■平野神社-初詣二〇二五
平野神社、初詣となりますとなんとなくですが数多ある神社の中からここ平野神社に参拝しています。
謹賀新年、というわりには初詣はもの凄く遅くなりまして、年末色々ありました関係で結局そのしわ寄せは年始以降にも及びまして、日本からはまた軍事雑誌が一つ消えました。閑話休題ですが、私事ながら謹賀新年の年賀状も返せていませんので、なんとか寒中見舞いの挨拶の手配をせねば、と。
初詣は、ちょっと時節を外しましたのでお楽しみの振る舞い酒などは既に神話の世界、というと言い過ぎですがまあ、遅かったねえ、となりました。そして、さすがに異常気象という最中でも平野の桜は満開、なんてことはなく、神社の境内をゆっくりと西大路通から参拝へと向かうのです。
花見の季節には落ち着くのかもしれませんが、もう少し多忙と言いますか予定が詰まっている時期は続いてゆきそうでして、しかし、初詣くらいは心落ち着け静かに詣でることとしました。静かにというのは、まあここ、桜の季節と正月三日いがいは、こうした静かな世界が広がっている故なのですが。
北野天満宮、平野神社の直ぐ地殻には天神信仰の聖地が広がり、すこし西大路通を歩み伸ばしますと直ぐにわら天神、ここから目の前に金閣寺道があり、少し急峻な、というには大げさか、坂道を車道にそって上るとそこは直ぐに鹿苑寺、金閣寺が多くの観光客を集める中、左大文字山には大文字がみえて。
平野神社は皇室守護、皇太子守護の神殿として平城京の時代から信仰を湛えてきまして、平安遷都ともに当地へ遷座された歴史がありますが、同時に神紋に桜を掲げていますことから、梅花の花見主流の時代に在っても観桜という文化の源流にあるという一説があり、実際平野の桜は初の風物詩となっています。
平安時代には平野祭は皇太子自らの奉幣がおこなわれていたといいます。もっとも、毎年四月の平野祭は当時の風俗を継承した歴史行列が執り行われるものの、このところの異常気象では祭事のころあいに、いちばん大事な桜花の花々がすべて葉桜となっているという残念な気風ではあるのですが。
観桜とともに清和源氏の家紋にも桜を冠していることから、武家の信仰を集めた神社ともなっていますが、まあ、そうした歴史は別としまして平野神社には個人的ないろいろな出会いの源流がありましたので、神社としての歴史はもちろん、信仰云々関係なく参拝することの多い神社となっています。
平野造という、この神社の本殿はまつる四柱の神々とともに不思議な形状となっていまして、実のところそろそろこの屋根も経年劣化が進んできたように見えまして、補修も近いのかなあ、と思うところです。他方、拝殿は十年近く前に台風被害により倒壊し、復興したという歴史があるのですけれども。
四柱を奉じる社殿ですが、いまでこそ文化財としての価値とともに全面修復の際にもその当初の姿をそのまま継承できるように正確に補修され、新造時の棟をそのまま維持しているのですが、興味深いことに、江戸時代までは補修の都度にこの本殿は時々に合わせいろいろと形を変えていたらしい。
本殿、もちろん皇室守護という歴史とともに、しかし延喜式には名を列せられた式内社ではあるのだけれども、二十二社はじめ多くの社殿が京都には並ぶ中においてすべての補修を行うことは出来ず、時代とともに平野神社は相当荒廃していた時代もあるという、その中で補修の際、本殿は姿を変えた、と。
信仰が第一であって、そのための寄る辺はそこまで拘らない、勿論今の時代にテキトーに任せると鉄筋コンクリート建設で一階部分は商店と三階以上はマンション、とかありえるのですが、今の時代は別としましても、当時の信仰への寛容さというものが見えるようにも思えて、興味深いのですね。
平野神社、その参拝とともに本殿のありかたというか様々な形があったのだという歴史に触れてみますと、今とは違う時代における神社のあり方について、冗長性といいますか寛容さというものを、信仰の本筋とは別の、信仰を支えた人々の生き方や価値観として感じるように思えるのです。
北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ まや
