアイヌ民族の生存自体が社会的な抑制を受けて、表立った活動にしても、伝承の人材育成にしても収縮していく方向に向かわざるを得なくなって、先細っていくことになる。

 と言うことなら、日本社会がアイヌなるものを受け入れる土壌改良が肝心なこととなる。いわばアイヌなるものに対する日本人の意識が一番の問題点ということを示している。

 では、2020年の東京五輪・パラリンピックに合わせて一般公開予定の「民族共生の象徴となる空間」が果たしてアイヌなるものに対する日本人の意識を変えるに役立つ施設なのだろうか。役立って始めて、ハコモノであることから脱することができる。役立たなければ、ハコモノに過ぎないことになる。

 記事は施設の具体的な姿を紹介している。アイヌに関する資料を展示・研究する「アイヌ文化博物館」と、伝統的家屋などを再現する「民族共生公園」(いずれも仮称)を中核施設とし、全国の大学に保管されているアイヌの遺骨も「象徴空間」に集め、慰霊施設を設ける。

 そこににアイヌ人だけではなく、日本人も訪れて、アイヌなるものに理解を深めるという段取りを予定しているのだろう。

 だが、民族共生は日本の社会の場でこそ試さなければならない実験と成果であって、いくらカネをかけた立派な造りであっても、施設の展示物を通した理解で試すべき実験と成果ではないはずだ。

 なぜなら、施設を建設して解決した他民族に対する差別や敵意、蔑視が存在した試しはないはずだからだ。

 それを社会の場で試すのではなく、施設づくりから始めようとしているのだから、ハコモノ発想からの民族共生と疑わざるを得ない。

 時には法整備が社会的な強制力を持つことになって、民族共生とまではいかなくても、あるいは差別や敵意、蔑視の解消とまではいかなくても、差別や敵意、蔑視を抑えることはできる。

 だが、安倍政権はアイヌの権利回復に向けた法整備は、「憲法14条の平等原則の観点から慎重に検討する必要がある」と慎重姿勢であることを示した。

 日本国憲法14条は次のように規定している。

 〈(1)すべての国民は、法の下に平等であって、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない。〉――

 日本の社会は憲法の規定通りの姿を見せているわけではない。当然、憲法以外の法的措置が必要な場合もある。

 なぜ慎重姿勢なのだろう。

 以下、既にご存知な経緯を書くことになるが、2007年9月、国連に於いて「先住民族の権利に関する国際連合宣言」が日本も賛成国の一つとなって採択された。

 翌2008年6月6日、衆参両院本会議に於いて「アイヌ民族を先住民族とすることを求める決議」が全会一致で可決された。

 この決議を受けて、同日、当時の福田内閣の町村信孝官房長官が〈「アイヌ民族を先住民族とすることを求める決議」に関する町村信孝内閣官房長官談話〉を発表した。

 どちらもアイヌ民族を先住民と認めて、対差別を解消、アイヌ民族の名誉と尊厳を重んじて共生していくことを謳っている。

 全ては「先住民族の権利に関する国際連合宣言」を受けた措置であり、そして「民族共生の象徴となる空間」施設の建設へとつながっていった。

 但し施設づくりには積極的だが、アイヌの権利回復に向けた新たな法整備には慎重であった。

 「アイヌ民族を先住民族とすることを求める決議」にしても、町村長官談話にしても、「先住民族の権利に関する国際連合宣言」を受けた動きである以上、新たな法整備にしても、国連宣言を反映しなければならなくなる。

 一番に問題となるのは国連宣言の次の個所であるはずだ。
 
 〈第28条

 1. 先住民族は、彼/女らが伝統的に所有し、または占有もしくは使用してきた土地、領域および資源について、彼/女らの自由で事前の情報に基づいた合意なくして没収、収奪、占有、使用され、または損害を与えられたものに対して、原状回復を含む手段により、またはそれが可能でなければ正当、公正かつ衡平な補償の手段により救済を受ける権利を有する。

 2. 関係する民族による自由な別段の合意がなければ、補償は、質、規模および法的地位において同等の土地、領域および資源の形態、または金銭的な賠償、もしくはその他の適切な救済の形をとらねばならない。〉――

 アイヌ民族は、インターネットで調べたところ、17世紀から19世紀にかけて東北地方北部から北海道(蝦夷ヶ島)、サハリン(樺太)、そして国後、択捉島が属する千島列島に及ぶ宏大な範囲に先住した。

 日本がアイヌ民族に対して関係する土地は東北地方北部から北海道(蝦夷ヶ島)、戦前に関係したサハリン(樺太)、さらに国後、択捉島が属する千島列島となり、日本民族は歴史的にアイヌ民族の膨大な土地、膨大な資源を収奪したことになって、その原状回復、あるいは原状回復に代わる公平な金銭的賠償は天文学的とならざるを得ない。

 ここに安倍政権がアイヌの権利回復に向けた法整備に慎重な姿勢の原因があるはずだ。日本人のアイヌ民族に対する差別等は社会の場で正すべき日本人自身の意識の問題であるにも関わらず、「民族共生の象徴となる空間」施設の建設に替えるのは、そこにゴマカシを見ないわけにはいかないが、アイヌの権利回復に向けた法整備に憲法14条を持ち出して慎重な姿勢を示した点についても、アイヌ民族の権利の原状回復、もしくは金銭的賠償を回避するためのゴマカシを見ない訳にはいかない。

 そこには二重のゴマカシがあるのではないかということである。

 参考までに。

 2013年9月13日記事。《安倍政権のハコモノ建設を日本人とアイヌ民族共生の証明とするマヤカシ - 『ニッポン情報解読』by手代木恕之》

 2009年9月20日記事。《北方四島返還の新しいアプ ローチ/先住アイヌ民族と現住ロシア人との共同独立国家とする案 - 『ニッポン情報解読』by手代木恕之》

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安倍内閣の高度人材特別待遇「改正入管難民法」に見る職業・社会的地位の多様性の軽視と差別主義

