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京都防衛フォーラム:榛名研究室/鞍馬事務室(OCNブログ:2005.07.29~/gooブログ:2014.11.24~)

悲劇の国産擲弾銃 日本装備開発システムの問題点

2005-12-01 13:56:43 | 防衛・安全保障
 某駐屯地の資料館に“それ”はあった、第二次大戦中の英国製対戦車火器PIATにも似たその展示品は、試製てき弾銃と銘打たれていた。これが“あの”擲弾銃か、思わず夢中でシャッターを切った。
 さて、冷戦時代において、陸上自衛隊の最重要課題は、北海道北部、石狩湾、小樽方面、若しくは新潟県など日本のいずれかに上陸してくるであろうソ連軍機械化部隊を如何に撃退するかであった。
00280026 機甲戦力は、脅威正面とみられた北海道に集中されていたが、航空優勢確保に失敗すれば機甲部隊の戦略機動が制限される事から戦域的に戦力が集中できない地域は当然生まれ、一点を鉄槌のピストンのように往復して損害を省みず撃砕するという過飽和戦術を用いるソ連軍に対して苦戦は免れない点があり、特に戦車と共に前進するBMP-1やBMP-2、BTR-80といった装甲車に乗車する機械化歩兵(自動車化狙撃兵)の脅威も侮りがたいものであった。
IMG_0623 陸上自衛隊は1970年代当時14個の普通科連隊を配置し北海道防衛に当たっていた、対して戦車連隊(群)は三個、戦車大隊は四個、特科連隊は七個であった為、戦力的な主力はやはり普通科であった。
 しかしながら、普通科部隊における重火力とは、107㍉重迫撃砲、81㍉迫撃砲で対戦車火力として89㍉ロケット発射器と少数の106㍉無反動砲だけであった。特に迫撃砲や無反動砲は専門の中隊・小隊規模で運用されており、第一線の普通科火力は89㍉ロケット発射器だけであった。この通称バズーカとよばれる対戦車火器は、T-34に歯が立たなかったという朝鮮戦争時代の2.35inバズーカよりは強力なものであったが、T-55や当時主力となっていたT-62といったソ連製主力戦車の正面装甲を貫徹することはとても不可能で、50㍍まで肉薄し、キャタピラーを狙うという運用方法が為されていた。
IMG_4014 さて、89㍉ロケット発射器は発射時に後方爆風が噴出するという問題点がある。これを解決するべく開発されたのが国産擲弾銃(写真)である。
 軍事アナリストの小川和久氏の著書『戦艦ミズーリの長い影』によれば、開発には陸上開発官として61式戦車、74式戦車の開発にイニシアティヴをとったことで知られる近藤清秀氏があたった。擲弾銃の概念というのは小銃擲弾として小銃の先端に擲弾を装着し空砲により発射するという方式が第一次世界大戦から用いられ、陸上自衛隊でも小銃擲弾として運用されているが、初速が著しく遅く空気抵抗も大きく、照準方法が曖昧である事から(発射ガスが顔に掛からない様に射手は標的方向を直視せず、後方の要員が口頭で角度修正をするというもの)、実用性は著しく低いといわれる。
 国産擲弾銃は口径66㍉、威力は40㍉擲弾から推測すると破片半径は8~12㍍、手榴弾に匹敵する威力が期待できた。射程は形状から推測する事は困難であるが、米軍の40㍉擲弾を目指し開発されたということで400㍍程であろう。発射実験は富士で行われ、仮に射程が短かったとしても手榴弾と他の火力とのギャップを補うものがなく、これが開発されるということの意義は大きかった。
 しかし、装填方法が複雑で(装填が難しいというあたりが第二次大戦中のイギリス製対戦車火器PIATとも似ているが、PIATは発射方式がスプリングという点で異なった)、20%ほどは高い命中精度を記録するのだが、80%は変則的な命中精度しか記録できず、技術研究本部では開発継続路線と開発中止路線に分かれた。
