■北大路から平安安寧を願い紡ぐ
やすらい祭、夜須礼祭という。千年の都と歴史を紡ぐ古都京都には連綿と人々の安寧を願う祈りも紡いでいます。
今宮神社。北区紫野今宮町に所在します社殿です。北大路通り、洛中北辺を鎮護するべく広がる大路は大徳寺のところで千本北大路へとかなり急な丘陵地帯の如くの上りが広がりますが、大徳寺を経て船岡山の麓あたりに至りますと上手に社殿に至る鳥居が見えます。
夜須礼祭。紫野から西陣まで、疾病祓いの伝統行事と云えば八坂神社の祇園祭よりも四月の夜須礼祭でした。云われてみると祇園祭は小中学校まで観光客向けの神事という印象であったようにも。もっとも令和二年の夜須礼祭は話題のコロナ禍に直撃されたかたちで。
疾病祓いの伝統行事。この時節に敢えて縮小したのは、と氏子で映画仲間の知人に問いますと、いや今年の夜須礼祭は氏子総参加ですよ、と。成程聞けば今年の氏子衆は総員外出自粛にて在宅からこころの夜須礼祭へ参加しているという。拝殿では非公開の祭事が営む。
一条天皇の治世下に造営された社殿は、千年を超える祈りの地として今日に至り、応仁の乱により一時荒廃しますが、紫野界隈から遠く遠く西陣界隈まで氏子衆と共に在り、また徳川綱吉公生母桂昌院の崇敬を集める、不思議と観光の波からも免れる静かな社殿です。
楼門の朱色鮮やかに望見する神域は、今宮通りとして知られ個人的にこの界隈は珈琲の香りという印象の一角です。故に不思議と洛中で珈琲といえば今宮神社を思い浮かべるのですが、ハイカラな個人の印象とは別に社殿の歴史は当然古く、広い境内には静寂がつつむ。
あぶり餅。実のところ今宮通りから参道に至る方には小ぶりな、しかし数多重ねる不思議な風情の甘味で今宮神社は知られます。聞けば現存する日本最古の和菓子といいまして、今宮神社を北大路通りから遥拝するか、神前参道に至るかの違いなのかもしれませんね。
正暦5年の西暦994年に創建されました社殿、元々この地には平安遷都以前より素戔嗚を祀り疾病災厄祓いの社殿が遥か氏子達に守られていたとの事ですが御霊会として平安遷都の後に神泉苑、上御霊神社、下御霊神社、八坂神社、安寧の祈りが拡げられていました。
今宮社としましたこの社殿の歴史は創建の年はやはり病魔の災厄に見舞われた事からの疫病鎮撫の祭事がここ社殿に近い船岡山の山頂へ朝廷にて広く執り行われ、この為の神輿の御輿が二つ造営、その御旅所として設営された御堂が今日の今宮神社の始りといいます。
船岡山は今日こそ、建勲神社として織田信長が祀られる神域となっていますが、建勲神社の創建は大政奉還と明治維新の後の造営であり、長く洛中の風葬地となっていました。疫病鎮撫の神事では音楽奉納等を経て疾病疫災を幣帛へと依り移らせ、河へと流したという。
大己貴命と事代主命と奇稲田姫命とを祀る今宮神社は、船岡山での神事が疫病蔓延の再来と共に朝廷により勅令されるようなり、長保3年の西暦1001年に祭神として大己貴命と事代主命と奇稲田姫命を祀る神社へ広げられる事となり、祭礼は毎年の神事として定着した。
紫野御霊会。疾病祓いの神事を転じて無病息災を祈念し西陣の祭としまして毎年五月に祭事が執り行われています。夜須礼祭。今宮神社は音楽の社殿です、大祭は四月の第二日曜日に綾傘を神輿の御輿が如く飾り祀り、囃子と踊りを奏で広げつつ船岡山へ上る神事です。
西陣に広がる氏子衆の崇敬により、特に西陣織など機業者の崇敬から江戸時代には更に栄華を誇ったとも言いまして、成程不思議な静寂と共に広がる境内の拝殿や本殿の美しい情感、楼門が醸す荘厳美麗な風情はこうした歴史を湛えている故の風景なのかもしれません。
北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ
(本ブログに掲載された本文及び写真は北大路機関の著作物であり、無断転載は厳に禁じる)
(本ブログ引用時は記事は出典明示・写真は北大路機関ロゴタイプ維持を求め、その他は無断転載と見做す)