2014-06-16 08:15:55 | Weblog



 改正入管難民法が6月11日の参院本会議で 賛成多数で可決、成立した。

 外国人が永住許可を得るのに必要な在留期間は現行制度は原則10年、技術研究や製品開発、企業経営に優れた「高度人材」と認定されると、概ね5年に短縮されている。この期間をさらに2年縮めて3年とする改正である。

 高度人材に対する優遇制度として、民主党政権野田内閣時代の2012年年5月7日から「高度人材に対するポイント制による出入国管理上の優遇制度」が導入された。安倍政権となって、その一段の差別化である。

 2020年代には現在の10倍程度の1万人を目指す方針だそうだ。

 「高度人材」の反対語は「低度人材」となる。安倍政権は自分たちでは気づかないだろうが、一定の人材を高度人材として優遇することによって、一方に低度人材を配置していることになる差別化を行っているのである。

 人材を高度と低土で優劣をつけるだけではなく、いくら日本の経済成長や国際競争力を高めるためとは言え、職業や社会的地位で永住に関わる待遇に人材の格差をつけることは職業・社会的地位に応じて人間の価値を上下で計る差別に当たるはずだ。

 実は民主党政権下で外国人受入れポイント制度が持ち上がったとき、2011年12月29日当ブログ記事――《政府「高度人材」外国人受入れポイント制度は職業差別及び憲法違反に当たらないだろうか - 『ニッポン情報解読』by手代木恕之》で、日本国憲法が「居住・移転及び職業選択の自由、外国移住及び国籍離脱の自由」を謳っていながら、「高度人材」外国人受入れポイント制度は日本への居住、移転に関して、職業で選択しようとする憲法違反に当たるのではないのかと書いた。  

 今度は人間の価値を職業や社会的地位に優劣をつけて人間の価値を判断する差別であることに変わりはないが、多様な職業や社会的地位によって成り立っている社会に於ける多様性を軽視する挑戦ではないのかといった視点で書いてみたいと思う。

 アメリカの永住権(通称グリーンカード)獲得にしてもノーベル賞受賞者、国際的なスポーツ選手等の人材が卓越技能労働者として優遇を受けるが、抽選によって永住権を獲得できる「移民多様化ビザ抽選プログラム」(抽選によるグリーンカード=Diversity Immigrant Visa Program/DVプログラム)を設けてバランスを取っている。

 アメリカ大使館の「移民ビザの種類 」に関するWebページには次のような記載がある。

 〈移民多様化ビザプログラム

 移民多様化ビザ抽選プログラムは米国議会により発動され、国務省が年間ベースで管理するプログラムで、これにより抽選による移民(DV移民)として知られる新たなカテゴリーが作られています。米国への移民の率が低かった国々の人々を対象に年間で5万件の永住ビザが発行されます。

 毎年行われるこのDVプログラムにより、簡素かつ厳格な資格要件を満たした人々に永住ビザが発行されます。DVビザの当選者は、コンピューターによるランダムな抽選により選出されますが、ビザは、6つの地域で移民の率の低い順位に多くの数が配分されます。過去5年間に5万人以上の移民を送った国には与えられません。各地域内に年間配分された多様化ビザの7%以上が1つの国に集中することはありません。〉――

 要するに優秀な人材を受け入れる一方で、コンピューターを使った抽選で不特定多数の人材も受け入れて、世界の様々な地域、様々な国から人種や国籍に関係なく、さらには職業や社会的地位にも関係なく受け入れるべく、「年間で5万件の永住ビザ」を発行して、人材の多様性をも重視しながら、その優劣の相対化を図っている。

 いわば日本が外国からの高度人材を優遇することによって、一方に低度人材を配置することになっていることと違って、アメリカは移民多様化ビザプログラム制度を設けて、その制度を利用して人材の多様化を図ることで高度人材と低度人材の優劣・差別を排しているということである。

 日本政府の低度人材の象徴的対象は難民であろう。難民認定数に低度人材意識が現れていると言うことである。難民に対する低度人材視はまた、多様性の軽視の現れとも言うことができる。

 アメリカと日本の2008年の難民認定数をUNHCR(国際連合難民高等弁務官事務所)のページから見てみる。

 アメリカ  判定数45149人 認定数16742人 補完的保護0   却下28407人 認定率37%

 日本    判定数1515人  認定数57人   補完的保護360人  却下1095人  認定率3.8%

 「補完的保護」とは、〈難民認定できないが、人道的に配慮して在留を認めるもの。「在留特別許可」〉との説明がついている。

 認定率は当方で計算した。

 アメリカの認定率37%に対して日本の認定率3.8%。「補完的保護」を入れても、27%。アメリカと10%も違う。

 日本政府が難民認定数の少ない理由を申請数が少ないためだとしているが、申請数が少ないのは認定数が少ない認定難関国ということを知っているからだろう。ブラック企業という名前があるが、日本は難民ブラック国といったところであるはずだ。

 このことは在留特別許可人数よりも難民認定数が極端に少ないことに現れている。難民としては認めないという姿勢の表れであって、そのことも影響している申請数の少なさであるはずだ。

 外国からの高度人材に限っては2020年代には現在の10倍程度の1万人を目指す方針を掲げていながら、難民に関しては100人以下にとどめている。何らバランスを取ることなく高度人材に対して低度人材を配置していることになって、職業や社会的地位に応じて人間を上下に価値づける差別主義を社会に示し、行う。