IMG_4009 技術研究本部25年史によれば、1972~74年にかけて『てき弾銃及び対戦車用弾薬を開発する為の技術的資料を得る』とあり、技術開発件一覧では陸上開発案の名で1972年から終了予定は1979年といわれている(資料の発行は1977年であるため)。
 日産自動車の航空宇宙部門が開発を請け負ったあたりから命中精度は著しく向上し、80%に迫るものとなった。対戦車用弾薬を期待していたことからもわかるように地域制圧だけではなく限定的な対戦車戦闘にも用いるものであった。66㍉という口径である、小銃班に各一門配備させれば降車戦闘に移る機械化歩兵を無力化することや、戦車の照準を妨害し、機能低下を期待することも出来たし、小銃小隊が一斉に発射すれば地域制圧にも期待できる装備であった。
IMG_4311 しかし、この国産擲弾銃は内局により開発が中止させられる。実験装置が擲弾銃の形状をしていた事で研究所が製品を開発するとは何事か、と激怒し開発を中止させたという。
 言わずもがな、発射は射手が受ける風圧や気圧変化、命中精度向上に必要な砲身口径、初速、反動相殺の為の重量などが重要になる為、必然的に発射機の形状をしていた。外見は銃でもあくまで研究用の装置、と反発したが受け入れられず、基礎研究が不充分なまま製品開発に移行し、曖昧な要求性能の下で開発は難航、開発は中止となった。
 実は開発に至る前、若しくは開発したものの要求性能が曖昧であった為、73式装甲車機関砲搭載型やT-1B練習機、ちくご型護衛艦など、結局ものにならなかった、若しくは現場が運用に大変苦労したという装備品は無数に存在する。また、現場不在の開発の為に実戦性能を損なった装備品などは多い、81式短SAMの点火コネクターや戦車に搭載された後ろを狙えない車長用機銃などがそうである。
 幸いというべきだろうか、1980年代より84㍉無反動砲の配備が開始され、重量が大きく後方爆風も大きいものの、射程が大きく延伸し、装甲貫徹力も著しく向上したばかりか、HE弾の他、照明弾や煙幕など各種弾薬が使用でき、対戦車戦闘、地域制圧、拠点撃破も可能な新装備により、普通科の火力は大きく向上した。
00290022 ここで、国産擲弾銃開発失敗の深層分析を行いたい。
 第一に、基礎研究への投資が不充分である点だ、財務省(当時大蔵省)、会計検査院の審査査定により、即物的な研究開発は認められるものの、ソフト開発分野では大きく立ち遅れざるを得ず、また装備評価施設や実験場の整備も不充分であり、これの整備行わないままに装備品開発を行う事から稚拙なミスが多くなる事、そして開発での失敗は左遷の対象となる事から失敗に関するデータは即座に抹消されるという問題がある。
FH000023 では、装備開発に関する問題は、今日どうなったか、最後に記述したい。
 防衛庁内局の藤島正之氏は、その著書『防衛にかけたロマン』において、SH-60Jの対潜戦闘ソフトの開発にあまりにも予算がかかり、予算担当者であった藤島氏が直接尋ねたところ、とにかく見て欲しいといわれ館山からSH-60J試作機に搭乗し対潜戦闘の様子を視察、ソフトウェア開発の重要性を強く知ったという。
 このようにして、1980年代後半からまだまだ先進国の中では最低レベルではあるもののソフトウェア開発が重視されるよう改善されつつある。
IMG_5040 また、ソフトウェア開発の重要性が更に認識されたのは、日米共同開発の次期支援戦闘機開発計画FSX(現F-2)の開発において、米国側から操縦に不可欠なフライバイワイアのソースコード提供が拒否された事も大きな影響を及ぼした事は想像に難くない。
 その一方で、次期レーダーに関する評価施設や由良の電磁気測定所などが少しづつ整備されてはいるものの、未だ不充分であるという事は確かで、絶え間ない研究開発への投資が必要である、こうした認識への理解が再び欠如した時、この悲劇の国産擲弾銃と同じ状況が、再現されるであろう。

 HARUNA

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