(第二北大路機関: http://harunakurama.blog10.fc2.com/記事補完-投稿応答-時事備忘録をあわせてお読みください)
やすらい祭、夜須礼祭という。千年の都と歴史を紡ぐ古都京都には連綿と人々の安寧を願う祈りも紡いでいます。
今宮神社。北区紫野今宮町に所在します社殿です。北大路通り、洛中北辺を鎮護するべく広がる大路は大徳寺のところで千本北大路へとかなり急な丘陵地帯の如くの上りが広がりますが、大徳寺を経て船岡山の麓あたりに至りますと上手に社殿に至る鳥居が見えます。
夜須礼祭。紫野から西陣まで、疾病祓いの伝統行事と云えば八坂神社の祇園祭よりも四月の夜須礼祭でした。云われてみると祇園祭は小中学校まで観光客向けの神事という印象であったようにも。もっとも令和二年の夜須礼祭は話題のコロナ禍に直撃されたかたちで。
疾病祓いの伝統行事。この時節に敢えて縮小したのは、と氏子で映画仲間の知人に問いますと、いや今年の夜須礼祭は氏子総参加ですよ、と。成程聞けば今年の氏子衆は総員外出自粛にて在宅からこころの夜須礼祭へ参加しているという。拝殿では非公開の祭事が営む。
一条天皇の治世下に造営された社殿は、千年を超える祈りの地として今日に至り、応仁の乱により一時荒廃しますが、紫野界隈から遠く遠く西陣界隈まで氏子衆と共に在り、また徳川綱吉公生母桂昌院の崇敬を集める、不思議と観光の波からも免れる静かな社殿です。
楼門の朱色鮮やかに望見する神域は、今宮通りとして知られ個人的にこの界隈は珈琲の香りという印象の一角です。故に不思議と洛中で珈琲といえば今宮神社を思い浮かべるのですが、ハイカラな個人の印象とは別に社殿の歴史は当然古く、広い境内には静寂がつつむ。
あぶり餅。実のところ今宮通りから参道に至る方には小ぶりな、しかし数多重ねる不思議な風情の甘味で今宮神社は知られます。聞けば現存する日本最古の和菓子といいまして、今宮神社を北大路通りから遥拝するか、神前参道に至るかの違いなのかもしれませんね。
正暦5年の西暦994年に創建されました社殿、元々この地には平安遷都以前より素戔嗚を祀り疾病災厄祓いの社殿が遥か氏子達に守られていたとの事ですが御霊会として平安遷都の後に神泉苑、上御霊神社、下御霊神社、八坂神社、安寧の祈りが拡げられていました。
今宮社としましたこの社殿の歴史は創建の年はやはり病魔の災厄に見舞われた事からの疫病鎮撫の祭事がここ社殿に近い船岡山の山頂へ朝廷にて広く執り行われ、この為の神輿の御輿が二つ造営、その御旅所として設営された御堂が今日の今宮神社の始りといいます。
船岡山は今日こそ、建勲神社として織田信長が祀られる神域となっていますが、建勲神社の創建は大政奉還と明治維新の後の造営であり、長く洛中の風葬地となっていました。疫病鎮撫の神事では音楽奉納等を経て疾病疫災を幣帛へと依り移らせ、河へと流したという。
大己貴命と事代主命と奇稲田姫命とを祀る今宮神社は、船岡山での神事が疫病蔓延の再来と共に朝廷により勅令されるようなり、長保3年の西暦1001年に祭神として大己貴命と事代主命と奇稲田姫命を祀る神社へ広げられる事となり、祭礼は毎年の神事として定着した。
紫野御霊会。疾病祓いの神事を転じて無病息災を祈念し西陣の祭としまして毎年五月に祭事が執り行われています。夜須礼祭。今宮神社は音楽の社殿です、大祭は四月の第二日曜日に綾傘を神輿の御輿が如く飾り祀り、囃子と踊りを奏で広げつつ船岡山へ上る神事です。
西陣に広がる氏子衆の崇敬により、特に西陣織など機業者の崇敬から江戸時代には更に栄華を誇ったとも言いまして、成程不思議な静寂と共に広がる境内の拝殿や本殿の美しい情感、楼門が醸す荘厳美麗な風情はこうした歴史を湛えている故の風景なのかもしれません。
北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ
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