■眼下望む清洲城址と名古屋城
映画“清州会議”が先日放映され東京五輪賛美の退屈な大河ドラマが続く中の一つの清涼剤となりました今日この頃、本日は映画の舞台となった城址を紹介しましょう。
清洲城、望楼型三重四階RC造模擬天守閣が名古屋手前を見守っています、此処は織田信長の清洲城、かの清洲会議の舞台となった史跡にありまして、更に旧東海道と伊勢街道が合流しつつ中山道にも隣接する緊要地形、交通の要衝として古くから重要視されてきました。
清洲織田氏の居城として重要視された城郭は、東海道新幹線や東海道本線より京都を東下りの故事に浸る最中の間もなく名古屋という車内放送と共に望見する城郭です。いや、実は天守台は此処ではなく、東海道新幹線線路真下に位置するのですが、それはそれという。
尾張遠江越前三国管領の室町幕府老中斯波義重が此処に城郭を造営したのは織田信長よりも遡る事応永年間の1405年、現在の東海道本線稲沢駅近くに下津城として拠点を造営し、支城として清洲城を造営したという歴史があります。その後尾張守護は織田家が担う事に。
斯波義重の城郭から織田家の城郭への変遷は元々織田家が越前国劔神社の神官であり、斯波義重が参詣の際に聡明な神官の子に感銘を受け、近習として取立てた事に始ります。神官は織田常昌の名を賜ると共に尾張の所領を与え、応永年間の1409年に管領を退きました。
下津城の稲沢は東海道本線清洲駅の隣接駅なのですが、この本拠地が文明年間の1476年、つまり応仁の乱最中に織田家内紛により焼失してしまい、結果清洲城だけが残りました。織田家は支城に名古屋市中区の古渡城や那古野城がありましたが、ここが拠点となります。
守護代織田家、清洲城と幾つかの城郭を比較しますと旧東海道と伊勢街道に中山道が接する地形から、此処を本拠地とする事が都合よく、本城となります。そして弘治年間1555年に織田家内紛を鎮定した、かの織田信長が織田家当主として入城、居城としたのですね。
織田信長は清洲城を十年間に渡り居城とし、その際に城郭も拡大させたという。桶狭間の戦いはここから騎馬にて出陣し、三河の盟主徳川家康との清洲同盟もここで結ばれました。織田信長は小牧城、岐阜城、そして安土城と天下取りへ邁進し、そして本能寺にて散る。
天守閣に登る。名古屋城が高層ビルに囲まれる中、それ程距離がる訳ではありませんが清洲城周囲には有名な大和印刷を例外としまして高い建物は無く、その視程ははるか遠くを眺望できます。ただ、遠い高速道路の高架橋が小牧城等への視界を遮っていますけれども。
名古屋城を望見する。名古屋城まで直線距離で8.5kmといい、もともと名古屋の語源が那古野、織田信長の那古野城であった、といいますのである意味では遷府は原点回帰であったのかもしれません。しかし同時に織田家の影響を薄める政治的な色彩もまたありました。
名駅高層ビル群、リニア中央新幹線開業に向け大きく高層ビル群が広がります。徳川家康の遷府により広がった市域が400年を経て尚健在なのですが、しかし東南海地震津波警戒区域に名古屋市街地が入り清洲中心部が安全圏である点を踏まえると、何か、考える点も。
東海道新幹線と東海道本線、本来の本丸跡地はこの真下に在るという。山陽新幹線の三原城と三原駅の関係に近いのでしょうね。しかし、この東西大動脈、世界最大の鉄道幹線が通る眼下の鉄道を俯瞰しますと、清州が東西交通の要衝だという事も自明に理解できます。
豊和工業、業務用掃除機等で有名な企業は同時に我が国最大の銃器メーカーでもあり、新小銃となる仮称20式小銃や89式小銃、僅かに残る64式小銃と120mmRT重迫撃砲や81mm迫撃砲を生産します、鉄砲で名を馳せた織田信長清洲城城下町らしいといえますね。