 同時にこの差別主義は社会の多様性そのものを軽視することによって成り立つ。軽視することでその多様性に波紋が生じない保証はない。

 例えば高度人材に認定された外国人の低度人材の外国人に対して取り憑かれないとは誰も断言できない優越主義の類いであり、それが低度人材の日本人にまで波及するかもしれない否定できない恐れであり、低度人材の外国人の高度人材の外国人に対して持つ複雑な負の感情であり、日本の社会そのものに対する閉塞感である。

 社会の多様性を尊重する意味からも、高度人材を受け入れる予定人数に相当する、あるいはそれ以上の人数を難民として認定するか、「外国人技能実習制度」を改正して実習期間を現在の3年から5年程度に延長して帰国させるといった方針だなどとケチ臭いことを言わずに、真面目に働きさえすれば、その実績を見て永住権を与える度量と、与えることで多様性を維持するバランスが必要であるはずだ。

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父親の子ども放置死白骨化7年余事件に見る他人の子供の生命(いのち)に対する職務上の希薄な想像力

2014-06-15 06:55:21 | Weblog



 5月30日、神奈川県厚木市のアパートの部屋で死後7年以上経過したと見られる白骨化した子どもの遺体が見つかった。2006年から2007年にかけて当時5歳だった男の子に食事などを十分に与えずに育児放棄の末に衰弱させ、死亡させたとして、翌5月31日、保護責任者遺棄致死の疑いで父親が逮捕された。

 父親は子どもを死なせたアパートを遺体を置き去りにして借りたまま、別のアパートで暮らし始めた。子どもの遺体が発見されないようにしたのだろう。

 父親「妻が家を出て自分も家に戻らないことが多くなった。8年前の平成18年秋ごろに家に戻ると息子が死んでいたので怖くなって家を出た。息子が外に出ると困るので、部屋に閉じ込めていた」

 警察の取り調べに対してこのように供述したと「NHK NEWS WEB」が伝えていた。

 子どもを死なせた一番の原因の父親も父親だが、厚木市や教育委員会、児童相談所の対応も対応である。彼らにとって大勢の子どもたちは名前だけの存在に過ぎないために定期健診や保育・幼稚園入園、小・中・高入学等々、その時々に於いて機会的な事務処理の対象で終わらせてしまっても無理もないことだが、この成長過程から落ちこぼれた子どもが生じた場合、あるいは落ちこぼれの疑いが生じた場合、名前だけの存在ではなくなり、 少なからず子どもの成長を見守る責任を持つことになるばかりか、時には過去の例からその責任が子どもの生命(いのち)に関係していく重大なケー スもあり得ることを学習していなければならないはずで、当然、子どもの生命(いのち)に対する想像力を鋭くしなければならないはずだが、過去の例を繰返すことになった今回の例を見ても、そういった責任、あるいは子どもの生命(いのち)に対する想像力を感じることさえできない。

 次の記事が7年以上も子供の遺体を放置することになった行政の対応を詳しく伝えている。《子ども放置死 なぜ気付けなかったのか》NHK NEWS WEB/2014年5月31日 19時49分)

 先ず厚木市の教育委員会の対応。

 6年前(2008 年)、男子は小学校入学予定のため、前の年の2007年に自宅に入学案内を送付。だが、入学しなかった。様々な特異な前例がある以上、この時点で、当たり前の成長過程からの落ちこぼれを疑う危機管理意識を働かせなければならなかったはずだ。少なくとも落ちこぼれていないかどうかを、あるいは落ちこぼれることはないかどうかを確認する責任は生じたはずだ。

 いわば教育委員会にとって男子は名前だけの存在ではなくなり、名前の背後にある子どもの成長、あるいはその生命(いのち)を見守るための想像力を働かせなければならなかった。

 〈教育委員会では、家庭訪問をするなどして男の子の所在を確認しようとし〉たが、〈住民登録があるアパートで暮らしている様子が見られなかったことから、 既に転居したと判断し、およそ1年後、地元の小学校に通う資格を抹消し、確認のための作業を打ち切った〉。――

 何を以て転居と判断したのだろう。厚木市役所の市民課、あるいは戸籍住民課といった部署に問い合わせたのだろうか。本来なら、転居先と、転居先の小学校に子どもが確かに入学しているかどうかまで確認しなければならなかったにも関わらず、そこまでは確認しなかった。

 男子が中学校入学の年齢に達したとき、教育委員会は不思議な行動に出る。

 転居したと判断して地元の小学校に通う資格を抹消しておきながら、教育委員会は昨年(2013年)12月、再び男子の所在を確認することにして、男子の父親から話を聞いた。なぜなのだろう。

 父親「子どもは生きている」

 記事は父親がこのように説明したとしか記していない。

 本当に教育委員会は父親に会って、話を聞いたのだろうか。なぜなら、父親の「子どもは生きている」という説明自体が余りにも奇異だからだ。教育委員会が「子どもは死んでいるのか、生きているのか」と尋ねたのだとしたら、父親の返事は奇異でも何でもなくなるが、教育委員会がそんな尋ね方をしたとしたら、子どもが死んでいるのか、生きているのか疑っていたことになって、その疑いを前提に質問すること自体が今度は奇異ということになる。

 そういった質問をしなかったにも関わらず、父親がそう答えたとしか解釈することはできない。

 父親の立場からしたら、「子もは生きている」という言葉は死んでいないという言葉を裏側に置いた説明となる。実際に父親がこのような言葉を使ったとしたら、少なくとも教育委員会はなぜんこんな説明をするのだろうかと疑うだけの想像力を働かせなければなかった。

 当然、生きているなら、教育委員会は男子がどこの小学校に通っているのかということも尋ねなければならなかったはずだが、記事は教育委員会が父親にどこの小学校に通っているのか尋ねたのか、尋ねなかったのか、教育委員会としたら、父親がどのような説明をしようとも尋ねなければならな かった質問でありながら、何も書いていない。

