北大路機関

京都防衛フォーラム:榛名研究室/鞍馬事務室(OCNブログ:2005.07.29~/gooブログ:2014.11.24~)

【京都幕間旅情】三千院,宸殿から眺める庭園と堀河天皇皇子最雲法親王以来の高い格式と見上げる木々の色づき

2023-11-08 20:23:59 | 写真
■堂宇は広々と静寂を湛えて
 三千院はまだ静かなのだけれどもこの木々が紅色の鮮やかさを放つのに比例してこの秋もまた日本中世界中のお客様が集い混雑するのでしょうねえ。

 最澄さんの掛け軸が堂宇には幾つも拝観者を迎えてくれるのですけれども、撮影禁止という注意書きが護符のように幾つも並んでいますのはご愛敬、撮影できるのはお庭だけといい、堂宇はその庭越しか、もしくは外観だけを撮影する、ということ。それだけで十分だ。

 堂宇は実に広々と、しかしこれ今年の春頃まではほんとうの静寂をたたえて、いや紫陽花の季節にも広さは空間のゆとりという風情を醸していたのですが、いまは、静かな堂宇、と説明するには人にもよるが少々難しいところがあるほどのひと気を感じるのですが。

 庭園を直接眺めるよりは、御堂のその鴨居や壁や襖とそのほかの狭間からのぞき見るように庭園を、水の流れやその水音とともに五感で感じる、そんな拝観を志していますと、ちょうど三畳の、敷居に囲まれているが襖が取り払われた一角を見つけます事が出来た。

 御堂から眺める庭園、縁側は茶席となっていまして注文しますと直ぐに点てて薫り高い御抹茶と小さな茶菓子をたのしめるようですが、一列に並んでお茶を啜るよりは、こう誰もいない、忘れられたような背後からしかし庭園の風を感じるのも、いいとおもう。

 三千院、当地に遷座したのは明治時代、ということは前述した通りなのですが、高い格式を有する門跡寺院でもあり、元永元年こと西暦1118年には堀河天皇第三皇子最雲法親王が入ることとなり第十四世梶井門跡へ、ここから門跡寺院としての歴史が始まります。

 御殿門という総門が、なにかこう城門の様な荘厳さとともに、石階段の先に建物ではなく石垣を配置する文字通り城郭構造を採用していることは、その門跡寺院である歴史とも重なります。そして実は明治時代に当地に遷座した寺院、平安朝末期に一時当地に在った。

 梶井門跡となりました最雲法親王は保元元年こと1156年、比叡山延暦寺の頂点にして国家宗教である天台宗の頂点でもある天台座主に上ります。ちょうど平清盛の全盛期に近い時代、大原に来迎院や勝林院といった寺院を管理する政所を置く事となり、院はここへ移る。

 坂本と大原、もっとも歴史を丹念に調べますと梶井門跡はすべて移動したのではなく、政所が別院のような位置づけとなっていて梶井門跡はすべて移動したわけではない、しかし梶井の地も便利ではない場所ですから、徐々に遷る場所を模索していたようでも、ある。

 宸殿から眺めるこの庭園も、実は平安朝から続く庭園様式というものではない事が歴史からわかるのですが大原の地は、奥座敷と呼ばれる通り昔は相当に静かな場所であったといい、門跡寺院という響きとともに不思議と古刹のような風情を醸しているものです。

 雲林院、大原の静寂とともに歴史を紡いだのかと思いましたら、流石に不便であったらしく貞永元年こと西暦1232年に火災に見舞われると、さっさと洛中、いまの北大路通の船岡山近くにありました淳和天皇離宮雲林院の跡地に遷座します、大徳寺のお隣、というね。

 紫野梶井門跡、便利な立地ではあるのですが応仁の乱においては攻めるのに便利な立地であったために、やはりというか戦火に見舞われ全焼しまして、結局一時大原に戻ることとなります。ただ、天台宗門跡寺院という格式の高さは江戸時代に再興の機会を迎える。

 徳川幕府将軍徳川綱吉は後陽成天皇皇子入道慈胤親王へ、御所東の一角を寺域として寄進、ここが上京区梶井町となるのですが、旧立命館大学広小路キャンパス跡地あたりに遷ります。そして明治維新の際、一念三千発起に肖り三千院として現在地へ遷ったのですね。

北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ
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【京都幕間旅情】三千院,大原の天台宗山門派三門跡寺院は延暦寺円融院と梶井門跡にはじまる比叡からの歴史

2023-11-08 20:00:58 | 写真
■薬師如来を奉じる三千院
 京都の奥座敷はいまはまだ静けさを湛えているなかでの少し遠めの散策へと歩み進めました。

 三千院、京都市左京区大原来迎院町という、貴人や仏教修行者の隠遁の地という歴史ある場所にありましてその歴史が示すように非常に奥まった場所に立地にあります。天台宗山門派三門跡寺院の一つであり、青蓮院、妙法院とともに格式の高い寺院でもあるのだ。

 青蓮院、妙法院、実はこちらのほうが中心部からは交通が行きやすいのですけれども、共に令和の大修理と平成の大修理が続いていまして、もう少し長く伽藍は足場に包まれている、すると青椛が色づき始めた紅葉の季節には、三千院をひとく散策したく歩み進めた。

 天台宗、三千院。大原は京都の奥座敷ともよばれるところでして、実際散策には少々考えさせられるところであることも事実なのですが、しかし歩み伸ばしてみますと鹿さんも散策している様子とも出会いまして。熊さんもいるのでしょうか、油断できぬ時代だ。