平成元年に復元された模造天守閣、戦後に再現された復興天守閣とは違い戦後復興の歴史的象徴としての意味合いは薄いですが、博物館や自治体と強度としての象徴は健在です。しかし、ここは中層建築物なのですが階段しか無く、荷物が多いと登るには留意が必要だ。
清州会議という歴史の舞台となったのは天正年間は1582年、6月21日の本能寺の変からひと月と経ない7月16日、次代の後継を選定する為に武将たちが此処に集いまして、その様子をコミカルに描いたのが三谷監督作品「清州会議」です。織田信雄が城郭を継ぐ事に。
清洲城は天正年間の1586年により倒壊します。織田信雄治世下に大きく拡張され、大天守に小天守と書院を備えました。更に復興の最中に豊臣秀吉との対立から転封となり豊臣秀次の居城、文禄年間の1595年には福島正則の居城となります。そして時代は次の対立へ。
関ヶ原の戦い、この清州会議を上回る天下の転機には福島正則の巨大な清洲城が東軍の戦略拠点となります。勲功から福島正則は安芸一国を与えられ清洲城へは清洲藩が置かれ家康四男松平忠吉、その没後には九男徳川義直が入城します。しかし慶長年間に次の転機が。
清洲越し、徳川家康による清洲から新府名古屋への遷府が令ぜられました。清洲城からは名古屋城御深井丸西北隅櫓等の移築が行われますが、慶長年間1613年に名古屋城造営と名古屋城城下町が完成しますと、清洲城は廃城となり、現代には本丸土塁の一部が残るのみ。
平成元年、清洲町の町制百周年の記念事業として清洲城跡に隣接する立地へ望楼型三重四階RC造模擬天守閣が建築されました。また清洲城の資材を用いた名古屋城御深井丸西北隅櫓は幸い名古屋空襲等戦災にも生き延び今に至ります。模擬城郭ながら今に歴史を伝える。
北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ
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映画“清州会議”が先日放映され東京五輪賛美の退屈な大河ドラマが続く中の一つの清涼剤となりました今日この頃、本日は映画の舞台となった城址を紹介しましょう。
清洲城、望楼型三重四階RC造模擬天守閣が名古屋手前を見守っています、此処は織田信長の清洲城、かの清洲会議の舞台となった史跡にありまして、更に旧東海道と伊勢街道が合流しつつ中山道にも隣接する緊要地形、交通の要衝として古くから重要視されてきました。
清洲織田氏の居城として重要視された城郭は、東海道新幹線や東海道本線より京都を東下りの故事に浸る最中の間もなく名古屋という車内放送と共に望見する城郭です。いや、実は天守台は此処ではなく、東海道新幹線線路真下に位置するのですが、それはそれという。
尾張遠江越前三国管領の室町幕府老中斯波義重が此処に城郭を造営したのは織田信長よりも遡る事応永年間の1405年、現在の東海道本線稲沢駅近くに下津城として拠点を造営し、支城として清洲城を造営したという歴史があります。その後尾張守護は織田家が担う事に。
斯波義重の城郭から織田家の城郭への変遷は元々織田家が越前国劔神社の神官であり、斯波義重が参詣の際に聡明な神官の子に感銘を受け、近習として取立てた事に始ります。神官は織田常昌の名を賜ると共に尾張の所領を与え、応永年間の1409年に管領を退きました。
下津城の稲沢は東海道本線清洲駅の隣接駅なのですが、この本拠地が文明年間の1476年、つまり応仁の乱最中に織田家内紛により焼失してしまい、結果清洲城だけが残りました。織田家は支城に名古屋市中区の古渡城や那古野城がありましたが、ここが拠点となります。
守護代織田家、清洲城と幾つかの城郭を比較しますと旧東海道と伊勢街道に中山道が接する地形から、此処を本拠地とする事が都合よく、本城となります。そして弘治年間1555年に織田家内紛を鎮定した、かの織田信長が織田家当主として入城、居城としたのですね。