 尋ねたとは記事が書いていないことと、教育委員会が言っている父親の「子どもは生きている」という言葉の奇妙さから、実際は教育委員会は父親に会ってはいなかった疑いが出てくる。

「子どもは生きている」という教育委員会の説明は白骨遺体が発見されたことから、子どもの所在確認の不備を隠す責任逃れから生存していたと受け止めていた証拠とすべく、いわば死んでいたことなど露知らなかったとする証拠とすべく創作した父親の説明ということではないだろうか。

 5月3日の記者会見。

 宮崎昌彦学校教育部長「子どもが東京にいるという父親の説明を信じて、 警察に届けるなどの対応を取らなかった。今になってみれば、小学校に入学しなかったときに本人や保護者に会って確認するなど、きめ細かな対応をすべきだったと反省している」 ――

 男子は大勢いる名前だけの存在としての対応を受けたに過ぎなかった。 名前の背後にある子どもの成長、あるいはその生命(いのち)を見守るための想像力を働かせなければならない対象としての扱いを受けることはなかった。

 次に厚木市の対応。

 父親「子どもは妻と一緒に東京のどこか知らないところに住んでいる」――

 記事解説。〈市はこの説明を信用し、男の子の住民票を抹消していたということです。〉――

 宮崎昌彦学校教育部長の「子どもが東京にいるという父親の説明を信じて」という言葉は市が受けた説明なのか、教育委員会が受けた説明なのか、後者が受けて、市に報告して、市が住民票を抹消したのか、いずれなのか不明だが、少なくとも市 (住民課、あるいは市民課)と教育委員会は連携していたことになる。

 市にしても教育委員会にしても、子どもの所在を確認するために父親と面会していながら、過去の様々な事件例を参考とする想像力を働かせず、男子を単なる機会的事務処理の対象とするだけの想像力しか働かせなかった。
 
 児童相談所の対応。

 児童相談所は10年前の2004年、はだしで外を歩いていた男子を保護。虐待の痕跡が見られなかったことなどから迷子と判断、母親に引き渡しただけで、それ以上の対応は取らなかった。

 2008年に小学校入学予定だったから、2004年は2歳前後ということになる。但し2008年秋に男子が小学校に入学していなかったこと知って、職員が家庭訪問するなどして所在を確認しようとしたが、本人や親にも会うことができなかった。

その後も年に数回は訪問を続けていたが、やはり所在は確認できなかった。

 そして、〈この春、中学校にも入学しなかったことから、今月22日に警察に捜索を要請した。〉――

 以上はあくまでも児童相談所の説明である。

 教育委員会は男子が2008年に小学校入学予定であったために2007年に自宅に入学案内を送付。だが、入学が確認できなかったために家庭訪問などを通じて男子の所在確認を行ったが、確認できなかったために既に転居したと判断して、約1年後、地元の小学校に通う資格を抹消し、確認のための作業を打ち切った。

 いわば2009年には小学校入学資格を抹消した。

 だが、児童相談所は教育委員会が転居したと判断した男子を2008年以降も年に数回は訪問を続けた。

 児童相談所は教育委員会と連携を取っていなかったことになる。過去の例として児童相談所の対応の悪さから、少なくない児童を死なせてしまっているにも関わらず、子供の生命(いのち)に対してそれ相応の想像力を働かすことができなかった。

 但し児童相談所は学校に聞いたのか、教育委員会に聞いたのか、男子が今年の春、中学校に入学していなかったことを知って、警察に届け出た。

 10年前の2004年にはだしで外を歩いていた男子を保護。2008年秋に男子が小学校に入学していなかったこと知る。今年の春、男子が中学校にも入学していなかったことを知る。

 このような経緯のどこか途中で男子が成長過程から落ちこぼれているのではないのかと、子どもの成長を見守る想像力、あるいは子どもの生命(いのち)を見守る想像力を働かせるべきだったが、大勢いる名前だけの存在のまま、結果として機会的な事務処理で事を済ませていた。

 井上保男厚木児童相談所所長「結果的に男の子が亡くなってしまったことは、大変申し訳なく思っている。もう少し早く対処できれば、救うことができたかもしれない。当時は、所在不明の児童に対するリスクの捉え方が甘かったと反省している」――

 「所在不明の児童に対するリスクの捉え方が甘かった」で済ませている。自分の子供には過剰なくらいにちょっとしたことにも危険なサインを感じ取る想像力を持ちながら、他人の子供、その他大勢に対しては、彼らを預かる身でありながら、その中から危険を感じ取らなければならないケースが生じたとしても、そのアンテナは何ら反応せず、その成長や生命(いのち)を見守る想像力を鋭くすることもなかった。

 すべての原因は他人の子供の生命(いのち)に持つべき職務上の想像力の問題だと気づくべきである。

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日本の韓国植民地支配が神の意思なら、戦前の日本民族一大狂想曲も同じとなり、その失態は許され得る

2014-06-14 08:30:21 | 政治



 韓国の旅客船沈没事故の責任を取って辞意を表明した現首相の後任の新首相候補にパク・クネ大統領が指名した大手紙・中央日報元主筆の文昌克氏(65)の過去の発言が取り上げられて、党やメディアが猛反発しているという。

 《「日本の支配は神の意思」=首相候補の発言波紋-韓国》時事ドットコム/2014/06 /12-12:04)

