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京都防衛フォーラム:榛名研究室/鞍馬事務室(OCNブログ:2005.07.29~/gooブログ:2014.11.24~)

【京都幕間旅情】上御霊神社,疫病鎮撫の御霊信仰と六所御霊鎮定神事の地は応仁の乱開戦の地

2020-04-29 20:02:26 | 写真
■春には桜咲く戦乱勃発の地
 京都と云えば今でこそ平安の地ではありますが、その首府としての永い歴史と共に悲喜交々様々数多な出来事を経て今日に至ります。

 上御霊神社。上京区上御霊前通烏丸東入上御霊竪町に所在しています社殿です。創建は貞観5年の西暦863年、この社殿は地下鉄烏丸線鞍馬口駅から烏丸通を少し上り、そして鴨川の方へ閑静な住宅街をしかし確かに存在感ある鎮守の森の木々へと少し進んだところ。

 新型コロナウィルス肺炎が世界中に広がる勢いはとどまるところを知らず、感染者数が100万を越え更に200万に達するまで僅かに数日、死者は10万を越え実に一割近くが死亡する病魔が驚くほど世界を早く蹂躙、疾病の恐ろしさを改めて痛感しない訳には、参りません。

 御霊信仰。実はこの上御霊神社が創建された当時にも日本国内には疫病が溢れ、これを人々は御霊の怒りだとの畏れから桓武天皇の御世にその御霊を鎮める為の社殿がこの地に創建されたものです。しかし、御霊信仰はそもそも平安遷都が長岡京の疫病蔓延が要因でした。

 緊急事態宣言へと進む京都ですが、ここ上御霊神社には三月には早咲きの桜花が静かに参拝者を迎え、そして世界を包む暗黒の機運はありますが、暗黒がつつむ静寂ではなく実は観光名所の本線から若干隔てた此処境内には元来より祈りの静寂が参拝者を迎えています。

 桓武天皇は平安遷都為された延暦13年の西暦794年5月に先の早良親王こと崇道天皇の御霊を鎮める神事を朝廷の鬼門に当るこの地で営み、洛中北辺のこの地は云わば平安遷都の頃からの祈りが続けられた場で、その後七十年を経て新しい祈りの場が此処に造営される。

 神泉苑、京都遷都への水源であった現在の二条城隣接の地にて863年、御霊会が開かれ、崇道天皇と伊予親王そして藤原吉子藤原夫人と観察使藤原仲成と橘逸勢とを文屋宮田麿の六所御霊鎮定神事となり、併せてこの六所御霊鎮定の社殿がこの地に造営されたのですね。

 上出雲寺御霊堂。平安遷都の時代に御霊信仰の寄る辺として此処に造営された社殿は元々こう親しまれていたのですが、御靈神社、こう貞観年間に改められた際に上御霊神社と改められています。上出雲寺御霊堂とはその名の通り、出雲大社への基点にあった所縁が。

 出雲路とは出雲大社と京都を結ぶ街道の始まりであり、現在は京都駅から山陰本線にて日本海側に進む経路が一般的ですが、平安朝の時代には洛中の中心から高雄山の麓、今の山陰本線を少し山手に廻る経路から道程が広がり、この地を経て出雲へ結んでいたようです。

 御霊合戦。御霊鎮守を期した社殿ですが、ここはもう一つ歴史の転機、その分基点そのものでもありました。応仁元年の西暦1467年、御家騒動が室町幕府により鎮定された後の齟齬が原因で畠山義就と畠山政長の軍勢、その斥候同士が長年摩擦を経て遂に激突しました。

 応仁の乱開戦の地。上御霊神社は京都の文化財を根絶やしとした最大の戦乱、応仁の乱における最初の武力衝突が繰り広げられた場所でもあったのです。直ぐ下ったところにあります同志社大学今出川キャンパス一帯が花の御所、室町幕府の本営であった事と関係が。

 開戦の地ではある上御霊神社、最初の戦闘は小規模に終り、幕府の介入もあり一旦は危機が回避されたかに見えましたが、この終戦処理を御霊合戦に限定し大本の問題解決に至らなかった事が四か月後の上京合戦へ繋がり最大の激戦地は隣接する相国寺となりました。

 花御所八幡宮が境内社としてありこれは数少ない花の御所の名残り。こうした歴史を湛える境内は、安土桃山時代以降に再度祈りの場としての回帰し、毎年五月に開かれる御霊祭は上御霊神社の例祭であるとともに洛中屈指の歴史を有する祭事として、今に至ります。

北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ
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