織田信長は清洲城を十年間に渡り居城とし、その際に城郭も拡大させたという。桶狭間の戦いはここから騎馬にて出陣し、三河の盟主徳川家康との清洲同盟もここで結ばれました。織田信長は小牧城、岐阜城、そして安土城と天下取りへ邁進し、そして本能寺にて散る。
天守閣に登る。名古屋城が高層ビルに囲まれる中、それ程距離がる訳ではありませんが清洲城周囲には有名な大和印刷を例外としまして高い建物は無く、その視程ははるか遠くを眺望できます。ただ、遠い高速道路の高架橋が小牧城等への視界を遮っていますけれども。
名古屋城を望見する。名古屋城まで直線距離で8.5kmといい、もともと名古屋の語源が那古野、織田信長の那古野城であった、といいますのである意味では遷府は原点回帰であったのかもしれません。しかし同時に織田家の影響を薄める政治的な色彩もまたありました。
名駅高層ビル群、リニア中央新幹線開業に向け大きく高層ビル群が広がります。徳川家康の遷府により広がった市域が400年を経て尚健在なのですが、しかし東南海地震津波警戒区域に名古屋市街地が入り清洲中心部が安全圏である点を踏まえると、何か、考える点も。
東海道新幹線と東海道本線、本来の本丸跡地はこの真下に在るという。山陽新幹線の三原城と三原駅の関係に近いのでしょうね。しかし、この東西大動脈、世界最大の鉄道幹線が通る眼下の鉄道を俯瞰しますと、清州が東西交通の要衝だという事も自明に理解できます。
豊和工業、業務用掃除機等で有名な企業は同時に我が国最大の銃器メーカーでもあり、新小銃となる仮称20式小銃や89式小銃、僅かに残る64式小銃と120mmRT重迫撃砲や81mm迫撃砲を生産します、鉄砲で名を馳せた織田信長清洲城城下町らしいといえますね。
平成元年に復元された模造天守閣、戦後に再現された復興天守閣とは違い戦後復興の歴史的象徴としての意味合いは薄いですが、博物館や自治体と強度としての象徴は健在です。しかし、ここは中層建築物なのですが階段しか無く、荷物が多いと登るには留意が必要だ。
清州会議という歴史の舞台となったのは天正年間は1582年、6月21日の本能寺の変からひと月と経ない7月16日、次代の後継を選定する為に武将たちが此処に集いまして、その様子をコミカルに描いたのが三谷監督作品「清州会議」です。織田信雄が城郭を継ぐ事に。
清洲城は天正年間の1586年により倒壊します。織田信雄治世下に大きく拡張され、大天守に小天守と書院を備えました。更に復興の最中に豊臣秀吉との対立から転封となり豊臣秀次の居城、文禄年間の1595年には福島正則の居城となります。そして時代は次の対立へ。
関ヶ原の戦い、この清州会議を上回る天下の転機には福島正則の巨大な清洲城が東軍の戦略拠点となります。勲功から福島正則は安芸一国を与えられ清洲城へは清洲藩が置かれ家康四男松平忠吉、その没後には九男徳川義直が入城します。しかし慶長年間に次の転機が。
清洲越し、徳川家康による清洲から新府名古屋への遷府が令ぜられました。清洲城からは名古屋城御深井丸西北隅櫓等の移築が行われますが、慶長年間1613年に名古屋城造営と名古屋城城下町が完成しますと、清洲城は廃城となり、現代には本丸土塁の一部が残るのみ。
平成元年、清洲町の町制百周年の記念事業として清洲城跡に隣接する立地へ望楼型三重四階RC造模擬天守閣が建築されました。また清洲城の資材を用いた名古屋城御深井丸西北隅櫓は幸い名古屋空襲等戦災にも生き延び今に至ります。模擬城郭ながら今に歴史を伝える。
北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ
(本ブログに掲載された本文及び写真は北大路機関の著作物であり、無断転載は厳に禁じる)
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