 文氏の2011年の自らが通うソウルの教会での講演。

 文昌克氏「神がなぜ、この国を日本の植民地にしたのか? (そこには)神の意思がある。『お前たちは李朝500年を無駄に過ごした民族だ。試練が必要だ』と。

 (神が)南北を分断してくれ た。これも今考えれば神の意思だと思う。当時の体質で(南北が一緒に)独立していれば、共産化されるほかなかった」
 
 同2011年、別の教会での講演。

 文昌克氏「朝鮮民族は怠け者で自立心が足りない。これが民族のDNAだ」

 この最後の発言は反韓日本人には大歓迎されそうだ。

 要するに世界の出来事、人類の営為は全て神の意思によって動いている。あるいは動かされている。

 と言うことは、そこに人間の意思は働いていないことになる。

 これを浮気などに活用すると、男にとって好都合なことになる。奥さんに浮気がバレたなら、「神の意思だ」と言えば、浮気がさも壮大な営みに変身させることができる。

 神の意思が人間営為の全てに現れるのではなく、時々に現れるものだとすると、そのことを科学的・実証的に証明できない以上、人間の都合で神の意思かどうかを決めることになって、決めたことに違いが出てくることになるから、科学的・実証的に証明できなくても、全てに現れるとしなければ矛盾が生じる。

 マスコミ、その他の批判。

 韓国日報「日本の極右の歴史観と通じるものがある」

 野党・新政治民主連合報道官「憲法と建国精神を否定する歴史認識を持つ人物に首相を任せるのは不適切だ」

 文氏の首相室を通した釈明。

 文昌克氏「宗教家として教会で話したもので、誤解を招き遺憾だ。首相に任命されたらバランスを取り、公正に国政を遂行する」――

 教会で話そうとどこで話そうと、そういった思想を血とし、肉としていることに変わりはない。

 歴史とは人間営為がつくり出す社会的・国家的、あるいは世界的諸相の記録であって、全て元は人間の相互的な個人的もしくは集団的営為から発している。にも関わらず、全てが神の意思に支配された人間営為だとするなら、神の人間に対する永遠の支配をそこに置くことになって、人間営為がつくり出して社会的・国家的、あるいは世界的諸相に現れた人間に帰すべき全ての栄誉も、特に否定すべき愚かな全ての失態も人間自身には関係のない、それゆえに全ては許される人間営為ということになる。

 いわば神の意思に支配されて、人間が演じている世界史的な営為に過ぎないとすることになる。

 戦前日本の軍国主義からの愚かしいばかりの日本民族一大狂想曲も、その結末としての身から出た錆に過ぎない滑稽で愚かしい惨めな敗戦にしても、全て神の意思ということになって、時の軍部の日米の軍事力、さらに工業力等の総合的な国力の格差を無視したばかりか、その無視を可能とした戦略性の欠如と日本民族優越性の思い上がりからの精神論を武器に対米戦争に踏み切った愚かしさ、時の歴代政府の主体性を失った軍部従属の愚かしさも神の意思に帰属させて、許されることになる。

 敗戦後の1946年((昭和21年)1月1日に発した昭和天皇の「新日本建設に関する詔書」、いわゆる「人間宣言」で昭和天皇に「朕ト爾等國民トノ間ノ紐帶ハ、終始相互ノ信頼ト敬愛トニ依リテ結バレ、單ナル神話ト傳説トニ依リテ生ゼルモノニ非ズ。天皇ヲ以テ現御神(アキツミカミ)トシ且日本國民ヲ以テ他ノ民族ニ優越セル民族ニシテ、延(ヒイ)テ世界ヲ支配スベキ運命ヲ有ストノ架空ナル觀念ニ基クモノニモ非ズ」と言わるせこととなった戦前日本を支配していた逆の姿――天皇は現御神(=現人神)であって、そのことを根拠として、「日本國民ヲ以テ他ノ民族ニ優越セル民族ニシテ、延テ世界ヲ支配スベキ運命ヲ有スト」した世界の他の民族を貶めた日本民族優越主義の愚かしさも日本人の全体的営為から発した思想・精神性ではなく、神の意思とその支配を受けた思想・精神性ということになって、許されることになる。

 勿論、従軍慰安婦の悪質な性奴隷化にしても、悪質な敵兵捕虜虐待にしても、日本軍上層部の一般兵士に対する人命軽視にしても、すべてが神の意思が為さしめた人間営為の愚かしさ、残虐さであって、その愚かしさ、残虐さは本来的には日本人自身のものではなく、許されることになる。

 また、神の人間に対する永遠の支配とは支配される側の人間自身の自律的な進歩・発展の否定を意味する。一見、人間の進歩・発展に見える営為だとしても、神の意思に支配された、あるいは神の意思が働いた進歩・発展としなければ、神の人間に対する永遠の支配という構造自体を崩すことになる。

 文氏は日本の韓国植民地支配を神の意思が韓国民に与えた試練だと言っているが、神の意思に支配された試練であって、試練からの脱却にしても、同じく神の意思に支配された脱却となって、やはりそこには人間の自律的な意思、あるいは力は働いていないことになる。

 いわば文氏の思想は歴史を人間営為がつくり出す社会的・国家的、あるいは世界的諸相とするのではなく、神の意思がつくり出す社会的・国家的、あるいは世界的諸相の人間営為の記録と看做していることになって、歴史の生成・発展・退歩は全て神の責任に帰すことになる。

 人間バンザイ、人類バンザイである。人間は歴史に対する責任だとか、人類に対する責任だとか、難しいことは考えなくてもいい。

 日本人の多くが戦前の日本の戦争は侵略戦争ではなく、大国間の力学が働いた自衛の戦争だと正当化している思想は文氏の思想とは構造的に違いはあっても、日本人自身の責任を他に帰す点に於いて相似点を見い出すことができるかもしれない。

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拉致担当相の古屋圭司は安倍晋三が拉致問題で自分は外交無能力な政治家だと自ら暴露したと紹介

2014-06-13 05:50:16 | Weblog

  