 石階段の先に三千院が広がる、ちょっとだけ凪を待つ。紅葉の季節に無人のこの階段を撮影しようとしますと苦労するのでしょうね。呂律、呂川と律川という小川が流れているその先にありますここ三千院は声明、ろれつりょりつと日本の音の聖地となっています。

 三千院、紅葉の人出がすごいということで有名であり、しかしこのまだ青紅葉が朱色ではなく黄緑色の気配を見せつつ、実際はまだ紅葉に一文字多い青紅葉という頃合いには、まったく人気は、閑散としていまして、さすがは奥座敷という気風をたたえていますと。

 奥座敷としての気風を、いいたいところだけれども実はこの日は観光バスから大陸の方が二台分探訪されていまして、みなさんマナーがよい方なのですが静けさを考えたらば、一時間くらい茶店でお茶でも頂いた方がよかったか、あとお団子も、かと思ってしまう。

 薬師如来を奉じる三千院はその創建を延暦年間、西暦780年代まで遡るといいまして京都でも屈指の古い歴史を滔々と流れるように湛える寺院の一つで、その歴史の長さは三千院門跡とはべつに梶井門跡や梨本門跡といういくつもの名前を冠せられる寺でもある。

 最澄、延暦年間の創建という事で伝教大師最澄の時代に遡る歴史を有するのですが、しかし落ち着いて歴史を調べますと、三千院という名は中々見つけ出すことは出来ません、それもそのはず、もともとは円融院という名の寺院、そして今の滋賀院のあたりにあった。

 円融院という名ではしかし、比叡山の近江側の南谷にありました寺院で比叡山に最澄が延暦寺を開いた際、東塔南谷の円融院として始まりました。円融とは仏教用語で調和や一体感という意味を示し、近い意味の日本語としては円満という意味合いもあるもの。

 承雲和尚という人が貞観2年こと西暦860年に最澄彫像の薬師如来像を安置しまして、円融院は延暦寺の一部から独立した寺院になった、そしてその円融院の里坊を設けたという歴史があります。この里坊というのは山坊から高齢化で降りた僧侶のための寺院で。

 三千院、実はこの名は江戸時代に冠せられたという歴史があり、そして当地に遷座したのは明治時代であったりします。そう、実はこの寺院は様々な場所を転々とした歴史があり、応徳3年こと西暦1086年には梶井里、近江八幡市付近に遷り円徳院としていました。

 奥座敷、とはいうものなのですが大原の風景はここがしょうみょう、声明の地、という、音の音階や音律というものを修行の一環として修業していたといい、確かに程よい広さの盆地には、時折流れる読経とともに、なにか音が響く様子が連想できてしまうのです。

北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ
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ウクライナ情勢-ロシアはベリエフ飛行艇機雷敷設に投入,アヴディイフカでの戦闘にロシア軍は8個旅団を投入

2023-11-08 07:00:41 | 防衛・安全保障
■防衛情報-ウクライナ戦争
 日本ではいよいよUS-2救難飛行艇を含めた飛行艇産業が完全に無くなる懸念が出ていますがロシアでは飛行艇は新しい用途に活用されている。

 ロシアはベリエフ飛行艇を機雷敷設に投入している可能性がある、フォーブス誌日本語Web版が10月27日に独自分析記事を掲載しました。これによれば黒海西部のウクライナ-アフリカ間穀物輸送回廊に対してロシア軍は航空機からの機雷敷設を実施、この際に航空機の機種は不明としながら、黒海艦隊のベリエフBe-12飛行艇の可能性を示唆した。

 ベリエフBe-12飛行艇は1965年より運用開始された対潜飛行艇で現在は消防飛行艇としても運用されていますが、ロシア黒海艦隊はこのところこの旧式飛行艇の使用頻度を高めており、機雷敷設に使用された可能性があるという。ウクライナ海軍はイギリスよりサンダウン級掃海艇を受領しイギリスで訓練中ですが、機雷敷設は重大な脅威となっている。
■アヴディイフカでの戦闘
 自衛隊で云えば一つの戦線に本州の全戦力をつぎ込むような人的規模という。

 アヴディイフカでの戦闘にロシア軍は8個旅団を投入している、イギリス国防省ウクライナ戦況報告10月28日付戦況分析がその概況を発表しました。アヴディイフカでの戦闘は10月15日以降激化しており、しかしイギリス国防省の分析では、戦闘は劇的だが決定的要素を欠いている状況としています。一方でロシア軍損耗率では非常に高い。

 ロシア軍損耗率は2023年の戦闘では最も高い部類に入るとイギリス国防省は分析しており、またロシア側ミルブロガーの意見としてロシア軍指揮官の戦術が稚拙であることが損耗の原因であるとしてロシア軍の動きを批判しているとのこと。ロシア指導部の占領地拡大命令に対し、これを作戦レベルで攻撃に活かすことができないと指摘しています。
■ジョンカービー氏の発言
 いったいなにが始まるんです?。

 ロシア軍はアヴディイフカ近郊での戦闘で死傷者数千人と少なくとも125両の装甲車両を喪失した、ISWアメリカ戦争研究所10月27日付戦況分析においてアメリカ国家安全保障会議のジョンカービー氏の発言を紹介しています。これによれば、ロシア軍はアヴディイフカ地域において抗命罪に問われた兵士を指揮官が射殺する状況が多発している。

 抗命罪については、部隊単位で前進に消極的な部隊の兵員全員を射殺するよう脅す言動などをアメリカが確認しているとISWは報告しており、通信傍受などで確認できる情報だけでもロシア軍は無理な前進による大きな損耗を強いられているもよう。そしてISWはロシア軍の攻撃は少なくとも27日段階で前進に繋がっていない事を報告しています。

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