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京都防衛フォーラム:榛名研究室/鞍馬事務室(OCNブログ:2005.07.29~/gooブログ:2014.11.24~)

富士山麓の砲声 陸上自衛隊富士学校と富士総合火力演習の歴史

2007-08-21 19:22:06 | 陸上自衛隊 駐屯地祭

■総火演!

 2007年も富士総合火力演習が行われる季節となってきた。この演習は一般公開される演習としては日本最大規模のもので、演習では各種小火器、ミサイル、戦車砲、特科火砲、実弾による射撃が展示される。

Img_6952  陸上自衛隊の普通科、特科、機甲科の幹部教育や装備品の試験、運用研究、戦術研究を行う富士学校が主催し、その展示を目的としたものである。しかし、一般に見える範囲内、戦車が撃って砲焔スゲェ!では、もったいないので、本日は、その歴史や富士学校などを紹介してゆきたい。

Img_6385_1   富士総合火力演習は1961年2月の総合展示演習に起源をもつ陸上自衛隊の演習である。この演習の目的は、富士学校による学生教育の一環として、機甲科、特科、普通科装備の威力に関する展示、現代戦の火力戦闘の効果を認識させることでの教育を目的として行われている。総合展示演習は、1972年に今日の富士総合火力演習という名称に変更された。

Img_6580  1966年より自衛隊広報活動の一環として一般への公開が行われ、この年は2600名が観覧、観覧者の数は年々増加し、1974年には10000名を突破している。観覧者の増加は、予行日の演習公開にも繋がり、こうして一般公開から29年目にあたる1995年には累計述べ観覧者が100万を突破した。

Img_6553  富士総合火力演習は、今日、一般公開されている部門と、原則隊員と関係者のみに公開される教育演習、そして夜間演習に区分されている。夜間演習は1982年より開始され、教育演習と一般公開演習との区分は1984年に行われている。

Img_6689  各種最新装備の展示も行われ、一例として1976年に74式戦車が二個小隊初参加、1991年に90式戦車が初公開、翌年には射撃展示も初公開された。こうしたことから観覧希望者は増加を重ね、1988年から観覧希望者の一般抽選が行われるようになっている。

Img_6834_1_1  夜間射撃は、2000年まで、実質的には自由観覧ということであったが、Web等を通じて見学者が増加したことから入場券が必要となり、関係者から個人的に入手する他は観る事が出来ないが、個人的な経験からいえば、御殿場市内では夜間射撃の照明弾の明かりや砲声を聞くことが出来る。

Img_6700  富士学校の実動部隊として富士駐屯地に本部を置く富士教導団は、団本部隷下に、普通科教導連隊、特科教導隊、戦車教導隊、偵察教導隊、教育支援施設隊を有し、この他に明野駐屯地の陸上自衛隊航空学校も教育支援飛行隊富士飛行班を滝ヶ原駐屯地へ展開させている。

Img_6708  演習や富士学校祭などの参加車輌から推して、普通科教導連隊は六個普通科中隊、重迫撃砲中隊、対戦車小隊を有している。特科教導隊は特科連隊のような大隊編成を用いず、恐らく特科中隊基幹の編成を採用しているようで、各種火砲により六個特科中隊、そして第303観測中隊より構成されている。戦車教導隊は五個中隊編成で、戦車連隊に匹敵する規模を有する。

Img_6731  富士教導団の編成で注目すべき点は、普通科や特科の中隊編成が全て教育目的に応じて編成が異なる点で、普通科、機甲科、特科部隊の主要装備全てをみることが出来る。写真の89式装甲戦闘車には“普教-5”とかかれているのがみえるが、これは普通科教導連隊第五中隊の所属であることを示している(ナンバー中隊は四個との指摘があったので、この一文だけ後日追記) 。

Img_6719  陸上自衛隊富士学校は1954年8月20日に創設され、旧軍の久留米駐屯地歩兵学校、習志野駐屯地砲兵学校、相馬ヶ原駐屯地戦車学校を統合した教育機関として編成された。当時は、普通科、特科、機甲科毎に別々の学校を創設する案もあったが、政治的配慮と錯誤により統合案が採用されたとのことだ。

Img_6722_1  創設当時は、教導隊という名称ではなく、特科部とか、普通科部、機甲科部、というような名称が用いられていた。この部、という組織の隷下には戦術教官室、砲術教官室、観測教官室、というような名称で、特性に応じた教官室が置かれ、実動演習では適宜、戦術班、砲術班、観測班というような呼称が用いられた。

Img_6809_1  富士学校祭、富士総合火力演習を観覧された方は、恐らく突然の天候悪化や濃霧というものを経験されたのではないだろうか。これは、富士学校や東富士演習場の標高に大きく関係している。富士学校は標高850㍍の場所にあり、御殿場市の標高450㍍と比べてもまだ高い。

Img_6839_1_1  今日では富士スピードウェイなど、多くの観光施設が並ぶが、もともと富士学校の置かれた須走とは、富士の山岳信仰の拠点のような場所であり、苦行を成し遂げる為の僻地という場所であった。実は、あまりもの気候の悪さから、旧軍も演習場は設置しても駐屯地は置かなかったほどなのである。

Img_6906  当初は、例えば練馬や三島市などに富士学校の設置案があったが、用地が得られず今日の位置に置かれている。今日では、一部の装備に熱線暗視装置が搭載され、濃霧などの置く天候も通して射撃を行うことは可能だろうが、創設当時の苦労は相当なものであったろう。

Img_6751_2  富士教導団は、実動部隊として普通科、特科、機甲科の教導隊を有していることは先に述べたが、約4100名の隊員から成り、機械化された普通科連隊(中隊ごとに装備は統一されている)、戦車連隊に匹敵する戦車教導隊と、方面特科火力にも用いられる重砲や多連装ロケットシステムなどを有することから、長官直轄の戦略予備部隊として首都防衛を支える重責を有している。

Img_6781  こうしたことを踏まえて俯瞰すれば、華々しい砲焔、一発必中の射撃、空中炸裂し描かれる軌跡などの富士総合火力演習は、射撃シュミレーターや射撃指揮、通信、そして各種装備の支援装置が練り上げた陸上自衛隊戦術研究や装備品研究の一端を垣間見る機会であるということだ。

Img_6776  さてさて、富士総合火力演習について、その歴史と富士学校の歴史を些か簡単ではあるが列記してみた。いよいよ本番は今週末、予行も行われており、富士山麓には“八月の砲声”が轟いていることだろう。北大路機関では、今後も、富士総合火力演習の観覧を、もう一歩深めることができるかもしれない内容を掲載してゆきたい。

HARUNA

(本ブログに掲載された本文及び写真は北大路機関の著作物であり、無断転載は厳に禁じる)

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