      生活の党PR

       《6月11日(水)畑総合政策会議議長、野党5党共同提案『行革プラットフォーム法案提出』》

 次の記事を読むと、どうしても記事の題名通りになる。

 《【拉致再調査】首相「訪朝の用意ある」 古屋担当相が発言紹介》MSN産経/2014.6.11 22:54)

 6月11日のBSフジ番組。

 古屋圭司「首相は『交渉のための交渉ではなくて、本当に拉致問題を解決するための話だったら、堂々と金正恩(キムジョンウン)第1書記と会う用意はある』と言っている」――

 記事は、〈発言の時期や場所には言及しなかった。〉と解説している。

 「本当に拉致問題を解決するための話」と言っていることは、解決を結果とする話し合い、いわば解決が保証される話し合いという意味であるはずだ。解決を結果としなければ、交渉のための交渉で終わることになる。 

 言っていることの全体の意味は、単なる交渉で終わってしまうような、交渉のための交渉を目的にわざわざ訪朝するつもりはない。拉致問題の解決が保証される話し合いなら、堂々と金正恩に会う用意はあるということになる。

 そりゃあ、解決が保証される話し合いなら、安倍晋三でなくても、誰だって堂々と金正恩に会うだろう。

 要するに解決がお膳立てされる交渉であるなら会うが、お膳立てされない交渉であるなら、交渉のための交渉で終わってしまうから、会わないということである。

 だが、交渉のための交渉に乗り込んで、交渉をリード、そこから解決を導き出す交渉術こそが優れた外交能力と言うものであるはずだ。

 安倍晋三は自分から自分を後者に当てはまる政治家ではなく、前者に当てはまる政治家だと分類したしたことになる。自分は外交無能力な政治家だと自ら暴露したのである。

 安倍晋三は過去にテレビや新聞で次のように発言している。

 安倍晋三「金正恩氏はですね、金正日と何が違うか。それは5人生存、8人死亡と、こういう判断ですね、こういう判断をしたのは金正日ですが、金正恩氏の判断ではないですね。

 あれは間違いです、ウソをついていましたと言っても、その判断をしたのは本人ではない。あるいは拉致作戦には金正恩氏は関わっていませんでした。

 しかしそうは言っても、お父さんがやっていたことを否定しなければいけない。普通であればですね、(日朝が)普通に対話していたって、これは否定しない。

 ですから、今の現状を守ることはできません。こうやって日本が要求している拉致の問題について答を出さなければ、あなたの政権、あなたの国は崩壊しますよ。

 そこで思い切って大きな決断をしようという方向に促していく必要がありますね。そのためにはやっぱり圧力しかないんですね」――

 言っていることは拉致解決に向けた交渉の方法論そのものである。このように交渉の方法論を掲げているなら、この方法論を引っさげて訪朝、交渉のための交渉に乗り込んで、自らの方法論に則って交渉をリードし、解決を導き出す方法論の実践を果たしてこそ、言行一致の政治家、有言実行の政治家、あるいは優れた外交能力家の誉れを得ることができるが、自分から外交無能力な政治家だと暴露したように交渉の方法論を言行不一致、有言不実行の状態で放置している。

 何とも情けない外交無能力であることか。要するに拉致解決は他力本願、解決する気があるのかないのか、北朝鮮の姿勢次第だということになる。

 古屋圭司にしても、安倍晋三にしても、安倍晋三自身が外交無能力な政治家だと自分から暴露したとは知らぬが仏でサラサラ気づいてもいないのだろうし、気づくこともないだろう。 

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安倍晋三の国民を騙す憲法解釈変更を方法論とした集団的自衛権行使容認による「国民の生命・平和を守る」

2014-06-12 07:59:34 | 政治

 


       生活の党PR

       《6月9日(月)小沢一郎生活の党代表定例記者会見要旨》

       『政府の集団的自衛権15事例、国民がノーと言えない形に作文している』

       【質疑要旨】
       ・野党再編の動きと民主党について
       ・原子力規制委員会人事について
       ・日本維新の会分党と集団的自衛権について
       ・政府の法人税率引き下げ方針について
       ・民主党の在り方に関する小沢代表の考えについて          

 6月11日(2014年)午後3時から衆議院国家基本政策委員会合同審査会で党首討論が行われた。安倍晋三は大いなる勘違いをしている。この勘違いは結果として国民を騙す議論となっている。

 昨日のブログで、安倍晋三は憲法が規定する国家と国民との関係を無視して国民の意思を問わずに憲法解釈変更のみを以って集団的自衛権行使を謀るのは立憲主義に反した国家の恣意的権力行使に当たるゆえに、どのような手続き経た集団的自衛権行使とするかは国民自身の意思表示に基づいた国家との契約とすべきだと書いた。

 このような国民の意思無視も頭の程度に則した大いなる勘違いの一つと言えるが、別の側面から、海江田民主党代表との党首討論で感じた、結果的に国民を騙している勘違いを取り上げてみたいと思う。

 海江田代表は安倍晋三の憲法解釈変更を手続きとした集団的自衛権行使容認には反対の姿勢で議論を挑んだ。

 だとしたら、手続きの是非に的を絞って端的に追及すべきを、反対している憲法解釈変更に基づいた集団的自衛権行使事例を取り上げて批判を加えるといった矛盾と議論のムダを曝け出していた。政府・与党内で出ている行使事例15項目はまだ国会にお示しになっていないとか、民主党で取り寄せて検証している、個別自衛権や警察権の行使によって対応可能な事例もある、現実に起こる可能性が低い事例もある、それぞれ精査している、あるいは小泉元首相は憲法改正をしなければいけなんだとおっしゃっていたんじゃないですか等々、散々遠回りをしてから、「憲法改正の発議をすべきではないのか」と、絞るべき的に戻ったものの、遠回りのせいで、いずれが是非なのかの追及は逆に的を絞ることができない曖昧な内容で終わった。

