■金ヶ崎城址は中世の恋の宮
福井県敦賀市は中世からの日本海における海上交通の要衝ですが、その敦賀港を眼下に収める小高い山に静かな神社の神域が広がるのはご存知でしょうか。
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金崎宮、ここは福井県敦賀市金ヶ崎町の、北陸本線敦賀駅を延々と敦賀港の方へ散策の歩み伸ばしました処に鎮座しています社殿で、もともと金ヶ崎城という、あの織田信長が小豆袋の両端を縛った便りから退路遮断を知らせた、あの金ヶ崎城の城址にある神社です。
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建武中興十五社の一社に列せられています社殿は、また神社本庁の別表神社にも列せられている社殿でして、金ヶ崎山という標高86mの小山の山頂に至る山道の中ほどに参道が石階段を積んでいます。その参道には境内社の愛宕神社などもありまして静かなたたずまい。
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恒良親王と尊良親王を奉じる社殿は、境内に一千本の桜並木が植樹されていまして、敦賀市屈指の桜の名所でもあるといいます。金ヶ崎城の史跡はそれほど多くは残らず、本丸である月見御殿の跡や木戸跡、曲輪と堀切がうっすらと確認できる程度となっていますが。
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金ヶ崎城の歴史は源平合戦の頃、治承寿永の乱の治承年間1180年まで遡る事ができます。敦賀は若狭湾に突き出た小山を城郭とした要衝であり、南北朝時代、新田義貞が籠城し足利尊氏の軍勢と戦った延元元年こと西暦1336年に再度歴史の表舞台に現れる城郭という。
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官幣中社に列せられました金崎宮の歴史は、しかし拍子抜けするほどに新しく明治23年こと西暦1890年に創建成りました。尊良親王を祀る官幣中社金崎宮、この所縁は上掲の新田義貞との歴史まで遡るものがあります、新田義貞は恒良親王と尊良親王を奉じていました。
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足利尊氏の包囲を受けた新田義貞は恒良親王の勧めもあり、いったん包囲を隠密裏に退却し、支城に残る残存兵力を固めて反撃を試みますが、尊良親王はこの城郭にて運命を共にします。明治時代に入りまして神社が創建された背景には、こうした歴史があるのですね。
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金崎宮はもともと金ヶ崎城址のまさに山頂の位置に創建されましたが、社殿を築くには城郭遺構を破壊する事ともなり、また手狭でもあったことから本殿は中腹に造営されることとなりまして、明治26年こと1893年に完成、この本殿が現在に至る社殿となりました。
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金ヶ崎の退き口、さてこの城郭は元亀元年こと西暦1570年の織田信長と朝倉義景との戦いで知られる城郭でもあります、織田徳川連合軍30000名と朝倉浅井連合軍20000名が激突した戦いでは、まず織田信長はこの金ヶ崎城を攻略し越前、今の福井市へ攻撃を進めます。
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しかし、義弟浅井長政が治める小谷城が織田信長に反旗を翻し、この小谷城が琵琶湖東岸に位置する事から本拠地の美濃から遮断される危機的状況となります、これを知らせたのが浅井長政に嫁いでいたお市の方からの陣中見舞いに両端を縛られた小豆袋だった、と。
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織田信長は危機一髪の状況で反転離脱に成功、木ノ下藤吉郎はじめ殿として奮戦した事でも知られています。小豆袋の両端を縛り、こ・これは!、と掌に載せて驚いて見せる冗談は令和時代にも続いているほどですが、その戦いの場所の歴史舞台でもあったのですね。
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御匣殿こと西園寺公顕女。さて合戦の血なまぐさい歴史もさることながら祀られています尊良親王は夫婦関係として西園寺公顕女との恋愛がかの太平記にも記されていまして金ヶ崎恋物語として知られています。後醍醐天皇の子尊良親王は絶世の美男子であったという。
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尊良親王は、とあるときに絵巻物に描かれた美女に恋をするという、今風な二次元への恋の病に悩まされますが、相手が二次元ではどうにもなりません、そこで気晴らしに下鴨神社に詣でますと、糺の森にて琵琶の音が流れ、親王はついふと牛車を降りたと太平記に。
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その女官こそが絵画の女性と瓜二つ、中宮という高位の女官であったという。親王は実に千もの恋文を書き続けついに結ばれた、と。こうした歴史から花換祭という祭事が百年ほど前に始り、恋の宮、とも呼ばれるようになっています。戦争の歴史よりも温かみがありますね。
北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ
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福井県敦賀市は中世からの日本海における海上交通の要衝ですが、その敦賀港を眼下に収める小高い山に静かな神社の神域が広がるのはご存知でしょうか。
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金崎宮、ここは福井県敦賀市金ヶ崎町の、北陸本線敦賀駅を延々と敦賀港の方へ散策の歩み伸ばしました処に鎮座しています社殿で、もともと金ヶ崎城という、あの織田信長が小豆袋の両端を縛った便りから退路遮断を知らせた、あの金ヶ崎城の城址にある神社です。
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建武中興十五社の一社に列せられています社殿は、また神社本庁の別表神社にも列せられている社殿でして、金ヶ崎山という標高86mの小山の山頂に至る山道の中ほどに参道が石階段を積んでいます。その参道には境内社の愛宕神社などもありまして静かなたたずまい。
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恒良親王と尊良親王を奉じる社殿は、境内に一千本の桜並木が植樹されていまして、敦賀市屈指の桜の名所でもあるといいます。金ヶ崎城の史跡はそれほど多くは残らず、本丸である月見御殿の跡や木戸跡、曲輪と堀切がうっすらと確認できる程度となっていますが。
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金ヶ崎城の歴史は源平合戦の頃、治承寿永の乱の治承年間1180年まで遡る事ができます。敦賀は若狭湾に突き出た小山を城郭とした要衝であり、南北朝時代、新田義貞が籠城し足利尊氏の軍勢と戦った延元元年こと西暦1336年に再度歴史の表舞台に現れる城郭という。
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官幣中社に列せられました金崎宮の歴史は、しかし拍子抜けするほどに新しく明治23年こと西暦1890年に創建成りました。尊良親王を祀る官幣中社金崎宮、この所縁は上掲の新田義貞との歴史まで遡るものがあります、新田義貞は恒良親王と尊良親王を奉じていました。
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足利尊氏の包囲を受けた新田義貞は恒良親王の勧めもあり、いったん包囲を隠密裏に退却し、支城に残る残存兵力を固めて反撃を試みますが、尊良親王はこの城郭にて運命を共にします。明治時代に入りまして神社が創建された背景には、こうした歴史があるのですね。
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金崎宮はもともと金ヶ崎城址のまさに山頂の位置に創建されましたが、社殿を築くには城郭遺構を破壊する事ともなり、また手狭でもあったことから本殿は中腹に造営されることとなりまして、明治26年こと1893年に完成、この本殿が現在に至る社殿となりました。
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金ヶ崎の退き口、さてこの城郭は元亀元年こと西暦1570年の織田信長と朝倉義景との戦いで知られる城郭でもあります、織田徳川連合軍30000名と朝倉浅井連合軍20000名が激突した戦いでは、まず織田信長はこの金ヶ崎城を攻略し越前、今の福井市へ攻撃を進めます。
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しかし、義弟浅井長政が治める小谷城が織田信長に反旗を翻し、この小谷城が琵琶湖東岸に位置する事から本拠地の美濃から遮断される危機的状況となります、これを知らせたのが浅井長政に嫁いでいたお市の方からの陣中見舞いに両端を縛られた小豆袋だった、と。
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織田信長は危機一髪の状況で反転離脱に成功、木ノ下藤吉郎はじめ殿として奮戦した事でも知られています。小豆袋の両端を縛り、こ・これは!、と掌に載せて驚いて見せる冗談は令和時代にも続いているほどですが、その戦いの場所の歴史舞台でもあったのですね。
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御匣殿こと西園寺公顕女。さて合戦の血なまぐさい歴史もさることながら祀られています尊良親王は夫婦関係として西園寺公顕女との恋愛がかの太平記にも記されていまして金ヶ崎恋物語として知られています。後醍醐天皇の子尊良親王は絶世の美男子であったという。
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尊良親王は、とあるときに絵巻物に描かれた美女に恋をするという、今風な二次元への恋の病に悩まされますが、相手が二次元ではどうにもなりません、そこで気晴らしに下鴨神社に詣でますと、糺の森にて琵琶の音が流れ、親王はついふと牛車を降りたと太平記に。
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その女官こそが絵画の女性と瓜二つ、中宮という高位の女官であったという。親王は実に千もの恋文を書き続けついに結ばれた、と。こうした歴史から花換祭という祭事が百年ほど前に始り、恋の宮、とも呼ばれるようになっています。戦争の歴史よりも温かみがありますね。
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