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平野神社、初詣となりますとなんとなくですが数多ある神社の中からここ平野神社に参拝しています。
謹賀新年、というわりには初詣はもの凄く遅くなりまして、年末色々ありました関係で結局そのしわ寄せは年始以降にも及びまして、日本からはまた軍事雑誌が一つ消えました。閑話休題ですが、私事ながら謹賀新年の年賀状も返せていませんので、なんとか寒中見舞いの挨拶の手配をせねば、と。
初詣は、ちょっと時節を外しましたのでお楽しみの振る舞い酒などは既に神話の世界、というと言い過ぎですがまあ、遅かったねえ、となりました。そして、さすがに異常気象という最中でも平野の桜は満開、なんてことはなく、神社の境内をゆっくりと西大路通から参拝へと向かうのです。
花見の季節には落ち着くのかもしれませんが、もう少し多忙と言いますか予定が詰まっている時期は続いてゆきそうでして、しかし、初詣くらいは心落ち着け静かに詣でることとしました。静かにというのは、まあここ、桜の季節と正月三日いがいは、こうした静かな世界が広がっている故なのですが。
北野天満宮、平野神社の直ぐ地殻には天神信仰の聖地が広がり、すこし西大路通を歩み伸ばしますと直ぐにわら天神、ここから目の前に金閣寺道があり、少し急峻な、というには大げさか、坂道を車道にそって上るとそこは直ぐに鹿苑寺、金閣寺が多くの観光客を集める中、左大文字山には大文字がみえて。
平野神社は皇室守護、皇太子守護の神殿として平城京の時代から信仰を湛えてきまして、平安遷都ともに当地へ遷座された歴史がありますが、同時に神紋に桜を掲げていますことから、梅花の花見主流の時代に在っても観桜という文化の源流にあるという一説があり、実際平野の桜は初の風物詩となっています。
平安時代には平野祭は皇太子自らの奉幣がおこなわれていたといいます。もっとも、毎年四月の平野祭は当時の風俗を継承した歴史行列が執り行われるものの、このところの異常気象では祭事のころあいに、いちばん大事な桜花の花々がすべて葉桜となっているという残念な気風ではあるのですが。
観桜とともに清和源氏の家紋にも桜を冠していることから、武家の信仰を集めた神社ともなっていますが、まあ、そうした歴史は別としまして平野神社には個人的ないろいろな出会いの源流がありましたので、神社としての歴史はもちろん、信仰云々関係なく参拝することの多い神社となっています。
平野造という、この神社の本殿はまつる四柱の神々とともに不思議な形状となっていまして、実のところそろそろこの屋根も経年劣化が進んできたように見えまして、補修も近いのかなあ、と思うところです。他方、拝殿は十年近く前に台風被害により倒壊し、復興したという歴史があるのですけれども。
四柱を奉じる社殿ですが、いまでこそ文化財としての価値とともに全面修復の際にもその当初の姿をそのまま継承できるように正確に補修され、新造時の棟をそのまま維持しているのですが、興味深いことに、江戸時代までは補修の都度にこの本殿は時々に合わせいろいろと形を変えていたらしい。
本殿、もちろん皇室守護という歴史とともに、しかし延喜式には名を列せられた式内社ではあるのだけれども、二十二社はじめ多くの社殿が京都には並ぶ中においてすべての補修を行うことは出来ず、時代とともに平野神社は相当荒廃していた時代もあるという、その中で補修の際、本殿は姿を変えた、と。
信仰が第一であって、そのための寄る辺はそこまで拘らない、勿論今の時代にテキトーに任せると鉄筋コンクリート建設で一階部分は商店と三階以上はマンション、とかありえるのですが、今の時代は別としましても、当時の信仰への寛容さというものが見えるようにも思えて、興味深いのですね。
平野神社、その参拝とともに本殿のありかたというか様々な形があったのだという歴史に触れてみますと、今とは違う時代における神社のあり方について、冗長性といいますか寛容さというものを、信仰の本筋とは別の、信仰を支えた人々の生き方や価値観として感じるように思えるのです。
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