 海江田代表「なぜ総理が憲法改正の手続きを取る必要がない、憲法改正は必要はない、閣議だけの変更でいいとお考えななのか、その点のお考えを先ずお聞かせください」――

 しかし安倍晋三は海江田代表の最後の問いかけにまともに答弁しなかった。

 海江田代表「やっぱり、安倍総理は私が危惧していました、私からの質問に真正面から答えずに、必要のないことを時間を使って、ダラダラとお答えになった」――

 安倍晋三のいつもの手である。常套手段と言ってもいい。海江田代表自身が気づいていながら、それを許したのは手続きの是非の追及が余分な遠回りに言葉を費やして、自分から曖昧にしてしまったからだろう。

 安倍晋三は「国民の生命と財産を守る」、あるいは「国民の生命と平和を守る」を楯に憲法解釈変更を手続きとした集団的自衛権行使容認を正当化している。今回の党首討論でも、このフレーズを使うことになったのはごく当然なことであろう。

 安倍晋三「私達は国民の命と、そして国民の平和を守っていく、大きな責任を担っています。

 その上で例示として挙げました近隣諸国で、もし紛争が起こって、そこから逃れようとする邦人を輸送する米国の船が襲われたときに、その船を守れなくていいのか。自衛隊はその能力を持っているのに、守れなくていいのか。

 そしてこのことについては、既に法制局長官が答弁をしておりますが、現在の憲法解釈上ではできない、こう答弁をされているわけであります。果たしてこの事態にどう対応すべきka、海江田さんはどう思っておられるのか、後程お伺いしたいと思うわけであります。

 私達は常にその責任を持っている。そして近年、アジア太平洋の状況は極めて、安全保障上の状況は厳しさを増しています」――

 国家権力が「国民の命と、そして国民の平和を守っていく、大きな責任を担って」いることと、集団的自衛権行使容認の方法論と関連があるわけではない。集団的自衛権行使が認められていない現在に於いても、 国家権力は「国民の命と、そして国民の平和を守っていく、大きな責任を担って」いるし、認められていなかったからといって、その点についての過失が生じたわけでもない。

 だが、安倍晋三は頭がいいから、国民の生命・財産に対する、あるいは国民の生命・平和に対する責任と集団的自衛権行使容認の方法論としたい憲法解釈変更と密接に関連しているかのように偽っている。

 いわば、憲法解釈変更を手続きとした集団的自衛権行使容認でなければ、国民の生命・財産や国民の生命・平和を守る責任を果たせないかのような手前勝手な議論を平気で展開している。

 頭の程度に即した大いなる勘違いでしかない。
 
 どのような手続き・方法論とすべきかは国民自身が決める問題であるはずだ。

 憲法解釈変更を方法論とした集団的自衛権行使容認を安全保障の手段として、「国民の生命・財産」、あるいは「国民の生命・平和」を守って欲しいと願っているのか、あるいは憲法改正を手続きとして願っているのか、あるいは現憲法を守って、個別的自衛権で対応すれがいいと願っているのか、国民の意思を問うことが先決であるはずである。

 最後に改めて言うが、国民の生命・財産に対する、あるいは国民の生命・平和に対する国家の責任は集団的自衛権行使容認に向けた方法論・手続きを憲法解釈変更としなければ守れないかのように双方を関連付ける安倍晋三の議論は国民を騙す頭の程度の低い、愚かしい勘違いに過ぎない。

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安倍晋三の国民の意思を無視した憲法解釈変更前提の集団的自衛権行使容認に見る立憲主義違反

2014-06-11 09:10:30 | 政治



      生活の党PR

       《ニコニコ生放送【どうする!?集団的自衛権】各党代表者に問う日本の安全保障(生放送) 》

       日 時:平成26年6月11日(水)19:30~21:30(予定)
       出演者:玉城デニー生活の渡欧幹事長代理
       内 容:集団的自衛権の行使容認などを巡る議論をきっかけに、日本の安全保障政策について各党の考えを発表、討論

       第一部:「我党は集団的自衛権をこう考える」スピーチ
       第二部:討論「集団的自衛権をはじめとした日本の安全保障政策について」
      
       《6月6日(金) 鈴木克昌代表代行・幹事長 定例記者会見要旨》

      【 質疑要旨 】  
      「小沢氏の言うことは正論」という意見について 
      野党再編の動きについて      

 多くの学者や政治家が安倍晋三が目指す集団的自衛権行使容認は立憲主義に反していると批判している。私自身なりにどう立憲主義に反するのか、安倍晋三の遣り方を見てみる。 

 既に知られていることだが、安倍晋三は憲法解釈変更による集団的自衛権行使容認を狙っている。だから、憲法解釈変更を前提として集団的自衛権行使事例を公明党や与党自民党と検討している。あるいは容認のための憲法解釈変更の今国会会期中の閣議決定を計画している。

 これは当たり前のことなのだろうか。国民全てが憲法解釈変更を前提として集団的自衛権行使を容認しているわけではない。容認はしても、憲法改正を前提としている国民も少なからず存在する。

 憲法解釈も憲法改正も、どちらも反対、集団的自衛権そのものを認めないという国民もいる。

 にも関わらず、安倍政権は国民の様々な意見を無視して、政治の意思のみで憲法解釈変更に絞った集団的自衛権行使容認の環境づくりに精を出している。

 このことは憲法が基本的性格としている国家の恣意的権力行使を禁じる立憲主義に反していないだろうか。

 6月8日(2014年)NHK「日曜討論」での憲法解釈変更容認の積極派高村正彦自民党副総裁の発言も国民の存在を無視していた。
 
 野党の政府・与党だけで憲法解釈変更による集団的自衛権行使容認の議論を進めているという指摘に対して。

 高村正彦「政府は政府で、三権分立ですから、憲法解釈するんですよ。その後で立法府は立法府で、政府がそれに基づいて出した法律について憲法解釈、当然するんです。

 そしてそのあと、司法は司法で憲法解釈して、それはダメだっていうこともある。だから、政府は政府で、行政府は行政府で判断することはいいんです。

 ただ、慎重にやらなければいけないということは、その通りですよね。後で立法府でそれはダメですよと言われたら、大失点だからね。内閣倒れるかもしれない。それは最高裁でダメだと言われても、同じことですから。

 まさに慎重にやらなければいけないのは、その通りなんですけれども、行政府は行政府で憲法解釈すると。そしてそのあとで行政府がしたからと言っ て、立法府はその憲法解釈に囚われなければいけないということはないんだと。

 それが三権分立なんです。そして司法府は新たに判断すべき。そういうことは当然の前提だと思います」――

 国家と国民との関係を規定する憲法に深く関わる議論から国民を除外している。また、いくら三権分立を楯に取ったとしても、三権それぞれが最終のところで国民の利益を対象とした統治権であって、国家権力の利益を対象とした統治権ではない。国民の利益・不利益を基準として運営されなければならない。

 憲法解釈変更一つを前提とするのではなく、国民の多数決で決めさせる方法論であるはずである。国民投票法(「日本国憲法の改正手続に関する法律」)を利用するなりして、国民の集団的自衛権行使に関わる意思を問うべきだろう。

 問うことによって、憲法が規定する国家と国民との関係に従って集団的自衛権行使容認の問題を国民自身の意思表示に基づいた国家との契約とすることができる。

 国民の選択が憲法解釈変更によるのか、憲法改正によるのか、いずれかで集団的自衛権行使容認であった場合にのみ、行使基準の議論に入るのが順序であるはずである。

 順序を無視している以上、憲法解釈変更のみを前提とした行使容認と行使基準作りは国家の恣意的権力行使と言う他なく、まさに立憲主義に反していることになる。

 立憲主義に反しているだけではない。行使容認の基準そのものに問題点を指摘する声がある。《政府事例「現実性乏しい」と批判 元防衛官僚の柳沢協二氏》47NEWS/2014/06/07 18:47 【共同通信】)

 6月7日の都内開催のシンポジウム。元防衛官僚、内閣官房副長官補を務めた柳沢協二氏の発言。

 柳沢協二氏「(政府提示の行使事例に関して)現場的なリアリティーが乏しい。(政府の)戦略論が見えなくて議論になっていない」――

 講演後の対記者団発言。

 柳沢協二氏「(自衛隊が他国軍の後方支援をする範囲をめぐって先に示した4条件を撤回したことに)「めちゃくちゃだ。理屈も何もあったものではな い」――

 どれ程に「現場的なリアリティーが乏しい」のか、一例を上げてみる。

 6月9日の参議院決算委員会。《首相「海外派兵はない」 歯止め強調、ただし内閣次第》asahi.com/2014年6月9日21時37分)

 安倍晋三「(他国を武力で守る集団的自衛権行使について)海外派兵は一般に憲法上禁じられているから、それはない。

 (国連決議に基づき結成された多国籍軍に自衛隊が物資補給や医療面などで支援する場合)戦闘を目的として武力行使を海外でやることはしない」――

 海外派兵はしないことと対多国籍軍物資補給等の支援に自衛隊を海外派遣することとの違いはどこにあるのだろうか。集団的自衛権行使が容認されたなら、物資補給時や医療活動時に多国籍軍が攻撃された場合、危険が迫ったから退避という選択肢は集団的自衛権の意味を失う。集団的自衛権を行使して戦闘に参加した時点で、海外派遣は海外派兵と同じ性格を持つことになる。

 大体が安倍政権は国連平和維持活動(PKO)に参加している自衛隊部隊が武装集団に襲われた遠方のPKO要員らを救助する「駆け付け警護」を集団的自衛権に含める方針を立て、武器使用基準緩和の検討を開始している。

 自衛隊を戦闘を目的として海外のPKO活動に参加させなくても、それ相応の武器を持って警護に駆けつけた自衛隊を襲撃側の武装集団が戦闘を目的としていない部隊だと認めてくれるような人道的精神を発揮するのだろうか。

 海外での戦闘を目的とした武力行使を予定外としていたとしても、それはこちら側の都合であって、相手側がこちらの都合に合わせてくれる保証はなく、相手側の都合で動く保証の方が大きいはずである。

 戦闘を目的とした武力行使を海外でしないが限りなくこちら側の都合である以上、結果として海外での戦闘を目的とした武力行使となる可能性は100%否定できない。
 
 それを「戦闘を目的として武力行使を海外でやることはしない」とこちらの都合だけで片付けるリアリティのなさはこの点だけではない。

 武装集団が自衛隊との戦闘に手こずって相手側に犠牲者を多く出した場合、あるいは自衛隊が現れたことで襲撃の目的が果すことができなかった場合、武装集団は復讐のために日本に複数のテロリストを送り込んでテロ行為に及ばない保証もないはずである。

 あるいは復讐のためだけではなく、自衛隊の動きを前以て牽制するために海外の日本人を拉致・誘拐する事件を頻繁に起こす可能性も否定できない。

 そこにまで踏み込んだ議論にお目にかかっていないこともリアリティーを欠いていることになるはずだ。

 少なくとも集団的自衛権行使容認を獲得した時点で、海外の武装集団たちは日本を要注意国のリストに組み込むことになるはずだ。そうすることが武装集団たちにとってのリアリティー(現実的対応)であろう。

 こういった様々な点からも、国民が主体となって自らの意思に基づいて決めて国家との契約とすべき集団的自衛権行使容認であるはずだ。

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